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zoom RSS 旅 650 三春町の寺社など(2)

<<   作成日時 : 2017/03/30 08:48   >>

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2016年 6月6日
三春町の寺社など(2)

馬頭観音堂(華正院馬頭観音堂)

 龍穏院参道入口を右に上がった所に馬頭観音が祀られていた。

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現地説明板より
『 馬頭観音堂(華正院)
 坂上田村麻呂の愛馬を祀るため、延暦17年(798)に創建されたと伝えられる。
 三春領内の馬産の守護として信仰され、堂内には、産馬の無事や仔馬の息災などを祈願する多数の絵馬が奉納されている。
 奉納絵馬のうち9面が町指定文化財で、そのうち3面は徳田研山が描いたものである。「研山」という画号は、初代好時、2代好展、3代甘露にわたって使用されたという。初代好時と2代好展は、三春藩駒奉行をつとめた人物で、日常的に馬に接していた者だからこそ、活き活きとして力強く、勇壮な馬を描くことができたと考えられる。
 三春町教育委員会  』
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 徳田研山が描いた絵馬は、歴史民族資料館で見られるようだ。

 徳田好時は三春藩士の家に生まれ、幼い時に父を失い、弟とともに母の手一つで育てられたという。寛政4年(1792)10月、藩の馬役見習いとなり、その後馬術師範となった。そして、その技にみがきをかけるため江戸へ出て、久留米藩馬術師範・城隆元に師事し、ついに大坪流馬術の免許皆伝にいたった。画は土佐派について一家をなした。好時は、馬術の修練により藩の駒奉行にのぼり、実直な人柄により留守居役という重職にも就任したという。


 伝承によると、胆沢経営に成功した田村麻呂は都へ凱旋するため帰途についたが、途中、愛馬が長い転戦の疲れで死んでしまった。胆沢は、三春から約330kmも北に離れている。
 ある夜、田村麻呂は愛馬が霧の立つ美しい景色の中で遊んでいる夢を見た。三春に着いた田村麻呂は、先夜見た夢と全く同じ景色があるのに驚き、愛馬のためにその地に馬頭観世音を勧請した。それがこの馬頭観世音だという。

 雑草を刈っていた人が、境内を横切ったので、馬頭観音について訊いた。その人は、田村麻呂の愛馬の伝説などは嘘だと言っていた。
 しかし、近隣からは「荒町の観音さま」と親しまれ、馬産にたずさわる人々からの信仰が篤かったことは確かで、それは維新後、明治政府は陸軍の整備に伴い軍馬や、農耕馬として馬の需要が高まり、三春駒として名高い三春では馬の飼育に力が注がれたためだと言う。

 どうやら田村麻呂が戦ったのは福島県ではなくもっと北の方で、田村麻呂の時代には郡山や田村は兵站基地であり大和朝廷の支配が確立していたということらしい。

 田村麻呂の祖父とされる坂上犬養は聖武天皇に武才を認められて重用された。『続日本紀』には、次のように記載されている。
 『天平8年(736)、陸奥・出羽の二国で功労のあった郡司と、帰順している蝦夷(えみし)27人にそれぞれの功績に応じて爵位を授けた。』       
 この郡司の中に坂上氏と関係ある者がいたのではないか。

 宝亀元年(770)、坂上苅田麻呂は正四位下に叙せられ、陸奥鎮守将軍となって多賀城に赴任している。

 もし阿武隈川一帯で大和軍が戦ったとすれば、田村麻呂の祖父や父の時代であり、田村麻呂の父である苅田麻呂の伝承もこの辺りには多い。

 苅田麻呂が大熊に乗ってこの川を渡り熊渡に着いた。その地は最初屯田(みやけだ)と言われたが、いつのころからか御代田(郡山市田村町御代田)と呼ばれるようになった。屯田は苅田麻呂の直轄地の意味で、川には大熊川(阿武隈川)の名が付いた。
 この御代田には舘、外城、雀宮(鎮の宮)など、城館に関連する地名が残されている。
 また、田村町御代田の阿武隈川畔に、字御熊野という地名がある。

 文政5年(1822)、新井白石の『五十四郡考』の補遺を記した白河藩の広瀬曲の現地調査によれば、『田村郡中 三代田村数畝之地 土俗伝称 田村麻呂降誕之所 於 今除 租税若干』と伝えている。
 つまり、田村郡のうち三代田村(御代田)の数畝の土地を、田村麻呂の誕生の地のゆえに税が免除されているというのだ。

 田村麻呂は、伝記には、『大将軍は身長180cm、胸の厚さ36cm。前から見るとのけぞっているかのように見え、後ろから見るとうつむいているかのように見える。目は澄んで鋭く、黄金色の顎髭が豊かであった』と具体的に記され、また薨伝には『赤面、黄髭』と簡単に記されている。また、田村麻呂黒人説までもある。何れにしても容貌魁偉で普通の渡来人とは少々違うように記される。

 田村麻呂以降の家系は多くの役職に就いてきた。そして、その官名は奥羽にのみ留まるものではない。そのなかには坂上党と称されていた人々のように、武家の集団として生活していた者たちもあった。特に田村麻呂の五男の滋野は奥州を与えられ、やがて関東に勢力を広げる坂上党(安達)の始祖と言われた。それが、「三春化け猫騒動」の滋野多兵衛と繋がるなどとは言わないが、信濃の滋野氏は御牧の牧官として弓馬に優れた武士として成長したことは注目される。
 信濃の滋野氏の出自は定かでないが、清和天皇の第4皇子貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)が信濃国海野庄(現:長野県東御市本海野)に住し、その孫の善淵王が延喜5年(905年)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)されたことに始まるとされる。私は醍醐天皇が滋野姓を下賜した裏には東山道の繋がりで、坂上党との何らかの伝承があったのではないかと考える。信濃の滋野氏は古い坂上党に出自を繋げるよりも、清和天皇の親王に出自を繋げた方がよいと考えたのだろう。御牧の牧官出身である滋野氏は渡来系であった可能性が極めて高い。


 境内で話した人からは三春のことをいろいろ聞いた。境内からは学校が見えたが校庭にトラックや重機が入っていて、使われている様子はない。
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 訊いてみると、旧三春中学校で、平成25年に4つの中学校が合併して新校舎へ移ったのだという。(新三春中学校) 少子化のためか三春でも学校の整理統合が始まっているようだ。少子化の次は過疎が待っている。現象は始まれば加速するであろう。私は人生の旅の最後にどのような風景を見るのであろうか。

 福聚寺の裏山が砦のように感じたが、龍穏院も三春城の出城の役割をはたしていたことが地形から伺われるそうだ。

 三春町の人も郡山市などに働きに出ている人が多いが、交通が不便だという。訊いてみると、いろんな所でよく聞く話だが、鉄道が通る時に街の中を黒い煙を吐く蒸気機関車が走るのに反対して結局町外れに駅ができたのだという。確かにロードマップを見てみるとJR磐越東線の三春駅は不便なところにある。

 ちょうどお昼になるので、三春駅周辺で何か食べられるだろうと考え、行ってみることにした。



三春駅
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 駅の前は特に開けているわけではなかった。医院とマンションは少しあった。街まで遠いのでタクシーが並んでいた。
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 レンタルサイクルもあった。ポストの上には三春駒があった。
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 この木彫りの「駒」の創始年代は定かではないが、江戸末期に最も盛んに作られたといわれる。この地方では、本来「木馬(きんま)」と称して、馬の安産を祈って、村の入り口などにある馬頭観音に供えてある木馬を一体借りて来て神棚に祀り、馬の出産が無事終わると、もう一体を自分の家で作り二体にしてもとの馬頭観音に返したという。このような風習が、いつしか「デコ屋敷」でつくって売るようになったのだろうと言われている。
 この木馬を持っていると馬ばかりではなく、子供も元気に育つと信じられ、子育て木馬とも言われる。

 トイレのマークも青とピンクの三春駒だった。
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 「三春駒」の名から、賊や災いを『見張る駒』とこじつけられ、お守りにもなっているそうだ。
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 駅の中へ入ると、季節外れの枝垂れ桜が迎えてくれた。
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 売店でも天然記念物の「滝桜」の写真が売られていた。シーズンには賑わうようだ。

 電車は1時間に1本といったところだ。それでも朝の郡山方面行きは1時間に2本ある。
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 無人駅ではないようだが、窓口は常時開いているわけではない。
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 駅の中の食堂で、お勧めの「冷やし山菜そばの大盛り」と「三角揚げ」を注文した。
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 味は「まあまあ」だった。

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