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zoom RSS 旅 643 比々多神社(1)

<<   作成日時 : 2017/03/08 18:24   >>

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2016年 5月18日
比々多神社(1)

 妻が相模原に出張で、少し交通が不便な場所だから送ってくれと言うので送った。前日に頼まれたので、送るついでに比々多神社と大山寺へ行こうと考え、場所だけはしっかり確認した。
 以前、相模国の三宮は比々多神社であることを知っていたので、通りすがりに比々多神社と社標が出ていた神社に寄ったのだが、そこは三宮ではなかったようなので、三宮はぜひ訪ねたいと思っていた。
 比々多神社(三宮)は、国府祭(こうのまち)で寒川神社(一宮)、川勾神社(二宮)などと共に重要な役割を果たす。
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現地説明板より
『 相模国 三之宮 比々多神社
鎮座地 神奈川県伊勢原市三之宮1468番地 
御祭神
 豊国主尊 天明玉命 稚日霊命 日本武尊 大酒解神 小酒解神
由緒
 神武天皇6年国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を創建したと伝えられる。 崇神天皇の御代神地神戸を奉られ、大化元年(645)社殿修復の際、木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納 又 此年に酒解神を合祀、うずら瓶(県重要文化財)を納められた。
 天平15年(743)大宮司に竹内宿禰の後裔 紀朝臣益麿を迎えて初代宮司に任命勅して荘園を賜り真田を称す。
 天長9年(832)6月国司橘朝臣峯嗣を勅使として相模国の総社として冠大明神の神号を奉られ、鎌倉時代にはいり将軍源頼朝が文治元年(1185)に国土安泰の御願書を奉り、建久3年(1192)には妻政子の安産を祈り神馬を奉納された。
 南北朝室町時代に戦さに巻込まれ、神領の大半を失い衰微したが、徳川時代に当社が相模国の名社であることを知った家康公より社領を新に寄進され以下十四代将軍まで続いた。よって社運も持直し、明治時代には、社格は郷社となり社格制度廃止後は指定神社となる。
御神徳
 主祭神豊国主尊様は国土創造神様で大地を整えることは元より地上に生存する万物の芽組み(恵み)を育成 又は、あらゆるものを考え出し組み立てる大元を司りになられます。
 これは私達が生活する中で子供の成長や縁組み、そして家庭内の安穏 又 諸産業の発展へと御神威を発揚せられます。御参拝の皆様方には大神様の御加護をいただき、よりよき生活が営まれ御多幸あられますことを御祈念申し上げます。 』
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 社務所で「参拝の栞」(有料)を頂いた。参拝の栞より由緒などを載せる。
『 御祭神
・豊國主尊(豊斟渟尊・とよくむぬのみこと)
 国土創造の神、 大地・開発・発明・創造

・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)
 玉造りの神、 不思議な霊力発揮・子宝

・稚日女尊(わかひるめのみこと) 
 機織りの神、 衣料

・日本武尊 
 叡智と武勇の神、 出世・開運・除災・交通・商売

相殿(あいどの)
・大酒解神(おおさかとけのかみ)(大山祇神)
・小酒解神(こさかとけのかみ)(木花咲耶姫)
 酒造りの神、 酒類業・山火鎮護・縁結び・子授安全


旧地名 
 相模國 大住郡 日田郷 三宮宮前 埒面(らちめん)
 古代の地名を知る上で重要な史料となる『倭名類聚鈔』(10世前半)に、相模國大住郡に「日田」郷という地名がみうけらます。
 これより先、奈良のはじめ、和銅6年(713)に当時の朝廷が、全国の地名(郡名・郷名)は好字2字で表記するよう改める指示を出したので、この時、「比比多」より「日田」に改められている。それ(8世紀初頭)以前は、「比比多」の地名であり、土地の神を祀る社として比比多神社は存在する。

社有地  約4千坪 その他境外山林

由緒
 比々多神社の歴史は大変に古く、神社境内地・近隣より発掘出土した遺跡遺物などから推測すると、当社の淵源は今から約一万年以上前まで遡れる。
 論より証拠、発掘された縄文時代中期の環状配石(ストーンサークル)中の「立石」(メンヒール)こそ祭祀遺跡であり御神体であり、原初的な神社の信仰、古くからの聖地信仰の指標を現している。
 「社伝記」(天保5年・1834年)によると、御鎮座は初代神武天皇6年(紀元前655年)、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最上の地と選定、神を祀る社を建立し、相模国の霊峰大山を神体山とし、豊国主尊を日本国霊として祀ったことに始まるという。
 第10代崇神天皇7年、神地「神戸」(ごうど)を奉られ、第36代孝徳天皇・大化元年(645)、現在相殿に祀られている大酒解神・小酒解神の二神が合祀されるに伴い、「うずら瓶(みか)」と称される須恵器が奉納されたという。
 次いで、第41代持統天皇・朱鳥6年(692)、相模国の国司・布施朝臣色布知(しこふち)によって社殿の改修が行われ、一対の木彫り狛犬が奉納された。尚、この「うずら瓶」と「狛犬一対」は、共に、『新編相模風土記稿』に紹介されており、現在は、県重用文化財・市重要文化財に指定されている。
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 天平15年(743)、武内宿祢の裔孫、紀朝臣益麿(ますまろ)を比々多神社初代宮司に迎え、同時に第45代聖武天皇より荘園を賜る。
 第53代淳和天皇・天長9年(832)、国司、橘朝臣峯嗣(みねつぐ)を勅使として当国総社「冠大明神」(こうぶりだいみょうじん)の神号を天皇より賜る。
 この神号は、『吾妻鑑』建久3年(1192)8月9日条にもみえる。即ち、征夷大将軍源頼朝公が妻政子の実朝出産に際し、その安産祈願のため相模国の社寺に神馬を奉納したという記事の中に、当社が「三宮冠大明神」の名を以て列記されているのである。
 第60代醍醐天皇の御代、延喜年間に全国の主要神社の名簿(これを『延喜式神名帳』という)が作られるにあたり、当社も登載され、以後、延喜式内社(又は式内社、式社。『延喜式神名帳』登載神社2861社、相模国13座の一、大住郡4座の一)として国幣(朝廷より賜る幣帛)を奉る神社となる。
 当国を本拠として天下の覇業を大成した源頼朝公は、元暦元年(1184)、大規模な社殿再建を行い、社殿回廊など甍を並べて聳え、文治元年(1185)、国土泰平祈願のための御願書を奉る。
 南北朝、室町時代になると戦禍によって神領(当時は約4倍の17000坪)の大部分を失い、また、明応年間(1492〜1501)に、社殿を兵火によって焼失し、天正のはじめ、社地を埒面(らちめん)から現在の地(旧神主屋敷)に移転遷座する。
 天正19年(1591)、当社が相模国の名社であることを知った徳川家康公によって社領10石が寄進されるに及び、ようやく社頭の復興をみるに至った。以後、慶喜公に至る15代の将軍から神領の寄進がなされ、明治維新に至る。
 享和12年(1802)、神祇白家(白川家)の門人(440社余)に附属し、「社の他に祝部以下社家在之」(『諸國神社附属帳』文化13年改)とあり、社家社人を多く要した。
 明治6年(1873)、社格を2大区6小区の郷社と定められ、16ヶ村の総鎮守となる。
 明治41年(1908)、神饌幣帛供進社に指定される。
 大東亜戦争に突入すると、境内の宮鐘も資源回収のため供出されたが、戦後、氏子崇敬者の幸福と平和を願って、人間国宝・香取秀真(かとりほつま)氏に新鐘の制作を依頼した。昭和25年(1950)、香取秀真・正彦父子制作による第2の宮鐘が完成し境内に設営された。
 現在は、献幣使参向指定神社に定められ、事始めの大神さまとして、近隣は基より広く関東一円の人々より篤く崇敬されるに至っている。

御神宝
・うずら甕(うずらみか) (県重要文化財)
 『新編相模風土記稿』(江戸時代の官撰地誌・1841年)に、「鶉瓶と名付口直径六寸八分高一尺五分、石凝姥命(いしこりどめのみこと)作と云傳ふ、旱魃の時は此器に水を盛り神前に供して雨を請ひ、又霖雨(長雨)の時は社地四隅の土を盛りて晴を祈るに験あり」と記され、古墳時代から平安時代にかけて作らた須恵器の系統を引き、灰色を呈す。
 例年11月に斎行される「酒祭」にのみ本殿より出御する。

・狛犬一対 (市重要文化財)
 高さ一尺三寸余り、古色を帯びていて、石・銅・鉄製にはない木彫りならではの柔軟な味わいが深く、当時(7世紀)の彫刻技術を今に伝える。
 頭の巻毛が簡素で、四股は長め、現在の狛犬は頭が大きいのに比べ、身体の均整がよく調和して、逞しさの中にも軽快さと品位が感じられる。関東最古の狛犬。

神社に由来する地名
・三之宮(さんのみや)
 『風土記』に「当所は、三宮明神鎮座の地なれば即ち村名とす」とあり、相模国の由緒ある神社を勅使が参向する順を称した。
・竹ノ内(たけのうち)
 武内宿祢の裔孫、初代宮司・紀朝臣益麿の別邸があったことから小字名となる。
・御所(みしょ)
 当社裏斎館の跡を云う。
・領家(りょうけ)
 当社の荘園・神領の役所があったことから地名となる。
・皇家(こうけ)
 国司が当社へ奉幣のために参向する際の仮家があったことから地名となる。
・神戸(ごうど)
 崇神天皇7年、天皇より当社に神戸が賜われ、その神領地がそのまま地名となる。
・真田(さなだ)
 天平15年、聖武天皇より荘園を賜り地名となる。
・血見せ坂(ちみせざか)
 坂が急なため神輿渡御の際、怪我人が多く血を見なければすまなかったことからこの名が付く。
・化粧塚(けしょうづか)
 参道口と神揃山入口の2ヶ所にあって、国府祭の折、御神輿を整え、神官は衣冠束帯を旅装に着替え、供人も是より旅姿となる。
・神揃山(かみそりやま)
 神集山とも云われる。端午に、一宮寒川神社、二宮川勾神社、三宮比々多神社、四宮前鳥神社、平塚八幡宮の五社の神々の御神輿が集い坐すことから名付く。
・埒面(らちめん)
 天正19年(1591)以前、社殿のあった境内地(7町歩)を云い、大祭の折に、鉄棒を組み警護する事を埒を組むと云う。

三之宮郷土博物館
 古代文化発祥の地と考えられる比々多神社周辺には、昭和初期、360基を超える古墳があったと云われている。
 昭和25年(1950)、文化財保護法が制定されて以来、数多くの発掘調査が行われ、貴重な資料の散逸を防ぐ為、昭和28年(1953)、比々多神社前宮司(第64代)永井参治氏により当館は設立された。
 館内には、神社境内をはじめ、登尾山(とおのやま)古墳、尾根山古墳、埒面(らちめん)古墳、栗原古墳、下谷戸(しもやと)遺跡など周辺から出土した考古資料として、縄文式・弥生式の土器類、古墳時代の馬具・刀剣、埴輪、銅鋺、勾玉などの装飾品や平安期の経筒など、また、神社伝世品として、中世から近世にかけての古文書、絵図、掛け軸、神器具など、収蔵品は2000点に及ぶ。
 昭和31年(1956)、「うずら瓶」が県重要文化財に指定されたのを始め、「狛犬一対」「環頭大刀柄頭」「登尾山古墳出土品」「尾根山古墳出土品」「埒面古墳出土品」が市重要文化財に指定されている。
 郷土の歴史に関心を寄せることは、郷土愛を育み、ひいては、家族を思い、先祖様や氏神様に素直に感謝する心を養います。地域の歴史を知り、先人たちの培ってきた文化を守り伝えましょう。 』

 有料の「参拝の栞」は充実していた。最後にも有料(200円)の「三之宮郷土博物館」へ入り資料をもらえたのでよかったが、写真が白黒なのが残念であった。


 境内社もいくつかあった。
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 金比羅神社、秋葉神社の他にも、白山神社、弁天社、神明神社、東照宮権現社、稲荷神社などがある。


 参拝の栞にあった宮鐘もあった。
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 宮鐘とは云うものの、神仏習合時代の梵鐘の名残である。栞にあるように、この宮鐘は、昭和25年(1950)に香取秀真・正彦父子制作によるものだが、太平洋戦争で供出された前の宮鐘には次のようにあったという。

 『新編相模国風土記稿 巻之50』に記述されている、前の梵鐘(延宝4年・1676年の宮鐘)の銘文には、「聖武天皇の御世、当地に玉宮を創建して染屋太郎太夫時忠の霊を祀り……」と、天平年中鎌倉鎮将の染屋太郎大夫時忠の霊を祀ったとあった。しかし同書では、これを祭神とするのは、今の社伝と大いに異なるので信用し難いとも述べている。
 染屋太郎大夫時忠とは、『新編相模国風土記稿 巻之50』によれば、『大山縁起』に出てくる大山を開山した良弁の父のことだと言う。
 中世以降に近在の大山修験が大きな勢力を有するようになった。そのため、比々多神社の祭神には大山縁起の影響が強く表れるようになったと考えられている。


 本殿の後方には、三之宮三号墳や東名高速道路の工事で見つかった下谷戸縄文遺跡が移築され、住居跡や環状列石が復元されていた。

現地説明板より
『 三之宮三号墳
 東名高速道路建設によって発掘調査され、後に左側にあります敷石住居と環状列石(ストーンサークル)の移設ととともに復元されたものです。
 この積石により当時の知恵と努力がしのばれます。 』
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現地説明板より
『 伊勢原市指定史跡 下谷戸縄文遺跡   昭和44年2月27日指定
 三ノ宮・下谷戸縄文遺跡は、東名高速道路の建設に伴い、昭和40〜42年に発掘調査されました。その場所は、三之宮比々多神社の南東、県道上粕屋・南金目線が東名高速道路と交差する付近にあたります。ここに残る遺構は、関係者の熱意により、昭和42年5月に移築、復元されたものです。
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 発掘調査は第3次調査まで行われ、三ノ宮字下谷1090番地を中心に縄文時代から古墳時代にかけての遺構が数多く発見されました。とりわけ縄文時代の遺構は、当時としては比較的珍しい大規模な配石遺構群が確認され、おびただしい数の石が出土したことで注目を集めました。時期は、出土した土器から縄文中期から後期と考えられます。
 主な遺構としては、張出し部を持つ柄鏡形の敷石住居址、配石、環礫方形配石遺構、墓壙群等があります。敷石住居址には、住居全面に石を敷くもの、中心部にのみ部分的に敷くものが見られます。配石は幅2mほどの帯状の範囲に石が集中して置かれているもので、それが半円形にめぐっています。環礫方形配石遺構は、小さな礫を一辺5mほどの方形に敷き並べたもので、周囲からは焼けた土や鳥獣の骨片が検出されています。また、配石の下からは人骨も出土しています。
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 こうした縄文時代の配石遺構群は、平成4年から始まった東名高速道路の拡幅工事や周辺の開発事業に伴う調査でも発見されており、より広い範囲に広がっていることが明らかになっています。市内の縄文時代の遺跡としては、日向の下北原遺跡と並ぶ代表的な存在であり、県内でも貴重な資料と評価されています。
 このほか、本遺跡では弥生時代後期、古墳時代前期の竪穴住居址、古墳時代後期の古墳の周溝等も確認されています。
 平成20年3月 伊勢原市教育委員会  』

 説明文に、「ここに残る遺構は、関係者の熱意により、昭和42年5月に移築、復元されたものです。」とあるが、移築されたものは既にその存在の輝きが失われているように感じられ、近くに咲いていた小さな花の生命力の輝きにさえ勝てない。
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現地説明板より
『 三ノ宮・宮ノ前遺跡
 三ノ宮・宮ノ前遺跡は、三ノ宮比々多神社の境内やその周辺一帯に広がっている遺跡です。これまでに5回にわたって発掘調査が実施され、縄文時代の竪穴住居、敷石住居、土坑、配石、ピットなどが発見されています。
 この案内板前の地点の調査では、縄文時代草創期(今から1万〜1万2千年ほど前)の遺物が出土しました。土器50点、石器類629点、礫51点などです。
 土器は「微驪N線文土器」と呼ばれる底が丸い深鉢形で、外面にみみず腫れのような細い粘土ひもが貼り付けられています。また、石器には三角形の「有舌尖頭器」があります。弓矢の先として使用されたものです。
 縄文時代以前の旧石器時代は寒冷気候で、人々は大型動物を獲物として生活していました。しかし、今から1万2千年ほど前に訪れた気候の温暖化により、増加した小動物、木の実、海産物などを食料とする生活へと変化していきました。縄文時代の始まりです。その変化にはさまざまなものがありますが、なかでも特徴的なものが弓矢の使用と土器の発明です。動きの速い動物を捕るための弓矢、木の実や貝などを煮るための土器が新しい時代を象徴する遺物といえます。
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 宮ノ前遺跡の縄文時代中期、後期には人々が定住する集落が営まれていました。中期では竪穴住居、後期では住居の床に石を敷いた敷石住居が発見されています。使用している石には、小田原から伊豆半島東岸に産出する根府川石と呼ばれる扁平な石も含まれています。重い石をわざわざ運んできたことになります。また、ひとつの敷石住居からは鹿の角で作った釣針が出土しました。大きさから大型の魚を捕るためのものと考えられます。
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 このように、宮ノ前遺跡は縄文時代の中心的な集落であり、当地が気候的にも、地形的にも優れた環境であったことを物語っています。
 このほかにも、三之宮比々多神社境内の付近では、弥生時代、古墳時代の遺物が出土したり、平安時代や中世の祭祀遺構が確認されたりしており、永い年月にわたり人々が活動していたことがわかります。
 また、ここから北側50mのところには、東名高速道路建設時に発見された下谷戸遺跡の敷石住居、配石が、三之宮比々多神社のご協力により復元されています。宮ノ前遺跡とも関連する縄文時代後期のものです。
 平成19年3月  伊勢原市教育委員会  』


 境内と道との間には水路があり、山側から水が流れてきている。
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 この坂を上った北西約200mのところに埒面古墳があり、文献によると以前はこの古墳の場所に当社があり、旧社地とされる。


 比々多神社は伊勢原あたりの平野部からは一段小高い丘陵部に鎮座している。ここは鈴川(源は大山)と栗原川に挟まれた大山の南東麓である。
 道を挟んだ土地も境内で招魂社や神池があった。
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 比々多神社は、「関東ふれあいの道」のI番目のコース上にある。
『 I番目のコース 太田道灌・日向薬師のみち
 このみちは県内17コースのうち10番目のコースで、国道246号坪ノ内バス停から長福寺・三ノ宮比々多神社・上粕屋神社を経て、太田道灌ゆかり上杉館跡・七人塚そして墓所、それに日本三大薬師の一つ日向薬師までの全長8.5kmの道です。 』

 2012年の春、湯河原に泊まった帰りに、伊豆山神社、川匂神社(相模国二之宮)、大山阿夫利神社、寒川神社(相模国一之宮)に寄ったが、そのとき太田道灌の墓へも寄ったことを思い出した。
 その時、相模国三之宮に興味を持ったことと、時間がなくて大山寺に寄れなかったことが、今日の訪問に繋がっている。


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