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zoom RSS 旅 641 静岡浅間神社(2)

<<   作成日時 : 2017/03/03 11:27   >>

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2016年 5月16日
静岡浅間神社(2)

 大歳御祖神社本殿は修理中だが拝殿は見られそうなので行くことにしたが、その前に南参道へ出てみた。

 南参道には赤鳥居があり、何だか東参道の石鳥居より立派に見えた。
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 東参道が神部・浅間両社の参道で、南参道が大歳御祖神社の参道とされるが、賎機山(しずはたやま)南端の南参道からの入口がメインのように感じられた。ここには、境内の全ての神社の説明板と境内図があった。
 祭神などは既に記したので、由緒などだけ載せる。

現地説明板より
『 由緒
 三社からなる当社は、海道屈指の名社として朝野のあつい崇敬をうけ、殊に、駿府(現静岡市)に縁の深い徳川家康公の崇敬以来、徳川幕府の宗廟として崇められた。

神部神社 
 崇神天皇7年(紀元前90年)の鎮座と伝え、延喜式内社で倭文機神社・美和明神とも別称され、この地方最古の社。制による国府がここに置かれ駿河国総社と仰がれた。
 次の各社と共にそれぞれが県社(明治6年)に列格され、国幣小社(明治21年)に昇格した。

浅間神社(あさまじんじゃ)
 醍醐天皇の勅願により延喜元年(901)富士山本宮浅間大社の分霊を勧請したと伝え、全国1300余社の分祀のうち最大最古の社。富士山を神体山と仰ぎ富士新宮と称えられる安産子授けの神。後世、仏説の影響で「センゲン」と音読する。

大歳御祖神社
 応神天皇4年(273)の鎮座と伝え、延喜式内社で奈吾屋社・大歳天神とも別称された。上古からの「安倍乃市(現市街)」の守護神・地主神として崇められてきた。社名は、大年神・倉稲魂神(稲荷大神)の母(御祖)神の意を表している。

 この三社は、静岡市街の北北西の方位、「静岡」の地名の由来となる賤機山(賤ヶ丘)の最南端に、神部・浅間両社は東面して、大歳御祖神社は南面して祀られる。古くから朝廷をはじめ、国司・武門・武将が崇敬し、徳川家はもとより、各時代に於いて北条氏(鎌倉幕府)・今川氏・武田氏が社殿の造営、社領の安堵等の赤誠を捧げた。

社殿
 “東海の日光”と称揚される社殿群は、全26棟が江戸後期を代表する神社建築として重要文化財に指定されている。
 舞殿以外は、全て総漆塗・極彩色で、神部・浅間両社の「大拝殿」は、浅間造の特殊建築で棟高25.8mの豪壮な規模を誇り、同「本殿」の彫刻と生彩色の華麗さは、全国に比類を見ない建築装飾の秀作である。
 特に彫刻類は、立川和四郎富昌をはじめ立川流一門の爛熟した技を凝らしている。

史蹟   国指定史蹟「賎機山古墳」
宝物資料 
 太刀(銘)備前長船住長光(重文) 狩野探幽三十六歌仙扁額 山田長政奉納戦艦図 その他  』

 神部神社が倭文機神社・美和明神とも別称されていたこと、大歳御祖神社が大歳天神とも別称されていたことが気になる。


 神門をくぐって大歳御祖神社の拝殿まで行ってみた。
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 拝殿には、「大歳御祖神社仮殿遙拝所」の立て看板があった。本殿修理中のため大歳御祖命は八千矛神社に一時遷座しているので、この拝殿は今は遙拝所となっている。

現地説明板より
『 大歳御祖神社
主祭神 大歳御祖命 別名 神大市比売命  
配祀神 雷神
鎮座地 静岡市葵区宮ケ崎町百弐番地壱 
例祭日4月5日
由緒略記
 「静岡」という地名の由来となる賎機山(しずはたやま)の南端に南向きに鎮座し、奈吾屋神社・奈吾屋明神とも別称され、応神天皇4年(273)の創祀と伝えられる。
 万葉集巻第三「焼津辺に吾が行きしかば駿河なる安倍の市道に合ひし子らはも」にみえる「安倍の市(今の静岡市街)」の守護神で、延喜式内社・旧国幣小社である。
 主祭神は、倉稲魂命(稲荷大神)の母神で、農・工・商業の守護神として崇められている。
 後水尾天皇の御製に「賎機の山も動かぬ君が代になびく奈古屋の松風」と詠まれ、約100m北側に東向に鎮座する神部神社・浅間神社の両社と共に、古くから朝野の崇敬をあつめた。
 殊に、徳川将軍家は、天正・寛永・文化の三度に亘り、総漆塗・極彩色の壮麗な社殿を造営寄進した。
 大東亜戦争末期に拝殿・楼門等を焼失したが、形式を異にしで復興された。
 本殿(総漆塗・極彩色、三間社流造向拝付)・中門(総漆塗・極彩色、一間一戸平唐門)・透塀(総漆塗冠木門付)は、他の社殿群と共に、国の重要文化財に指定されている。
 後背丘陵上には、六世紀頃と推され、家形石棺と豪華な出土品等で有名な国指定史蹟「賎機山古墳」がある。 』


 本殿の写真は撮れなかったので、参拝の栞より写真を掲載する。
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 大歳御祖神社には、もと天保7年竣工の拝殿と天保8年竣工の楼門が存したが、先の大戦により焼失したため、鉄筋コンクリート造の拝殿と神門が再建された。


 最後に八千矛神社の左手にある「百段階段」を上って、麓山神社(はやまじんじゃ)へ行った。
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 上りきった所の左に、賤機山古墳があった。
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 ここは古墳の後ろ側で、正面へ廻る道を探したが見当たらなかった。賤機山古墳へは大歳御祖神社の左手階段を上って行くようだ。 案内図を見ると、賤機山古墳は大歳御祖神社のすぐ後ろの丘の上にあることになり、大歳御祖神社を拝する事は賤機山古墳を拝する事にもなる。 

 Wikipediaで賤機山古墳を調べてみた。
 賤機山古墳は、形状は円墳で直径32m、高さ7m 、築造年代は6世紀後半とされる。1953年(昭和28年)に国の史跡に指定された。
 駿府城西北にある静岡浅間神社の境内にあり、大歳御祖神社の本殿裏(北側)に位置する。
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 墳丘は賤機山の南端の斜面を利用して造られており、埋葬施設として横穴式石室を持ち内部に家形石棺が置かれている。石室用材は賤機山丘陵から安倍川下流右岸にかけて分布する玄武岩である。
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 石棺は家形石棺で長さ約2.9m・幅約1mで伊豆産の凝灰岩をくり抜いて造られており、長辺側に3対(6個)と短辺側に1対(2個)の縄掛け突起がある。
 盗掘を受けていたが、その周囲から金銅製の冠帽金具、土師器、須恵器、挂甲、馬具、武具、装身具類などが多数出土し、古墳時代後期を代表する横穴式石室古墳であることが分かった。
 古墳は復元整備されており、墳丘・石室の模型や詳しい解説板も置かれている。石室内部には入ることはできないが石室内は照明されており、扉越しに外部から石棺などを観察することができる。照明時間は午前8時から午後6時まで。
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 賤機山古墳は円墳とされるが、長い間に形が崩れ円墳と見られるようになったが、本来は一辺が23m前後の方墳だったのではないかいう説がある。いずれにしても県下随一の家形石棺を有し、出土品の豊富華麗なことは東海地方に類を見ないと言われる。


 賤機山古墳から右側(北側)へ少し歩くと、麓山神社(重文)がある。
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 社殿は本殿・拝殿・唐門・透塀を備え、他の三本社(浅間神社・神部神社・大歳御祖神社)と同規模の壮麗な建築で、細部に立川流の彫刻が施され漆塗り極彩色である。
 この神社は富士山の遙拝所のような役割をしていたのではないか。この神社を拝むことは背後にある富士山を拝むことに繋がるように感じる。
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 参拝の栞には次のようにあった。
『 麓山神社(はやまじんじゃ)
 古来、賤機山に鎮座。「山宮」と称せられた。本社の別宮。漆塗極彩色。
 例祭 4月22日
 大山祇命を主神とし、日本武尊を配祀する。主神は本社浅間神社の木之花咲耶姫命の御父神にまします。当社は宮元八ヶ町の氏神でもある。 』

 「当社は宮元八ヶ町の氏神でもある。」とあるが、宮元八ヶ町とは、安西一丁目・八千代町・安倍町・宮ヶ崎町・御器屋区・浅間ビル区・西草深町・片羽町である。さらに錦町・馬場町・通車町・屋形町・中町・富士見町の本氏神でもあるという。麓山神社は旧郷社であったことからも、この地の地主神の一柱と考えられていたようだ。

 麓山神社は、従来は浅間神社・神部神社・大歳御祖神社とならび四本社の一つに列し独立の神社であったという。
 明治6年に、浅間神社・神部神社・大歳御祖神社は県社となり、麓山神社は独立の郷社となったが、浅間神社・神部神社・大歳御祖神社が國幣小社となった後は、麓山神社は三社共通の境内社となったという。

 現在の祭神は大山祇命とされるが、古くから山の恵み、即ち木材・水利をはじめ、春には田の神として豊穣を掌り、衣食住全般を守護される神として信仰されてきたようだ。

 麓山神社の参道には多くの献灯があったが、葉山さんが奉納したものがいくつかあった。
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 これは、この神社の真の姿を知る人の献灯かもしれない。麓山神社(はやまじんじゃ)の“麓山”は“葉山”“端山”であった可能性が高い。そして最終的には富士山に繋がる信仰であったと見られる。
 延喜元(901年)に、富士山本宮浅間大社の分霊を勧請し、「冨士新宮」として浅間神社が祀られたのも故無きことではない。
  ( 関連記事 葉山 『旅544 瑞巌寺周辺(2)』 )

 賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名の元になった山だ。1868年(明治元年)、明治維新が始まると、その8月田安亀之助(後の徳川家達)は駿遠など70万石の駿府藩主として江戸から駿府(府中)に入った。徳川家達(いえさと)は、翌年(明治2年)府中は不忠に通じるとして、駿府学問所頭取の向山黄村の意見を採用し、賤機山(賤ガ丘)の名をとり、更に“賤”の字がよくないので“静”にかえて「静岡」と名を改めた。

 静岡市街地に接する賎機山は静岡ひいては静岡県の名の元になったことからも分かるように、古代より神聖な神奈備山としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきたという。
 そして、この山の南麓に多くの神社が集められる結果にもなった。

 下の写真は航空写真で賤機山の南側を撮ったものだが、市街地の中にある。すぐ南東に駿府城跡の駿府公園がある。
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 静岡市内には秦氏の氏寺である建穂寺があった。また、久能山山頂には推古天皇の頃、秦久能(久能忠仁)が建立したと伝えられる久能寺があった。久能寺(鉄舟寺)は永禄11年(1568)駿河に侵入した武田信玄が久能山の頂上に久能城を築いたため現在地に移された。
 久能寺は明治の廃仏毀釈で荒廃し、その後、山岡鉄舟らの尽力により再興されたので、鉄舟の功績を称えて鉄舟寺と名付けられた。その時、天台宗から臨済宗に変わっている。

 静岡浅間神社の社領は2313石もあり、これは秦氏が建てた建穂寺(廃寺)、久能寺(鉄舟寺)などの別当寺の分も含まれていた。そのため、当初に賤機山に祀られたのは秦氏の祖神だったのではないかという説もある。
 静岡県内には多くの渡来人が入ってきて、服部・羽鳥・倭文(しどり)という地名や神社名を残している。これらの渡来人は大和朝廷の東国開発の先駆となり、東国開発が進むにつれて県内の渡来人は武蔵国に移され、771年(宝亀2年)には武蔵国は東海地方の一国に編入された。

 神仏分離までは別当寺は静岡浅間神社の祭祀にも関わり、ことに二月会(現在四月に行われる廿日会)には建穂寺より稚児舞楽を、三月会(桃華会)には久能寺より菩薩舞を出仕して奉納し、一社二寺による祭祀が当神社の中心的行事であり、歴代幕府はこれの庇護に勤めたという。
 廿日会祭(はつかえさい)は大歳御祖神社の大祭で、毎年4月1日より5日まで行われる。家康公奉納の稚児舞楽が今も伝承され踟と称する山車屋台の曳廻しもあり、参詣者数十万に及び、全市内が大いに賑わうという。
 明治元年神仏分離により別当である久能寺・建穂寺をはじめ多くの社僧寺院が廃寺(久能寺はのちに鉄舟寺へと引き継がれた)となり、境内にあった仏堂・仏像は臨済寺や音羽山清水寺へと遷された。


 神部神社は、駿河国安倍郡鎮座の式内社神部神社の論社である。平安時代末頃から、駿河国惣社と呼ばれていた古社で、『国内神名帳』には美和明神と記され、『類聚国史』に従一位と記載されており、この地方最古の神社とされる。駿府とは駿河の国府という意味である
 神部神社は、草創当時は機織に関する神を祀っていたとも云われ、平安時代になつて総社と呼ばれた頃から駿河国の国土開発の意味で大己貴命が祭神とされたと推察される。『神名帳考証』によると祭神は田々彦命とされるのが気になる。
 鎮座地に関しては、天正14年(1586)、駿府城築城の際、神領神門町にあったものを、現在地に遷したという。


 大歳御祖神社は、駿河国安倍郡鎮座の式内社の大歳御祖神社の論社である。
 商業の中心地であった「安倍の市」の市神として安倍の市に鎮座していたが、賤機山上の奈吾屋神社に遷座したという。安倍の市の所在地は、今の静岡市本通一丁目乃至五丁目に沿える雨替町の一部、上石町・梅屋町・人宿町・七間町方面とされている。
 『国内神名帳』に正二位奈古屋明神と記され、江戸時代は「奈吾屋社」と称していたという。
 一説には奈吾屋社と大歳御祖神社は、本来別々の社で、奈吾屋神社は倭文機部の祖先を祀ったもので、最初、現在の賤機山上に鎮座していたという。大歳御祖神社は安倍市の守護神であつたが、何時しか両社が結合して一社となり、式内社大歳御祖神社と称するになったという。

 大歳御祖神社が奈吾屋社の境内に遷座してきたのは確かで、本来別々の神社であったことも確実であろう。奈吾屋神社は倭文機部の祖先を祀ったというのも鎮座した山が賎機山という名であることからも推測される。
 安倍川の大洪水によつて、安倍市をはじめその市神も流されてしまい、そこで大歳御祖神社は、洪水で流される心配のない奈吾屋社の境内に遷座してきたのであろう。
 
 今川時代までは安倍川は駿府の街の中を分流して流れていた。公家の娘を母に持つ今川義元は安倍川の流れを賀茂川に見立てて楽しんでいたという。
 その安倍川の流路を変更して駿府の西方に一つにまとめる大工事を行ったのは徳川家康である。これにより安倍川は駿府の天然の堀として機能し、西側の防備が格段に厚くなった。
 更に家康は、今川時代に駿府館(今川館)の詰城として使われていた賎機山城と、駿府の東約8kmにある久能山城を改めて整備している。特に久能山城は腹心の本田正純を城主とし、「駿府城の本丸である」と言うほど重視したという。
 久能山城の縄張りは武田信玄が馬場信春と山県昌景に行わせたという難攻不落の山城である。現在、久能山城の跡は久能山東照宮になっている。


 現在の大歳御祖神社の祭神は大歳御祖命(神大市比売命)とされ、配祀神として雷神をまつる。
 式内社大歳御祖神社の論社の一つに、静岡市葵区七間町にある別雷神社(わけいかづちじんじゃ)がある。祭神は別雷神と玉依比賣命で加茂氏が祀る神である。他に配祀神として、保食命、大山咋命、火之迦具突智命、大穴貴命、少彦名命、猿田彦命を祀り、彰徳神を合祀している。 安倍の市人らが奉斎したといい、元は有度郡加茂村に鎮座していたものを、中古、当地に遷したものともいう。
 駿河国新風土記に「社中に府内の文庫あり、すべて町々に事ある時此処に集会し、是を議す」とあり、境内に駿府総町の会所があって、年行事(町頭)が交替で定められた期間ここで事務を執り、主として町奉行所の命令の下達を司った。(府中は九十六ケ町)即ち府中の自治を当社内で運営したのである。

 延喜元年(901)に富士山本宮浅間大社(駿河国一宮)から分霊を勧請した浅間神社(富士新宮)も、駿府城拡張工事により遷座した神部神社も、安倍川の洪水で遷座した大歳御祖神社も、静岡浅間神社を構成するこの三社はすべて神聖とされる賎機山に集まってきた。
 恐らく賎機山に当初祀られていた神社は、機織りに関係した渡来人の祖神であろう。しかし私は、それらの渡来人が入ってくる前に物部氏が勢力を張ったことから、賎機山古墳の埋葬者やその古墳のすぐ下に祀られている大歳御祖神社の祭神(市神)は物部氏が祀る神だったのではないかと想像する。
 遠淡海(遠江)、いほはら、珠流河(駿河)の三国造、その後の伊豆や久努の国造らは物部氏の子孫で占められている。

 現在、大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)に祀られる大歳御祖命は神大市比売命とされる。大歳御祖神社では神大市比売命は大歳神や倉稲魂神(うかのみたまのかみ・お稲荷さん)の母であり、木之花咲耶姫命の姉としている。
 大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)を、「大歳の御祖の神」と解釈すると、大歳の母である神大市比売命となる。
 大歳御祖命を、「大歳という御祖の神」と解釈すると、祭神は大歳で、しかも大歳は“御親である”となる。
 私は「大歳という御祖の神」という解釈はアリだと考える。主祭神が神大市比売命ならば、ストレートに「大市比売神社」で構わないのではなかろうか。社名の大歳御祖神社の中で、一番重要なのは“大歳”であろう。“御親”は大歳を修飾しているにすぎないのではないだろうか。それに大歳を社名に入れながら、母と一緒に大歳を祀っていないのが気にかかる。
 配祀神は雷神である。雷神がスサノオで別雷神がスサノオの子のひとり大歳だという説がある。そうすれば大歳御祖神社は大歳の母と父を祀ることになり、もっともらしくなるが、やはり社名に“大歳”が入っているので本来は大歳を祀っていたと考えるのが妥当だと考える。
 大歳御祖神社は主祭神に大歳をまつり、相殿に母である神大市比売命(かむおおいちひめのみこと)を祀ったのが本来の姿だったのではないだろうか。そして、大歳は大王家の“御祖”であったのだろう。大歳御祖神社が大歳天神とも別称されたのは、大歳、あるいは母である神大市比売命が天神だと考えられていたのだろう。

 大歳の別名は饒速日命であるという説がある。饒速日命は物部氏の祖神とされるので、本来は大歳の名で饒速日命を祀っていたのではないだろうか。記紀によると、饒速日は神武よりも早く天の磐舟で斑鳩の峰白庭山に降臨し、長髄彦の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って大和に君臨したという。
 つまり、饒速日命は天孫族(神武天皇)よりも前に倭国の大王であった可能性があり、物部氏や尾張氏の祖として広く祀られていた可能性が大きいのである。そして、天孫族を中心に書かれた記紀神話では饒速日命は貶められている。

 饒速日命は尾張国一宮である真清田神社に尾張氏の祖「天火明命」として祀られている。そして、そのフルネームは「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」であることが明確にされている。
 少数であるが天照大御神の神像が男神像で彫られることがあるが、これはフルネーム「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」の“天照国照彦”から饒速日命を天照大御神として彫ったものだとされる。本来、日神は男神が相応しい。皇祖神のアマテラスを日神とすることには無理があるように感じる。

 私が注目するのは、大歳御祖神社も神部神社も元は駿府の街中に祀られていて、それは旧安倍川の近くだったことが考えられることだ。
 大歳御祖神社は大歳と一緒に市神として神大市比売命を祀り、神大市比売命は安倍川の水の女神でもあったのではないだろうか。そして、神部神社も草創当時は機織に関する神を祀っていたとも云われる。

 私は瀬織津姫に統合される女神のプロトタイプの女神に、神大市比売、湍津姫(宗像三女神のひとり)、木之花咲耶姫、御歳(大歳の娘)、織姫(七夕姫・棚端姫)などを挙げたい。これらの女神は、解釈次第ではアマテラスの強力なライバルになりえるからである。
 ここでは安倍川の女神、山の産物と海の産物が出合う「安倍の市」の市神として神大市比売命(かむおおいちひめのみこと)が祀られていたのではないか。カムイ(神威、神居)は、アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のことだが、神大市比売において「神」を「カム」と読むのは、この神の縄文的古さを表すようで興味深い。
 神大市比売はやがて市で商われる布類と関係する渡来人が祀る機織に関する神の神格も備え、水の女神の代名詞である瀬織津姫に昇華していったのだろう。
 古代において男女神がペアで祀られることが多いが、古くは安倍の市で祀られていたのは、饒速日命(日神)と瀬織津姫命(水神・月神)だったように思う。


 それにしても、静岡浅間神社の社殿群は立派で一見の価値がある。訪れたのが夕方に近く、曇っていたこともあり、いい写真が撮れなかったのでネットから写真を掲載する。(多分に私のカメラがよくないせいもある)
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 この社殿を造営でき、焼失後も再建し維持できたのには、やはり強力なスポンサーがいたからである。

 当社は延喜式内社として朝廷・国司の奉幣や祈願の尊崇を寄せられて惣社であった。鎌倉時代以降、歴代幕府など武門武将の崇敬を受けた。
 貞応3年(1224・元仁元年)執権北条義時は当社に使いを差遣し社頭を検分せしめた。
 当国守護職の今川氏も当社を崇敬した。延元3年(1338)今川範国は願文を納め、範氏は天下泰平の祈願を修し、義元は老母寿桂尼に無上の満足あらんことを祈願して、菩薩舞装束一式を奉納する等、今川家は氏神として庇護した。
 『風姿花伝』によれば、能楽の始祖 観阿弥は今川氏の氏神である当社に能を奉納し、この地で死去した。そのため当社は観阿弥終焉の舞台としても知られており、楼門脇には26世宗家観世清和氏による顕彰碑が建てられている。

 元仁年間(1224年頃)に鎌倉幕府は焼失した社殿を再建し、延文年間(1356年頃)には守護職今川家の造営があり、天正7年(1580)には社殿が焼失したことにより武田家は直ちに造営に取りかかった。

 しかし、何と言っても最大のスポンサーは徳川将軍家であった。
 徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯にわたって当社を篤く崇敬したという。 1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行った。
 当社には、県指定文化財の紅糸威腹巻(「腹巻」は鎧の一種)が伝えられる。これは家康の元服のために今川義元が調進したとものとされる。
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 時代を経て退色しているが作られた当初は鮮やかな鎧だったのだろう。


 1582年(天正10年)、三河・遠江の戦国大名となっていた家康は、武田氏攻略にあたり戦勝を祈願し、首尾よく攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で、社殿を焼き払い、当社背後にあった武田方の賤機山城を攻め滅ぼした。
 
 小牧・長久手の戦いの翌年、天正13年(1585)浜松から駿府に入った家康は、ほぼ新規築城に近い形で駿府城の修築を始め、天正17年(1589)に天守を完成している。
 天正14年(1586)、秀吉に抗することは難しいと、ついに家康は上洛する。天正18年(1590)には、秀吉の命で家康も小田原に出兵する。その後、関八州を与えられ江戸に移封された。
 1600年の関ヶ原の戦いに勝利して実権を握った家康は、征夷大将軍となり名実ともに天下人となるが、2年後の慶長10年(1605)には将軍職を秀忠に譲り、自身は大御所として隠居の形をとるが実権は握り続けた。(大御所政治)
 慶長12年(1607)2月、家康は駿府城の拡張工事を開始し、畿内を中心とする約10か国の大名に普請手伝いを命じ、同年7月には天守閣が完成した。家康は10月には駿府城に移り住んでいる。この時に静岡浅間神社の社殿も造営されたのであり、武田氏攻略のため社殿を焼いてから20年以上の歳月が経っていた。この時、家康は天下泰平・五穀豊穣を祈願して、当社に稚児舞楽(現、静岡県指定民俗文化財・4月5日奉奏)を奉納したと伝えられる。

 江戸と駿府のいわゆる二元政治で、家康は主に外交を担当したようだ。各国大名との連絡を密にとり、豊臣氏を滅亡させる準備を始めた。大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615)で豊臣を滅ぼした家康は1616年に74歳で亡くなり、東照大権現として久能山東照宮や日光東照宮に祀られることになる。

 関ヶ原の戦いのあと家康は3人の息子のうち誰を後継者にすべきかを家臣を集めて尋ねた。本多正信は結城秀康(越前松平家宗家初代)を推し、井伊直政と本多忠勝は松平忠吉(徳川秀忠の同母弟、井伊直政の娘婿にあたる。慶長12年(1607年)、関ヶ原の戦いの折に負傷した傷がもとで江戸で死去、享年28。)を推し、大久保忠隣のみが「乱世においては武勇が肝要だが天下を治めるには文徳も必要。知勇と文徳を持ち謙譲な人柄の秀忠様しかいない。」とただ一人秀忠を推した。
 後日、家康は同じ家臣を集め後継者は秀忠とすると告げた。

 秀忠は、慶長10年(1605年)に、第2代征夷大将軍となるが、実権は大御所である家康が握っていたと考えられる。秀忠が実際に将軍親政を開始したのは家康が死去した元和2年(1616年)以降だとされる。

 第3代将軍徳川家光は、慶長9年(1604)に生誕し、弟の徳川忠長は慶長11年(1606)に生誕している。
 幼少時の竹千代(後の家光)は病弱で吃音があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年(1606年)に弟・国松(後の忠長)が誕生すると、家光と忠長の間には世継ぎ争いがあったとも言われる。その際、家康が長幼の序を明確にし、家光の世継決定が確定したと言われるが、実際には家光の世継決定は元和年間であると考えられるので、世継ぎ争いによる弱体化を防ぐためと安定化のために家臣団により「長幼の序」が選択されたようだ。

 それでも、弟の徳川忠長が軽視されたわけではない。元和4年(1618年)には忠長は甲斐国甲府藩20万石藩主になっている。このとき忠長はわずか12歳なので、実際には家臣が実務を担当したと思われる。

 元和9年(1623)に徳川秀忠は将軍職を嫡男・家光に譲ったが、父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣って自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。
 翌年の寛永元年(1624)には忠長(18歳)は、駿河・遠江・甲斐3国で知行55万石に加増されている。忠長の通称は駿河大納言という。

 寛永8年(1631年)、忠長は乱行により父秀忠に勘当され、秀忠は処分を将軍家光に一任した。
 家光は酒井忠世・土井利勝などを再三遣わし、2人しかいない兄弟と更生を促し、忠長もこれに同意し一時平静を取り戻したというが、結局は回復せず寛永8年(1631)5月18日に甲府蟄居が命じられた。その際、秀忠側近の金地院崇伝らを介して赦免を乞うが許されなかった。
 このころから父の徳川秀忠は体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年1月に薨去した。父秀忠の危篤に際して、忠長は江戸入りを乞うたがこれは許されなかった。

 家康のブレーンに天台宗の僧・南光坊天海と臨済宗の僧・金地院崇伝がいたが、家康亡き後、引き続いて秀忠の側近として仕えたようだ。その後、天海は家光派、崇伝は忠長派になっていったようだ。

 忠長の行状は悪化し、ついに寛永9年(1633)10月20日に改易と高崎への逼塞が決定した。その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座したとされ改易されている。
 寛永10年12月6日(1634年1月5日)、徳川忠長は幕命により高崎の大信寺において自刃した。享年28。
 これらは、家光による忠長派の粛正であった可能性が高いが、秀忠の晩年その庇護を失いつつあるストレスにさらされた忠長にも乱行があったことは確からしい。

 駿府藩主・駿河大納言徳川忠長は、駿府庶民が神聖な山とした賤機山で猿狩りを行い、浅間神社の神のつかいの猿を狩ったことで、兄である将軍・徳川家光の逆鱗に触れたことが知られている。 家光にとって当社は祖父・家康を祀る重要な神社でもあった。
 静岡浅間神社が所蔵する太刀(銘)長船住人長光は、小牧・長久手の戦の和睦の印として、秀吉から家康に贈られた太刀で、家康が大御所として駿府在城の折、大歳御祖神社に奉納したと伝えられる。女神を祀るとされる大歳御祖神社に家康が太刀を奉納したとは考えづらく、当時は別の祭神が念頭にあったのではなかろうか。
 当社は、徳川家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職社僧の装束類も幕府から下行されるようになるなど徳川将軍家から手厚く庇護されるようになった。
 
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