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zoom RSS 旅 635 池宮神社(3)

<<   作成日時 : 2017/02/12 23:23   >>

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2016年 5月16日

応声教院


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 この山門は国指定重要文化財である。
現地説明板より
『 国指定重要文化財 応声教院山門
 この山門は、徳川2代将軍秀忠公が生母追善供養のため寛永3年(1626)静岡市宝台院の大門として創建されたもので間口7.8m、奥行3.6m切妻造、八脚門で桃山時代の風格を持つ東海地方第一の山門であります。
 建築奉行は、門奈助右エ門、山口清太夫大工、棟梁は東照宮や増上寺などを建立した当代随一の甲良豊後守であります。
 大正7年(1918)宝台院より当山に移築され、昭和29年に小笠郡下で最初に国の重要文化財として指定を受けました。
 松風霊山の額は皇円阿闍梨の旧家でもある華山院侯爵親家卿に揮毫されたものであります。
 平成20年3月1日 応声教院 菊川市教育委員会  』

 宝台院と言えば、1868年7月に駿府に移った徳川慶喜が謹慎した寺である。宝台院は1940年(昭和15年)1月15日の静岡大火で本堂(旧国宝)などが焼失しているので、この山門が大正7年(1918)に当山に移築されていたことは幸いであった。

 華山院とは花山院のことだ。なぜ、花山院家が皇円の旧家になるのだろう。
 皇円は藤原道兼の末裔で、道兼 ― 兼隆 ― 定房 ― 重房 ― 重兼 ― 皇円 と続くとされる。
 また、花山院家の家祖は藤原家忠で、道長 ― 頼通 ― 師実 ― 家忠 と続く。共通点としては、道兼と道長が兄弟ということだけだ。
 江戸末期において公家はほとんど藤原氏と考えてよい。花山院家と皇円の共通点は、藤原氏であるということだけである。ただ、皇円が桜ヶ池に入定する時代、この地は花山院家の領地であったらしい。

 寺院の八脚門は側面を二間とするのが通例だが、この山門は側面を一間としていて城門のようだという。
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 立派な梵鐘があった。
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 皇円阿闍梨大龍神の両眼が光っているのは、純金が鋳込まれているからで、爪と牙には純銀が鋳込まれている。
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現地説明板より
『 梵鐘のいわれ
 当山には元什宝の鐘と禁酒の鐘の二基の梵鐘があり、昭和17年12月大東亜戦争の為応召(供出)す。以来復元の機を得ず。当山第54世察音上人は梵鐘復元を一大願望として精進努力す。
 図らずも皇円阿闍梨の大徳と察音上人の熱意を汲み取られ岐阜市の篤信者が寄進にて奉安下さる。
 奇しくも梵鐘鋳込みの当日察音上人は正念往生され、上人の遺髪を鋳込めた宿縁の鐘です。上人の遺業達成の為2年計画にて本鐘楼建立を念願、此処に昭和46年の春、檀徒を始め全国諸彦の信仰の結晶として完成大願成就す。
 正に東海一を誇り交通安全、厄難消除、世界平和の大音響は永遠に十万世界に響き渡って止みません。
 当山主謹白

 日本で唯一梵鐘の大龍の両眼は純金、爪と牙は純銀、鐘楼の天井画は桜ヶ池の霊水にて滋賀県提幽泉画伯が揮毫。
 鐘の高さ6尺、口径3尺3寸、重さ400貫  』
 (原文に一部加筆して載せました)


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 寺だから墓地があったが、ここでも無縁墓はまとめられ墓地確保がされていた。どこの地域でも事情は同じようだ。
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 愛染明王尊と普賢菩薩を祀る御堂もあった。
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 愛染明王尊は桜ヶ池で龍身になった皇円阿闍梨が大願成就を祈願した明王だという。

 「呑んべい地蔵堂」なるものがあった。
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 かつて当山には禁酒の鐘があったというが、反対に呑んべい地蔵がいるとは庶民的である。坊さんも般若湯と称して酒を飲んでいたが、お地蔵さんが飲むのだから、我々僧も飲んでも構わないと開き直っているようで愉快だ。
 我が家は浄土宗である。私は法然さんの優しい顔に癒される。法然さんなら「南無阿弥陀仏」と唱えれば、大方許してくれそうなので安らげる。
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 本当に白蛇がそこにいるような石があった。日本だけでなく古代から蛇信仰はあるようだ。そして中国では大蛇は竜となって天に昇る神獣となった。
 そういえば、応声教院には大蛇のウロコと称されるものが祀られているという。


 本堂の斜め後ろには水子地蔵菩提所があった。
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 正面の上部には地蔵菩薩の像があったが、女性的な像であった。
 私は本来、地蔵菩薩は地母神的な要素が強い菩薩ではなかったかと考えている。この水子たちを見守る地蔵菩薩の像は、私にはシックリくる。

 正面にはお線香をあげる場所があり、既成の水子地蔵ではなく、ミッキーとミニーのキャラクター水子地蔵が奉納されていたが、マフラーをしたミニーの水子地蔵に「供養 蒼生(あおい)ちゃん」とあるのを見たとき、思わず胸が詰まった。
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 幼くして逝ってしまった子どもは勿論だが、残された親の悲しみと無念さが胸を刺す。
 手を合わせ冥福を祈る心の片隅に「法然さん頼むぞ」という気持ちが湧いたのは意外だった。
 親には罪はないが、「子を死なせてしまった」という呵責が残ることがあるという。また、「子に死なれてしまった」という、どうしようもない、ただただ受けて耐えるだけの心持ちになることもあるという。
 「子に死なれてしまった」というような、受け身の文法的表現は、日本とモンゴルにしかないと聞いたことがある。だとすれば、このような感覚を持つのは日本人特有のものなのだろうか。
 “親は死んだ子の歳を数える”というが、東北では違う意味でそれを感じたことがある。それは「ムカサリ絵馬」というものに込められていた。
  ( 関連記事「ムカサリ絵馬」 『 旅401 若松寺 』 )

 この水子地蔵菩提所は新しいものではなく古くからあるようだ。
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 古い形の水子地蔵と思われるものが並んでいた。中には場違いの像もあり、少し笑えて気が晴れた。
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 応声教院の前には水田も広がり、水の便はいいようだ。
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 ロードマップを見ると、応声教院の西には上小笠川が流れ、東には西方川と菊川が流れている。菊川は菊川市の名前の元になった川であろう。応声教院周辺を流れる川は、下流で菊川に合流し遠州灘に注ぐ。
 応声教院の北2kmほどの所に、大頭竜神社という神社があるのも気になる。
 応声教院周辺は水に恵まれ稲作に適した場所ともいえる。
 私はこの辺りにも水神が祀られ、その水神は地域の地母神的な神でもあったのではないかと想像する。

 皇円阿闍梨が桜ヶ池を選んで入定したのは、96歳の時だとされる。これほど高齢な皇円は、最期に何をしようとしたのであろう。

 浄土宗の公式サイトにある「法然上人の足跡」には次のようにあった。

『 法然上人の足跡
 法然上人は比叡山から奈良や京都の高僧に教えを受けるため各地をたずねられた。治承元年(1177)法然上人44歳の時、法然上人が比叡山で御修学の際、天台の三大部六十巻を学ばれた時の師範である皇円阿闍梨をしのばれて、ご遺跡であるこの桜ケ池に参拝されたと伝えられている。

寺院暦(桜ヶ池 応声教院)
 今から1千有余年前の斉衡2年(855) 比叡山の慈覚大師が文徳天皇の勅願所として天岳院を創建された。
 法然上人が比叡山で御修学の際、天台の三大部六十巻を学ばれた時の師範である功徳院、皇円阿闍梨のご遺跡である。
 浄土の法門を開宗された法然上人は、治承元年(1177)大蛇になられた皇円阿闍梨をしのばれて桜ケ池に参拝され、念仏の功徳力を以て御師皇円阿闍梨の化身大蛇の苦患を除かれた(勅伝第三十卷一段)。
 これにより当院を桜ケ池菩提所と定め、浄土門に改宗し応声教院と改称され、東海最初の念仏道場として隆盛をきわめ今日に至っている。
 この縁故で当山には皇円阿闍梨、法然上人、熊谷蓮生房等多くの宝物が蔵されている。

法然上人と皇円阿闍梨の桜ケ池伝説
 この桜ケ池には、伝説があり皇円阿闍梨と法然さまの本によるとこう書かれている。
 皇円阿闍梨は、仏様の教えについて勉強していたが、人間の定めとはいえ、人が死の苦しみから救われる教えを究めることができなかった。
 そこでなんとかして仏様に会い生死の苦しみを救う教えを受けたいものだが、お釈迦様はすでにお浄土におられ、この世には56億7000万年の後に、弥勒菩薩様があらわれて、人々に説法されると聞いているが、いまの我が身は、お釈迦様と弥勒菩薩様の中間に生まれて、どうすることもできない。
 一番長生きすると言われる大蛇になってこの世に住み、弥勒菩薩様の現れるのを待つしかないと考えられて、池を探した。
 探していたが、なかなか願を叶える池に巡り会えず途方に暮れていたところ観音様が夢にあらわれて、「遠江の国、笠原荘にある桜ケ池を訪ねよ」とのお告げがあり、皇円阿闍梨は、はるばるこの池を訪ねた。
 そして一度都に戻られた皇円阿闍梨は、桜ケ池を持つ花山院家に手紙を添えて、大蛇になって住まうことの許しを受けられ、嘉応元年(1169)6月13日、深夜に法然上人を招いて今世の別れを惜しみ、池から持ち帰った霊水を手のひらに注ぎつつ、那伽定(龍となること)されたと伝えられている。
 黒谷の青龍寺で勉学されていた法然上人は、善導大師の書かれた「観経の疏」(阿弥陀如来の教えを説いたもの)を読んでいたところ、散善義の教えのところで、ただ一心に阿弥陀仏の名号を称えれば、阿弥陀如来は、人々の生死の苦しみを救って下さり、極楽浄土に往生できるという深い教えを知り、承安5年(1175)念仏の教えを広めるために浄土宗を開かれた。
 この時、桜ケ池に棲まわれている皇円阿闍梨をしのばれて、「ただ一心に南無阿弥陀仏と称えれば、極楽浄土に往生できる」というお話を申しあげたいと、弟子2人を連れて桜ケ池を訪ねられた。
 法然上人は池に向かって一心に念仏を称えられると、不思議なことに皇円阿闍梨が比叡山でお別れした時の衣のお姿で合掌しながら水面に現れたのです。
 皇円阿闍梨は、自分が住んでいる龍宮城で、法門の談義を交えたいと話されて、法然上人を池の底へと招かれた。
 この時、池の水が左右に別れて、師資(師匠と弟子のこと)ともども龍宮城に行かれたという。
 龍宮城にきた法然上人は、館の縁に並べられた大きな6つの壺を見て「これはなんですか」と皇円阿闍梨に尋ねられた。
 すると皇円阿闍梨は壺の蓋をとり、
「この中には無数の小さな蛇がいる。この小さな蛇も、私の一族だが、私がここに住むようになってから、仏法のまじないで、この壺の中に封じ込めている。私は、これからの一族を束ねる大蛇身だが、この小さな蛇も共に弥勒菩薩様の教えを受けて、成仏することを願い、こうして時の来るのを待っているのです。」
と話をされた。
 法然上人は、師匠の皇円阿闍梨が、龍宮城で大蛇身の苦しみを受けながらも、多くの生き物を救うことをひたすら願われているのかと思うと涙がとめどもなく落ちてきた。
 そして法然上人は、阿弥陀如来様の本願に、人々が安心して成仏できる念仏の法門を開いたことを報告し、皇円阿闍梨は法然上人の話される他力(仏様の力によって救われる)の教えにじっと聞きいっていたという。
 ひさかたに師匠の皇円阿闍梨と談義する法然上人は、一体の歯吹阿弥陀如来を師の前に差し出された。
 この仏様は、法蔵菩薩様と呼ばれていた時、人々を救うために四十八願の誓願をたて、その1つなりとも成就しないときは、決して仏様にはならないという厳しい修行を積まれた後、阿弥陀如来様になられたことを説いて話された。
 ことに第十八願は念仏往生のご誓願で、この教えは阿弥陀如来様を一心に念じ、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えれば、阿弥陀如来様は十方衆生(あらゆる世界)の生きとし生けるすべてのものを極楽浄土(仏の世界)に導いてくださるという他力(仏様の力)の法門を述べ、この仏の誓願におすがりすれば、大蛇に身を変えて弥勒菩薩様の現れるのを待たずとも、もはや極楽世界に往生されることはうたがいなく、諸仏のもとにいくのもたやすいことです。どうか弟子法然のこの法門で、早くまことの仏道にご修行をなさって下さいとねんごろにおすすめした。
 この話を聞いた皇円阿闍梨は、
「我が志を変えることはできない。だがよく考えてみると、こうして大蛇の苦しみを受けているのも後の人のため。私が自力の修行で成仏できなかったから大蛇となって桜ケ池にすむと聞いたなら、自力の修行は難しくなかなか成仏できないことを人々が知ることになる。そうなれば法然房よ、そちらの開いた念仏の法門を人はことさら信じるようになるだろう。そのことを思えば、大蛇になった苦しみも決して我が身の苦しみとは思わぬぞ。そして、歯吹の阿弥陀如来様が我が1人のものになれば、世の人の利益も薄くなる。よって、広く人々にこの功徳を与えるために、ここより北に行った内田の里に、天岳院(今の応声教院)と呼ぶお寺がある。そこにこの仏様をお祀りし、念仏の教えを長く広めるとともに、我が供養をほどこしてほしい。」
と悟られた。
 龍宮城を出られた法然上人は、池のほとりにとどまり、お師匠様に別れをされた。
 そして「今まで平生のお姿でお目にかかっていましたが、大蛇のお姿をお見せ下さい。」と願われたのです。
 すると、にわかに池の水が渦をまき、あたりは雲に覆われて闇となり、たちまち大きな大蛇があらわれた。
 「このように大蛇でいるのも、みな後の人のため、我が身だけの修行では容易に成仏できないことを、この身をもって教えている。我が一人こうして苦しむことで、後の人々が救われるのなら、永久に桜ケ池の底で泣き明かしたとて、この身は少しもいといはしない。」
と話された。
 このお言葉を聞かれた法然上人は、お師匠様の慈悲にむせび、ややもして大蛇にむかって尋ねられました。
 「お師匠様、大蛇には3つの苦しみがあると聞いております。その苦しみはいかがなものでしょうか。」
 「よくぞ尋ねてくれました。弟子なればこその思いやりに嬉しく思うが、大蛇には8万4千の鱗があり、その1つの鱗に8万4千の虫がつき、朝となく夜となくこの身を苦しめるのがつらい。せめてこの苦しみを取り除く法門があるなら教えてほしい。」
と目に一杯の涙をためて話された。
 ああ、なげかわしいかな、阿弥陀如来のお力におすがりするしかこの苦しみを取り除く方法はない。
 法然上人は大蛇に向かって「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えながら、水晶の数珠で大蛇の体を3度撫でられた。
 すると、8万4千の大蛇の鱗は、木の葉のように風に散り、荒れ狂っていた大蛇は涙を流して喜び、
「法然房よ、よくぞここまで修行なされた。私は何よりも嬉しく思う。」
と最後の言葉を残して、池の底へ帰っていかれたという伝説がある。  』

 この説話は、浄土宗の立場で書かれているが、私は次の部分に注目する。

『 龍宮城にきた法然上人は、館の縁に並べられた大きな6つの壺を見て「これはなんですか」と皇円阿闍梨に尋ねられた。
 すると皇円阿闍梨は壺の蓋をとり、
「この中には無数の小さな蛇がいる。この小さな蛇も、私の一族だが、私がここに住むようになってから、仏法のまじないで、この壺の中に封じ込めている。私は、これからの一族を束ねる大蛇身だが、この小さな蛇も共に弥勒菩薩様の教えを受けて、成仏することを願い、こうして時の来るのを待っているのです。」 と話をされた。 』

 この中の、“この小さな蛇も、私の一族だが、私がここに住むようになってから、仏法のまじないで、この壺の中に封じ込めている。”が、皇円が龍神になってまでやろうとしたことの全てを表しているように思う。

 藤原氏出身の天台僧である皇円はやっぱり護国仏教(天皇制維持)の徒であった。死期を悟った皇円の最期の大仕事が、この地域に影響力を持つ服わぬ神たちを封じ込めることだったのである。
 そして、それは取りも直さずこの地域には皇円が全力で対処しなければならない程の神がいたということである。そのことは、斉衡2年(855)に既に円仁が寺を建てていることでも分かる。
 円仁の建てた寺が「天岳院」で、近くに「天神城」もあったことを考えると、“天”を名前にいただく神であった可能性がある。そして、その神は水の神格、龍神の神格を持つ神であったことは確かであろう。


 桜ヶ池は信州(長野県)諏訪湖と底が続いているとも伝えられている。「お櫃納め」のお櫃が諏訪湖に浮かんだという伝説もある。
 私は伊那のどこかの寺の池が、桜ヶ池と繋がっているという話を聞いたことがある。また、善光寺の阿闍梨池が桜ヶ池と繋がっているという伝承もある。


 「塩の道」でこの地方と信州が繋がっていることは、駒形神社白羽神社のところで述べた。

 「水の道」で信州と繋がっているのはどこかと言えば、“天竜川”である。天竜川は既にその名からして竜神伝説に繋がる。天竜川はその源を諏訪湖に発する。
 この地域は東の大井川と西の天竜川に挟まれた地域である。私は、大井川にも天竜川にも、桜ヶ池と同様な水の神が隠されているように感じている。
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 浜松市天竜区の水窪(みさくぼ)に、標高880mの「亀の甲山」がある。佐久間ダムから7kmほど上流で、山のすぐ西を天竜川が流れる。
 この「亀の甲山」の中腹に「池の平」と呼ばれる窪地がある。
 この窪地は、普段は一滴の水もない杉木立の平坦な場所であるが、7年に一度こつ然と水が湧き出て満々と水を湛えた周囲が約200m、水深が2〜3mもの池ができるという不思議な現象の起こる場所で、この幻の池は「池の平」と呼ばれている。
 「池の平」に突然、池が出来るのは御前崎市佐倉にある「桜ケ池」に棲んでいると言われる「竜神」が、信州の諏訪湖に行く途中に休息するためだからとか、諏訪明神が休息する場所だからと伝えられている。
 そして「池の平」に池が出来る年は、なぜか日照り続きの夏に限られるといわれているのである。
 昔から、この池の水は胃腸の病気の妙薬だといわれ、水が湧いて池が出来ると、この水を汲みに村中の人たちがお祭り騒ぎのように賑やかに集まってきたという。
 そして1週間くらい経つと自然に水は引いて、池は跡形もなくなってしまい、せっかく村人たちが汲んできた水も同時に消えていってしまうと伝えられている。
 水窪の古老たちの話では、池が出現する際、大きな花火を打ち上げるような「ドーン」という音が聞こえたという。
 どうして満々と水を湛えた大きな池が突然出現するのだろうか。標高からみて地下水が湧きあがるとは考えにくい。
 水窪の地層は古く硬く水が浸み込みにくい所が多い。降った雨はすぐに斜面を流れ落ちていってしまう。草の保水力が高まり、夏の雨水がジワジワと集まるだとか、地下に水みちがあって水が溜って池が出来るなどと言われているが、実際のところ出現の謎はわかっていない。
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 過去の池が出現した年を下に示す。
1954年(昭和29年)
1961年(昭和36年)
1968年(昭和43年)
1975年(昭和50年)8月26日
1982年(昭和57年)8月11日
1989年(平成元年)9月8日
1998年 (平成10年)10月2日
2010年(平成22年)7月20日

 1954年から1989年までは、きっちり7年周期で池が出現している。
 1998年の出現は、周期を外れ、9年後であった。
更に、2010年の出現は、前回から12年後の出現になり、一見不規則になったように見えるが、1989年から見ると21年後となり、7×3=21で、7年周期に乗っているとも考えられる。

 こんな幻の池を見ることができれば、竜神伝説も信じてみたくなる。
 桜ヶ池にある池宮神社に、諏訪神である建御名方が祀られているのも故無きことではないのかもしれない。

 白羽神社のところで述べたように、遠州には白羽という地名が海の近くにいくつかあり、それは伊勢の麻績部が入植した土地らしく、麻の栽培や機織に関係しているとも言われる。
 この麻績部は天竜川を遡り伊那谷へも移住したようだ。
 伊勢は大和朝廷が東国へ進出する拠点であり、西から進出した氏族が伊勢を経由して東国へ雄飛している。
 東国への進出には黒潮をつかうことがあり、航海に長けた海人族の協力が必要だった。

 上古において、朝鮮半島との直接のパイプを持つ日本海側の海人族が優勢だった。この海人族のネットワークは北部九州、出雲を含む山陰、北陸に及んでいたと考えられる。黒潮に対して対馬海流は流れが速くないことも航海に幸いした。

 伊勢神宮外宮の豊受大神は、雄略天皇の時代、日本海側の元伊勢から伊勢へ遷座したといわれる。
 伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。
 元伊勢を名乗る神社は、籠神社(京都府宮津市)、比沼麻奈為神社(京都府京丹後市)など複数ある。また、雄略天皇22年に伊勢へ遷座する途中でしばらく鎮座した場所とされる豊受大神社(京都府福知山市大江町天田)などもある。

 これらは、日本海側の海人族が伊勢へ進出したことを表しているのかもしれない。

 また、瀬戸内海の海人族も熊野を中継地として伊勢へ進出した節がある。伊勢は大和朝廷にとって東国進出への海軍基地でもあり、航海に長けた海人族だけでなく冶金や造船、織物などのテクノクラートを抱える氏族が集められたようだ。
 東征に向かう日本武尊が伊勢で倭姫命から天叢雲剣(後の草薙剣)を授けられたという伝説も、伊勢が東国への海の窓口であり、東国への進出の基地でもあったことを表しているのであろう。

 八ヶ岳周辺は縄文土器の宝庫で、遅くまで縄文文化が繁栄した場所でもある。その祭祀は諏訪大社上社の深層に残されている。

 私の印象では、対馬海流よりも黒潮の方が流れが速い分だけ航海が難しく、海人族の東への進出は、日本海側よりも太平洋側の方が遅れたように感じる。
 その反映が、天孫族に追われた建御名方が日本海側から諏訪地方に入り、遅れて同じく大和朝廷に追われ伊勢から東国へ去った伊勢津彦の一部が太平洋側から諏訪地方へ入ったという伝承が残されのであろう。
 諏訪は日本海側から入った勢力と太平洋側から入った勢力が出合う場所でもあった。
建御名方には竜蛇信仰をもつ海人族の影が濃厚であり、伊勢津彦もその名に「津」が入ることから、配下に海人族を抱えていたことが考えられる。

 私は最近、長野へ帰るとき、諏訪大社下社秋宮から国道142号線(中山道)で和田峠を越えて上小地方(上田や小諸)へ出て帰った。そのとき下諏訪地域と上小地方が私が思っているよりも強く繋がっていることを感じた。和田峠の“和田”は、海神(わだつみ)から来ているとされる。 そして、上小地方には千曲川が流れる。
 県歌「信濃国」に“北に犀川・千曲川、南に木曽川・天竜川”と歌われるように、千曲川・犀川は日本海側からの海人族の進入路であり、天竜川・木曽川は太平洋側からの海人族の進入路であったに違いない。その出合う場所である諏訪湖には竜神伝説が残る。そして諏訪地方は遅くまで仏教の進出を拒んだ地方でもあった。

 竜神はおそらく水の女神の守り神なのであろう。
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