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zoom RSS 旅 632 御前崎周辺(2)

<<   作成日時 : 2017/02/09 13:11   >>

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2016年 5月16日

白羽神社(しろわじんじゃ)

 駒形神社から西へ4kmほどの所に白羽神社はあった。
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 街道標柱には、「横須賀街道」「塩の道」とあった。
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『 塩の道 SALT ROAD
 静岡県の西部地域は、古来遠州とよばれ、昔の人々が塩や米などの生活必需品を運び、神社仏閣に詣でる道が各地にできていた。
 この中でも、秋葉街道と重なる「塩の道」は東海道や海の東海道と交わる交流の道である。 』

 私が注目していた「塩の道」は更に「横須賀街道」とも繋がり、この海岸地帯と信州とを結びつけていた。
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 この地図は下が北なので少し見にくいが、白羽神社の中を「横須賀街道」が通っていたことがわかる。
 白羽神社の説明が次のように載っていた。
『 白羽神社に伝わる武田家朱印状、入母屋造りの本殿は御前崎町文化財に指定されているが、白羽神社は古来より牧場の守護神としてあがめられた。
 大正初期には、社殿に見事な軍馬等の絵馬が掛けられ周辺の町村からたくさんの馬が集まった。
 昔話によれば神社の南の山に官牧場があり草競馬も行われた。 』

現地説明板より
『 通称横須賀街道旧跡
 横須賀街道の名は元和元年(1615)駿遠合わせて50万石の領主となった徳川家康の第11子頼宣が、慶長14年(1609)駿府から横須賀に移封が決まったが、在府のまま横須賀領を治める為に駿府、横須賀間の街道を整備し、駿府、相良間に馬次場を開いたことに始まると言われています。
 この旧跡はその支道の一部であり、相良町堀野新田了見寺前で本道と接続しており横須賀は東の相良と共に、城下町として栄え、この地方の政治 経済の中心地でした。
 明治22年東海道本線が開通し、堀之内(現菊川駅)に駅が開設され、それに通ずる県道が整備されるにつれて横須賀街道の名は次第に薄れていきました。
 御前崎市教育委員会  』


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 駒形神社同様、白羽神社の本殿も御前崎市指定有形文化財であった。

現地説明板より
『 御前崎市指定有形文化財(建造物)
白羽神社本殿  昭和44年6月25日指定
 白羽神社は、社伝によると平安時代の承和4年(837)2月に現在の社地に鎮座したと伝えられる。
 本殿は間口三間、奥行二間の入母屋流造で、様式上から江戸中期から後期前半あたりの時代的傾向が認められる。屋根は柿葺で、地棰木(じだるき)と飛檐棰(ひえんだるき)の二軒(ふたのき)で、いずれも繁棰(しげたるき)で構成されている。流れ屋根は4本の向拝柱(方形)で受け、柱をつなぐ頭貫は三梁の化粧虹梁を使用している。頭貫の中備(なかぞなえ)は蟇股となっており、構造上の役は無く、表裏の彫刻が異なった特殊な装飾であり珍しい。木鼻は象形の丸彫の掛鼻で飾られている。
 母屋(本殿)は台輪建てであり、台輪上に大斗(だいと)をのせ出三斗(でみつと)で丸桁をささえる構造で、母屋柱は縁上(ふちじょう)の切目長押(きれめなげし)・その上に重なる戸口下の半長押・戸口上の冠木長押(かぶきなげし)をもって柱を内外から挟み、横揺れを止める耐震的な構造をなしており、これは平安時代の意匠でたいへん珍しい造りになっている。母屋柱は方形より格の高い丸柱であり、いずれも亀甲形の彩色が施されたことが見て取れる。
 柱間装置は、板唐戸(板扉)の上下に端喰(はしばみ)を入れ、扉の合わせ部の定規縁(じょうぎぶち)の面取りも大きく、古来の意匠を継承したものである。板壁は横嵌め(よこはめ)であり、板壁に蓮華と欄間部分には花鳥の彩描が施され、神仏習合の思想が如実に表れている歴史的に見て大変貴重なものである。 
 御前崎市教育委員会 』

 この説明文は専門用語が多く、私には半分くらいしか理解できないが、建造物にそれほど興味がないので構わない。
 私の感覚では社殿は一般的に神明造のようなシンプルなものが多く、寺院はいろいろな様式が組み合わされて複雑な構造のものが多いというイメージである。説明文でも書かれているが、神仏習合の要素が強くなるほど社殿は寺院のように意匠を凝らす傾向があるように思う。権現造などは寺院のように感じる。


 御神木のマキの木が立派であった。
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現地説明板より
『 御前崎市指定天然記念物 マキの木 
 平成6年1月31日指定
 このマキの木の樹種はイヌマキで、昭和63年に実施された巨樹・巨木林の調査によると、目通り283cm、樹高14mで、市内のイヌマキとしては一番の大木であり、平成元年3月1日静岡県神社庁より、白羽神社の御神木に指定されている。
 樹齢は不詳であるが、長年の風雨に耐え、悠久の時を刻んできた老木であり、その姿は訪れる参拝者に深い感動をあたえてくれる。

御前崎市指定有形文化財(古文書) 武田家朱印状
 昭和45年10月15日指定
 白羽神社の社宝となっている武田家朱印状(三通)は、戦国時代に駿河や遠州に進出した甲斐の武田氏が、この地方を治めようとして発給した文書である。
 「信玄印判状」には神職の赦免、「勝頼印判状」には社領安堵、武田家の武運長久の祈願、「勝頼印判状禁制」には白羽郷民の日常生活に関する注意書等が書かれている。
  御前崎市教育委員会  』

 “塩の道”は武田氏の遠州への侵入経路でもあった。
 今川義元亡き後、駿遠は清洲同盟で織田信長の後援を受けた徳川家康と武田氏の草刈り場となった。最終的には長篠の戦いで勝利した徳川家康が駿遠の領主となる。


 頂いた「白羽神社略記」より
『 白羽神社略記
一、鎮座地
 静岡県御前崎市白羽3511番地
一、御祭神  
 天津日高彦穂々出見命(天照大御神の曾孫)
 豊玉毘売命(海神の女神))
 玉依毘売命(農耕守護神)
一、例祭日 4月10日
一、由緒
 旧社地は、御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年(531)11月15日鎮座。
 仁明天皇承和元年(834)3月神様のお諭しにより宮処を廻り相応の処を定め、承和4年(837)2月現地に遷座した。
 武門武将の崇敬篤く、源頼朝以来白羽地区全域が神領であり、市内佐倉地区に貫高29貫200文土地を有した。(之に要する用水池を今日も白羽池と称している。)
 永禄年間、今川義元まで武将代々の朱黒印の寄進もあったが、元亀年間、武田信玄がこの地に出兵乱入の際、所伝の古文書類はもとより社殿等兵火に罹り、全てが焼失したが、御神体のみ榛原郡川根本町白羽山に疎開、戦乱平定後、武田氏は神威を畏れ社殿を再建し、元亀3年10月14日御神体を還幸した。
 また、神主 滝玄蕃幸嗣は前々より神領所有の事情を武田氏(武田勝頼)へ上申し、天正2年7月9日付を以て神領を寄進せられた。
 武田氏滅亡後は徳川氏の崇敬を受けて、慶長8年9月19日付、朱印高105石と改める寄進があり当地方最高位となった。
 太古より白羽大明神と称せられ、延喜式榛原郡五座の内白羽村鎮座の白羽大明神を以て服織田神社なりと考証されている。(『神名帳考証、巡礼旧神祠記、遠江国式内社摘考、大日本神祇志、遠江風土記伝、神祇志料、特選神名牒』等に依る)
 また、当社付属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。
 当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったという。
 近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている。

 遠江しるはの磯の贄の浦と あいてしあらば 言もかよはむ
 万葉集遠江歌  丈部川相

 当社前方が海辺で、万葉歌人の詠まれたものを見ても、古来より名高い所であった。

 明治6年3月     郷社
 明治44年8月11日  神饌幣帛料供進社に指定
 昭和5年2月11日   県社に昇格
昭和21年11月30日  宗教法人令による神社を設立
 昭和29年4月26日  宗教法人法による神社を設立登記した  』

 白羽神社の元宮は駒形神社とされる。岬の先で不便な駒形神社から交通の要衝であるこの地に白羽神社が遷座したのは当然のことで、2社を兼任する宮司さんも白羽神社に常駐する。

 武田信玄がこの地に出兵乱入の際、御神体を榛原郡川根本町白羽山に疎開させたということは重要な事を伝えているように思う。
 ロードマップで白羽山を調べてみると、大井川の上流であり、川や水に関係する神であった可能性がでてきた。用水池を今日も“白羽池”と称していることでも、水との関係が推定される。
 しかし、白羽神社と白羽官牧(しろわのかんまき)との関係は強く、白羽官牧ゆかりの神社であることは動かないようでもある。神仏分離の時に分けられたのか近くに馬頭観音も祀られている。


 境内にある神馬の首には注連縄が巻かれていた。
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『 大東亜戦争末期戦局の悪化により戦略物資損耗甚だしく、昭和19年3月31日県社白羽神社内当神馬一基も物資補益のため国家へ供出のやむ無きに至った。
 戦後祖国復興著しく昭和50年6月22日国家の平和と繁栄を祈り再建奉納  松井清吉 』


 白羽神社の祭神は元宮と言われる駒形神社の祭神と全く同じである。当たり前と言えば当たり前のことである。元宮が分かっていて、承和4年(837)2月現地に遷座したのだから、延喜式神名帳が完成する927年よりもわずか90年前の創建にもかかわらず、それでも尚、服織田神社の論社にこだわることは、延喜式内社であることが如何に古社として重要であることかを物語るようだ。神名帳考証、巡礼旧神祠記、遠江国式内社摘考、大日本神祇志、遠江風土記伝、神祇志料、特選神名牒などの資料を挙げて主張する態度は涙ぐましい。


 榛原郡榛原町静波(現牧之原市)に鎮座する服織田神社(はとりだじんじゃ)も式内社服織田神社の論社である。

 服織田神社の祭神は麻立比古命と天八千千比売命で、合祀神として天之忍穗耳命、市杵島姫命、木花咲夜比売命、速玉男命、猿田彦命、蛭児命、石長比売命、大山祇命、少彦名命が祀られる。
 社伝によると、景行天皇の7年に勧請され上古は圭田を賜った。往古は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦8年(1758)の検地帳に記載されている。
 安政元年の大地震直後建立、明治6年3月郷社に列せられた。八王寺社・弁天神社・勝間田神社・猪鼻社・熊野社・西宮神社・白岩浅間神社・山神社・十二所社・蔵王社十社何れも明治7年5月当社に合祀された。明治40年3月15日神饌幣帛料供進社に指定される。

 祭神の麻立比古命と天八千千比売命の二神の名からも、服織田神社の方に式内社の論社としては分がありそうだ。
 だが、白羽神社が式内社の服織田神社であった可能性が無いわけではない。
 白羽官牧の名の“白羽”は土地の名だろうが、なぜ白羽なのだろう。

 「白羽」とは、本来は伊勢神宮に奉納する荒妙(あらたえ)のことを言ったようだ。荒妙は麻の糸で織られた白い装束のことで、白くするため太陽に晒す必要があったようだ。
 荒妙にする麻は神麻続部(神麻績部、かんおみべ)の手により栽培され、織りあげたといわれる。
 この麻績連(おみむらじ)の先祖が「長白羽神(ながしらはのかみ)」と呼ばれ、またの名を天白羽神(あめのしらはのかみ)という。
 この神の父神は天太玉命の眷族神の天日鷲命(あまのひわしみこと)といい、粟国(阿波国)の忌部の遠祖にあたり、麻植(おえ)の神・紙の神・酉の市の神として有名である。
 また、弟の神を「建葉槌命( たけはずちのみこと・天羽槌雄神)といい、やはり、倭文部(しとりべ・しづおりべ)の遠祖で、古代人が身につけた倭文(しどり)の神とされる。
 忌部氏は一部が阿波国(四国)から黒潮に乗り安房国(房総半島)へ移住したとされる。だとすれば、この地は通過地点である。
( 関連記事 『旅453 安房神社』 )


 遠州には、白羽という地名が海の近くにいくつかあるという。それは伊勢の麻績部が入植した土地らしく、麻の栽培や機織に関係しているとも言われる。
 この麻績部は天竜川を遡り伊那谷へも移住したようだ。
  ( 関連記事 『旅307 麻績神社』 )
 また、伊勢の猪名部氏も船を造る木材を求めて、西伊豆へ進出した形跡がある。
  ( 関連記事 『旅589 伊那上神社・伊那下神社』 )
 伊勢は大和朝廷が東国へ進出する拠点であり、西から進出した氏族が伊勢を経由して東国へ雄飛している。

 遠江(とおとうみ)は、近江(おうみ)に対になっているようだ。近江には琵琶湖がある。遠江には浜名湖がある。遠江は遠淡海(とおつおうみ)からきているのだろう。今は浜名湖は汽水湖となっているが、かつては淡水湖であった。つまり浜名湖は琵琶湖に対して遠淡海と呼ばれるのに相応しい湖であった。淡水湖であった浜名湖が汽水湖になったのは、1498年の大地震と高潮により、砂州が決壊し外海と通じたためである。
 このように遠淡海(とおつおうみ)は浜名湖からの命名だと考えてよいが、近江との関係から離れ、伊勢との関係で考えると、遠淡海(とおつおうみ)は「遠つ麻績(おみ)」という意味が含まれるという説がある。
 何れにしても式内社の服織田神社があったように、この地方に古くから衣服に関わる渡来系氏族の進出があったことは確かなようで、それは伊勢経由であったようだ。
 
 私は古層に服部や呉部などの衣服に関わる氏族の祭祀があり、その上に馬飼部などの馬に関係する祭祀が乗っかったように感じる。

 駒形神社や白羽神社は、馬との関係を隠さない。御前崎台地に白羽官牧もあったことから、往古は馬の守護神を祀っていたのは確かであろう。
 岬や台地という自然条件は水の便が悪く 農耕にはあまり適さないが、馬などの放牧には適している。古来より半島や島は放牧場が多い。海や断崖で区切られた場所は、馬を管理するには便利な場所である。
 16も御牧がある信州でも川や断崖といった地形を上手く利用して御牧を経営していた。駒寄などの地名に見られる馬を集める場所も、地形や川を上手く利用している。

 牛馬のような大型の哺乳類を飼育する技術は、古墳時代になってはじめて朝鮮半島から導入された先進的な技術だとされ、渡来人の得意とするところだった。馬そのものも朝鮮半島から導入された。そして、その馬の飼育の先進地帯が信濃国だった。恐らく馬が放牧されていた草原の環境が、信州の気候と似ていたのだろう。信州での御牧の位置を調べると全体的に年間降水量が少ない場所が多い。
 官牧には、牧司(もくし)と呼ばれる役職者のもとに牧畜業のスペシャリストが養成され、必要に応じて馬や牛の生産・育成・調教・出荷されていたと考えられる。私はその牧司は、牧畜の先進地帯である信濃国出身者が多かったのではないかと考える。
 そして“塩の道”も重要である。塩が必要なのは人間ばかりではない。馬も人以上に塩を必要とする。北信などは千曲川を遡り塩の供給があっただろうが、南信の御牧の塩の供給はこの地方に依存したのであろう。その意味でも、馬と塩を通して信州と遠州は近い存在だった。

 龍馬といえば坂本龍馬を連想するが、龍馬はもともと水辺で育った駿馬のことである。半島や島、大河などで区切られた場所が放牧地として適したことから、海辺や水辺で名馬が育つと考えられ、龍神信仰と繋がった。
 いつしか駿馬は神の乗り物であるだけでなく、龍神とも繋がる。
 
 ここで「白羽神社略記」にあった、
『 遠江しるはの磯の贄の浦と あいてしあらば 言もかよはむ
 万葉集遠江歌  丈部川相 』 が、問題になる。

 この“白羽(しるは)の磯の贄の浦”とは、海神の怒り(暴風雨)を鎮めるために「贄(にえ)をささげた浦」のことだという。
 この海神にささげた生け贄が、どうやら“馬”だったようだ。
 駒形神社に伝わる、『 厩崎沖で遭難した百頭の馬の内、一頭が岸にたどりつき、残りの馬99頭は沖の御前岩(駒形岩)と化した 』という伝承は、“馬を生け贄にした”ということを表しているようだ。
 この地方でも焼津などに「草薙の剣」の日本武尊の伝説が残るが、日本武尊は東京湾を渡るときにも伝説を残している。
 走水から上総の国へ船出した日本武尊は、海上で暴風雨に遭い、弟橘媛が海へ身を投じて暴風雨を鎮めたという伝説がある。ここでは弟橘媛が海神の生け贄になっている。 
  ( 関連記事 『旅24 走水神社』 )

 御前崎沖は海路の難所だとされる。「海神」に大切な「龍馬」を「贄」として捧げることによって、海上安全と豊漁を祈願していたのだろう。
 その生け贄の馬の霊を祀ったのが駒形神社なのかもしれない。そしてその馬の生け贄は、海上安全と豊漁のためだけでなく、白羽官牧の馬が丈夫に育つための生け贄でもあった可能性もある。
 白羽神社の“白羽”は「白羽の矢」にも通じる。“白羽の矢が立つ”とは、人身御供(ひとみごくう)を求める神が、その望む少女の住家の屋根に人知れず白羽の矢を立てるという俗伝から、多くの人の中で、これぞと思う人が特に選び定められる意味につかわれる。また、本来の犠牲者になるという意味もある。
 つまり、「白羽の矢」とは、本来は生け贄を選び出す目的で、神意を占う道具だったという。
 海神の娘である豊玉毘売命と玉依毘売命をまつる当社に、山幸彦である天津日高彦穂々出見命を祀るのは、山幸彦と豊玉姫が結婚したからばかりでなく、「白羽の矢」を含む弓矢が山幸彦所有の神具だったからなのかもしれない。

 こうして考えてみると、祭神の天津日高彦穂々出見命、豊玉毘売命、玉依毘売命はともかく、“馬”と“海神(水神)”は、駒形神社と白羽神社のキーワードになるように感じる。馬は単なる神の乗り物ではないようだ。また弓矢の神事も流鏑馬も吉凶を占うだけのものではないようだ。

 官牧の制度は、平安時代のはじめのころには廃止されたが、「牧」とその技術は、笠井、相良、勝間田などの周辺地域の荘園へ拡がり、都では「相良牛」という牛車を引くブランド牛なども生まれたという。

 中世になると、乗馬の習慣をもつ「牧官」のなかから「相良」「横地」「勝間田」「新野」「浅羽」「内田」「戸塚」「朝比奈」「原」「孕石」などの武士団が生まれるようになった。この傾向は信州と似ている。
 これらの武士団は鎌倉幕府の御家人になったり、その後の室町幕府、戦国時代のなかで生き残りをかけて烏合集散して時代を駆け抜ける。運良く時代の覇者徳川氏と結びつき家名を繋いだ武家もいる。


 最後に、白羽神社の“白羽”と三保の松原の“羽衣伝説”とが、どこかで繋がるのではないかと思うので、少し考えを述べる。
 現在の白羽神社は馬と関係する神社であることは確かであるが、その古層に衣服に関わる氏族の祭祀があったのではないかと記したが、駿遠には衣服と水に纏わる女神が隠れているように感じる。敢えて言えば“瀬織津姫”である。ここでは瀬織津姫に「織」の字が入っていることに注目する。
 ここ1〜2年、瀬織津姫に注目してきた結果、瀬織津姫は「水」や「月」や「桜」などと関係するだけでなく、“織姫(おりひめ)”でもあり、最終的には七夕(棚機)にも関わる女神であったのではないかと考えるに至った。

 御穂神社で羽衣伝説と関わると思われる祭神は、三穂津姫命と末社の呉服之神社の祭神である長白羽命である。麻績連(おみむらじ)の先祖が長白羽神(ながしらはのかみ)だとされる。長白羽命の神名の中に“白羽”が入っていることも偶然ではあるまい。

 武田信玄が御前崎に侵入した際、白羽神社の御神体を榛原郡川根本町白羽山に疎開させたというが、そこを流れる大井川にも“大いなる水の女神”が潜んでいるようでワクワクする。

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