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zoom RSS 旅 640 静岡浅間神社(1)

<<   作成日時 : 2017/03/03 10:34   >>

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2016年 5月16日
静岡浅間神社(1)

 島田市の大井神社を参拝し、大井川の川会所を見学してから、今日の最後の訪問地である静岡浅間神社に来た。大井神社が大井川との関係が深かったように、この静岡浅間神社は安倍川との関係があるのだろうか。

 静岡浅間神社は、静岡県静岡市葵区にある神社。通称「せんげんさん」と呼ばれる。
 神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社からなり、「静岡浅間神社」は総称で、三社はいずれも独立の神社として祭祀が行われている。
 神部神社と大歳御祖神社は式内社とされ、さらに神部神社は駿河国総社とされる。
 神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社合わせて旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社である。

 社務所で「参拝の栞」を頂いた。先ず参拝の栞から「境内図」と「ご由緒」について載せる。
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『 ご由緒
 神部神社・浅間神社(以上二社同殿)及び大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と申し上げ、何れもご創立は千古の昔にさかのぼり、駿河国総社として広く信仰されている。
 三社とも鎌倉時代以降、歴代幕府の崇敬を受け、特に江戸時代には徳川氏のあつい崇敬を受けて、寛永・文化年間両度の大造営が行われた。ことに文化元年(1804年)から60年の歳月と、当時の金額で10万両の巨費を投じて建築されたのが、現在の社殿群である。
 境内は4万5千平方メートル。宏壮華麗な社殿群は、いずれも漆塗りの極彩色で、とくに楼閣造りの大拝殿は浅間造りの代表的なもので、高さ25mあり、殿内は132畳敷きの広さがある。
 昭和46年6月社殿24棟が、平成12年2月、宝蔵・神厩舎が国の重要文化財に指定された。まさに“東海の日光”と 呼ばれるにふさわしいたたずまいである。また、当社は海外雄飛で有名な山田長政公の産土神としても知られている。 』

 “当社は海外雄飛で有名な山田長政公の産土神としても知られている。”とあるが、山田長政については後で記す。

 参拝の栞には、神部神社・浅間神社・大歳御祖神社について次のように記されていた。

『 神部(かんべ)神社 (駿河国総社)
●主祭神  大己貴命(大国主命の別名)
●配祀神  瓊々杵命・栲幡千々姫命・東照宮
●御鎮座
 第十代崇神天皇の御宇(約2000年前)の鎮座と伝えられ、登呂遺跡の時代からの、この地方ではもっとも古い神社であり、延喜式内社である。
●御神徳
 境内の少彦名神社の祭神とともに、この国土の経営にあたられた。そのご神徳により、延命長寿・縁結び・除災招福の神として信仰される。

浅間(あさま)神社 (冨士新宮)
●主祭神  木之花咲耶姫命(天孫瓊々杵尊の御妃神)
●配祀神  瓊々杵命・栲幡千々姫命
●御鎮座
 平安時代の延喜元(901年)に醍醐天皇の勅願によって、現在の富士宮市に鎮座する「富士山本宮浅間大社」のご分霊を勧請し、「冨士新宮」としてお祀りされたと伝えられています。
●御神徳
 安産・子授け・婦徳円満の神として信仰される。

大歳御祖(おおとしみおや)神社(奈吾屋大明神)
●主祭神 大歳御祖命(倉稲魂神・大年神の母神、別名 神大市比売命)
●配祀神  雷神
●御鎮座
 総国風土記によれば第15代応神天皇4年(約1700年前)の鎮座と伝えられ、延喜式内社である。もとは社名を奈吾屋社とも称した。
●御神徳
 往古の安倍の市(静岡)の守護神であり、農・漁・工・商業等諸産業の繁栄守護の神として信仰される。 』

 神部神社の配祀神に東照宮があるから、徳川家康は神部神社に祀られているということだろうか?


 境内北側にある駐車場に車を駐めて参拝を始めた。
 東側から境内に入る参道には石鳥居があった。
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 石鳥居と総門(重文)の間には、麻機街道が走りそれなりの交通量がある。
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 総門の前にある社標には「神部神社 浅間神社」と併記されていて、東からの参道が神部神社・浅間神社の参道であることが分かる。

 総門を入ると、左に「御神水井戸」があり、右に「神厩舎」(重文)がある。
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現地説明板より
『 御神水井戸の由緒
 この井戸は、寛文10年(1670年)の境内絵図に既に記載があり、三代将軍家光公造営の折には現存していたことが明らかであります。
 大御所公は幼少人質の折当神社付近で遊んでおり、又、駿府在城の時には度々当社へ参拝しておりますので、この井戸にて御手水をされたことが窺い知れます。
 又、当時当神社の全ての諸祭儀他にも使用され更に大神様のご神霊の籠もった「御神水」として深く信仰されておりました。
 明治以降は空井戸として保存されておりましたが、今度平成の御大典記念事業として、崇敬者各位の要望と御奉賛により再興し、上屋を復元したのであります。
 この「御神水」は、大神様の疾病退散、延命長寿の御神徳を受けるものとして霊験殊の外あらたかであります。
 平成3年9月11日 駿河国総社 富士新宮 静岡浅間神社  』


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現地説明板より
『 神馬 (叶え馬) 伝 左甚五郎作
 しづやしづはたさんげん様のなんでも叶う白い馬
 この神馬(しんめ)に一心に祈れば、何でも願い事が叶うというとかろから、叶え馬といわれています。
 その昔、浅間神社が火事になった時、二頭の木の神馬が三保明神に逃げてしまいました。そして、火事がおさまると、一頭は浅間神社に戻ってきましたが、もう一頭はそのまま三保明神にとどまったと伝えられています。
 (浅間神社の七不思議の内のひとつであり、あの有名な「ちゃっきり節」の歌詞にも出ています。) 』 

 私は昨日、御穂神社を訪れたが、そこには三保に残った白馬があった。そこには、「今も浅間さんには黒いお馬さんの馬屋と空屋の馬屋がある。」と書いてあったが、この浅間神社の馬も白馬である。
 何れにしても、静岡浅間神社の社名からも分かるように富士山信仰の一端を担っている神社であることは確かである。


 正面には立派な楼門(重文)がある。
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 彫物は「水呑の龍」「虎の子渡し」などがある。
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 「水呑の龍」は浅間神社の七不思議の一つで、左甚五郎の作だとされる。左甚五郎の作には伝説がつきまとう。
 この「水呑の龍」は、安永の火災の時、池に下りて水を吐いて御殿にかけたと伝えられている。

 回廊の中へ入って楼門の写真を撮った。
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 この楼門は、文化12年(1815)起工、同13年竣工した。総漆塗で、彫物も立派だ。
 楼門が文化13年(1816)に竣工したのであれば、この門の「水呑の龍」もその頃の作であろう。従って、この水呑の龍が安永(1772〜1781)の火災の時、池に下りて水を吐いて御殿にかけたという伝説は成り立たない。
 左甚五郎作とされる「水呑の龍」は別にあったのだろうか。また、左甚五郎(1594〜1651)も実態があいまいな伝説的な人物でもある。

 楼門の二層部分に「當國總社 冨士新宮」の扁額が揚げられている。

 総社は神部神社であることから、神部神社と浅間神社の楼門と考えられるが、扁額を見る限り浅間神社(冨士新宮)がメインのように感じられる。
 神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社を総称して「静岡浅間神社」と云われているが、元もと三社はいずれも独立の神社として祭祀が行われ、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕してきた。
 明治21年、三社別々に国幣小社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社となり、現在は一つの法人格となっている。

 創建は、神部神社は第10代崇神天皇の御宇、大歳御祖神社は第15代応神天皇4年とされる。
 一番まともな創建時は、浅間神社(冨士新宮)で、平安時代の延喜元(901年)に醍醐天皇の勅願によって、現在の富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社(駿河国一宮)の分霊を勧請し、「冨士新宮」として祀られたと伝えられる。
 どうも、式内社の神部神社と大歳御祖神社は後からここへ遷座してきたようだ。


 楼門を入ると正面に舞殿があり、その奥に大拝殿が見える。
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 舞殿(重文)は文化14年(1817)起工、文政3年(1820)竣工。当社の社殿は漆塗極彩色が施された壮麗なものが多いが、この舞殿だけは唯一素木造りである。

 大拝殿はその名の通り、重層楼閣造の大拝殿で、本社である富士山本宮浅間大社(駿河国一宮)の浅間造(せんげんづくり)よりも立派に見える。
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現地説明板より
『 神部神社 浅間神社 大拝殿(重要文化財)
 徳川3代家光将軍時代 日光東照宮と共に大造営された社殿は、惜しくも火災にて焼失した。
 現社殿は、11代家斉将軍時代文化年間幕府直営にて巨額の費用と多年の星霜 最高の技術を駆使して造営されたもので、豪壮華麗の美極まり「東海の日光」と称されております。殊にこの神部神社浅間神社両社の大拝殿は他に類のない特殊な重層楼閣造りで、世に「浅間造(せんげんづくり)」と称され、当神社の象徴的建造物であります。
 高さ81尺(約25m)もあり、外観は彩色絢爛、殿内は132畳で、天井には狩野栄信(ながのぶ)寛信(ひろのぶ)の筆に成る墨絵龍と極彩色の天女図が画かれております。
 平成5年9月吉日  静岡浅間神社  』

 大拝殿の高さが25mあるとすれば、出雲大社本殿の高さ(約24m)より高く、木造神社建築としては日本一になるのかもしれない。
 現在の神部神社の祭神は大己貴命(大国主命)とされるので、構わないのであろう。あるいは大己貴命(大国主命)よりも神格の高い神が祀られているとの表明であろうか。大己貴が国譲りの国津神であることを考慮する必要がある。


 大拝殿から本殿を覗いて見たが、本殿に上がる石段が見えるだけで、本殿は見えない。
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 外から本殿の写真を撮ったが、木立に邪魔されて上手く撮れない。
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 参拝の栞にあった写真を載せる。
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 向かって右が神部神社、左が浅間神社である。浅間・神部の二棟を連結させた珍しい比翼三間社流造の本殿である。

 楼門、大拝殿、本殿ともに、浅間神社・神部神社は一体で分かちがたいように感じるが、拝殿でも本殿に上がる石段でも2つに分かれていることから、本来は別々の祭祀が行われていたのだろう。共通点としては配祀神に瓊々杵命・栲幡千々姫命が祀られていることだ。

 帰りに境内図を載せた掲示板に書いてあり気づいたのだが、本殿の特別参拝は社務所にて受け付けているという。ただ受付は10:00〜15:00で祭典などにより参拝できない場合がある。
 何れにしても、私が当社を訪れたのは午後3時40分頃だったので参観はできなかった。

 参拝の栞にあった浅間神社の七不思議の一つに「鳴きうずら」があった。
『 信州諏訪の名工立川和四郎(2代富昌)の彫った“粟穂にうずら”は優れた彫刻として知られており、あまりに生き生きとしていることから、そのうずらが鳴いたと伝えられる。 』

 この“粟穂にうずら”は、神部神社本殿の後方にあるそうだ。この彫刻以外でも社殿には多くの立川和四郎ほか門弟による花鳥霊獣類の彫刻があり、繊細を極めているという。

 私は今まで訪れたいくつかの神社で立川和四郎の彫刻を見てきて、立川和四郎には少し思い入れがあるので、“粟穂にうずら”の彫刻を見てみたくてネットで探した。すると数点見つかった。

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 私が初めて立川和四郎の彫刻などに出合ったのは、山梨県の下教来石にある諏訪神社であった。その後、東昌寺の鐘楼や津金寺妙見堂などでも立川一門の作品を観た。


 立川和四郎は“粟穂にうずら”のモチーフを多く彫っている。
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 私が“粟穂にうずら”を初めて見たのは、白山中居神社であった。その後、武水別神社でも“粟穂にうずら”を見て、武水別神社の「うずら餅」の由来が分かった。

 “粟穂にうずら”は、日本でも古くから書画工芸に広く見られる意匠であるという。が、“粟穂にうずら”は本来は単なる秋の景色の図ではないそうだ。
 粟は五穀に入るが、「粟」が実りの象徴である「穂」であることが重要で、「穂」の音「スイ」は中国語で同音の「歳」と重なり、また「鶉(うずら)」は正式には鵪鶉「anchun」でやはり同音の「平安」と重なり、つまり両方で「一年の平安」を意味するという。
 だから2匹の鶉が多くの粟穂と描かれていたら「年々平安」になるという意味に通じる。
 江戸時代には武士の間で鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長から寛永をピークに大正時代まで行われたそうだ。
 立川和四郎は流行にも敏感であり、「年々平安」を祈る神社の意匠としては最適で、特別なものであったようだ。

 ところでウズラの卵はよく見るが、野生の鶉そのものは見かけなくなった。現在は狩猟制限あるいは狩猟禁止になっているようだ。
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 大歳御祖神社を参拝する前に、主な境内社を見ておこうと考え、北回廊の外に出た。

 少彦名神社(重文)は改修中で参拝できなかった。シートに社殿の写真がプリントされ「少彦名神社 仮殿遙拝所」の立て札があって空しいばかりであるが、賽銭箱はしっかり置いてあった。
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 ネットから写真と、更に参拝の栞から写真と説明を載せる。
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『 少彦名神社
 境内北部に鎮座。漆塗極彩色。
 蟇股の十二支の彫刻が有名。
 例祭 1月8日
 少彦名命を主神とし、本社神部神社の元の末社14社の神々を相殿に祀る。
 当社はもと神宮司薬師社と称し、古くから医薬の神、技芸上達・知恵の神と仰がれている。 』

 栞には「神宮司薬師社」とあるが、正しくは「神宮寺薬師堂」ではないのだろうか? 神仏分離までは、薬師如来・十二神将を安置していたが、明治維新に際して臨済寺に遷され少彦名神社となったという。
 入母屋造銅瓦葺で、極彩色を施し、蟇股には立川流干支彫刻がつけられているが、なぜだか干支中「子」「丑」は内部にあり、普段は見ることが出来ないという。

 なぜ子(ねずみ)と 丑(うし)が、内部にあるのだろう。少彦名命は神部神社の祭神である大己貴命(大国主)との関係で祀られているのであろう。

 薬師如来・十二神将を安置していたが、明治維新に際して臨済寺に遷され少彦名神社となった。子(ねずみ)からは大国主が連想されるが、丑(うし)からはスサノオあるいは牛頭天王が想像される。薬師如来の垂迹はスサノオとされることが多い。


 神部神社・浅間神社本殿の北側の回廊外には玉鉾神社があった。本殿の参拝にはこの脇の石段を上って行くようだ。
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参拝の栞より
『 玉鉾神社
 本社の北側に鎮座。社殿は伊勢神宮の御古材にて昭和51年再建された。
例祭 3月29日
 祭神は羽倉東麿大人命・岡部真渕大人命・本居宣長大人命・平田篤胤大人命。(国学の四大人)
 明治9年県内の神官により官許を得て創祀され、受験・学問の神と仰がれている。 』

 岡部真渕とは、賀茂真淵のことだろうか。賀茂真淵は静岡県浜松市の出身で、父の名は岡部政信である。
 前の社殿は昭和49年の七夕豪雨で全壊し、伊勢神宮の式年遷宮の古材を賜り再建したという。


 境内の北側を見たので、北回廊から入り回廊内を横切って南回廊から出て八千戈神社へ向かった。
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現地説明板より
『 八千戈神社(重要文化財)
例祭日 10月15日
 本境内社は明治以前は徳川家康公が合戦で常に奉持した稔持仏の摩利支天を祀ったことから東照公ゆかりの摩利支天社と称された。
 維新後神仏分離に際し金印木造は臨済寺に遷され、以後八千戈命をご祭神とする。
 昭和5年5月29日、昭和天皇御親拝の折には、神部浅間両社御修理中で当社を仮殿としていたので、この大前で御親拝あらせられた。
 当社は東照公ゆかりの幕府崇敬の社で社殿の造営も本社に次いで行われた。
 特に名工の誉れ高い立川和四郎富昌の彫物が中国の24の親孝行物語を題材に社殿周囲欄間に飾られていることは著名である。
 現在では武神として信仰され、一般に勝負事の祈願所として広く信仰を集めている。
 平成5年9月  静岡浅間神社  』

 静岡浅間神社では、神仏分離後に祀った八千戈命を本社神部神社の大己貴命の荒御魂としている。しかし、私は八千戈命として相応しいのはスサノオのような気がする。大己貴命は戦いもせず天孫に国を譲った神である。

 境内北側にある少彦名神社が、本社神部神社の元の末社14社の神々を相殿に祀るのに対して、八千戈神社は、相殿に明治6年以降合祭された18社13柱の神々(浅間神社末社9社・大歳社末社3社・麓山神社末社3社・旧安倍郡城内鎮座稲荷神社・旧安倍郡明屋敷村鎮座国分天神、騎射御霊)を祀る。
 その中で共通しているのは浅間神社末社、大歳御祖神社末社、麓山神社末社として重複して祀られている荒神社の素盞嗚尊である。
 本社神部神社の末社は少彦名神社の相殿に祀られているのに、神部神社の主祭神である大己貴命の荒御魂として八千戈命を祀る八千戈神社には神部神社以外の末社などを祀っているのは不自然だ。
 神仏分離で摩利支天社の家康稔持仏の摩利支天を臨済寺(今川家菩提寺)に遷した後、武神として八千戈命を祀るとき、神職の多くはそれが大己貴命の荒御魂ではなくスサノオであることを認識していたのであろう。
 徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として静岡浅間神社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って静岡浅間神社を篤く崇敬したという。元服したのも静岡浅間神社である。
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 説明文に、「昭和5年5月29日、昭和天皇御親拝の折には、神部浅間両社御修理中で当社を仮殿としていたので、この大前で御親拝あらせられた。」とあるが、私は大歳御祖神社に嫌われてしまったのか、大歳御祖神社本殿が修理中で、大歳御祖命がこの八千矛神社に仮殿遷座中であった。
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 明治10年11月4日、明治天皇は静岡浅間神社に御参拝の儀を仰せ出だされたが、生憎の強雨につき岩倉内大臣を以って御代拝されたという。皇室と静岡浅間神社との相性はよくないようだが、それでも明治45年3月25日には皇太子殿下(大正天皇)が秩父宮・高松宮殿下とともに参拝しているという。


 八千戈神社神社の左手に上へ延びる石段があり、石段(「百段階段」)を上って、右手奥へ進むと、山宮である麓山神社(はやまじんじゃ)があるが、ここは最後に参拝することにして大歳御祖神社の方へ行ってみた。

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