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zoom RSS 旅 634 池宮神社(2)

<<   作成日時 : 2017/02/12 20:01   >>

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2016年 5月16日

池宮神社(2)

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現地説明板より
『 池宮神社
御祭神 
 瀬織津比当ス・事代主命・建御名方命
御神徳
 瀬織津比当スは大祓詞に現れる代表的な清め祓いの神で諸々の罪穢を祓い、開運厄除の御神徳極めて高い。
 事代主命・建御名方命は共に大国主命の御子神で、事代主命は通称エビス様と称せられ商売繁昌、福の神として、建御名方命は武勇の神 又、農、耕、水の守護神として崇められている。
祭日
 例祭・納櫃祭=秋の彼岸の中日
御由来
 創祀は敏達天皇13年(584)6月に瀬織津比詳命がご出現。社殿の造営がなされた。後、栄枯盛衰が激しく平安時代初めには衰退し、社殿は大破した。
 しかし平安時代中期一条天皇の長保3年(1001)社家の遠祖源朝臣信栄が社勢を再興。
 室町時代に入ると駿河・遠江を領有する今川氏の崇敬を受けたが、戦国末期に武田・徳川両氏の高天神城争奪の地となり、社殿をはじめ神宝、旧記、古文書の大部分を焼失。
 江戸時代に神官信盛が再び興し徳川家の崇敬を受け、明治維新に至るまで地頭の祈願所となっていた。
 享保16年(1731)には正一位の神階宣示を受け、本殿は宝暦10年(1760)、拝殿は元文4年(1739)に、時の大宮司従四位下佐倉治部大輔源朝臣信幸が造営し、その名を池宮天王社とも称され現今に至る。 』

 この説明板によると、江戸時代は“池宮天王社”と呼ばれていたようだ。天王といえば牛頭天王でもあるスサノオを連想するが、桜ヶ池を御神体のように祀っているようなので、スサノオではないようだ。古代においてスサノオ以外に天王と呼ばれる神がいたのではないかという予感が私にはある。
 祇園社が明治初年に八坂神社に変えられたとき、牛頭天王はスサノオに差し替えられたと言われるので、本来の天王はスサノオではないのかも知れない。
 馬頭観音と牛頭天王はどこかでセットだったのではないだろうか。何だか馬は男、牛は女のイメージがあるのだが……。

 池宮に祀られているのは水神(龍神)であろうから、瀬織津姫が祀られていることに異論はない。また、建御名方が祀られているのは諏訪社との関係からであろう。


現地説明板より
『 池宮神社本殿 平成2年5月17日 市指定有形文化財
 本殿は、一間社母屋造平入、流れ向拝付杮葺本柱円柱、向拝柱几帳面取角柱、総朱塗、木階五級の建築であるが、鬼斗、かえる股等に江戸中期の意匠工法が散見され小規模ではあるが注目すべき建物である。
 御前崎市教育委員会  』

 壁の構造は、円柱の溝に板を落とし込む板校倉造りで、柱、板壁共に仕上げが丁寧だそうだ。

 残念ながら本殿は覆屋で保護されていて外からは見えない。
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 本殿は拝殿から正面だけが少し見えた。
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 御前崎市の有形文化財のサイトから写真をお借りする。
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 私が池宮神社を訪れたのは2016年の5月16日だったが、その後、拝殿内に掛かっていた扁額が、最後の将軍である第15代徳川慶喜が揮毫(きごう)した扁額であることが分かり、2016年11月25日に御前崎市有形文化財に指定された。
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 静岡県教委によると、慶喜が揮毫した扁額や書などは県内に少なく、歴史的価値があるという。
 扁額は縦84cm、横181cmで、達筆な字で「池宮神社」と書かれ「慶喜」の落款が押されている。飾り金具には、徳川家の家紋の三つ葉葵(あおい)が施されている。
 慶喜の警護役で初代県知事を務めた関口隆吉の父が同神社と縁があり、慶喜が1868(慶応4、明治元)年に奉納したと伝えられる。
 愛知東邦大の増田孝教授(古文書学)が2016年2月、慶喜の揮毫と鑑定。市文化財保護審議会の答申を経て市教委が11月下旬に指定した。
 県教委文化財保護課によると、静岡県や慶喜が晩年を過ごした静岡市にも、慶喜揮毫の指定文化財はない。担当者は「扁額が別の場所や人に渡らず、奉納された場所にそのまま残っていることも貴重。慶喜公揮毫のものがほかでも発見されることを期待したい。」と話しているそうだ。

 慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の七男で、水戸藩からは将軍になれないので、御三卿の一つである一橋家に養子に入って将軍になった。
 つまり水戸藩出身の慶喜は徳川でありながら尊皇派であり、“朝敵”になることを何よりも恐れた。全ては水戸黄門(徳川光圀)の『大日本史』の編纂に関わり成立した水戸学から生じた。
 御三家の中では小藩であった水戸藩は、幕府の中にありながら、当初から幕府に対して不満を持っていた獅子身中の虫であり、徳川幕府を守ろうとした譜代大名よりも始末が悪かった。
 慶喜は徳川幕府の幕引きをするには相応しい人物であった。

 1868年7月に徳川家が駿府に移封されると、慶喜も駿河の宝台院に移って謹慎した。1869年9月、謹慎を解除されたが、引き続き静岡に居住した。 この扁額が1868年(慶応4、明治元)に奉納されたものならば、宝台院で謹慎していた時に書かれたものになる。
 慶喜が東京に帰ったのは、約30年後の明治34年(1901年)のことであった。


 三連続きの境内末社があった。
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現地説明板から
『 法の沢 八幡神社
 榑林(くればやし)一族の祖先は天正9年3月高天神城落城の時、国安橋を渡り、比木の金峯山正福寺に落ち着き、その後、隣の佐倉法の沢に居を構え、この地に祠を建て、榑林一族の氏神、八幡神社とし祀られた。
 昭和49年に浜岡東小学校建設の敷地となったため、池宮神社に移された。

津島神社
 祭神は素戔嗚尊(牛頭天王)で、疫病除け、田の害虫除けの神として信仰されている。宝暦5年8月(1755年)佐倉郷、清水嘉十宅西側隣接地に鎮座された。平成3年3月(1991年)弁天神社と合祀され、池宮神社境内に移され現在に至る。

弁天神社
 祭神は田霧姫命・市杵島姫命・端津姫命で、海上交通を守護する神として信仰されている。元文6年2月(1741年)佐倉郷、清水稲次郎宅東側敷地内に鎮座された。平成3年3月(1991年)津島神社と合祀され、池宮神社境内に移され、現在に至る。
 平成24年1月 佐倉地区史跡案内板設置委員会  』

 これらの神社が遷座されて境内社になったのは比較的新しい。

 他に参道に、佐倉護国神社と龍神殿があった。
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 桜ヶ池に向かって左側(西側)の見学が終わったので、仏教色の強い右側のエリアを廻ってみた。当然、明治初年の神仏分離で仏教関係の建物は除かれている。
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 供養塔のようなものが建っていたが、皇円阿闍梨と法然上人のものだろうか。
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 梵鐘もあった。
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 注連縄が張ってあるのが、神社の境内であることを主張しているようである。
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桜ヶ池だからもっと桜の木が多いのかと思っていたが、桜の木は若い木が多く桜の名所としては物足りないのではないかと感じた。
 かつては桜の木が多かったが、今は若い木に世代交代をしている最中なのかもしれない。
 地名の佐倉から“佐倉池”が“桜ヶ池”になったのかもしれない。宮司さんの名前も佐倉さんというらしい。
 しかし、池宮神社の祭神の一人である瀬織津姫は“桜の女神”であることを忘れてはいけない。
 「桜ヶ池」の“桜”、もしくは地名の「佐倉」の由来は、平安時代の国主の妻「桜御前」が、この池に入水したことに由来するという説もある。


 右側の奥まったところに、次のような説明板があった。
『 大自然の異変
 異常高温と大干魃・桜ヶ池の鯉の大量死(620匹)
 (平成13年7月20日〜8月8日の20日間)
 この出来事は、桜ヶ池始まって以来のことであります。世界の人類の作りだした二酸化炭素による温暖化現象、窒素酸化物による大気汚染、地下水の枯渇、更には、池の富栄養化と異常高温等が原因として考えられます。
 これは皇円阿闍梨大菩薩と桜ヶ池の神が人類に向かって鯉の命をもって自然環境破壊に対して警鐘を打ち鳴らしたのであります。
 今後、二度とこの様なことが起こらない為に大自然の摂理を重んじ、自然と共生する事が我々人類に課せられた使命であります。
 人々の難を背負って「黄金の国」に旅立った620匹の鯉を此処にお祀りしています。
 私達関係者は鯉塚を建て植樹をして、この鯉に対して慰霊の誠を捧げ、子々孫々まで語り継いでいくことに致しました。
 桜ヶ池 池宮神社  』

 鯉の墓である鯉塚は、やはり仏教色のつよい東側のエリアにある。

 桜ヶ池の水は澱んだ感じできれいではない。広さはおよそ2万u(200m×100mくらい)で、深さは具体的な数値は定かではない。竜神伝説では底無しと言われている。
 水が濁った感じがあり、神事とはいえこの池で泳ぐのは気が進まないのではないか。
 桜ヶ池は御神体でもあり、手つかずの池であり、かつては50cmを超える多くの鯉が悠悠と泳いでいたという。

 鯉が大量死した平成13年(2001)といえば、水野成夫さんの胸像ができた年で、浜岡原発5号炉が建設中だった頃ではないだろうか。
 説明文に、「これは皇円阿闍梨大菩薩と桜ヶ池の神が人類に向かって鯉の命をもって自然環境破壊に対して警鐘を打ち鳴らしたのであります。」とあるが、その自然環境破壊が何なのかよく考えてみる必要があるのではないか。
 2009年に運転を終了した1号炉と2号炉でさえ、計1165体の使用済み核燃料が保管されている状態で、その処理方法や処理場所すらも決まっていない。核こそ一番自然とかけ離れた存在であることを人類が知る時が来ているのかもしれない。
 “人々の難を背負って「黄金の国」に旅立った620匹の鯉”はかわいそうだが、鯉も棲めない桜ヶ池の底で、ひとり大蛇になった苦しみを耐えている皇円阿闍梨はいかなる心持であろう。


 池宮神社とは関係ないが、神社の東側にアンテナをいっぱい立てた家があった。使われていないアンテナもあったが、その数は半端ではない。宇宙とでも交信しているのだろうか。
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 皇円阿闍梨が信じたのは弥勒信仰である。未来仏である弥勒菩薩への信仰は、56億7000万年後に出現する弥勒菩薩に教えを請うために、即身成仏して、現世から離界し異次元世界に転生し弥勒菩薩の出現を待つというものだが、地球の年齢が46億年といわれることを考えると、この世界が滅亡して新たな宇宙が生まれる時を待つことのようにも感じる。
 どうして、56億7000万年などという途方もない宇宙的時間を考えることができ、信じることができたのであろう。まるで宇宙を司る神とでも交信しているようだ。

 弥勒信仰は平安時代後半までは盛んであったが、やがて衰えて阿弥陀信仰に換わっていく。皇円阿闍梨から弟子の法然上人へスライドしていく過程が、弥勒信仰から阿弥陀信仰への変貌の過程でもある。それまでの延暦寺は護国仏教が中心で、貴族や豪族たちの仏教であったが、天台宗を離れた法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗は信仰を庶民にまで拡げた。

 護国仏教とは国を護る仏教ではなく、朝廷(天皇制)を護る仏教である。天台座主が3世の慈覚大師円仁以来官職であることを忘れてはならない。

 天台宗は中央の祭祀にも関わり、皇祖神アマテラスに対抗する神々を神仏習合、本地垂迹の秘策をもって仏の後ろに封じ込めることを行ってきた。それは取りも直さず仏教を拡げる道でもあった。(真言宗にもその傾向がある)

 法然の浄土宗が庶民に受け入れられたのは、他力本願を説いたことによる。師である皇円阿闍梨は衆生を救うため、悟りを開くために菩薩行を積もうとした点で自力本願であった。厳しい修行は凡夫である庶民には無理である。

 弥勒信仰は廃れたとは言え無くなったわけではない。江戸時代の修験者や密教僧でも弥勒信仰に添う形で、五穀を断つ千日修行を積み、最後は水断ちをし、土中入定してミイラになるように即身成仏する者がいたことは驚きだ。彼等はまるで龍神となった皇円阿闍梨のごとく宇宙を司る神とでも交信していたのであろうかと、この林立するアンテナを見ていて、フッとそんなことを考えた。


 最後に資料館へ入った。(社務所に頼めば無料で入れる)
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「 初代静岡県知事 関口隆吉  榑林靖男画 」とあった。
 絵を描いたのは、法の沢 八幡神社を祀っていた榑林(くればやし)一族の者であろうか。また、関口隆吉は徳川慶喜の警護役だった人だという。

掲示から
『 いま甦る 幕末、維新の隠れた稀代の英傑  関口隆吉
 新しい日本の国を築こうと当時、迫り来る外国列強の黒船の脅威の中で明治維新の改革を成功させた人達の中に、時勢を見る確かな目を持ち国の為に身命を投げ打って働いた旧幕臣たちがいた。その中の一人が初代静岡県知事の関口隆吉である。此のことを一部の知識人は知っているが、一般の人達にはあまり知られていない。
 殊にそれが佐倉宮司の家系の一人であることを知っている人は少ない。
 幼少のころから秀でた才能の持ち主で清覧潔白、若き情熱を何時迄も持ち続け博愛心を以て国の為に尽くされ、波瀾万丈の生涯を終えられた関口隆吉。正に、皇円阿闍梨の生まれ変わりではと思われる位です。
 故に、此処に桜ヶ池会館(資料館)ができたので、是非、関口隆吉先生を現代に生きる私たちの範と致したいと思い顕彰に踏み切った次第です。
 桜ヶ池池宮神社 社考  』

 1868年(明治元年)明治の新政が始まると、その8月徳川亀之助(後の家達)は駿遠など70万石の駿府藩主として江戸から駿府へ入った。徳川慶喜は亀之助に家督を譲ったが、まだ実権を持っていたとみてよい。
 翌1869年(明治2年)には府中は不忠に通じるということから、駿府学問所頭取の向山黄村の意見を採用し、賤機山(賤ガ丘)の名をとって静岡と名を改めた。
 1871年(明治4年)の廃藩置県では、浜松県・静岡県・足柄県に分かれていたが、1876年(明治9年)8月合併して今日の静岡県になった。静岡県には徳川家に従って多くの幕臣が移り住んでいた。従って県知事は他県のように薩長土肥の出身者ではなく、幕臣であった関口隆吉が就任したようだ。

 初代の県知事が関口隆吉であったこともあり、伊藤博文や勝海舟などの書簡が展示されていた。
 これらの事から、この池宮神社(江戸期までは池宮天王社)は政治力を持ち、地域に影響力を持っていたことが考えられる。
 従って、昭和40年代の原発誘致でも、中部電力側に立って影響力を駆使したのであろう。
 平成10年代の5号炉が建設の時にも、大鳥居が中部電力からの地域協力金1億2000万円で造られ、社務所やこの資料館なども1億8000万円で建てられたのであろう。

 この幕臣の関口隆吉という県知事を輩出した池宮天王社は、明治新政府の祭祀方針に従い、神仏分離には応じたものの、祭神の変更にまでは応じず、はね返すことができた。これも当社が政治力を持っていたからできたことであったのだろう。
 明治維新以来、全国の主だった天王社や祇園社の祭神はスサノオに改変され統一されたが、池宮天王社は社名を池宮神社に変えたが、祭神はそのまま残った。

 仏法の守護神に四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)がいるように、天王と呼ばれた神も一人ではなく、複数いたのではないかと私は考えている。
 日本では北方を守る多聞天が独り立ちして毘沙門天として祀られることが多い。
 中国でも四天王は全て男性だが、持国天は琵琶を持っていることが多い。日本で琵琶を持つのは弁才天という女神だが、その弁才天も8臂像で弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、羂索(投げ縄)を持つものがある。持つもの全てが武器に類するものであることから、鎮護国家の戦神としての性質もある。
 弁才天は、本地垂迹では一般的には宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命と同一視されることが多いが、少ないが瀬織津姫が弁才天として祀られる例もある。
 私は宗像三女神の中の湍津姫が瀬織津姫ではないかと考えている。更に言えば宗像女神は本来一人であったが、その神格を3つに分け三女神にしたのではないかとも想像する。
 何を言いたいのかというと、瀬織津姫が天王の一人ではなかったかということである。

 池宮天王社は、池宮からも分かるように“池に住む水神”を祀っていたのであろう。その神の名は瀬織津姫であり、瀬織津姫は○○天王とも呼ばれていた可能性がある。それ故社名が池宮天王社であったと考える。


資料館には「皇円上人 法然上人 熊谷直実 年譜」が掲示されていた。
『 皇円上人 法然上人 熊谷直実 年譜
延久5(1073) 皇円 肥後の国玉名郡築地に生まれる
長承2(1133) 法然 美作国(岡山県)久米南条稲岡に生まれる
永治1(1141) 熊谷直実 熊谷にて生まれる
   法然の父漆間時国、明石定明の夜襲にて死す 菩提寺の観覚の弟子となる
久安3(1147) 法然上人15歳の時、比叡山皇円上人に師事する
久安6(1150) 法然 西塔黒谷の叡空の門に入る
平治1(1159) 熊谷直実 源義平の許にあって平重盛を攻める 平治の乱
安元1(1175) 法然 専修念仏に帰入 西塔黒谷を出て、東山大谷に住む
治承4(1180) 頼朝挙兵 平重衡、南都を攻め東大寺、興福寺を焼く
寿永3(1184) 熊谷直実 一の谷の戦いで平敦盛を討つ
文治1(1185) 平家壇ノ浦に滅亡 東大寺大仏落慶
文治2(1186) 大原談義
建久4(1193) 熊谷直実 上洛して法然上人の門に入る
建久8(1197) 熊谷直実 蓮生坊と名のる 法然上人の供をして九条兼実邸を訪れる
建久9(1198) 法然上人 選択本願念仏集を撰す
正治2(1200) 鎌倉幕府、念仏を禁ずる 道元生まれる
建仁1(1201) 親鸞(28歳)法然上人(69歳)の門に入る
元久1(1204) 延暦寺の衆徒、専修念仏停止を座主真性に訴える
          法然 七箇条起請文をつくり門弟を戒める
元久2(1205) 興福寺の衆徒、念仏禁断の奏状を捧げる
承元1(1207) 専修念仏が停止され、法然上人土佐に配流 住蓮、安楽ら死罪
         蓮生(熊谷直実)大往生、奇瑞続く
建暦1(1211) 法然 帰洛を許される 東山大谷に住む
建暦2(1212) 正月25日 法然上人入寂(80歳)
安貞1(1227) 延暦寺の衆徒、東山大谷の法然上人の墓堂を破脚し、選択本願念仏集の板木を焼く   』

 この年譜は法然上人を中心に書かれている。もっとも皇円阿闍梨について書こうとしても、皇円の事績に関する同時代の直接の記録はほとんどなく、鎌倉時代末期に編まれた法然に関する「拾遺古徳伝」や「法然上人絵伝」に頼らざるを得ない。

 皇円は日本三大史書のひとつ『扶桑略記』を撰した。『扶桑略記』は日本最初の編年体の歴史書としてよく知られ、神武天皇から堀河天皇までを、主に日本への仏教伝来や発展史、神社寺院の縁起に着目して記述した貴重なものである。
 つまり、皇円は歴史家として宗教家として平安末期までの日本の“神まつり”について熟知していたことになる。当然、天台宗の内部にいて天台宗がやってきたことも分かっている。そして、それらのことを彼はどう考えたかにより、私の皇円の評価は変わる。が、皇円についての事績がはっきりしない以上、推測する以外はない。
 一つ言えることは、桜ヶ池では弟子の法然によって皇円は浄土宗の喧伝に利用されているということだ。それは皇円の本意であったかは分からない。
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 円光阿闍梨と法然上人のことをもう少し知りたいと考えたので、桜ヶ池の奥の院と言われる応声教院へ行ってみることにした。
 池宮神社の前に応声教院桜ヶ池別院があるが、本院である約10km離れた応声教院(静岡県菊川市中内田)に行くことにした。



応声教院(おうしょうきょういん)

 応声教院は、菊川市中内田にある浄土宗の寺院で山号は松風霊山。本尊は阿弥陀如来である。
 855年(斉衡2年)文徳天皇の勅願により円仁が創建したと伝えられ、元は天台宗の寺院で天岳院と号したという。
 1175年(承安5年)浄土宗の僧法然がこの寺に入り浄土宗に改められたが、法然は師である皇円の菩提をこの寺で弔ったと伝えられる。
 法然は、当山裏山にて七日七夜の念仏を唱え、師皇円の冥福を祈り、東海念佛初開道場を開いた。その遺構は山頭に法然塚として残っているという。
 これより当山は、天台宗を浄土宗に、天岳院を応声教院と改名され、名僧感西上人を開山として現在まで浄土宗の教えを伝えている。
本尊の阿弥陀如来は、歯吹阿弥陀如来(はふきあみだにょらい)と呼ばれ、法然が安置したものだとされる。
 皇円阿闍梨菩提所、桜ヶ池奥之院、十二支辰巳霊場、水子供養の寺として来山する人が多いという。

 一般道より入る参道脇には多くの石像が立ち並んでいた。
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 いくつか写真を撮った。
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 道祖神のようなものから龍神、地蔵菩薩までバラエティーに富んでいるが、庶民の信仰を集めていたことを物語る。

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