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zoom RSS 旅 649 三春町の寺社など(1)

<<   作成日時 : 2017/03/30 08:31   >>

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2016年 6月6日
三春町の寺社など(1)

 田村氏関係の福聚寺田村大元神社を訪ねた後、三春町のいくつかの寺社を回ってみた。
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紫雲寺
 
 紫雲寺は福島県田村郡三春町字大町にある天正15年(1587)開山の浄土宗寺で、この地方における明治大正時代の自由民権運動のリーダーであった河野広中の遺髪塚(指定文化財)がある。

 参道近くに、『加波山事件 自由の塊』の碑があった。
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碑文より
『 顕彰
 明治15年 河野広中(磐州)らに代表される福島県における自由民権運動は時の県令三島通庸によって 福島・喜多方事件の大弾圧を受けた。
 加波山事件は これら人民の圧政に対し 三春の若き民権志士たちを始めとする福島 栃木 茨城 愛知などの同志たちが 死を決して三島および政府顕官の爆殺を企画した事による。
 明治17年秋 こと露見し官憲の探索を逃れた志士16名は茨城県加波山山頂に「自由の塊」の幟を翻し 「自由の公敵たる専制政府を転覆し而して完全なる自由立憲政体を造出せんとす」と革命挙兵の檄を飛ばして全国同志の蜂起を促した。警吏との激闘の末 いずれも捕縛されたが 獄窓に在ってなお民主国家造出の信念に燃えた。
 裁判の結果は 先の福島事件が国事犯とされたのに対して 強盗故殺の汚名のもと 死刑7名 無期徒刑7名など 極めて政治的な厳しい処断であった。
 この中で三春人は 琴田岩松(亀井・22歳)が刑場の露と消え 無期徒刑の河野広躰(大町・19歳)五十川元吉(南町・19歳)天野市太郎(御免町・17歳)らは北海の獄舎に繋がれ 山口守太郎(北町・18歳)は判決を待たずに獄死した。また同志として共に奔走した栗原足五郎(北町)大高末時(桜谷)安積三郎(大町)神山八弥(斎藤)らも官憲の苛酷な取り調べを受け下獄するなど献身その救援に尽くした。そして事件後家族共々苦難の26年を経た明治43年に至って 我が国旧帝国議会は 国家のため身を犠牲にしたことは維新の志士と同列 として「加波山事件殉難志士表彰に関する建議案」を全会一致で可決し 漸くその名誉が回復された。
 ここに115年前 わが三春の先人達が近代日本国家造出の礎として 身命を賭した壮図を顕彰しこれら若きらの国思う気概を後世に伝えるとともに 志士尊霊の安かれと祈るものである。
 平成11年4月25日
 三春町加波山事件志士遺徳顕彰碑建立委員会
 三春町自由民権運動顕彰会・三春町歴史民族資料館友の会・三春地方自由民権運動血縁の会
 賛助 / 福島自由民権大学
「自由の塊」は琴田岩松が幟に揮毫した志士の決意を表した文言 / 岩松甥・琴田稔書  』 

 三春は民権運動の町でもあった。
 今は三春小学校の校門になっている三春町指定重要文化財 藩講所表門の説明文には、
「……明治四年講所廃止後は、中学校や師範学校また民権運動家を育成した正道館などに転用された。……」 とあったが、この正道館の設立に尽力したのは河野広中や松本茂などである。碑文に名前が出ていた河野広躰は河野広中の甥である。
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 本堂に向かって左側に河野広中の遺髪塚があった。
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 塚には、「磐州河野先生□髪冢」とあった。遺髪塚なのだろうが、「遺」の字がよく分からなかった。

 河野広中(こうの ひろなか)は、嘉永2年(1849)三春町の郷士の家に生まれた。広中はずば抜けた指導力で東北地方の民権運動を指導し、福島事件(1882年)では国事犯として6年間の入獄を経験した。(禁獄7年だったが大赦で1年短くなった)
 三春での広中の同志には田母野秀顕、岡野知荘らがいる。福島事件では国事犯として入獄したのは広中の他には田母野秀顕・相澤寧堅・平島松尾・花香恭次郎・澤田清之輔の5人であった。田母野秀顕は下級藩士赤松家に生まれたが、常楽院の修験者・田母野浄因の養子となった。田母野秀顕は石川島監獄で獄死した。

 修験者・田母野浄因から連想するのは、郡山市田村町田母神という地名である。田村町にはここで田村麻呂が生まれたという伝承があり、古老はそれを信じている。そして郡山市田村町田母神は田村麻呂の母の出身地と伝えられる所だ。また田を守護する神から来た地名であるということから、田村麻呂の子孫が散らばってその神を祭ったことに由来するとも説明されている。
 ことさらに田母野浄因と田母神を結びつける必要はないが、彼が修験者だったことが気にかかる。
 長野県の飯山で戦後まで行者様と呼ばれ尊敬された修験者がいて、子どもを学校に通わせていなかったということを聞いたことがある。義務教育であるから何とか説得して兄と妹を学校に通わせることにしたが、兄妹共に非常に知的レベルが高かったと当時を知る教育関係者に聞いたことがある。結局妹は社会に適応できたが、兄は勉強ができたが故に上の学校に進んだが最後は自殺してしまったと聞いた。明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止され、里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられたという。この行者様の子どもたちの話は明治や大正の話ならまだ分かるが、昭和のしかも戦後の話だとはとても信じられなかった。
 田母野浄因や田母野秀顕がそういう行者様と子どもではなかったようだが、修験者なるものの不可解さは理解を超える。しかも奈良時代の役小角(役行者)から生業が何なのかも分からないが延延と続いてきたことも不思議である。修験者を山伏とも呼ぶように熊野権現、蔵王権現など山との関係が深いが、だからといって潜んでいて里人と交流しないわけではない。
 江戸時代までは修験道のような得体の知れない信仰が存続できる自由さがあった。しかし、明治政府は全ての人民を国民として戸籍で管理し、納税や徴兵の義務を負わせるシステムを目指した。そこには山の民として枠から外れて生きる自由など存在しなかった。田母野秀顕の求めた自由とは管理から逃れる自由だったのではないだろうか。

 河野広中の目指した自由は違っていた。彼は出獄後代議士当選14回、第11代衆議院議長を経て大隈内閣の農商務相となるなど立志伝中の人だが、金銭的には清廉で、自分の家・財産を持たず、明治末期に三春地方有志によって三春町亀井字滝田に萱葺きの士族屋敷を贈られたのが唯一の財産だった。(現存していない)
 広中は大正12年、東京小石川で亡くなり(満74歳没)、墓地もそこにあるが、ここ紫雲寺に遺髪塚が造られた。福島県庁前には「河野磐州翁」の銅像が立っている。
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 2014年に福島県石川郡石川町下泉ある石都都古和気神社を訪れたが、そこの説明板に、
『 明治初期、東北初の政治結社「石陽社」が設立され、神官・吉田光一を始め、河野広中や多くの自由民権運動家が活躍した町としても有名である。 』とあった。
 河野広中が石川町で設立した「石陽社」は土佐の板垣退助の「立志社」につぐものである。石川町も三春町同様自由民権運動の中心地であった。


 三春藩にはお家騒動にまつわる「三春化け猫騒動」の伝説があり、紫雲寺にはそれに関わる「腹切り梅」があるというが、探さなかった。
 田村大元神社の境内末社の八幡神社の床下で猫を見たこともあり、「三春化け猫騒動」に興味をもったので調べてみた。

 三春藩の3代藩主秋田輝季が66歳となった正徳5年(1715)、三春藩にお家騒動が起こった。原因は輝季の嫡男就季が父より先に45歳で急逝してしまったことであり、就季の二男児が早世して二女子のみが残されたことにあった。
 つまり就季死去後、家督を継ぐべき男子のすべてが絶えてしまったということからである。
 そこで宗家を継ぐ者として、次の二家が考えられた。
 第一は、五千石秋田家である。五千石秋田家は、三春初代藩主秋田俊季の次男の季久が、父の遺領を分封されたもので、この時期は三代目の季成が継いでいた。
 第二は、旗本秋田家である。旗本秋田家はやはり初代藩主の弟季信を祖とし、四代季豊まで続いていたが、宝永3年(1706)季豊が終わりに臨んで遠縁に当たり尚かつ三春藩家老である荒木高村の子の季侶を末期養子としていた。
 この季侶を推す荒木と季成を推す側との確執が、『三春化け猫騒動』という伝説となって現在まで語り継がれている。
 ただしこの騒動話には、忠臣として実在の人物である滋野多兵衛が出てくるが、この人物が歴史上この事件にどう関与したかは不明である。

 伝説によれば、家老の荒木高村はこの機にわが子を藩主に据えようと画策したが、滋野多兵衛にその野望を阻まれたとされる。やがて滋野は荒木によって無実の罪を着せられ、紫雲寺で切腹させられることとなる。そして、切腹の場にいた滋野の愛猫が怨霊と化し、間もなく野望を達した荒木に祟るようになり、荒木の家は末代まで苦しめられたという。

 結果としては、荒木の子の季侶が三春藩4代藩主秋田頼季となり、その家系が幕末まで続くことになるのである。
 この騒動の残り火が、17年後の享保14年(1727)に再燃する。
 三春町史ではこの事件を『享保事件』とし、前段の事件を『正徳事件』と分割して記述している。
 そしてこの享保に起きた事件が公儀の知るところとなり、幕府の老中や大目付、類属の若狭小浜藩主・酒井雅楽頭(室輝季女)や秋元但馬守(女就季室)果ては親族、藩士を巻き込んだあげく、結果として藩主頼季の閉門、家老荒木の蟄居という結末になってしまった。二つの事件は関連して起こっているので、一つのものと考えても良いと思われる。
 なお、滋野多兵衛が切腹した場所と伝えられる紫雲寺の境内の梅の木は、『はらきり梅』として知られている。
 そしていつの時代にかは不明であるが、荒木家の墓地が誰かに荒らされたままになっているそうだ。
 何れにしても秋田氏は11代まで続いて廃藩置県を迎える。

 『三春化け猫騒動』では、荒木内匠の野望は滋野多兵衛によって阻止されたことになっているが、実際には荒木高村の子が4代藩主になっている。従って滋野多兵衛が切腹させられたかどうかも不明なのであろう。

 滋野多兵衛は実在の人物だという。私が少し気になるのは、坂上田村麻呂の子に滋野がいたことである。
 田村麻呂の妻は三善清継の娘高子とされる。全ての子が高子を母とするわけではないだろうが、子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。
 春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。大野、広野、浄野、正野、広雄、高道以外の滋野、継野、継雄、高雄、高岡は、坂上氏系図にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっているが、後世になって付け加えられた可能性がある。

 田村氏が三春を去った後、秋田氏が入部したのであるから、田村麻呂に拘る必要はないが、実在の人物である滋野多兵衛がお家騒動のキーパーソンとされる伝説がつくられていることは興味深い。滋野多兵衛は三代藩主秋田輝季の嫡男就季の小姓だったことがあるという。45歳で急逝した就季の死は滋野多兵衛にとってはショックなことであったのだろう。滋野多兵衛の墓は紫雲寺にあるという。また、荒木氏の先祖は、戦国時代に丹波(兵庫県)を治めた荒木村重の一族だという。家老職は荒木氏と細川氏があたっていて、細川氏は室町幕府の菅領を務めていた細川家の直系にあたるという。



高乾院

 高乾院(こうけんいん)は三春町字荒町にある臨済宗の寺院で、三春藩主秋田家の菩提寺のひとつである。
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現地説明板より
『 臨済宗安日山高乾院
 鎌倉時代中ごろの創建とされ、仏源禅師の開山と伝えられている。
 三春藩主秋田家の菩提寺で、正保2年(1645)、秋田家の三春入封にしたがい現在地に立てられた。
 山号は秋田家の先祖「安日(あび)」に、寺名は初代藩主秋田俊季の父実季の法号に由来する。
 本堂向って左側の高台に秋田家墓所があり、歴代藩主をはじめ一族の墓が残されている。また、本尊木造釈迦如来座像をはじめ、数多くの指定文化財が残されている。 
  三春町教育委員会  』

 早速、本堂向って左側の石段を上がって秋田家の墓所に行ってみた。石段を上った左手に御霊屋(位牌堂か?)があった。
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 墓石も建っていたが、土を盛っただけの墓もあり秋田家独特のものなのだろうか。
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 大名の墓所はいくつか見てきたが、驚くばかりの大きな墓石で葬られているものもあり、中には柵がしてあり中には入れない墓所もある。
 秋田家の墓所は5万石ということもあるのだろうか、こぢんまりしていて好感が持てた。
 ここには8代秋田長季以外の藩主が眠っている。8代秋田長季だけは龍隠院に墓がある。

 秋田氏は、安倍貞任の後裔を称し平安時代後期から室町時代にかけて出羽北部から津軽地方にかけてを領した安東氏の後身である。
 1602年に徳川家康の命によって、常陸から減転封される佐竹氏との交換で出羽国秋田郡から常陸宍戸(茨城県笠間市)5万石に移された。
 1645年には宍戸からさらに陸奥三春に移され5万5000石となるが、まもなく5000石を分家に分与して、5万石の三春藩主として幕末まで続いた。

 三春藩秋田家の歴代の藩主は以下の通りである。( )内は在任時期。
1 秋田俊季(1645〜1649) |
2 秋田盛季(1649〜1676)
3 秋田輝季(1676〜1715)
4 秋田頼季(1715〜1743)
5 秋田延季(1743〜1751)
6 秋田定季(1751〜1757)
7 秋田倩季(1757〜1797)
8 秋田長季(1797〜1811)
9 秋田孝季(1803〜1832)
10 秋田肥季(1832〜1865)
11 秋田映季(1865〜1871)
 「季」を通字にしていることが分かる。 

 高乾院は秋田氏の移封に伴い、常陸宍戸(茨城県笠間市)から移ってきたことは分かったが、説明文に「鎌倉時代中ごろの創建とされ」とあるので、それ以前は出羽国秋田郡にあったのだろうか。

 高乾院に葬られた最初の藩主は秋田俊季となるが、その母は「円光院」という。円光院の父は細川昭元で、室町幕府の菅領を務めていた細川家の直系にあたる。それ故に秋田氏の家老の一人が細野氏となっている。
 また、円光院の母は織田信長の妹で「お犬の方」と呼ばれた人である。信長の妹の「お市の方」は浅井長政に嫁いで、茶々、初、江を生んでいる。茶々(淀殿)は秀吉の側室となり秀頼を生んでいる。江(崇源院)は徳川秀忠に嫁いで家光を生んでいる。
 秋田俊季は茶々(淀殿)と江(崇源院)の従兄弟ということになる。


 なお、高乾院の住職の岡大救も一時民権運動の国事犯として捕らわれたことがあり、三春町や石川町は和尚も神主も自由民権運動に参加していたことが分かる。



龍穏院

 龍穏院は福島県田村郡三春町荒町にある曹洞宗の寺院で、三春藩主秋田家の菩提寺のひとつである。
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現地説明板より
『 曹洞宗秋田山龍穏院(りゅうおんいん)
 三春初代俊季の祖父安東愛季(ちかすえ)の法名を寺号とする秋田氏の菩提寺で、秋田氏の三春移封にともない現在の場所に移った。
 本堂内に、秋田氏累代の位牌を納めるお堂があり、本堂裏手の墓地には、愛季・8代長季(謐季)の墓、秋田氏尊霊塔がある。この他、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した画家徳田研山・中村寛亭等、三春を代表する文化人の墓がある。
 戊辰戦争時には傷病兵の病院にあてられたり、明治時代には自由民権運動の演説会場にもなった。本堂は天明5年(1785)の大火の後に再建されたものである。
 三春町教育委員会 』

 龍穏院の前身は秋田氏の旧領である能代市檜山にある国清寺であるとされ、秋田氏が常陸宍戸(茨城県笠間市)に移封されると、安東忠季の国清寺とその父政季の長亨寺を合わせた龍穏院を開基したという。

 「秋田家史料」中の「秋田盛季宛秋田実季書状」には、次の一文がある。
『長亨寺・国清寺と申候ハ、某家之政季・忠季か事にて候を、我等同し禅と申しなから、そうとうはをくはんざんはニ相かへ候故、此両寺をは龍穏院へゆつり、高乾院と名付申候。是ハ十三湊にて日下将軍家はいし候大さう寺又其外之名も候しを、出羽之ひ山へうつり候時、寺号ハ相替候其例を以我等ひたちへうつり候初にて候故、それかし之名にして高乾院と申候。』

 初代三春藩主秋田俊季の父実季は、自分の法名である「高乾院」を名前としたお寺を常陸国宍戸(現在の茨城県友部町)に建てた。しかし、寛永8年(1631)に実季は領地を召し上げられ、伊勢国朝熊(現在の三重県伊勢市)に流されてしまった。
 新たに宍戸領を拝領した実季の息子俊季は、以前から仲の悪かった父実季の法名を持つ高乾院を、湊福寺という寺名に替えてしまった。
 これを聞いた実季は、湊福寺は我が家の分家の先祖安東鹿季の法名ではないか、本家の菩提寺に分家の人物の法名を付けるとは何事か、と激怒したという。そして息子の俊季ではなく孫の盛季に出した手紙が「秋田盛季宛秋田実季書状」である。
 文面を分かりやすくすると次のようになる。
 『長亨寺・国清寺というのは我が家の先祖政季・忠季の法名だが、私は同じ禅とは言え、曹洞宗を関山派(臨済宗妙心寺派)に変えたので、この両寺(長亨寺・国清寺)を龍穏院へ譲り、別に高乾院を建立した。これは、十三湊(現在の青森県市浦村)で我が家の先祖日下将軍が拝していた大さう寺やその他の寺を、出羽国檜山(現在の秋田県能代市)に移った時に寺号を替えた例にならい、私が常陸へ移る初めなので私の法名をとって高乾院としたのです。 』

 つまり、秋田実季が宍戸(茨城県笠間市友部)へ移る以前には、安東家(秋田家の本来の名字)の宗派は曹洞宗であり、実季はそれを臨済宗妙心寺派に替えたために、自分以前の先祖の菩提寺を龍穏院とし、自分以後の菩提寺を高乾院にしたと言うのである。
 現在も龍穏院は曹洞宗、高乾院は臨済宗妙心寺派である。龍穏院には実季の父愛季(ちかすえ)の墓などがあり、出羽国秋田郡在籍時代の先祖が供養されている。
 寺の名は実季の法名である高乾院に戻されたが、実季はこの寺では供養されていないようである。寺号を高乾院に戻したのは実季の孫の盛季であろう。

 三春藩秋田氏の歴代の藩主が高乾院に葬られているのに、なぜ8代藩主長季(つねすえ)だけ龍穏院に葬られたのだろう。長季は謐季(やすすえ)という名前でも記される。
 調べてみたが、特別な理由があるわけではなくタイミングの悪さと不手際だったようだ。

 秋田謐季(長季)は、文化8年(1811)7月6日、34歳の若さで亡くなり龍穏院に葬られた。史料には、次のようにある。
『○御遺骸葬
 此度竜穏院江○導師申付候處、高乾院様御已来厚御主意も有之ニ付、龍穏院江は永年導師申付候例も無之候ニ付、高乾院院代可致心配候間、此度は例外之事候、已来は前々之通ニ相心得、此旨高乾院初住ニて不及心配様、院代より相傳可申候、右之通御意被 仰出候、
 七月   年寄共  高乾院院代  福聚寺大信和尚 』

 8代藩主長季(謐季)が龍穏院に葬られたのは、長季(謐季)死去の時、高乾院に住職がおらず、福聚寺が院代を勤めていたことと、龍穏院と高乾院の位置付けを充分認識していなかった藩の重役たちが、長季(謐季)の導師を龍穏院に申し付け、墓所を設けてしまったことが理由だったようだ。
 『此度は例外之事候、已来は前々之通ニ相心得』とあることから、これは例外であることを認め以前のように戻すことが書かれている。

 何だか長季(謐季)さんだけが、ひとりぼっちでかわいそうな気がする。しかし、福聚寺と高乾院は臨済宗妙心寺派で龍穏院は曹洞宗で、どちらも同じ禅宗で菩提寺なのだから構わないだろうぐらいなノリが藩の重役たちにあったとすれば、いい加減でユルユルな三春藩5万石はそれなりに好感が持てる。

 田村氏が去った後の三春は、その後、会津に配置された大大名(蒲生氏・上杉氏・加藤氏)の支配下にあったが、寛永5年(1628)二本松から松下長綱が移され17年間居城し3万石を領した。長綱改易後は一時幕領となったが、正保2年(1645)秋田氏が入部し、以後11代映季(てるすえ)まで230年間支配した。最後に三春を支配したのが、蝦夷地での雄族であった安倍貞任の後裔を称す秋田氏であったことは田村麻呂から繋がる何かの因縁を感じる。
 『三春化け猫騒動』、自由民権運動の町、「滝桜」など、小さな城下町三春は何かと過去から現在まで話題がつきない町である。

   三春町の寺社など(2)へ



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