ハッシー27のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 旅 639 大井川 川会所

<<   作成日時 : 2017/02/24 10:10   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

2016年 5月16日
大井川 川会所

 大井神社を参拝した後、社名の元にもなった大井川へ来てみた。

 島田博物館の辺りから、上流方面と下流方面の写真を撮った。
画像

 上流方面に見える橋は、県道381号線の橋で「大井川橋」である。


画像

 下流方面に見える橋は、JR東海道本線の橋である。

 島田博物館には入らずに、近くの川会所(かわかいしょ)へ行ってみた。
画像

掲示より
『 川会所(かわかいしょ)
 川会所は日々の川越賃銭の決定や徴収など川越業務の管理運営を行ったところです。
 元禄9年(1696)、大井川を渡る取り決めを定めた川越制度が確立した後は、「川庄屋」や「年行事」などが交替で詰めました。
 旅人は川会所で川越しのための切符にあたる川札や台札を買い求めた後、立会人や陸取り(おかとり)の案内で大井川の渡し場である越場(こしば)へ向かいました。
 江戸時代の川会所は現在地よりも東、札場の向かい側にありましたが、明治以降数回の移転を経て、昭和45年(1970)に現在地に移りました。現存する川会所は、安政2年(1855)に地震で倒壊したため、翌年に再建された建物を復元したものです。
 川会所(現在)の規模 間口10.55m 奥行11.46m
 島田市教育委員会  』

 安政3年(1856)に建てられた現在の川会所の建物は、川越し制度廃止後は大井川通船の事務所や学校の校舎など様々に利用され、昭和3年(1928)国道大井川鉄橋の架設を記念して鉄橋端大井川公園に移され保存されてきた。
 昭和41年(1966)8月に島田宿大井川川越遺跡が国の指定を受けたのに伴い、昭和45年(1970)8月、現在地に移築され観光用に開放されている。


 庭に芭蕉の句碑があった。
画像

「 馬方は しらじ時雨の 大井川 」
 金谷まで自分を送ってきてくれた馬方も、冷たい時雨に濡れながら川を渡る人足の辛さは解るまいという気持ちを詠んだものだとされる。

 芭蕉は、京都で『猿蓑』の編纂を終え、元禄4年(1691)10月、大井川を渡り江戸に帰った。その時には後に川庄屋を勤めた塚本如舟の所に寄ったようだ。


 大井川緑地公園内にも芭蕉の句碑がある。
「 さみだれの 空吹きおとせ 大井川 」
 川留めのために長い間滞在しなければならなかった旅人のいらいらした気持ちを詠んだものだ。

元禄7年5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中大井川の増水で島田に足止めを食らったが、5月28日には伊賀上野に到着した。これが上方への芭蕉最後の旅になった。


 「一里塚 島田 金谷に 一つずつ」と川柳が示すように、大井川の川幅は4kmちかくもあり、大水のときを除いては、この広い河原のなかを幾すじにも分かれて川が流れていた。
 そこで旅人は古くから浅くて最も渡りやすい場所を選んで自分で渡る“自分越”を行っていたが、危険を伴うので川越人足の力を借りて川を渡る人々も多かった。
 しかし、川越を統制する機関がなかったので、人足のなかには、わざわざ深いところを渡ったりして高額な賃銭を旅人に要求する無法者もあった。そこでこれを取り締まるために1650年前後に島田の代官だった長谷川藤兵衛によって「川目代」が設けられた。
 更に天和2年(1682)には幕府が直接大井川徒渉を管理することとし、その任務を道中奉行に命じ、当時慣習となっていた問屋が川越賃銭を決定するということを制度化した。
 こうした段階を経て、元禄9年(1698)には川庄屋が新たに任命され、正徳元年(1711)には、川庄屋が執務する場所として川会所が設置されたようだ。

 長谷川藤兵衛一族は、長盛の代に徳川家康によって代官に抜擢されて以来、5代にわたり元禄年間にいたるまで代官職を継承した由緒ある家柄だ。初代の長谷川藤兵衛長盛から藤兵衛を名告る。
 2代長親、3代長勝、4代長春と続き、5代勝峯のときの元禄5年(1692)に、遠江国川井(袋井市)代官へ転任を命じられる。
 1604年の大洪水後に、10年もかけて島田宿の再建に尽力したのは長谷川藤兵衛一族である。長谷川藤兵衛一族の大井川の治水・灌漑工事により島田、島田宿の米の生産高は以前の20倍にも増えている。

 川越制度が確立したのは、元禄9年(1696)に川庄屋が新たに任命された時とされる。その管理のために川庄屋の役職と、業務の拠点となる川会所がおかれた。
 最初の川庄屋は、島田代官の野田三郎左衛門から任命された橋爪助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)の二人であったとされる。
 元禄4年(1691)10月に、芭蕉は塚本孫兵衛(如舟)邸に寄っている。その後、如舟は元禄9年(1696)に最初の川庄屋に任命される。

 注目されるのは、5代長谷川藤兵衛勝峯が遠江国川井(袋井市)代官へ転任を命じられた元禄5年(1692)以後の元禄9年(1696)に、次の代官である野田三郎左衛門により川越制度が確立していることだ。
 大井神社にあった「先賢碑」には、長谷川藤兵衛長勝・長春父子二代の偉業が刻まれている。
 大井川渡渉に関わる利権が、世襲代官長谷川藤兵衛の転任と関係があるように考えられる。


画像

掲示より
『 川庄屋と年行事
 元禄9年(1696)、代官 野田三郎左衛門によって、大井川渡渉制度は本格的な管理・統制が行われるようになりました。その中心的な役割を担ったのが、川庄屋と年行事です。
 川庄屋は島田宿伝馬人の中から選出され、島田宿の組頭を務める者が兼務していました。
 その主たる任務は川越賃銭の統制でしたが、日々変化する水深を勘定して賃銭を決定するなどきわめて多岐にわたっていたことから、当初の二人枠が次第に増員され、享和年間(1801〜1804)には、四人が任命されています。
 年行事は川越人足を勤めた者の中から、高齢となった長老があてられましたが、その数は9人〜11人、あるいはそれ以上と一定していません。
 川会所に交替で勤め、川越賃銭の取り立て、帳簿の記載、川越人足の区分・配置を行いました。
 また、川越賃銭を決めるための下検分を行い、川の留め明けについても決定的な意見を川庄屋に報告していたとされています。
 「大井川の川越し」(島田市史資料編等編纂委員会編)より  』
画像

 川札(切符)の値段は、毎朝待川越(まちかわごし)が水の深さと川幅を測って定め、川会所前の高札場に当日の川札の値段を掲げていた。
 大井川の普段の水位は2尺5寸(約76cm)で、4尺5寸(約136cm)を超えると川留めとなった。

 川の深さは、人の背丈で表現され「股通」(またどうし)、「帯下通」、「帯上通」、「乳通」(ちちどうし)、「脇通」などと表された。
 1文を30円で換算して、現在の金額にすると次のようになる。
股 通……水深が股まで  48文(1440円)
帯下通……水深が帯の下  52文(1560円)
帯上通……水深が帯の上  68文(2040円)
乳 通……水深が胸    78文(2340円)
脇 通……水深が脇以下  94文(2820円)

 享保年間(1716〜1736)の物価では、
白米   1升  40文
酒    1升  88文
大工手間 1日 120文  である。


 一番安いのが、川越人足の肩にまたがり越す「肩車(かたくま)」で、川札は一枚であるが、帯上通以上になると手張(補助者)がつくので川札が二枚必要となり、4000円ぐらいになる。また、荷物が多い場合は、荷物を運ぶために人足を一人充てなければならない。

 今だからこそ小中学校にプールがあり、泳げる子が多いのが当たり前だが、それはそれほど古いことではない。
 各小学校にプールが普及したのは、1955年(昭和30年)5月11日の宇高連絡船「紫雲丸」の事故が大きく影響している。この事故では、修学旅行中の広島県豊田郡木江町立南小学校(現・豊田郡大崎上島町立木江小学校)の児童などを中心に死者168名を出した。

 江戸時代では旅人で泳げる人は少なかったのではないか。大井川は渡船が禁止されていて、流れも急なので不慣れな旅人が渡るには危険であったため、両岸では川越しの手助けを生業とする人々が現れた。
 大井川の渡渉は、江戸時代初期においては比較的自由なものであったが、その後、大井川の渡渉制度が徐々に確立したようだ。


 女性などは「肩車」で川越えすることはできないので、連台を使った。連台を使うためには川札の他に台札が必要になる。
 何種類もの連台が展示してあった。
画像

画像

画像

掲示より
『 連台(れんだい)
 連台の名の由来は定説がありませんが、仏教の蓮華座との関連が考えられます。平連台は御神輿に似た形で、定員は2名まで乗ることができました。
 一般の旅人も利用できました。

連台の種類
大高欄連台……川会所や本陣などに預けた大名持ちの連台で、殿様が籠に乗ったまま乗る連台です。四方棒連台とも呼ばれています。
中高欄連台……大名(小藩主)などや朝廷の勅使、皇族・貴族出身僧侶、各宗派の位の高い僧侶を乗せる連台です。
半高欄連台……公家や大名の重臣など上級武士とその婦人を乗せる連台です
荷連台……主に荷物を運ぶ専用の連台です。  』


 掲示物が充実していて、川越制度のことがよく解った。

掲示より
『 川札
 川札は一般的には「油札」ともいい、人足仲間でも「油札」で通していたといいます。公文書にも「油札」と記したものが多くあります。
 川札一枚が、川越人足一人の賃金で、川越人足はこの川札を受け取ると、頭の髪の毛または鉢巻きに結びつけました。
 この川札は、美濃紙を十二行に裁ってつくられています。その上方に、川会所または年行事の黒印が押され、端には「川札」と墨書されていました。全体に油(柿渋)を塗り、その三分の二ほどはこより状に撚ってありました。柿渋を塗るのは、水に濡れても差支えないためであり、こより状にしてあるのは、鉢巻きや髪の毛に結ぶのに都合がよかったからでしょう。
 このような「川札」がいつごろから使われ始めたか不明ですが、元禄4年(1691)、ドイツ人で長崎オランダ商館付き医師ケンペルが江戸参府のため東海道を旅行した旅日記『江戸参府旅行日記』の中に、すでに「油紙」によって川越賃を扱っていることが記されていますので、「川越制度」が確立される元禄9年以前から利用されていたと思われます。 』

 元禄4年(1691)といえば、長谷川藤兵衛勝峯がまだ島田代官だった時で、この「油紙」も長谷川藤兵衛が導入したものであろう。

 川札は和紙が使われていて水などに弱いように思えるが、糊を使わずコウゾとトロロアオイで作られている和紙は水に濡れても強い。更に油(柿渋)を塗っているので丈夫である。墨書は乾けば滲まない。
 川越人足は、旅人から受け取った1日分の川札をまとめて、札場で精算をし賃金を受け取った。

掲示より
『 台札
 「台札」は、連台の損料であって、連台に乗って越すには必ず買わなければなりませんでした。価格は、川札の二倍に相当した。
 これは、中頭紙を横にして、幅七分ほどに裁ち、川札同様に、川会所または年行事の黒印を押し、その端に「台札」と墨書したものです。
 その起源は、川札同様に、元禄9年(1696)、川庄屋が任命されて「連台」が考案、設置されてから、その使用料、損料として「台札」が利用されるようになったものと思われます。 』

 庶民が使う平連台(並連台)1人乗りの場合、担ぎ手4人で川札4枚と台札(川札の2枚分)の計6枚が必要になる。「股通」で一番安い川札の場合でも、
 48文(1440円)×6=288文(8640円) となる。

 因みに連台のグレードにより台札の料金も担ぎ手の人数も変わる。
 半高欄連台の場合は川札8枚相当、中高欄連台の場合は川札36枚相当、大高欄連台の場合は川札52枚相当になる。


掲示より
『 川越しの時刻
 明け六ッ(午前六時頃)から暮六ッ(午後六時頃)までで、季節により多少のずれがありました。
 しかし公務急務用者に限り、特に川会所の許可を得て、時間外の越立(こしだて)が許されましたが、よほどのことでない限り、暮六ッ以後の川越しは許されませんでした。
 開始の時刻は、川会所の定めにより、時刻がくれば一斉に開始されました。
 旅人や川越人足たちは、向島の大善寺の「時の鐘」によって時刻を知りました。
 鐘撞料は、川会所から、川越賃銭の加刎(かはね)の内より支払われていました。 』

掲示より
『 越立(こしだて)の方法
 普通、大井川を渡渉するには、川越人足の肩車で越す場合と、連台で渡渉する場合とがありました。
 このほかに特別な「棒渡し」や「馬越し」があり、また荷物越しにも規定がありました。
肩車(かたくま)越し
 人足仲間では「カタクマ」といい、川越人足の肩に跨いで乗る方法で、越し賃がもっとも安く、大衆的な越し方であったため、多くはこの方法で越しました。
棒渡し
 無賃者を越させる方法。
 大井川は原則として一般人の無賃越しおよび自由越しは禁止されていました。しかし特に例外として、無賃自由越しを許す場合もありました。
 それは「報謝越し」ともいい、その対象となった人達は、相撲取り、巡礼、非人、無銭者や猿回し・越後獅子などの下級芸人などでした。
 この棒渡しというのは、細長い杉丸太へ四、五人くらいをすがりつかせ、その両端を二人の待川越が持って渡すもので、ときには連台の横側にとりついて越させてもらう場合もありました。このすがりついた手が離れ、水の勢いに押されて溺れてしまうケースが多くありました。
 このようなことから、川会所では、河流の両側に待川越数人を配置し、見張りをさせて人命救助に当たらせていました。無賃者といっても、このような越立の手当ては、川会所より支給されました。 』

 「馬越し」は、人や荷物を乗馬のままで、川越人足が付き添って渡る。士分以上の者に限って許された。

掲示より
『 連台越しの手順   
 明六ッ(午前六時頃)〜暮六ッ(午後六時頃)
 旅人は、前夜島田宿の旅籠に泊まり、早起きして早朝出立する。すでに川方では、川庄屋によって「何十何文川」であるか定められ、宿中に触れ歩いてあるので、旅人は出立前に、当日の「何文川」であるかを知ることができました。
 街道を西に向かい大井川に面した河原町に着くと、そこの川会所前には高札場があり、ここに当時の「何文川」であるということが掲げてありました。
 旅人は川会所に出向いて、自分の住所・名前・旅の目的などを告げ、川越しを依頼しました。そして「肩車越し」または「連台(平台)」で越したい旨を申しでました。
 つぎに「川札」、「台札」を求めます。
 「川札」(油札)は一人乗りの場合は四枚(川越人足四人担ぎ)、二人で乗る場合は六枚(川越人足六人担ぎ)が必要でした。
 他に連台の使用賃として「台札」一枚も必要でした。「台札」は川札の二枚分だったので、一人乗りの場合、川札六枚の川越賃を支払うことになりました。
 「川札」一枚の値段は、その日の川の深浅によって異なりました。
 このような手順も、初めて旅するものにはわかりにくかったので、「立会人」(案内人)と呼ばれる者たちがいて、毎日川会所に詰めていて、旅人たちに川越しの手引きをしました。
 川札を求めた旅人は、この立会人の案内で、当日出番の川越人足が詰めている「番宿」に案内しました。 』

掲示より
『 川留めと川明け
 大井川を川越しする料金は、その日の水深と川幅の広さによって決定されるので、当然毎日変化するが、ひとたび大雨にあって水深4尺5寸(約1.4m)以上に増水すれば大井川の川越しは禁止されます。これが「川留め」です。
 川留めは4〜6月頃に集中し、2、3日から1週間程ですが、慶応4年(1866)に連続し28日間にも及んだことがあり、これが最長記録となっています。
 そして、「川明け」になると、旅人たちは大井川の河原へ殺到し、またこの4〜6月という時期は、参勤交代とも重なり、混乱に拍車をかけました。このような日を「大通行」といい、この時期には、川越賃銭は、川会所で川札を求めない(取勝・とりかち)で、川越人足と旅人との一対一のやりとりで(相対越し・あいたいごし)越立てをしました。これは、大通行の時期だけ認めていました。 』

 “慶応4年(1866)に連続し28日間にも及んだことがあり、これが最長記録となっています。”とあるが、慶応4年は途中で明治元年になった年で、戊辰戦争などもあったので、28日間の川留めは増水のためばかりではなかったのかも知れない。



 慶長6年(1601)、徳川家康は、東海道に伝馬制度を設け街道の整備をした。東海道筋の領主だった外様大名は移封され、東海道筋は天領・親藩・譜代大名で固められ江戸の防衛に当てられた。
 この際、大井川に関しても、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた。
 このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた。

 渡し船の禁止は防衛のためであったかも知れないが、架橋は技術的に難しかったとも考えられる。
 大井川流域の平均年降水量は3,000mmと多雨地域に当たり、古くから水量の豊富な河川であり、加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成してきた。江戸時代の大井川は平均水深が76cmあり急流であったという。
 大井川は暴れ川として有名で、8世紀以降でも200回以上の洪水が発生し、氾濫を繰り返してきた川である。江戸時代の268年間でも130回を数えるという。
 特に1604年の大洪水では現在の島田市、藤枝市、焼津市の平地のほとんどが水に浸かり、島田宿の再建に10年かかったという。このとき尽力したのが代官の長谷川藤兵衛一族だったという。
 これほどの洪水を起こす川に橋を架ける技術が無かったとも考えられるし、一部橋を架けても大水の度に流されてしまうことは必至であったと考えられる。

 川越制度は代官の長谷川藤兵衛により整えられてきたが、本格的に幕府によって管理されるようになったのは、5代長谷川藤兵衛勝峯が遠江国川井(袋井市)代官へ転任を命じられた後の、元禄9年(1696)からとなる。
 元禄9年には川越賃銭を定め、両橋詰に1人ずつ2人の川庄屋を任命、役所を置いて幕府監視の川越制度を確立した。

 最初の川庄屋は、島田代官の野田三郎左衛門から任命された橋爪助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)の二人であったとされる。川庄屋は島田宿伝馬人の中から選出され、島田宿の組頭を務める者が兼務したという。橋爪助左衛門は金谷宿、塚本孫兵衛(如舟)は島田宿の組頭であったのだろうか。
 何れにしてもこの2人は古くから大井川渡渉に関わってきた在地の有力者であったことが想像される。
 東海道の交通量が増加してくると、川庄屋は4名に増やされた。川越人足の数は、川の両岸にそれぞれ350人と定められていたが、幕末には約650人に増えていたという。
 川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。金谷宿側にあった川会所は現存していない。


 大井川の渡し場(越場)は、大水などによる本流の移動や川の瀬替わりによって、時代によって多少の変更はあったが、一応(旧)東海道筋を基準として定められていた。
 渡し場(越場)は東海道筋渡口よりとして、川の上下26丁(約2800m)が道中奉行より指定され、この間以外の場所を渡河すれば「間道越し」、「廻し越し」などといわれ厳罰に処せられた。
 川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。越場以外から越える「間道越し」、「廻し越し」の監視も川会所の重要な仕事の一つであったようだ。つまり、川会所は最高の関所でもあったわけだ。

 初期の川越人足は、街道に出没する雲助のような一面があったが、川会所ができてからは、人足たちは裸で、腰に二重廻しと称するもの(浪に千鳥または雲に竜の模様)をしめ、お互いに川越取と呼びあい、天下の関取に一脈通じると自負していた。

 川越人足たちには、口取(45歳以上の者)、待川越(ベテランの川越人足)、本川越(一人前の川越人足)、水入(15歳以上の見習い)、弁当持ち(15歳未満の若者)などの階級区分があり、長年にわたる厳しい訓練を経て、高度な渡渉技術を身につけた熟練者の集団だった。
 川越人足になるには、12歳頃から見習いとして雑用を行い、15歳頃から「水入」となってさらに訓練を積み、年末に川会所に申し出る。
 一人前と認められると、正月に川庄屋が本人を川会所に呼び出し、川越人足になることが認められた。人の命に関わる仕事だけにプロ集団としてのプライドを持っていたようだ。
 大井川の川越人足は、藩府直参の下級官吏としての扱いを受け、安定した職業でもあった。

 今も昔も東海道は日本の大動脈である。交通量の増加と川越制度の規制により、半公務員の川越人足の職業が成立し、幕末には島田と金谷を合わせて1300人余りが生業としていた。この利権を守るためにも「間道越し」、「廻し越し」などの監視は厳しく、これを犯すと厳罰に処せられたのであろう。
 川越人足は10組に分けられ、各組が一つの番宿に詰めた。川越しは各組が輪番制であたったが、当番でない組の人足もそれぞれの番宿で待機していた。川会所は日々の交通量に見合う各組の出番を指示した。

 また、川留めは旅人にとって厄介なものであったが、島田や金谷の宿場町にとっては宿泊などで旅人が落とすお金は有り難いものだったと想像される。

 川越制度は明治維新まで続けられたが明治3年(1870)5月、民部省からの通達により架橋・渡船の禁が解かれて渡し場は廃止された。
 失業した川越人足たちは、川から台地に上がった。その鍛え上げられた足腰により金谷原を開墾し、苦労の末みごとな茶園をつくりあげた。


 大井川は自力で渡ったり、舟や縄を使ったりする等、川越人足以外の方法での渡しは禁止されていたが、唯一例外もあった。幕府御用材の伐採と運搬のため、紀伊国屋文左衛門の船だけは航行可能であった。
 また、大井川上流の井川に1つだけ橋が存在した。井川といえば大井川の最上流で、南アルプス登山口でもあり、昭和32年には井川ダムが完成した場所である。ここまで来れば、さすがに川幅は狭く橋を架けることは可能であろうが、迂回する道としてはあまりにも遠すぎる。

 静岡県は東西文化の廻廊として発展してきた。 大井川は駿河と遠江の国境でもある。人々のアクセントも大井川を境にして関西系と関東系に分かれるという。また、電力のサイクルも、富士川を境に50サイクルと60サイクルに分かれる。
 地質上では糸魚川―静岡構造線の活断層が日本を断ちきって、富士川の東側は火山活動によって生まれたフォッサマグナ地域となって植物の種類や生え方も違っているそうだ。江戸時代には東海道五十三次のうち22の宿場か静岡県内にあった。
 このように東西交流としての静岡県に注目することが多いが、南北についてはあまり注目されない。
 静岡県の東西の長さは約153kmあるが、南北も115kmあることを知る人は少ないそうだ。静岡県の範囲は大井川の流域をカバーするため、その源流において南アルプスの北岳付近まで食い込んでいる。

 静岡県が東西文化の接点として重要になるのは、西日本や東日本に文化が栄えてからである。それ以前の古代においては、天竜川、大井川、富士川などを通して、北の山岳文化と南の海洋文化との接点であった時代が考えられる。大井川の水神の信仰も上流から下流へ流れてきたものとも考えられる。大井川上流の井川に1つだけ橋が存在したことは、古代からの繋がりを考えるとき、それなりに意義があったことだったように想像する。


 宿場町には伝説がある。島田宿にも「朝顔の松 伝説」がある。
 川会所の建物から大井川に向かうと、川の土手の手前に、右に「島田博物館」、左に「朝顔の松公園」がある。 
 朝顔の松公園には、何代目か知らないが朝顔の松が生えていた。(現在の松は5代目らしい)
画像

現地説明板より
『 朝顔の松の由来
 昔、ここに1本も大きな松がありました。
 江戸時代、大井川には橋がかけられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に、足止めされました。
 ここには次のような物語があります。安芸国(広島県)の娘、深雪(みゆき)が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。
 その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。
 しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。
 ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流して歩いていると、ある座敷から声がかかります。
 この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎ旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえずに別れてしまいます。
 あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋(えびすや)徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。
 その時、はじめて目に映ったのが大きな1本の松でした。
 この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り1m56cm・高さ20m)でしたが惜しくも昭和10年代に枯れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂(平成16年3月再建)が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。
 書かれている題辞は「風松久髣蕣歌曲枯髄猶留瞽女魂」(フウショウヒサシクホウスシュンカノキョクコズイナオトドムゴゼノタマシイ)で、島田市名誉市民の清水真一氏によるものです。
 この意味は、「松風が朝顔のひく三味線の音に似ている、松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている」と解釈されます。
 この物語「朝顔日記」は、江戸後期(1811年)に作られたものですが、浄瑠璃として上演されて大評判となりました。「生写朝顔話」は、いまでも上演されています。    島田市  』



 江戸時代の大井川は平均水深が76cmあり急流であったというが、昭和30年代半ばから、「水返せ運動」が始まったという。
 大井川水系の水力発電事業は早くから始まった。戦後、1951年(昭和26年)連合国軍最高司令官総司令部GHQは過度経済力集中排除法の対象となっていた日発を分割・民営化させる電力事業再編令を施行し、田代ダム(東京電力)以外の大井川水系の発電施設は中部電力に全てが継承された。

 中部電力は日発の計画を引き続き推進し、井川地点と奥泉地点にダム式発電所の建設を計画した。1957年(昭和32年)には、日本初となる中空重力式コンクリートダムである井川ダムが完成した。その後も多くのダムが建設された。
 これらのダムや小堰堤より発電用の水が一斉に取水される。さらに下流では大井川用水に利用するため川口発電所で放水された水が再度取水されて各所に供給される。こうした多数の箇所からの取水によってかつて豊富な水量を誇った大井川の水は山中を通る送水管に大部分の水が流れ、大井川に直接放流される水は極端に少なくなった。このため次第に弊害が現れた。
 問題が表面化したのは1961年(昭和36年)の塩郷ダム完成からである。塩郷ダムで大井川の流水がことごとく取水されることにより、ダムより下流の大井川は全く流水が途絶した。
 この付近は「鵜山の七曲り」と呼ばれた景勝地であり、水量が豊富な際は豪快な風景が楽しめたが塩郷ダム建設以後は全く水が流れなくなった。しかもダムより下流20km区間が全くの無水区間となって、漁業を始めとする河川生態系に深刻なダメージを与えた。
 川原からは風が吹くと砂が舞い上がって家の窓から吹き込み、人々はこれを「川原砂漠」と呼んだ。また、生態系の変化により茶の害虫が増加し、砂が上流から運ばれなくなったことによる海岸線の侵食などの被害が生じた。
 この惨状に流域住民は「大井川の清流を元に戻せ」と声高に訴えるようになった。大井川の「水返せ運動」の始まりである。

 1975年(昭和50年)大井川の発電用水利権が期限更新となった。この時河川管理者である静岡県は塩郷ダムを管理する中部電力、田代ダムを管理する東京電力に対し、大井川の無水区間を解消するために毎秒2トンの水利権を返還するように要求、交渉を行ったが、両電力会社は拒絶した。

 1986年(昭和61年)の塩郷ダムの次回水利権更新が近づくに連れ、住民の「水返せ運動」は次第に熱を帯びていく。

 中部電力は管内住民との対立は企業イメージへの深刻な打撃を与えることを危惧し、1990年代には、一部水利権返還したが、東京電力は2000年代の半ばまで水利権返還に応じなかった。
 2006年より東京電力は田代ダムより試験放流を始め、大井川の無水区間は解消し流水は復活したが、「川原砂漠」が完全に解消されたわけではなく、かつての大井川復活にはまだ道半ばである。

 さすがに電力管内である中部電力と管外である東京電力では、対応の早さが違った。中部電力は、昭和50年代から一部水利権返還はやむをえないと考えていた。
 浜岡原子力発電所が昭和51年(1976)から1号炉の営業運転を開始したことで、電力の安定供給の目途が立ったことも幸いしたのであろう。

 中部電力は三重県で進めていた原発建設が暗礁に乗り上げた1967年(昭和42年)1月には、静岡県の浜岡町町長や有力者に密かに接触し、1971年(昭和46年)3月には原発建設に着工している。
 1993年(平成5年)には、既に4号炉の運転を開始している。2005年(平成17年)には5号炉の運転を開始した。



 大井川鐵道は当初、ダムの建設資材を運ぶためにできたという。
 いつか蒸気機関車(SL)が走るという大井川鐵道沿線を上流まで旅して、大井川の歴史と自然を楽しんでみたい。


 島田から世襲代官の長谷川藤兵衛一族が転任させられた後、元禄9年(1696)より代官 野田三郎左衛門によって、大井川渡渉制度は本格的な管理・統制が行われるようになった。
 初代の川庄屋は橋爪助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)の二人であったとされる。いずれも大井川に関係した在地の有力者だったと思われる。
 特に橋爪助左衛門は、“橋爪”の名字から、古くから川に深く関わってきた人ではないかと思う。
 更に私は「橋爪助左衛門」は「橋詰助左衛門」でもあったのではないかと考えている。
 
 私は2016年の秋、2週間あまりの四国への旅に出た。偶然だが行きも帰りも名神高速道路の養老サービスエリアで給油した。
 この養老サービスエリアの場所は岐阜県養老郡養老町橋爪で、象鼻山南麓一帯を“橋爪”と云うが、橋爪は徳川時代の中期以前は“橋詰”と書かれていた。象鼻山南麓の古橋詰より栗原山にかけては伊勢街道が抜けていた。また、古代において秦の民が住んでいた場所だとも云われる。
 この地域で橋を架けるとすると揖斐川の支流の牧田川であろう。象鼻山の南5kmのところには「養老の滝」があり、北4kmのところには南宮大社がある。

 私は相模川の上流である桂川に架かる猿橋を観たとき、その建築技術に驚いたことがある。 猿橋は帰化人芝耆麿(しきまろ)が設計して架橋したという伝説を持つ。
 秦氏を含む渡来人は橋を建設する技術も持っていたのであろう。


 養老町の橋爪は古くは橋詰と書かれた。
 全国の橋爪姓はおよそ24,300人だという。それに対して橋詰姓はおよそ13,200人で少ない。出自は違うようだが、「橋」は国の内外を渡す要所を表すことから、橋爪と橋詰は一部では重なり、それは祖を渡来系とする氏族であるようだ。
 私が、「橋爪助左衛門」は「橋詰助左衛門」でもあったのではないかと考える根拠はここにある。あるいは橋詰(橋爪)氏は大井川の上流域を支配し、後に下流域へも進出した氏族の末裔ではないだろうか。

 こんな事を考えだしたのは、実は私の姓が橋詰だからである。実家は長野市篠ノ井塩崎越である。
 橋詰姓は密度として多いのは、長野県(およそ1,600人)、福井県(およそ780人)、高知県(およそ470人)である。
 このうち高知県については長宗我部氏との関係で、四国への旅をまとめるときに記したい。
 福井県では福井市、敦賀市、小浜市、越前市に多い。福井県についてはいつか調べてみたい。
 長野県は県内全域に分布しているが、密度が濃いのは、上田市、長野市、佐久市、北佐久郡立科町、小県郡青木村、小県郡長和町、埴科郡坂城町である。これらの地域は千曲川の流域にあり、御牧があり、渡来人が馬を飼育していた土地でもある。

 私は埴科郡坂城町の坂城神社を訪れたとき、地元の人に村上義清の家老格の家来に橋詰氏がいることを聞いて、その末裔かも知れないと思ったことがある。この村上氏も瀬戸内海の村上海賊につながる。 
 また、木曽には橋詰という地名があり、木曽地方にも橋詰姓がいることから、木曾義仲(源義仲)と共に佐久地方に出て来た橋詰氏の末裔かもしれないと思ったこともある。

 もう一つ注目しているのは、信濃国水内郡橋詰村が橋詰氏の起源(ルーツ)であるという説である。また、ほかには橋詰姓は磯部臣(熱田社家)などにもみられるという。

 橋詰は、篠ノ井から戸隠へ上る道の途中にあり犀川を渡った所にある。この道は更に戸隠から野尻湖に出て、そこから更に北上して日本海側の直江津へ出る道であり、古代において重要なルートであった。日本武尊の遠征に参加した北陸の部隊が、信濃国で本隊と分かれて北陸(福井県も入る)へ帰える時に通った道であるという伝説がある。
 橋詰に関わる橋を架けるとすれば犀川である。

上水内郡橋詰村は信濃松代藩の領地であった。周りを松代藩領に囲まれている中、私の実家のある更級郡塩崎村は松平欽次郎知行地であった。ある意味で天領的であったと考えてよい。
 橋詰家は「しょやのうち」と呼ばれた。屋号が「しょや」であったからだ。正式には「庄屋」であり、「庄屋の家」が訛って「しょやのうち」となったのである。
 それを聞いたとき私は違和感を感じた。一般的には庄屋は主に西日本での呼称で、東日本では名主である。(東北・北陸地方では肝煎と呼んだ。)
 庄屋ではなく名主でなければおかしいのではないかと、ずっと思っていた。
 しかし、大井川の川会所に来て、そのことが少し解けたような気がする。

 実家は長野市篠ノ井塩崎越にあるが、よく長谷・越と呼ばれる。隣が長谷寺や長谷神社がある長谷であるから、一緒にして長谷・越と呼ばれるのである。地域としては越の方が広いが、越の住人は長谷神社の氏子である。また篠ノ井の地名は、帰化した渡来人が名乗った篠ノ井氏の元でもある。
 なぜ越という地名なのか解らず、「越の国」とでも関係があるのかと勝手に思っていたが、これは千曲川を“越す”ことから付けられた地名ではないかと思うようになった。
 そして、私の実家の屋号は正式には「川庄屋」だったのではないかと考えるようになった。

 私の祖先は千曲川に架かる橋に詰めた小役人だった可能性がでてきた。千曲川の河原には木製の橋があったが、大水の度に流されたという。また、流されるように造ってあったとも聞く。流されないでゴミなどが引っかかり堰のようになれば、そこから溢れ出し洪水になるからである。
 在地の有力者として川越や橋に関わる職務に任ぜられていたため橋詰の姓を賜っていたと考えられる。庄屋や名主よりも少し格が高い名字帯刀を許されていたとも聞く。そして更に遡れば渡来人の末裔であった可能性も出て来た。
 大井川ほど大規模ではないが、千曲川にも渡し場(越場)があったのであろう。

 橋詰家のルーツは私の個人的な想像に過ぎないが、大井川の川会所を訪れて、想像がたくましくなったことは確かである。
 天皇家や天下の名家でなくとも、今存在している我々庶民も古代からこの日本で途切れることなくDNAを繋いできたことには違いはない。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
旅 639 大井川 川会所 ハッシー27のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる