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zoom RSS 旅 638 大井神社 (島田市) (2)

<<   作成日時 : 2017/02/19 15:02   >>

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2016年 5月16日
大井神社 (島田市) (2)

 表参道には低い石垣があった。
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現地説明板より
『 土手(堤)石垣
 江戸時代大井川の川越稼業の人達が、毎日の業を終えて帰る際に、河原から石一つ選び持ち帰り、それを蓄積してこの土手(堤)石垣を築いたものである。 』

 「 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川 」と馬子唄にも歌われたように、大井川は東海道最大の難所で、川越稼業の人足が大勢いた。川越人足たちは、その日安全に仕事を終えられたことに感謝して、水神様に石を一つ奉納したのであろう。大井神社は、川越人足たちの氏神でもあったようだ。


 「帯塚」があった。「筆塚」はよく見るが、帯塚は珍しい。さすがに「島田の帯祭」で有名な神社だけのことはある。
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現地説明板より
『 安産祈願「帯塚」
 使用した帯に感謝し供養してこの帯塚に納めた大井神社の特殊信仰の故事により一家の平安と安産を祈る塚である。 』

 江戸時代に島田宿に嫁いできた新妻たちの間で安産を祈願するため帯を大井神社に奉納する風習が生まれ、この帯を神輿行列に従う山伏行者に待たせて町内に披露したことから島田の帯祭が誕生したという。
 帯の披露は、初めは新婦が嫁入りの丸帯を持って町中全戸に挨拶回りをすることから始まったようだ。町が発展し広域に拡大すると、町中全戸に挨拶回りをすることが困難になり、神輿行列の際、帯を披露するようになったようだ。
 何れにしても大井神社の祭神が女神であったからの信仰である。

 私の家は旧家ではあるが、祖父の代に散財し豊ではない。しかし、家格だけはそれなりであり、父はよい縁談に恵まれた。母の実家は山の方にあったため、農地解放で山林は対象にならなかったようで、多くの山林を所有していた。母は三姉妹の長女で他に弟がいた。母方の祖父は、“宥子の山”“通子の山”“逢子の山”と三姉妹の名前を付けて、嫁入りの時にその山の木材を売り、嫁入り支度に使うことにした。長野でも昔は嫁入り支度を披露する習慣があったようで、母の嫁入り支度は豪華であったと聞く。


 石の太鼓橋があった。
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現地説明板より
『 石の太鼓橋と平橋
 この神橋は江戸時代正徳3年(1713)神輿の渡御の為に造営、両脇の平橋は安政3年(1857)川越連中が奉納した。 』


 大井神社が認めるように古代において大井川が祭祀対象であった。
 現在の祭神は弥都波能売神(水の神)、波邇夜須比売神(土の神)、天照大神(日の神)とされるが、いずれも後世に祭神とされたものだ。
 初見の『日本三代実録』巻11、貞観7年(865年)での 表記は「大井神」であり、その後の『駿河国内神名帳』では、志太郡に「大井天神」の神名で正五位下の神階を有する旨とともに記載されている。
 「大井神」「大井天神」と呼ばれていたことから見ても、大井川の神を祀っていたことは動かせない。


 大井神社では上流からの流着伝説が残されており、『駿河記』(1812年編纂)、『駿河志料』(1861年)によると、元は大井川上流の谷畠村の大沢(現・榛原郡川根本町)に祀られていたが、建治2年(1276年)の洪水で流されて島田に漂着し、以後は島田の下島(現在の御旅所の地)に祀られるようになったという。

 以下、大井神社の公式ホームページより、大井川や大井神社流着伝説などをみてみる。

『 大井川は暴れ川
 かつて旅人にとって東海道随一の難所として知られた大井川。暴れ川としても一級で、ひとたび氾濫するとその河口は扇のように広がり、東は現在の焼津市八楠付近から西は吉田町にいたる、およそ16キロにもおよぶ流れる海となって住人を苦しめたそうです。
 奈良時代には何本もの支流をつくって流れる大井川を、島田あたりから藤枝、焼津まで舟に乗って往来していたのだそうです。(島田市博物館資料による)
 大井川によって造られたこの志太平野には、今でも『島』とか『洲』が付いた地名が沢山残っています。
 大井神社は、肥沃な土壌と豊かな水を恵んでくれる一方で、恐ろしく強大な力を持つこの大井川の国魂精霊を祀り、五穀豊穣と生活の安泰を祈ったのがその始まりと考えられています。

大井神社ってひとつじゃないの?(大井神社は大井川の神様)
 大井神社が祀られるのは島田だけではありません。実は大井川流域、またはかつて流れのおよんだ地域を中心に、四十数社の大井神社が祀られています。
 昔は七十数社あったものが、ほかの神社と統合(合祀という)されて現在の数になったのだそうです。限られた地域に、川と同じ名前の神社がこれほど多く祀られるのは全国的にも非常に珍しいのだそうです。
 これらの大井神社の中に、村の中で一番川上、または川寄りに祀られている(または、祀られていた)祭祀形態を取るところが数社見られます。(伊太、神座、渡島、家山、徳山、田代、大沢−現在は山の中腹に遷座)
 島田の町並みが大井川近くに広がって、本社がさらに大井川近くにお遷しされたことは前述の通りですが、江戸時代までは大井神社はそういう祀り方をするのが一般的だったのかも知れません。
 当社をはじめ、東の焼津市中里に至る志太平野側にある大井神社には東向きに(大井川の方角を向いて拝む)お祀りされる例が多く見られます。  』
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 大井神社の分布を見てみると、島田市から焼津市の間に密集し、その他は大井川沿いに点点と続いている。

『 大井の神様は上流から大洪水に乗っておとずれる
 大井川上流、大井川鉄道SLの終点となる千頭の街のさらに上流に谷畠村字大沢という村があります。
 江戸時代文政5年(1822年)、島田住人の桑原藤泰氏が当時の駿河の国の村々の生活の様子や文化伝承を詳しく調査して歩き発刊された『駿河記』によると、島田の大井神社は、いつの世か大井川の氾濫によりこの大沢から流れついたものをお祀りしたのがはじまりといわれています。
 大沢の村人たちが村の復興を終えて川伝いに御神体を探して島田まで来ると、すでに島田の人たちに祀られていて返してもらえなかったのだそうです。
 それで仕方なく大井神社のご分霊を大沢に持ち帰って、二度と流されることのないよう今度は山の中腹にお祀りしたのだそうです。今でも大沢に行くと大井川の川辺に昔大井神社が祀られていた御社地跡とされる小高い丘を見ることができます。
 また、今でも島田大井神社のご例祭には大沢村大井神社から氏子総代さんが参列します。
 自分たちの村の氏神様が島田大井神社の元宮だという伝承は、さらに上流の閑蔵(かんぞう)村にもあり、また、上流から流されてきた神様を祀ったという話は島田市神座(かんざ)、川根町上河内(かみこうち)、中川根町田代にも伝わっています。 』

 『駿河記』を著した桑原藤泰は先賢碑にも代官の長谷川藤兵衛長勝・長春父子とともに名前が載る。彼により大沢村大井神社が島田大井神社の元宮であると決定されたようだ。

『 御神紋はマルにペケ?
 大井神社の拝殿屋根や灯籠には、マルにペケのしるしが付いています。
 これは大井神社の御神紋で、一説によると前述の島田に流れ付いた際に御神体が2体あって、それがバッテンの形で河原にひっかかっていたのだそうです。
 これを発見してお祀りしたのが本通り5丁目の嘉十薬局のご先祖様で、今でもその伝承にちなんでお神輿のお渡りの際には嘉十薬局さんの前でお神輿を止めてお祀りをするのだそうです。
 この御神紋は正式には『丸千木(まるちぎ)』と呼ばれ、伊勢神宮のお社の屋根に象徴される千木を型取ったものです。 』

 “御神体が2体”あったということは重要だと考える。恐らく男女2体の神像だったのではないか。後に“双龍”とも表現されたのかもしれない。

『 元祖大井神社?
 大井川の名前が初めて書物の中に登場するのは『日本書紀上』仁徳天皇62年の夏5月のことだそうです。(5世紀頃ではないかといわれています)
 大井神社の記録は、延喜式の少し後に作られた『三代実録』巻11に『貞観7年(865年)12月21日 駿河国正6位上大井神従5位下』と記されているのが最古とされています。
 この貞観7年駿河国大井神社をめぐって、大井川流域の村々で長い間『元祖大井神社』の論争が続いていたそうです。一応「駿河記」の編纂によって大沢村の大井神社で落着したそうですが、今から1100年前の大井神社って、どこの大井神社だったんでしょう?ロマンです…。
 『島田』の地名が歴史上初めて登場するのは1192年、鎌倉幕府を開くにあたって東海道沿線に速馬の駅(中継所)を定めた時、初めて『島田駅』として記されたそうです。 』

 ホームページには、奈良時代の郡域(志太郡・益頭郡)と古道推定図が載せられていた。
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 大井川の河口付近は現在の島田市から焼津市にかけて島がいくつもあり、その内で比較的内陸にある島が「島田」と呼ばれていたことが分かる。

 焼津は神話の日本武尊の伝説から名付けられた地名である。日本武尊が東征の途中で地元の賊衆に襲われた時、草薙剣で葦を薙ぎ倒し、そこで賊衆を迎えうち、火を放って難を逃れた。その様相が烈火のように見えた、あるいはその火で葦が焼け燃え盛ったという伝承から、「焼津」と命名されたとされる。
 しかし、奈良時代の地形が上図のようであったとすれば、それより前の日本武尊の時代の焼津で「草薙剣で葦を薙ぎ倒し……」ということが実際にできたかは甚だ疑問である。神話のことを実際の地形で想像しても詮のないことかもしれないが、伊勢神宮、熱田神宮はこの伝説を拠り所にしている。特に熱田神宮は草薙剣を御神体としている。

『 大井神社白蛇伝説
 昔から大井神社にはへびの御神体がお祀りされているといううわさがまことしやかにささやかれてきました。それにはこんな伝説が影響しているのかもしれません。
 昔、大雨で大井川が氾濫して、島田の町が大洪水に見舞われました。
 水かさは益す一方で町も最早(もはや)これまでと諦めかけたとき、赤い目をした白い大蛇が現れて大雨の中を静かに町の下の方へ進んでいきました。
 大蛇は高島(たかじま)の堤防まで行き、ひと暴れして大きな尾で堤をこわしました。
 溢れていた水は見る間にひいて、町は洪水からのがれることができました。
 水がひいたのを確かめると、大蛇は白い着物姿の美しい女性になり、町の裏通り(新田町)を通って大井神社に戻っていきました。
 このとき『なんといい女だろう』などと邪(よこしま)な目でこの女性を眺めた男たちは、熱を出して寝込んだそうな。
 また、良く見るとこの白い大蛇の目は片方が小さかったそうで、島田の氏子は必ず片方の目が小さいのだそうな。
 今でも大井神社のご本殿には6尺(約180cm)ほどの蛇が住んでおり、見かけたものが手を合わせて『どうぞお帰りください』と唱えると、ご本殿に帰っていくといいます。
 −昭和50年ころまで新田町で語り継がれていた伝説です−(新田町古老より聞く) 』
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 以上、大井神社公式ホームページより。

 このような情報を発信してくれるホームページは非常に有益である。
 「白い大蛇の赤い目は片方が小さかった」というのは、竜神と冶金氏族の関係を表すものであろう。
 大井川の最上流の秘境には金山トンネルに名前が残るように鉱山があった。最上流の井川は南アルプス登山口で、昭和32年には井川ダムが完成したが、ここにはかつていくつもの金山があり、特に笹山金山は産額が大きく、慶長の大判・小判の鋳造にあてたと言われる。
 古代から冶金氏族が進出していたことは十分考えられる。
 境内摂社の春日神社に春日四神と共に金山彦命が祀られているが、“島田の氏子は必ず片方の目が小さい”も含め、大井神社はただ水神を祀るだけでなく、冶金氏族の信仰も上流から流れてきているように感じる。
 
 大井神社のお守りに白蛇守り(蛇型)がある。
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 当社の神様の化身である白蛇をかたどったお守りで、白蛇は幸福を招くと云われている。


 この大井川の白蛇伝説は、桜ヶ池(御前崎市佐倉)の竜神伝説とも繋がるようにも感じる。もっとも桜ヶ池の竜神は天竜川と関わるようだ。
( 関連記事 桜ヶ池 『 旅633 池宮神社(1)』 )
 また、白羽神社(御前崎市白羽)の御神体を、武田信玄がこの地に出兵乱入の際、榛原郡川根本町白羽山に疎開させたという。この白羽山は大井川の上流にある。白羽神社は元宮を駒形神社(御前崎市御前崎)としていて、大井川に祀られていた神は何らかの関係で駒形神とも繋がっていた可能性もでてきた。



 島田と言えば連想するのが、島田髷(しまだまげ)である。これは東海道島田宿の遊女の島田髷を発祥とするそうだ。
 島田髷は、日本髪において最も一般的な女髷で、特に未婚女性や花柳界の女性が多く結ったという。
 その内でも高島田(たかしまだ)は、根元を高く仕立てた島田髷の一つとして有名で、現在でも最も根が高い文金高島田が花嫁に結われる。
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 花嫁が文金高島田の上に被っている帽子の様なものは「角隠し」である。父母の結婚写真にも、母の文金高島田&角隠しの姿があった。

 角隠しは江戸時代後期から明治初期にかけて広まった風習であり、その由来については様々な説がある。現在では俗説として次の2つが言われることが多い。
 女性が嫁入りするにあたって、怒りを象徴する角を隠すことで、従順でしとやかな妻となることを示す。
 かつて女は嫉妬に狂うと鬼になると言われていたため、鬼になることを防ぐための一種のまじない。

 女性が嫉妬に狂って鬼になったのが、般若だとされる。
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 女性には二面性があるようだ。女性だけでなく男性にも“表の顔”と“裏の顔”があるのが世の常である。
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 馬には角がないが、牛には角がある。牛頭天王は明治以降スサノオとされることが一般的だが、かつては“女の天神さま”だった可能性はないのだろうか。
 境内社の大井天満宮の前にも牛の銅像があった。天満宮では「牛」が神使とされた。
 それは菅原道真と牛との浅からぬ縁があったからである。
 「道真の誕生日や死去日が丑の日だった」とか「道真が大宰府に落ちてゆく途中で命を狙われた時、白牛に助けられた」とか「車を牛に引かせて、牛の行くままに任せ、牛の止まった所に葬ってくれというのが道真の遺言だった」とか云われる。
 しかし、それらは後世の付会で、牛と天神の関係はもっと古くからあったように思う。
 もしかして「牛に引かれて善光寺参り」の牛も、天神との関係があるのかも知れない。「牛に引かれて善光寺参り」とは、強欲な老婆が牛の角に引っかかった白い布を追って善光寺まで行って参拝するという話だ。最近、善光寺と瀬織津姫が関係があるという情報を得てから気になっていることの一つだ。
( 関連記事 「牛に引かれて善光寺参り」 『旅262 布引観音(釈尊寺)』 )



 大井神社は常に大井川と島田宿と共にあった。
 慶長9年(1604)7月の大洪水で、島田の街と共に大井神社は現在の元島田の野田山へ遷された。
 元和元年(1615)になり、島田の町も元の町並みに戻り、大井神社は現在の御仮屋町のお旅所の地に遷った。
 その後、大井神社より上流(大井川寄り)に民家が広がり、自分たちの生活汚水が氏神様である大井神社の方へ流れるのは申し訳ないという氏子からの請願により、元禄2年(1689)現在の御社地に遷った。
 これに伴って、元禄8年(1695)から御輿のお渡行(わたり)が行われるようになり、御仮屋の元境内は「お旅所」と呼ばれるようになった。
 宝永5年(1708)には正一位の位階を賜り、正一位大井大明神と奉称され、さらに嘉永7年(1854)勅宣の御沙汰を拝し、称号を勅宣正一位大井神社と改めた。
 明治5年(1872年)に郷社、明治41年(1908)に県社に昇格、昭和41年に神社本庁より別表神社に加列されて現在に至っている。
 戦前に県社にまで昇格したが、全体的印象では庶民に支えられてきた神社という印象が強い。

 大井神社と言えば何と言っても「島田の帯祭」である。それは、「文金高島田&角隠し」同様、女性の結婚式の丸帯から始まったようだ。
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 大井神社は女神を祀るとされるが、安産の神でもあり、女性の守護神としての信仰が古くからあり、庶民に支えられてきたのであろう。式内社であるかないかは庶民信仰には関係がない。

 最後に大井神の公式ホームページの「島田の帯祭」のページにリンクを張っておく。
   「帯まつり」が始まった訳

   どんなお祭りなの?

 この後は、大井川に関わる川会所跡に行ってみる。

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