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zoom RSS 旅 636 相良油田跡

<<   作成日時 : 2017/02/15 12:59   >>

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2016年 5月16日
相良油田跡

 静岡県牧之原市菅ケ谷(旧・静岡県榛原郡相良町菅ケ谷)に「相良油田の里公園」があり、そこには相良油田資料館がある。
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現地説明板より
『 手掘り井戸小屋
 この建物は、石油を手掘りした初期井戸の上に建てられた萱葺きの小屋を採掘当時のままの大きさのものに復元したものです。
 南側に面する屋根には、長さ6尺(約182cm)幅3尺(約91cm)の長方形の大きめの明かり窓があり、光を坑内に取り入れるためと坑内の空気を外に出すために工夫されています。 』
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現地説明板より
『 この建物は手掘り坑の上に建てられた杉皮葺きの井戸小屋で採掘当時のままの大きさに復元したものです。南側に面する屋根には、長さ6尺(約182cm)幅3尺(約91cm)の長方形の大きい明かり窓があり、光を坑内に取り入れるためと坑内の空気を外に出すために工夫されています。 又、小屋の中を明るくするためと空気の流れを調節するために小屋の左右には出入口が大きく取ってあり、他の面には上下に開く窓が2ヶ所つくられています。 』
 屋根の上にある明かり取りの窓から光を採り入れ、鏡によって坑内を明るくして作業をしたという。
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 井戸の横にある長方形の大きな箱型のものは踏鞴(たたら)である。両端に4〜8人の人夫が乗り、上下交互に踏んで、空気を風樋に送り、坑内の油気をとり、新鮮な空気を坑中に補給した。


 現在、記念の鉄櫓が一基残されているので、そこまで上がってみた。かつては丘陵や谷に採掘用の櫓や小屋が林立していたというが、今は周りには茶畑がある。
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 油のようなものが浮いていて油臭かった。缶をのせているブロックにも染み込んでいる。

現地説明板より
『 静岡県指定天然記念物 相良油田油井
 わが国太平洋岸唯一の石油産地として知られた相良油田は、、当地菅ケ谷に主要鉱区をもち、最も出油量の多かったのは明治17年(1884)頃で年産721キロリットルを産出した。
 当油田は明治5年(1872)2月、村上正局(まさちか)が海老江(えびえ)にて発見したのにはじまり、同年5月に石坂周造が当地で開坑採掘し、翌6年10月には機械さく井に成功している。
 大正5年(1916)ごろ150坑ぐらいあった手掘井は一箇所もないが、機械掘りの油井は、これが現存する唯一のもので、深さ310mである。
 昭和55年11月28日指定 静岡県教育委員会 牧之原市教育委員会 』
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現地説明板より
『 相良油田石油坑 県指定文化財 S55.11.28指定
所在地 静岡県牧之原市菅ケ谷2861−1
沿革
 わが国太平洋岸唯一の石油産地として知られた相良油田は、明治5年(1872)村上正局によって発見され、次いで明治6年石坂周造によって手掘採掘が始められた。
 明治7年になると機械さく井も行われ、最も出油量の多かったのは明治17年(1884)頃で、年産721.6キロリットルにも及んだ。又、大正5年頃には手掘井が150坑を数えたが、現在は一つも残されていない。
 今、残っているこの機械掘井は昭和25年に開坑された機械掘井である。深さ310mで相良油田最後の記念すべき櫓である。 』

 この櫓のそばには、手掘の時の小屋が復元されていた。
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 「相良油田の里公園」の周辺は丘陵地帯であるが、今はそこにも浜岡原子力発電所からの送電線の鉄塔が建っている。
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 「相良油田の里公園」に戻って、資料館に入った。

現地説明板より
『 相良油田は、明治初期に発見され、昭和の中期までの約80年間に渡って採油が行われた、太平洋岸では唯一の油田です。原油の質は世界的に見ても大変上質なものであり、また日本で最初に米国製の掘削機により機械堀りが行われた油田でもあります。
 発見以来、相良の一大産業として活況を極めた油田でしたが、今は、当時の面影を僅かに残すだけとなっています。
 当館において、当時の手掘りや機械堀りの様子、菅山(すげやま)地域の状況などを再現しております。
 地域の文化や先人の知恵と汗による偉業を体感し、また、石油エネルギーの恩恵を再認識する場となっております。 』

 相良油田のジオラマがあった。
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館内の掲示より
『 世界的にも稀にみる良質な原油
 原油は、各種の炭化水素を主成分とした黒褐色の液体ですが、原産地により性状(成分、品質)が異なります。
 原油を分類する場合、その比重、流動点、硫黄分、製品得率などの各要素を総合して判断します。大きく分けてガソリン留分を多く含む軽質原油と重油留分を多く含む重質原油があり、一般的にガソリン、灯油・軽油が多く取れるもの、硫黄、ろう、重金属分の少ないものなどが高品質となっています。
 相良油田の原油は、青緑がかった赤褐色で、しかも透き通っており、ガソリンや灯油留分などを多く含んだ極めて軽質なもので、そのままでもランプや発動機に使用できるほどで、世界的にも希にみる良質な原油です。 』
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 右が普通の原油の色。左が相良油田の原油である。相良油田の原油の成分は、ガソリン34%、 灯油34%、 軽油22.5%、 重油9.5%で、非常に軽質であり低粘度である。まるでウイスキーやブランデーのような透き通った琥珀色の液体である。


館内の掲示より
『 日本で最初の機械堀り井戸
 相良の石油井戸は、人力による手掘りや上総掘りと機械による綱堀りとロータリー堀りが行われました。
 手掘り井戸は、井戸口を3尺(約90cm)四方にして枠を組んで掘り下げ、深さはおよそ60間〜100間(約100m〜約180m)で、最深の井戸は140間(約255m)にも及びました。地下の深い所からの土砂や原油の引き上げは、大変な重労働で、また、土砂の崩落やガスの発生など危険極まりない作業でした。
 機械堀りは、石坂周造が明治6年(1873)米国から綱掘り機3台を購入、うち1台を同年10月、時ケ谷の庄八屋敷に据え付けました。15・16の両日、深さ13mを掘り、0.54klが採油されました。これは日本で最初に機械堀りが行われた石油井戸となりました。明治38年には、機械堀りの井戸は6坑あり、平均深度は300mでした。
 現存する石油井戸は、昭和25年に小型ロータリー式の機械で掘削されたものです。 』
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 相良油田は含油層が比較的浅いため(浅いもので21m位)、手堀が盛んで、最終期の昭和20年頃まで手堀り井戸小屋が残っていた。危険な作業だったので、坑夫の日給は12銭から31銭という高給だったという。峠の坑山神社には、事故に遭って殉職した22人の名を刻んだ石油坑山遭難者の碑があるそうだ。
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館内の掲示より
『 太平洋岸ではただ一つの油田
 相良油田は、太平洋側では唯一の油田です。原油は、微生物の死骸などがもとになり、地中のバクテリアや地熱の働きで原油に変化します。
 油田には、それを溜めるための構造とタイミングが必要で、大知ヶ谷(おおちがや)から新田、時ヶ谷(ときがや)、女神(めがみ)、男神(おがみ)へ続く背斜構造の地層と砂岩、泥岩の互層が何枚も何枚も積み重なった海底堆積層である第三紀中新世の相良層の地質が相良油田の母体となっています。
 相良油田は、原油を含んだ相良層とこの地質時代では全国で数少ない背斜構造とがつくりあげた油田です。原油は、この背斜軸の北西側の地層から掘り出されています。原油の量が少なかったのは、背斜構造の規模が狭く小さいため含油層が薄く、さらにその層が寸断されているためと考えられています。 』
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 相良には、大知ヶ谷から女神山、男神山へと続く背斜構造の地層と砂岩と泥岩がいくつも積み重なった海底堆積層である相良層がある。石油はその砂岩層に含まれているという。

 女神山と男神山があることから、この地方には古くは一対の男女神が祀られていたのかもしれない。



相良油田の歴史をみてみよう。

・1872年(明治5)2月 村上正局が海老江の沢合で原油の露頭を発見
・1872年(明治5)3月 静岡県庁の外国人教師(静岡学問所)で宣教師のエドワード・ワーレン・クラーク(1849〜1907)が石油と判定
・1872年(明治5)7月 石坂周造が相良油田に進出、東京石油会社の相良支社を設置

 油田の発見から、石坂周造が相良油田に進出するまでの期間が短い。この石坂周造については、後で記す。

・1873年(明治6)2月 石坂周造は菅ヶ谷新田、時ヶ谷、大知ヶ谷の3ヵ所に鉱区を取得し、手堀り掘削を開始する。
・1873年(明治6) 山岡宋之助(石坂周造の長男で山岡家の養子)が石油採掘と製油技術の習得のため米国へ6年間留学。
・1873年(明治6) 石坂周造、米国より購入した綱堀り機を時ヶ谷(庄八屋敷)に設置し、約540リットルの採油に成功する。

・1875年(明治8) 相良油田の経営が元薩摩藩島津候の手に渡たり、海江田信義(元薩摩藩士)の手中となり、孤松館を開設して1879年(明治12)まで事業を継続する。

・1878年(明治11)9月 大隈重信(大蔵卿)が相良油田・相良石油製造所を視察・激励
・1879年(明治12)4月 石坂周造が相良に居住(天香閣)
・1879年(明治12) 勝海舟、山岡鉄舟らが相良油田を視察
・1879年(明治12)9月 坑山神社建立
・1881年(明治14) 山岡鉄舟、高橋泥舟らが相良油田を視察、その後、度々相良を訪れている。
・1881年(明治14)12月 石坂周造、「相良油田会社」を設立
明治17年頃 最盛期 手堀り石油坑数240坑、油出量年産721.6キロリットル(約4000石、ドラム缶約3600本) 産出額 40000円(当時)従事者 約600人

 相良油田が元薩摩藩島津候の手を離れた1879年(明治12)以降、石坂周造の動きが活発となり、そこに旧幕臣の勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟らが深く関わる。石坂周造の長男が山岡家の養子になっていることも伏線にある。

・1897年(明治30)1月 石坂周造、相良から東京へ移転する。
・1903年(明治36)7月 石坂周造、東京で死去(享年72歳)
 宝泉寺境内に石坂周造、山岡宗之助、村上正局の記念碑を建立(後に菅ヶ谷に移設)

・1904年(明治37)1月 「日本石油株式会社」が綱堀り機による採掘に進出
・1908年(明治41)第2次ピーク 年産683キロリットル
・1925年(大正14)機械堀井戸 6坑(平均深度330m、最深は1032m)、手堀井戸 34坑、産油量が減少し廃坑が続出する。
・1938年(昭和13) 日本石油株式会社撤退
・1950年(昭和25) 小型ロータリー機による機械掘削 深さ310m(静岡県指定文化財として現存)
・1955年(昭和30) 完全廃坑


 この相良油田の歴史で重要なのは、発見されて間もなくに石坂周造が進出し、翌年の1873年(明治6)、あるいは1874年(明治7)には日本石油(現:JXエネルギー)の前身である長野石油会社によって日本で最初の機械掘りが行われていることだ。

 石坂周造(1832〜1902)は、信濃国(長野県)の出身で、日本の石油発掘の先駆者であり、後に日本の石油王と呼ばれるようになる。
 1871年(明治4)、水内郡桑名川村(現 飯山市)の石坂周造(山岡鉄舟の義弟)は、日本初の石油会社とされる長野石炭油会社(後、長野石油会社に改称)を東京府神田(現 東京都千代田区)に設立し、この地で石油の商業生産を開始した。

 日本で最初の石油会社である「長野石炭油会社」は、浅川油田をもとにして1871(明治4)年8月に設立された。
 浅川油田は、長野県長野市浅川にある油田で、日本で最初に商業生産が行われた油田とされる。
 日本初となる石油精製所は妻科村石堂町(現 長野市北石堂町)の刈萱山西光寺境内に置かれ、伺去真光寺村(現 長野市真光寺)の油井から荷車や馬で原油を運んだ。


 私は、2011年の刈萱堂(西光寺)のブログの最後に、次のように書いた。
『 明治初期には、浅川で採れた石油の精製会社として本堂が使われた。会社を設立したのは石坂周三だ。石坂は新撰組の残党で生家は飯山市桑名川に残る。政商として暗躍した石坂の事業に、盟友の勝海舟も出資していた。墓地には当時の従業員の墓もある。新撰組は多くの浪士を殺して長州から憎まれていた。榎本武揚と一緒に五稜郭で戦った土方歳三は新撰組副長として有名すぎたので死に場所を求めたのだろう。因みに榎本武揚は生き残り新政府の要職に就いている。 』

 浅川油田の石油採掘は少なくとも江戸時代中期まで遡り、1753年(宝暦3年)に国学者の瀬下敬忠が著した『千曲之真砂』が文献への初出である。
 真光寺村(現 長野市真光寺)や檀田村(現 長野市檀田)に油井があり、粘性が高く質も悪いため「ゴタ油」と呼ばれていたが、近隣では唯一の油田であった。1847年(弘化4年)の善光寺地震では天然ガスが噴出し、一帯は「新地獄」と呼ばれた。


 長野石炭油会社は設立の翌年(1871年)に、長野石油会社と改称し新設備を導入するも生産量は思うように増えず、1879年(明治12年)には精油所が焼失するなどし、1881年(明治14年)に長野石油会社は倒産する。
 しかし、石坂周造は既に新潟県や相良油田(静岡県)に進出していたので、その後も石油発掘に携わり、後に石油王と呼ばれるようになった。


 長野市街地から飯綱高原・戸隠高原へのアクセスには善光寺北交差点からの戸隠バードライン(有料道路)が利用されていたが、1985年(昭和60年)に起きた地附山地すべり災害により、戸隠バードラインのうち雲上殿・大峰山付近間が崩壊・流出し、廃道となってしまった。
 地滑り被害の跡には、「防災メモリアル地附山公園」ができている。そのそばに善光寺の奥の院と呼ばれる駒形嶽駒弓神社がある。

 戸隠バードラインが不通になり、この区間については長野市道大座法師池西高線が迂回路として利用されていたが、この道路は「七曲り」と呼ばれる急峻でヘアピンカーブが続く険しい道であり、大型車(路線バス除く)の通行ができなかった。
 1998年(平成10年)の長野冬季オリンピックで飯綱高原スキー場がモーグルの会場になると新たなアクセスが求められた。そこで建設されたのが、浅川ループラインであった。
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 その浅川ループライン真光寺ループ橋(長野市真光寺)の下に浅川油田の石油井戸のみが残されている。
 浅川油田は、細々と利用されてきたが、1973年(昭和48年)に採掘を終え、200余年の歴史に幕を下ろした。長野県内には他にも飯山市富倉などに油田があったが、油井が残るのはここが唯一である。


 相良油田跡の資料館にあった相良町に「来町した人々」の中に、大隈重信、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟らがいる。
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 大蔵卿であった大隈重信はともかく、旧幕臣の勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟は石坂周造(山岡鉄舟の義弟)と深く関わる。油田の利権に群がった人たちであろう。

 そういえば、山岡鉄舟、高橋泥舟は、石坂周造の故郷である飯山市の正受庵を訪れ、正受庵の復興に尽力している。


 石坂周造の名を知らない人は多いだろうが、歴史の中で勝海舟や山岡鉄舟の名を知る人は多い。石坂周造を隠れ蓑に、旧幕臣の勝海舟や山岡鉄舟は利権を求めて暗躍した可能性は高い。
 2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』で有名になった天璋院篤姫は、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった。
 天璋院と旧幕臣・勝海舟は親密であったことが知られる。勝海舟の妹の順子が佐久間象山の妻であることも気になる。
 明治維新後、天璋院は生活に窮した状況に陥っても薩摩藩からの金銭援助を断り、あくまでも徳川の人間として生きたと言われる。
 しかし、1875年(明治8)相良油田の経営が元薩摩藩島津候の手に渡たり、4年後の1879年(明治12)に地元の出資者や早くから進出した石坂周造の手に戻った蔭には、天璋院や勝海舟(旧幕臣)らと旧薩摩藩との何らかの交渉があったことが考えられる。
 静岡の前身である駿府は、1868年7月に徳川家が移封された場所である。
 初代静岡県知事である関口隆吉(旧幕臣)は、池宮神社の宮司である佐倉家の家系の人であり、徳川慶喜の警護役だった人である。
 ここ静岡県は多くの幕臣が移り住み、徳川宗家の地盤であった。当然、徳川家は地元の利権を我がものとしようと考え、表面的には石油発掘に携わる実業家・石坂周造を押し立て、蔭では旧幕臣が暗躍したのであろう。


 この地方と信濃国(長野県)は、古くは「塩の道」で繋がっていることは、駒形神社白羽神社のところで述べた。

 また、「水の道」である“天竜川”でも信濃国に繋がっていることを、池宮神社(1)〜(3)で述べた。

 そして相良油田の人脈でも、この地方と信濃国は繋がっていた。

 人の欲は深い。相良油田や浜岡原子力発電所の利権に多くの人が群がった。おそらく人の欲は、皇円阿闍梨が五十六億七千万年の時を待つ桜ヶ池の底よりもはるかに深いのであろう。
 私も含め、俗世界の人間は救いがたい存在なのであろう。

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