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zoom RSS 旅 642 静岡浅間神社(3)

<<   作成日時 : 2017/03/03 11:43   >>

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2016年 5月16日
静岡浅間神社(3)

 寛永11年(1634)、家光上洛の折、社殿の修造を命じ、日光東照宮や浅草寺などを手がけ幕府御用であった大工木原木工允藤原義久を幕府方の棟梁とし、華村長左衛門を地元大工方棟梁として造営が行われた。
 貞享元年(1684)ごろに貝原益軒の記した『吾妻路之記』には「美麗なる大社なり。日本にて神社の美麗なる事、日光を第一とし、浅間を第二とすと云う」とあり、古くから「東海の日光」と称えられていたことが分かる。
 この造営中のことだろうが、寛永12年(1635)に駿府城の5層7階の天守閣が焼失している。
 
 静岡市の特産品として家具・鏡台・漆器などがあるが、これは静岡浅間神社の造営と関係がある。寛永年間に家光が浅間神社の造営にあたって、社殿を金銀でちりばめ、髹漆(きゅうしつ)を施して飾るため各地から名工たちを集めたが、これらの漆工の一部が工事終了後、静岡に永住して、土地の人々に漆芸技術を教えたものだ。これが駿河漆器の発祥と伝えられるが、その後、駿府漆器は参勤交代の諸大名などによって全国に広められた。幕末の開港直後は特に漆器が重要な輸出品となり、横浜には駿府商人による販売所が作られた。磁器のことをChina・Chinawareというが、漆器のことをJapanwareという。

 その後、安永と天明の両度、町方の出火により社殿にも延焼したが、文化元年(1804)から60年余の歳月と、当時の金額で10万両の巨費を投じて再建されたのが現在の社殿群である。
 この造営は徳川幕府直営工事として行われ、当社所蔵の古文書によれば、寛永年中の造営に携わった華村(花村)家をはじめ大工や塗師方の子孫、また全国より優れた職人が集められた。特に彫刻には信州諏訪の立川和四郎親子三代や弟子一門が携わり、その功により立川和四郎は幕府より内匠の号を賜っている。

 寛永より当社の造営に尽力した職人は、木工・模型・漆器などの工芸品を手がけるようになり、駿河指物・駿河漆器など静岡市の特産工業へと発展した。また模型はその後プラモデル産業へと発展し、静岡は全国一のプラモデル産地となっている。

 家康の今川家人質から始まった徳川家と浅間神社の縁は、明治維新で田安亀之助(後の徳川家達)が駿遠など70万石の駿府藩主として江戸から駿府(府中)に入ったことで、その後も続いた。静岡浅間神社の繁栄は東海道の要衝にあったということと、徳川家の庇護なしでは考えられない。


 余談であるが、元NHKアナウンサー山川静夫さんの父親は、当社の宮司を務めていたそうだ。私は山川静夫さんが「お国自慢にしひがし」という番組の司会をやっているとき会ったことがある。私の地元に「お国自慢にしひがし」が来た時、暇だったので地元の若者の集団にまぎれてステージに上がった。リハーサルの時には山川静夫さんは私と同じくらいか少し低い身長だったが、本番では身長が高かった。上げ底の靴を履いたのであろう。ゲストの一人に山本リンダさんがいたことを覚えている。


 参拝の栞などの由緒の最後には、「当社は海外雄飛で有名な山田長政公の産土神としても知られている。」と書かれているので、最後に山田長政について記したい。

 山田長政(?〜1630)は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物で、通称は仁左衛門(にざえもん)。
 出生は駿河国の富厚里とされるが、同じく駿河国の馬場町、伊勢国や尾張国とする説もある。
 沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡った。後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、頭角を現しアユタヤー郊外の日本人町の頭領となった。その後、アユタヤ国王より高官に任ぜられ王女と結婚したという伝説が生まれたが、タイ側の記録に該当する人物が見られないことから、その歴史的実像は明らかでない部分が多い。
 静岡浅間神社には山田長政奉納の「戦艦図絵馬」(写)が残されている。『戦艦図絵馬』原典は焼失し模写したものが、ガレオン船として描かれている
 280年以上経った大正4年(1915)11月10日に従四位が贈られている。

 遠藤周作や山岡荘八などが山田長政の本を書いているし、2010年にはタイ映画『ヤマダ アユタヤの侍』が製作されているので、山田長政は実在の人物とされるが、タイ側の記録に該当する人物が見られないことで、実在を疑う意見もある。

 京都大教授(国際政治学、外交史)であった矢野暢(やのとおる)は、昭和62年(1987年)3月4日の毎日新聞(夕刊)に次のような記事を書いている。

『 長政は実在したか  ― 日タイ修好百周年に寄せて −  
一次資料も明治期の写本
 今年は、日タイ修好百周年記念の年にあたる。官民あげて記念の行事や事業の準備が進められていると聞くが、この年にあたって気になることがある。それは、ほかならぬ山田長政のことである。
 日本人は、タイというとすぐ山田長政の名前を口にする。それは、ほとんど条件反射的ですらある。しかし、山田長政は、ほんとうに日タイ友好の象徴といわれるにふさわしい存在なのかどうか、この際、学問的に再検討を加える必要がありはしないかと思う。ことと次第では、山田長政の歴史的実在すらを疑わねばならない可能性すらあるのだ。
 過去に山田長政を実在の人物として描きあげてきた日本側の資料は、必ずしも好ましいものばかりではない。もっとも初期の資料として知られるのは南禅寺金地院の僧 崇伝の『異国日記』であって、「山田仁左衛門長正」という名前が記されている。長政についての確かな資料が元和7年(1621)のこの日記だけだという事実は、もっと注目されていい。 ついで、智原五郎八の『暹羅国山田氏興亡記』は、山田長政伝説の種をまいた作品である。五郎八自身が聞き書きによると断っているのに、一次資料として、ごく最近まで頻繁に引用されてきた重大な存在でもある。これは寛永期(1624〜1645)の作といわれるが明治14年の政府修史局写本しか残っていない。ところがこの『暹羅国山田氏興亡記』は、文化5年(1808)の近藤重蔵『外蕃通書』によって、根も葉もない虚説と斥けられている。
 宝永4年(1707)の『天竺徳兵衛物語』も有名だが、およそ90歳になっての追想禄である。その他いくつかあるが、いずれも伝聞を越える具体的な記述は乏しく、また山田の出身地についても伊勢あるいは尾張としていて、静岡出身とはしていない。そして共通して、山田の晩年、すなわち南タイに渡って業死を遂げたといわれる局面については記述していない。
 ところが、文化10年(1813)に出た平田篤胤の『気吹飈(いぶきおろし)』は、智原の『暹羅国山田氏興亡記』などを素材に、まさに荒唐無稽な山田長政論を展開している。見てきたようなウソでかたまっており、武勇の人物としての山田像がこの講釈本で決定的になってしまう。ただ、話の展開は、後代の山田長政論とは細目がかなりちがっている。
 このような江戸期の山田長政像がより鮮明な容姿を与えられるようになるのは、明治維新以降である。主として静岡の郷土史家の仕事を通じて、かなり具体性をもった山田長政像がつくりあげられていくことになる。とくに関口隆正や間宮武などという人物のことは、この際洗い直してみる必要があろう。

南進論風潮強まったとき
 明治20年代という明治期南進論の風潮に導かれたものであろう、明治25年の関口の『山田長政事蹟考』と『山田長政本伝』は、山田が駿府の生まれであったかのように実証してみせた作品である。静岡の郷土史家たちは、山田の子孫の存在と過去帳の存在まではっきり調べ出してくる。
 山田長政の存在が公的に認知されたのは、大正4年11月、宮内大臣波多野敬直によって従四位を贈られたときであった。
 折しも、大正期南進論の最盛期であった。皮肉なことに、山田長政がシャムで活躍したかどうかについての実証的な検証は、むしろその後に行われるのである。
 岩生成一氏の『南洋日本町の研究』の刊行は大正15年のことであった。これによって、アユタヤーの一角に所在した日本人町の様相が明らかになった。そして、その岩生氏が、山田長政の実在を実証する決定的な資料として、アユタヤーに住まったオランダの商館員ファン・フリートの「シャム国革命史話」というオランダ語文献を発見することになる。昭和5年のことであった。
 シャムに長年住まった三木栄氏の一連の山田長政論が、昭和の初めごろから「史学雑誌」等の論文で世に問われることになる。三木栄氏の代表著『山田仁左衛門長政』が刊行されるのは昭和11年秋、まさに日本が国策としての南進政策を打ち出した直後のことであった。
 三木氏は、岩生氏を補佐するかのように、戦後にかけて独自の山田長政論を展開しつづけることになる。
 問題は、そのファン・フリートの作品に登場する日本人である。「オークヤー・セーナーピムック」という人物である。
 シャムでは官吏になると欽賜名(ラーチャティナナーム)に名前が変わるしきたりであったから、山田長政が山田長政として活躍しえたわけではない。岩生氏はじめ多くの日本人学者は、この「オークヤー・セーナーピムック」こそが山田であると比定している。

問われる歴史学の破綻
 私が気にするのは、まさにこの点である。江戸期にはじまる山田長政像の形成過程の吟味をいい加減に放置しながら、それを受けて長政探しを行った昭和期の精神性、そしてファン・フリートの描く、あたかもヨーロッパの宮廷物語のような劇的な描写に歴史の現実を読みとろうとした性急で浅薄な知性の質に、私はこだわりたいのである。むろん、タイ語の信頼できる文献には、どこにも「山田長政」もなければ「オークヤー・セーナーピムック」も出てこない。アユタヤーが滅亡したときに史料が消えたからだ、と、みな解釈しているが、そうだろうか。
 密航してシャムに渡った二流の商人「山田長正」は、あるいは実在したかもしれない。それ以上の存在ではなかったことは確かであろう。だが、山田長政はつねに武断的英雄として描かれてきた。そのこと自体、望ましい歴史学的認識の破綻を意味しよう。それよりも、日本人は江戸から今日にかけて、なぜ東南アジアとの関わりにおいて「山田長政」を必要としたのか、それこそが問題であろう。アジア事情にうとい日本の政治的知性の、むしろ知識社会学的問題として、その点は問われねばなるまい。私たちは、南進論的思考をこの際きっぱりと超克すべきであろう。今年は、まさにそのための年なのである。 』

 記事を書いた矢野暢さんは、1936年、熊本県生まれ、京都大学法学部卒。法学博士。東南アジアの地域研究に優れた業績を残し「タイ・ビルマ現代政治史研究」「日本の南洋史観」「劇場国家・日本」など著書多数。「冷戦と東南アジア」で昭和61年度吉野作造賞受賞している。
 アジア地域の社会科学者として初めてスウェーデン王立科学アカデミー会員になり、またアウンサンスーチーの京都大学留学時代の恩師といわれる。
 しかし、1993年に女性秘書から「暴力を用いた性的関係の強要があった」として、「キャンパス・セクハラ」の告発を受け、京大を辞職に追い込まれる。
 1999年ウィーンの病院で客死、享年63。病名は故人の名誉のため新聞報道では一切伏せらているがピック病(Pick's disease、PiD)ではないかといわれている。
 ピック病は人格異常等の発症から、平均的に5〜6年で死に至る。1993年に京大を辞職に追い込まれてから、亡くなる1999年までは、ちょうど6年である。
 ピック病は前頭側頭型認知症(FTD)であり、特有の人格変化、行動異常、言語機能障害を示す初老期の神経変性疾患である。時に運動ニューロン疾患症状も示すことがある。人格変化と行動障害が目立つという。

 ピック病は人格異常の一つに、「脱抑制、反社会的行動」がある。具体的には礼節や社会通念、他の人からどう思われるかなどを全く気にしなくなり、本能の赴くままの我が道を行く行動が特徴的となる。悪気なく万引きなどを行い周囲とトラブルを起こすこともある。注意や指導に対しても全く気にすることもなくあっけらかんとしている。脱抑制の結果衝動的な行動にはしることもある。自発性の低下が進むと目立たなくなることが多いという。
 矢野暢さんの晩年の症状はピック病によるもので、1993年に女性秘書から「暴力を用いた性的関係の強要があった」として、「キャンパス・セクハラ」の告発を受け、京大を辞職に追い込まれたのも、ピック病が原因と考えられる。

 矢野暢さんの晩年が惨めなものだからと言って、彼の業績を否定するものではない。私は山田長政に対する一考察も的を得ていると思う。
 山田長政を有名にした初期の人に金地院崇伝と平田篤胤がいることが気になる。幕末期の国学者である平田篤胤は、神社の由緒や祭神について独自な説を展開した人でもあり、その影響力は大きかった。平田篤胤は静岡浅間神社の境内社「玉鉾神社」に祀られている。


 
 静岡浅間神社の参拝を終えたのは午後5時頃だった。日は長くなったとはいえ、曇っていることもあり、夕闇が迫っている。これから一路横須賀へ帰る。2012年の九州への旅の帰りに、最後に寄ったのが富士山本宮浅間大社であったことを思い出した。

 恒例の修善寺のテニス合宿の後、そのまま義母の一周忌の準備のため長野に戻った。長野からの帰りに、再び静岡県に寄り道して、5月15日、16日の2日間短い旅をした。
 瀬織津姫にこだわっているわけではないが、気がつけば瀬織津姫がついて回る旅であった。

 瀬織津姫の神格の主な部分は“水の女神”である。縄文時代の昔から変わらず、人が住みつく場所には“水”が必要である。縄文人は霊を人だけではなく、動物も含め生命のあるもの全てに見出した。そして生命を支える「水」にも「土」にも「太陽」にも霊を見出したようだ。現代人には考えられない「水霊」「土霊」「日霊」の魂を感じ取れたのかもしれない。
 弥生時代に入って稲作が始まり、水稲栽培に水が必要となると、水への信仰は穀物への信仰にも繋がった。瀬織津姫の神格に新たに加わるものが出てきたのは当然であろう。山から水が流れ出し、川になり海に注ぐ。古代人は「水」への信仰を、その供給源である「山」へも繋げた。

 植物(光合成生物)は、光エネルギーを使って水と空気中の二酸化炭素から炭水化物を合成し、酸素を大気中に供給している。古代人は、二酸化炭素や酸素のことまでは分からなくとも、水と日(光エネルギー)の重要性は分かっていた。そのことを考える時、日神と水神は最重要の神であったことは、昔も今も変わらない。
 瀬織津姫の神格の中心に“水の女神”がある限り、これからも瀬織津姫に出逢うことは多いであろう。

 静岡からは一路高速道路で横須賀へ帰った。夕食でのビールが楽しみだ。ビール(麦酒)は、麦芽、ホップ、水を主な原料とするが、主成分は水である。天然水のビールは美味い。ビールも「水」と「太陽」の恵であることを思いながら、冷えたビールが待つ我が家へ車を走らせた。

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