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zoom RSS 旅 651 田村神社(1) (郡山市田村町)

<<   作成日時 : 2017/03/31 09:54   >>

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2016年 6月6日
田村神社(1)(郡山市田村町)

 三春町でいくつかの寺社を訪ねた後、横須賀へ帰る前に栃木県でいくつか寺社を回ろうと考えた。
 移動に時間がかかるので、今日は栃木県下野市にある下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと)だけでも見ようと車を走らせた。
 三春町に来るとき工事の信号で長いこと停められたこともあり、三春町から国道4号線に出ないで脇道で須賀川あたりまで走ることにした。
 途中で国道49号線と交差するところ(山中)に田村神社があった。もしかしたらこの田村神社が三春町にある田村大元神社の元社ではないかと思い、寄ることにした。

 何かに導かれるように偶然寄ったこの神社は、田村大元神社の元社かははっきりしないが、何らかの関係があることは確かなようだ。田村大元神社の鎮座地は田村郡三春町字山中だが、この神社も郡山市田村町山中字本郷に鎮座し「山中」が共通する。
 田村大元神社は守山から遷ったとされるが、その郡山市田村町守山はこの神社のすぐ南である。当社はJR水郡線「磐城守山駅」から1.4kmで、徒歩だと約15分である。

 ロードマップで見てみると当社の南東7kmほどの所に宇津峰(うつみね)があり、その東6kmほどのところが田母神である。
 宇津峰(標高676m)は雲水峰とも書き、雲水すなわち修験山伏の修行の山で、山麓には田村大元帥明王社の道場が数多くあったという。田母神にも修験者はいたのだろう。
 また、山域全体を利用した山城である宇津峰城もあり、山頂には「雲水峰城址」という石碑があるそうだ。山頂には土塁に囲まれた20m四方ほどの千人溜まりという枡形を擁する星ヶ城と長平城があり、東の尾根続きには空堀が切られているという。

 南北朝時代は宇津峰城は南北朝の対立の激戦場となった。最終的には1352年5月に陥落したが、この篭城戦を指揮したのは後村上天皇の甥の守永王を奉ずる陸奥介兼鎮守将軍・北畠顕信であり、攻める北朝勢の総大将は奥州管領・吉良貞家であった。恐らく修験者や地元の武士団は南朝側(陸奥介兼鎮守将軍側)として戦ったのであろう。

 ここで気になるのは、福島事件で獄死した河野広中の同志の田母野秀顕のことである。田母野秀顕の父は修験者の田母野浄因である。そして地元では田母神は田村麻呂の母の出身地と伝えられる。
 河野広中は、福島県庁前に「河野磐州翁」の銅像が建てられ、郷里三春町の紫雲寺には立派な遺髪塚が立っているが、石川島監獄で獄死した田母野秀顕は上野谷中に葬られ、三春にあるのは込木(くぐりき)にある小さな墓碑だけで訪れる人もいないという。彼が生きていたらどのような自由の旗を掲げたか見てみたかった気がする。


 田村神社の参道には桜が植えられていた。
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 石段下の境内には枝垂れ桜が植えられていた。
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現地説明板より
『 堂の前の桜
 堂の前とはお山の下庭をさして言う。大元明王堂の前という意味である。かなり広い庭であるが、旧暦六月十四日十五日の山中祭りには櫓が建てられ、踊りが踊られ、多くの露天商が並び参詣人で混雑する。
 地方の祭りがこのように賑わうのは、あまりみられないのではないだろうか。大元明王が田村六十六郷の総鎮守であった頃の名残が今もって祭りの日の賑わいにつながっているのだろう。
 この桜は、エドヒガンの枝垂れ種で樹齢は八十余年という。古木ではないが、堂の前にはなくてはならない存在となっている。
 また、参道に沿って染井吉野が植えられているが、百年以前に里人が奉納したものである。
 平成24年4月 郡山市観光協会田村支部  』
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 石柱側面には「鎮守山 泰平寺 聖観世音菩薩」とあった。神仏習合が強い神社なのだろう。
 石段は急であった。お年寄りには大変であるが、こういう神社には大概どこかから車で上がれる道がついているものだ。

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 石段の両側には大きな岩が立っている。
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 階段や坂は下から見上げるよりも、上から見下ろした方が、その急角度が分かる。
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 石段を上ったところに仁王門があった。扁額には「鎮守山」とあった。
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 三春町の田村大元神社の仁王門と同じように、裏側には随神が祀られていた。
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 半跏思惟像のように片足を下げて腰掛けているのも田村大元神社と同じで印象的だ。


 仁王門の奥には、また門のような建物があり、太鼓が下げられていた。神楽殿のようだ。
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 仁王門と神楽殿は真っ直ぐ並んでいないで、少しずれている。参拝者が仁王門から真っ直ぐ進んで参拝するようにはなっていない。これは神が真っ直ぐ出て行けないことにも繋がる。随神が仁王門の後ろ側に祀られているのも意味があるのかもしれない。
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現地説明板より
『 田村神社
 元禄2年4月29日(西暦1689年6月16日)須賀川を発った松尾芭蕉と曽良は、ここ田村神社に参拝している。
 当時、田村神社は大元師明王といい、芭蕉らは種々の社宝を見ている。
 社宝の一部は散逸したが、現在でも多くの重要文化財が保存されており、曽良日記には次のように記されている。
 「先大元明王へ参詣。裏門より本実坊へ寄、善法寺へ案内シテ本実坊同道ニテ行。村雪(雪村)哥仙絵、讃宗鑑え由、見物。・・・・・・(狩野)探幽が大元明王を拝ム。」
 平成元年3月 郡山西ロータリークラブ  』


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 拝殿には鈴が3つ下がっているので、3柱祀っているのだろうか。
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 古い扁額には「大元帥」、新しい扁額には「田村神社」とあった。
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 拝殿内には立派な厨子があった。
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現地説明板より
『 福島県指定重要文化財(建造物)田村神社厨子
昭和56年3月31日指定
所在地 郡山市田村町大字山中字本郷135番地
所有者 田村神社
 方一間(正面真々1.72m、奥行真々1.5m)
棟高約3.8m、中央部軒高約2.5m、入母屋造、板ぶき
 厨子を安置する田村神社本殿は、古く大元帥明王を祀る堂として創立されたと伝えられ、明治初年の神仏分離で田村神社(大元帥神社)と改称した。
 現在の社殿は、寛文11年(1671)禅宗様仏堂として再建されたもので、その後、内外陣境や向拝などがいくらか改造をうけている。
 厨子はこの堂の内陣正面の来迎柱を背にした須弥壇上に安置され、大元帥明王を祀っている。方一間単層入母屋造、平入りの禅宗仏殿形式で比較的大きく、丸柱の上下に粽(ちまき)をつけているのをはじめ、工事は入念である。禅宗様の踏襲状況や扉のまわりの文様重視の絵様などからみて、桃山時代を下らない遺構と見られる。
 福島県教育委員会  』

 本殿は拝殿の後ろに少し離れて建っていた。
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現地説明板より
『 郡山市指定重要文化財 田村神社本殿・脇社々殿
 昭和43年3月13日指定
 本殿は三間×三間の大きさで、まわりには高欄(手すり)の付いた縁がめぐっています。周囲の壁は盲格子と呼ばれる格子の付いた板壁と連子窓(断面が正方形または菱形の棒を縦または横に平行に数多く並べた窓)で構成され、屋根は入母屋づくりです。
 神聖な場所である内陣は一間×二間の広さがあり、天井は板を並べて張った水平な鏡天井で、外陣はこの内陣の三辺を一間の幅で囲んでおり、天井は水平な横木をあらく方眼状に組み、間に板を張った格天井です。
 内陣の奥の一間四方の段上には、福島県指定重要文化財である厨子が安置されています。
 この本殿は、少なくとも江戸時代初期の様式を備えております。
 本殿の脇には二棟の社があり、いずれも正面の柱の間が一間の一間社で、ひとつは屋根の前のほうが長く伸びた流造り、もうひとつは正面だけ階段の上に建物に取りつく形で屋根のある春日造りです。この脇社々殿も本殿とほぼ同じ頃のつくりと思われます。
 郡山市教育委員会  』

 この説明文を読んでみると、私が拝殿だと思ったものが本殿であるようだ。ならば、後ろにある流造の建物は何なのか。

 三春町の田村大元神社と同じように、左右に末社があり、その造りも田村大元神社のものと同じだった。田村大元神社では右の社が八幡神社で、左の社が熊野神社であったが、当社では右が神明社本殿で左が春日社本殿だという。
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 春日社本殿の扁額には「大権現」とあった。
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 江戸時代には春日神も権現だったのだろう。しかし、何となく「大権現」と言えば熊野神社の方が相応しいように感じる。

 他にも境内社はいくつもあったが、一番大きいのは「養蚕神社」であった。
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 境内社に松尾神社があったので、一つ書き添えておく。
 京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社は、秦氏の創建した神社だが、坂上党武家団も信仰したという。松尾大社の今の主祭神は大山咋神と中津島姫命(市杵島姫命の別名?)とされる。松尾大社は秦氏や賀茂氏が関わる神社とされるが、坂上党武家団の信仰する神社でもあったという。田村麻呂の幼名は松尾丸といい、松尾神社も「松尾丸社」と呼ばれたことがあるそうだ。秦氏と田村麻呂の関係は無視できない。

 また、大山咋神は日吉大社(滋賀県大津市)の祭神でもあるが、よく分からない神である。
 『古事記』や『先代旧事本紀』において、大年神と天知迦流美豆比売(あめのかるみずひめ)の間の子であると記されている。
 『古事記』(大国主命段)には、
「大山咋神。亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山(日吉大社の神体山である牛尾山とも)に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑(なりかぶら)を用つ神ぞ。」 とある。
 「くい(咋)」を「杭・杙」と見て、山頂にあって境をなす神であるともいわれる。



 本殿の後ろに「泰平寺の桜(影勝の桜)」という説明板があった。
『 泰平寺の桜(影勝の桜)
 慶長3年(1598)正月、上杉影勝は越後より会津に移り、当地方も影勝の支配するところとなった。慶長5年(1600)、前沢御陣の折、八幡神社より御幣が出現し、お山の上を飛び回ったという。それを聞き付けた守山城代、本庄越前が小野郷入水の増ヶ池、鶴ヶ池の水を汲ませ、大元明王の御前で湯立の神事を執り行ったところ、前沢御陣は必ず勝利するだろうとの託宣があった。
 託宣の通り勝利の帰陣となり、希代の不思議と三百石の領地を寄進したという。桜もこの時、植えられたものであろうか。古い絵図を見ると熊野神社のこの桜とともに、八幡神社の横にも桜があったことが分かる。当時植えられたものであれば、樹齢は約四百年となるであろう。種類はエドヒガンであるが、紅が濃く見応えのある桜である。
 平成24年4月 郡山市観光協会田村支部  』

 「上杉影勝」とあるが一般的には「上杉景勝」と書かれる。この説明文に「古い絵図を見ると熊野神社のこの桜とともに、八幡神社の横にも桜があったことが分かる。」とあるが、これが左右の脇社であるとすれば、脇社は春日社と神明社ではなく熊野神社と八幡神社だったのではないか。それならば三春町の田村大元神社と対応する。

 説明文に、「慶長5年(1600)、前沢御陣の折、八幡神社より御幣が出現し、お山の上を飛び回ったという。それを聞き付けた守山城代、本庄越前が小野郷入水の増ヶ池、鶴ヶ池の水を汲ませ、大元明王の御前で湯立の神事を執り行ったところ、前沢御陣は必ず勝利するだろうとの託宣があった。」とあるが、これはここの武士団や修験者集団が、上杉景勝に助力するということであろう。
 「託宣の通り勝利の帰陣となり、希代の不思議と三百石の領地を寄進したという。」とあるが、寄進された300石の領地は恩賞ということだったのだろう。


 検地燈籠という燈籠があった。
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現地説明板より
『 郡山市指定重要文化財 延宝八年検地燈籠
 昭和62年3月31日指定
 延宝八年検地燈籠は、高さ233cmの六角形石燈籠です。
 かつてこの付近は、寛永20年(1643)から二本松領主丹波氏の預かり領とされておりましたが、江戸幕府は天領を直接支配する方針から、延宝6年(1678)6月に検地を命じ、延宝8年(1680)までの2年を要し完了しました。
 幕府の命令により諸国で検地を行っていますが、その奉謝としての検地燈籠が、地域の鎮守神にあることは全国にも余り例が見られません。
 また技術面でも、全体的形態並びに各部に加えられた石土手法は、いずれも江戸時代中期頃の手法によって作られており、ほぼ造立当時の姿を残しており、歴史上の事実を裏付ける石造遺物として学術的価値が大きいと思われます。
 郡山市教育委員会 』

 他にも絵馬や算額など県指定や市指定の重要文化財が多数あり、その説明板が所狭しと並んでいた。
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 しかし私は、その後ろに広がる田園風景が美しいと感じた。芭蕉が「風流の初やおくの田うえ唄」と詠んだのも、この辺りらしい。 この田園も検地の対象であったのだろう。
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 絵馬や算額は三春町の田村大元神社にも奉納されていて、初代徳田研山の絵馬や佐久間庸軒の算学などがある。
 佐久間庸軒は三春藩の数学教師で各地に広くその名を知られ門弟も多かったという。三春町での河野広中の自由民権運動の同志に佐久間昌熾(しょうけつ)がいるが、藩校明徳堂の儒官の四男で晩年町長になった。恐らく彼も佐久間庸軒の一族であろう。 


 私が境内で写真を撮っていると、氏子の人に、「役所の人ですか」と声を掛けられた。
 実は境内に集まっていた氏子の人たちは、役所の人を待っていたようだ。しばらくすると役所の人が来て、何やら図面を持って話し合っていた。
 後で訊いてみると、除染の話をしていたのだ。福島原発事故から5年が経ち、ここは「浜通り」ではなく「中通り」であるにもかかわらず、未だに除染作業の打合せをしていることに驚いた。
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 田村神社の創建は大同年間(806〜810)で、旧社格は県社である。坂上田村麻呂が東夷征伐の際に鎮守山泰平寺を建立し、本尊として大元師明王像を安置したのが始まりだとされる。
 現在は主祭神を坂上田村麻呂としているようだが、本尊が大元帥明王像であるのなら、祭神は大元帥明王ということではないか?
 当社は坂上田村麻呂の守護神・大元帥明王を祀る霊山と考えられたため、明治までは「明王山」あるいは「お山」と呼ばれていたということからも、祭神は大元帥明王だったのだろう。
 明治時代、神仏分離令により田村神社と改称。その際に仏具は近くの円通寺に移されたが、その後、田村神社が返還要求を出したことで裁判となり、仏具は田村神社に返還、祭事は円通寺が行うという条件で和解し、現在に至っているそうだ。

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