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zoom RSS 旅 644 比々多神社(2)

<<   作成日時 : 2017/03/08 19:03   >>

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2016年 5月18日
比々多神社(2)

 三之宮郷土博物館に入る前に、比々多神社後方の丘の上に元宮があるというので行ってみた。南斜面の畑や果樹園が広がる丘に元宮はあった。
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 ここからの眺めはよく、遠く平塚から大磯の辺りまで遠望することができる。
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 手前に見えるのが、恵泉女学園園芸短期大学(恵泉女学園大学の前身、2005年廃止)の建物だろうか?
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 東名高速道路も間近に見えた。元宮の後ろからは相模国の霊峰と云われる大山が見えた。
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 比々多神社に戻り、三之宮郷土博物館に入った。

現地説明板より
『 三之宮郷土博物館
 三之宮比々多神社は、相模國三之宮、延喜式内社としての歴史と伝統を有している。
 この地は大山を背に南面が拓け、相模湾を眺望する丘陵地に太古より人々が生活を営み中央政権との繋がりも深く、この地方の豪族が住んでいました。このことは三之宮、粟原付近一帯に多くの古墳や遺跡があり、その出土品により実証されます。
 旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・奈良・平安時代と各々の時代から多くの遺物が発掘調査で出土しています。
 この三之宮郷土博物館には、神社で祭祀に用いられた神具などが展示されております。
 特に伊勢原市指定重要文化財に指定された埒面古墳からの馬具一式・銅鏡・銀装の大刀・登尾山古墳の銅鋺・直刀・粟原古墳の環頭大刀柄頭等数多くの資料から悠久なる古しえを偲ぶことができます。
 当館は先々代永井健之助社司が人類学、考古学者である坪井正五郎氏と親交があり、共に調査収集を行い、その意志を継いだ先代の永井参治宮司が考古学に造形深く収集したものが散逸してしまうことを危惧し、昭和28年8月、宝物殿として建設しました。その後に「三之宮郷土博物館」として考古資料を中心に保存展示しています。
 2006年1月 伊勢原ライオンズクラブ  』
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 展示資料(神社資料)から社宝の「うずら瓶(みか)」と「狛犬一対」を載せる。

『 うずら瓶 一口 昭和31年(1956)神奈川県重要文化財指定
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 大化元年(645)10月、酒解神二柱を奉斎の折、奉納されました。『新編相模風土記稿』(江戸時代の官撰地誌・1841年成立)巻之五十には、「鵜瓶と名付口直径六寸八分高一尺五分、石凝姥命(いしこりどめのみこと)作と云傳ふ、旱魃の時は此器に水を盛り神前に供して雨を請ひ、又霖雨(長雨)の時は社地四隅の土を盛りて晴を祈るに験あり」と記載されています。
 高さ35cm、最大径32.5cmで頸(くび)は外反していて、古墳時代から平安時代にかけて作られた須恵器の系統を引き、以呂波灰色を呈しています。焼きも比較的良く、表面には叩き目を残し、肩部に×印を円で囲んだ窯印が見られます。
 現在では、毎年11月に行われる「酒祭」に、沢山の御神水を汲み入れる儀式に出御(しゅつぎょ)するのみで、御神体として御本殿にお祀りされています。

狛犬一対  昭和52年(1977)5月25日 伊勢原市重要文化財指定
 持統天皇朱鳥6年(692)、社殿の修復の折、時の国司・布施朝臣色布智により奉納されました。2体とも、高さ一尺三寸余り、古色を帯びていて、石・銅・鉄製にはない木彫りならではの柔軟な味わいが深く、当時の彫刻技術を今に伝えます。
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 向かって右は開口していて、頭部には角があったような穴があり、左は口が欠損しています。また、頭の巻毛が簡素で、四股は長め、現在の狛犬は頭が大きいのに比べ、身体の均整がよく調和しています。逞しさの中にも軽快さと品位が感じられ、関東地方最古、日本でも屈指の作品と言えます。  』

 朱鳥は、天武天皇朝の最後の年に立てた年号で、天武天皇15年7月20日(686年8月14日)に始まるが、いつまで続いたか不明。一説では朱鳥は天武天皇の崩御に関係して立てた年号で、元年だけで終わったという。

 また、鵜瓶あるいは鶉瓶は、「うずらみか」と読まれることから、一昨日(5月16日)に訪れた静岡浅間神社の七不思議のひとつ「鳴きうずら」に繋がるように思われる。“粟穂にうずら”は「一年の平安」を意味するが、鶉瓶(うずらみか)は、酒を醸した瓶ということであろう。11月下旬の「酒祭」では、仕込み前の新酒の醸造安全と酒造関係者の商売繁盛を祈願するという。
 そう言えば大山阿夫利神社の祭神・大山祗大神は、山の神・水の神として信仰され、さらには酒解神として、酒造の祖神としても信仰されていた。


 大山南麓裾は東の厚木市から西の秦野市まで古墳の密集している地域である。特に比々多神社の鎮座する三之宮付近は神奈川県でも一番の古墳密集地帯で昭和の初めには360基をこえる古墳があった。
 昭和初めより多くの発掘調査が行われてきたが、郷土の貴重な資料の散逸を愁いこれを防ぐため、昭和28年、比々多神社前宮司・永井参治氏が設立されたのが、この三之宮郷土博物館である。
 三之宮郷土博物館にリンクを張っておく。
三之宮郷土博物館1
 三之宮郷土博物館2



 比々多神社は、延喜式記載の相模国大住郡比比多神社の論社である。
 『新編相模国風土記稿 巻之50』によれば、当社の他に上糟屋村(現 伊勢原市上粕屋)の子易明神社も式内社「比比多神社」と言い伝えられている。
 同書では、当社宮司が語った、「比比多神社」と書かれた古額を子易明神社の神主に貸したがついに返さず、子易明神社がこれを掲げて式内社と称したという話を紹介したうえで、この話に証拠は無く、さらに当社も子易明神社(伊勢原市上粕屋)も式内社「比比多神社」である考証は無いため、どちらが式内社か判断は難しいと述べている。

 このもう一つの比々多神社が以前に私が訪れた神社である。この比々多神社(子易明神社)の祭神は、神吾田鹿葦津姫命(またの名を木花咲耶姫命)で、天平の頃、当国守護の任にあった染谷太郎時忠(藤原鎌足の玄孫で関東総追捕使)が当国安堵と子宝を願い勧請したという。
 『新編相模国風土記稿 巻之50』によれば、染屋太郎大夫時忠(染谷太郎時忠)は、『大山縁起』に出てくる大山を開山した良弁の父のことだとされるが、比々多神社(子易明神社)では藤原鎌足の玄孫で関東総追捕使とされる。
 何れにしても雨降山大山寺の強い影響を受けていたことは確かであろう。

 子易にある比々多神社(子易明神社)に対して、三之宮にある比々多神社は、古代官道を見下ろす位置にあって相模国第2期国府の有力な所在推定地とされていることに加え、社伝では国府所在時の総社であったとされるから、三之宮にある比々多神社が式内社であることは動かないようだ。
 また、江戸時代に子易明神社と三之宮の比々多神社に下された朱印状の内容から見ても三之宮の比々多神社が式内社「比比多神社」であることは明らかだという。

 参拝の栞には、
『 天平15年(743)、武内宿祢の裔孫、紀朝臣益麿(ますまろ)を比々多神社初代宮司に迎え、同時に第45代聖武天皇より荘園を賜る。
 第53代淳和天皇・天長9年(832)、国司、橘朝臣峯嗣(みねつぐ)を勅使として当国総社「冠大明神」(こうぶりだいみょうじん)の神号を天皇より賜る。 』とあるが、宮司として紀朝臣、国司として橘朝臣が関わっている。
 特に、国司・橘朝臣峯嗣のとき「冠大明神」の神号を賜り、この神号は『吾妻鑑』建久3年(1192)8月9日条に「三宮冠大明神」の名でもみえるので、橘朝臣と当社の関係は確かであろう。
 『第53代淳和天皇・天長9年(832)、国司、橘朝臣峯嗣を勅使として当国総社「冠大明神」の神号を天皇より賜る。』をそのまま信じるならば、当社は相摸国総社でもあったようで、国司が当社の庇護者であったことになる。
 この頃の国府は大住郡三ノ宮付近にあったと推定され、国府の移転の時期は878年の武相地方の大地震の後とする説がある。『吾妻鑑』建久3年(1192)8月9日条に「三宮冠大明神」の名がみえるので、鎌倉時代には三之宮の地位に甘んじていたようだ。

 他国でもあることだが、相模国でも国府の所在地が二遷または三遷したようだ。その時代の有力豪族の土地に国府が移ることはあり得ることで、公式な制度ではない一之宮制度では、各国に一之宮が複数存在することが多いが、一之宮も時代により国府との関係などで替わったことが推測されている。
 特に国府祭(こくふさい・こうのまち)に参加する寒川神社(一之宮)、川勾神社(二之宮)、比々多神社(三之宮)などは、国府移動とも関係しているようで興味深い。国府祭で有名な「座問答(ざもんどう)」で、上座を争う寒川神社と川勾神社の宮司に対し、比々多神社の宮司が「いずれ明年まで」と仲裁する重要な役割を果たす。

 参拝の栞では、『第36代孝徳天皇・大化元年(645)、現在相殿に祀られている大酒解神・小酒解神の二神が合祀されるに伴い、「うずら瓶」と称される須恵器が奉納されたという。』とあるが、国司橘氏の氏神を祀る京都梅宮の祭神は酒解神であり、酒解子神も祀られている。
 これは国司の橘氏が氏神を当社に勧請したと考えられるので、大酒解神・小酒解神の二神が合祀されたのは、大化元年(645)ではなく、橘氏により当社が天皇より「冠大明神」の神号を賜った天長9年(832)と考えるのが穏当ではなかろうか。


 参拝の栞には、『南北朝、室町時代になると戦禍によって神領(当時は約4倍の17000坪)の大部分を失い、また、明応年間(1492〜1501)に、社殿を兵火によって焼失し、天正(1573〜1593)のはじめ、社地を埒面(らちめん)から現在の地(旧神主屋敷)に移転遷座する。』とあるが、その旧社地の埒面には埒面古墳がある。古墳は現在、恵泉女学園の柵の中で立入禁止である。ここには恵泉女学園園芸短期大学(恵泉女学園大学の前身、2005年廃止)があった。
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 「埒が明かない」とか「埒が無い」という言葉があるが、“埒(らち)”とは「馬場の囲い」のことである。また、大祭の折に鉄棒(かなぼう)を組み警護する事を埒を組むと言い、「埒が開かない」と祭が始まらない。
 埒面という地名は祭祀に相応しい名前のようにも思われる。

 埒面古墳は昭和39年(1964)、建設中に発見され、その際、石室内から銀装の太刀、金を貼った鞍や轡(くつわ)などの馬具、銅製の鏡などの副葬品が出土した。相模地域の中でこの内容に匹敵する副葬品をもつ古墳といえば、南側に見える尾根上に位置する登尾山(とおのやま)古墳以外にはなく、相模の最高権力者にふさわしい内容を備えているという。これらの副葬品は伊勢原市の重要文化財に指定されている。
 平成14年(2002)2月に伊勢原市教育委員会は、東海大学考古学研究室の協力を得て、この石室の再調査を実施した。墳丘の大きさは直径40mで、石室とともに古墳時代後期としては地域最大の規模となるという。
 比々多神社は古墳と関わる神社であった可能性が高い。 

 社名の比々多神社は、地名からきていると考えられている。比々多は現在ではヒビタと読んでいるが、古くはヒヒタもしくはヒヒダと読んでいたそうだ。
 『倭名類聚鈔』(10世前半)に、相模國大住郡に「日田」郷という地名がみうけられる。
 「比」は甲類の音仮名で「日」の用字に、「多」は音仮名としては甲類・乙類の区別はないが「田」の用字に当てられていることから、比比多は日日田、つまり良田を意味する地名であったとされる。
 『続日本紀』の和銅6年(713)の詔に「畿内七道諸国郡郷の名、好字を著けよ」、また、これを受けた『延喜式』(927年成立)に「凡そ諸国部内郡里等の名、みな二字を用い、必ず嘉名を取れ」とある。
 奈良時代から平安時代にかけて、各地の地名を好字に改め、かつ二文字化したことが記録されている。
 例えば「无邪志」(ムザシ)は「武(ム)」「蔵(ザ)」の好字をあてて二字化し、「シ」の音にあたる字は略して「武蔵」(ムサシ)と表記されるようになった。現在でも地名や国名に難読のものがあるが、このような無理が背景にあった。
 『相模の古社』などでは、この和銅6年の詔に従って「比比多」の三字を好字二字に改めたのが、『倭名類聚鈔』(和名抄)大住郡の項に記載されている「日田」郷であると推測し、『延喜式神名帳』に記載されている神社の多くは好字二字令以前にその起源が遡れるので、社名の方には「比比多」(日日田)という表記が残ったとする。


 参拝の栞によると、比々多神社の現在の祭神は、豊國主尊(豊斟渟尊)、天明玉命、稚日女尊、日本武尊、相殿神として大酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花咲耶姫)とされる。
 近世における祭神の変遷は、祀る者たちの変遷や時代による祭神観の変化・発達の影響を受けているのは確かで、それは中央の祭祀方針が認めるものや好ましいと思われるものに替わってきた。その傾向は明治初年の神仏分離においても顕著に見られる。明治維新は神々の明治維新でもあった。
 神社側も名も無き神を祀るよりも、「古事記」「日本書紀」「古語拾遺」「新選姓氏録」等の古典に載る有名神を求め、祭神をその有名神に重ね比定することをしてきた。
 従って、古社の祭神について考察することは詮無きことで、比々多神社の社名が地名や郷名の比比田(日日田・日田)を冠するものならば、「比比多に坐す神」とでもして、この土地の開拓の草わけ人たちによって祀られた守護神・産土神とでもするのが相応しいのであろう。
 とは言っても、神や神社は人により祀られてきたので、祭神はともかく神社とその伝承を地域の歴史を内在するカプセルと見るとき、その神格や信仰については考察する必要を感じる。

 この地域は縄文時代から栄えた場所のようで、それが、縄文、弥生、古墳時代と繋がってきたことは遺跡から確認される。
 縄文時代の環状配石(ストーンサークル)や「立石」(メンヒール)の祭祀遺跡における信仰がそのまま弥生時代・古墳時代に繋がったとは考えにくいが、縄文人と弥生人の混血が現在の日本人であるとすれば、何らかの形で縄文のアニミズムが引き継がれてきた可能性は否定できない。現在の神道が八百万の神を祀る多神教なのもこのアニミズムに発するのかもしれない。
 大山阿夫利神社の本社を祀る大山(1251m、別名:雨降山〈あふりやま〉)の山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前約1,000年頃)の土器片が多く出土していてる。

 比々多神社の旧社地である埒面には埒面古墳があることから、比々多神社は古墳と関わる神社であった可能性が高い。つまり古墳時代には土地を拓いた豪族を祖神(氏神)として祀っていた可能性がある。祖神は人格神である。 

 比々多神社には御神体として、少なくとも鎌倉の往代に遡るであろう三躯の木彫立像が安置されている。そのうち二躯は男神像であり、一躯は女神像である。恐らくはこうした事実に基づいて、祭神を豊國主尊(豊斟渟尊)・天明玉命・稚日女尊などとするようになったのだろう。(参拝の栞では、「みこと」に「尊」と「命」をつかい分け、豊國主尊(豊斟渟尊)と稚日女尊に「尊」をつかっている)

 『新編相模国風土記稿』では、『祭神豊国主尊、天明玉命、稚日霊女尊の三座にして、大酒解神、小酒解神を相殿に祀る、神体秘して開扉せず』とある。 『當村(三之宮村)及び栗原・神戸・白根四村の鎮守なり』ともある。
 また、『曰、三宮大明神、本地慈悲不動明王霊場也』とあるので、神仏習合時代では三宮大明神は“慈悲不動明王”とされていたことがわかる。
 
 豊國主尊の別名は豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)で、“斟渟”は「水などをくみとどめる」という意味である。また、稚日女尊(わかひるめのみこと)は神名に「日」が入っているが、機織りの神とされる。
 日孁・日霊・日女(ひるめ)は、日の女神で天照大神を称える語とされる。太陽神に仕える巫女の意ともいう。アマテラスの別名を大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)ともいう。
 比々多神社では、豊斟渟尊(豊國主尊)を水神、稚日女尊を日神としているようだ。

 Wikipediaで稚日女尊を調べてみた。
『 稚日女尊(わかひるめのみこと)は、日本神話に登場する神である。生田神社(神戸市中央区)や玉津島神社(和歌山県和歌山市)の祭神として知られる。
概要
 日本神話ではまず、『日本書紀』神代記上七段の第一の一書に登場する。高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなった。それを知った天照大神は天岩戸に隠れてしまった。
 『古事記』では、特に名前は書かれず天の服織女(はたおりめ)が梭で女陰(ほと)を衝いて死んだとあり、同一の伝承と考えられる。
 次にこの名前の神が登場するのは人代記に入ってからである。
 神功皇后が三韓外征を行う際に審神を行い、その際に「尾田(現、三重県鳥羽市の加布良古の古名)の吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋= 安楽島)に居る神」として名乗った一柱の神が稚日女尊であるとされており、元々の鎮座地は三重県鳥羽市安楽島の伊射波神社(式内社 粟嶋坐伊射波神社二座 並 大)に比定されている。
 神功皇后の三韓外征の帰途、難波へ向おうとしたが船が真直に進めなくなったため、武庫の港(神戸港)に還って占いを行った。そこで稚日女尊が現れられ「私は活田長峡国にいたい」と神宣があったので、海上五十狭茅に祭らせたとある。これが今日の生田神社である。
 神名の「稚日女」は若く瑞々しい日の女神という意味である。天照大神の別名が大日女(おおひるめ。大日孁とも)であり、稚日女は天照大神自身のこととも、幼名であるとも言われ(生田神社では幼名と説明している)、妹神や御子神であるとも言われる。
 丹生都比賣神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)では、祭神で、水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が稚日女尊であり、天照大神の妹神であるとしている。  
異説
 江戸時代に作られた偽書であるとする説が有力である『ホツマツタヱ』には、『記紀』よりも詳細に稚日女のことが記されている。
 『ホツマツタヱ』によると、天照大神の諺名ワカヒトにちなんで名付けられた妹神、和歌の女神 和歌姫(諺名は日霊子 ヒルコ 姫)の結婚前までの名前と記されている。
 また、スサノオがしでかした、屋根を破って斑駒(ぶちごま)を投げ込む暴挙によって、落下して来た馬に動転して、不運にも手に持つ梭(ひ)で身を突いて死んでしまったと伝えられているワカヒメは、天照カミ(天照大神)の中宮セオリツ姫(瀬織津姫)ホノコの妹ワカ姫ハナコであり、玉津島神社に祀られている稚日女(ヒルコ姫)とは別人ということになっている。
 『ホツマツタヱ』よりも後世に作られた可能性がある『古事記』『日本書紀』では、この辺りの情報がごっそり抜け落ちてしまったため、混同が生じているとする見方もある。
 玉津島神社の社伝の説明では、神功皇后が半島に軍を進めた時に、玉津島の神が大変な霊威をあらわしたため、皇后がこれに報いて、御分霊を葛城町天野の地にお鎮め申し上げたとある。 以来玉津島と天野に一神両所が並び立ったとされている。
 玉津島神社は、住吉大社、柿本大神(明石)とともに、和歌三神と言われている。稚日女はオモイカネと結婚後、下照姫(シタテルヒメ)と名を改め、滋賀県天の安川=野洲で瀬織津姫の御子神、天忍穂耳命を養育した。神上(かみあ)がってから後に、歳徳神と称えられたと『ホツマツタヱ』には記されている。 』

 『ホツマツタヱ』では、他文書で女神とされているアマテラスが男神となっている点が特徴で、アマテラスに幾人もの妃がいたことも伝えている。瀬織津姫もアマテラスの妃の一人とされる。
 『ホツマツタヱ』では、稚日女と瀬織津姫は別人であるが、姉妹であるとされ、親しい関係とされる。
 
瀬織津姫




 先に、「縄文時代の信仰がそのまま弥生時代・古墳時代に繋がったとは考えにくいが、縄文人と弥生人の混血が現在の日本人であるとすれば、何らかの形で縄文のアニミズムが引き継がれてきた可能性は否定できない。」と記したが、縄文時代から貫く日本の信仰のコア(格)は、水霊(水神)と日霊(日神)であろう。そして、基本的には山への信仰は水霊信仰だと考える。そのことは大山の別名が雨降山(あふりやま)であり、阿夫利神社が雨降神社から転じたものであることからもわかる。大山は「雨乞いの山」であった。そして比々多神社(日日田神社)も稲作に必要な水を司る水神を祀ったのが始めであったのではないか。それが現在の祭神、豊國主尊(豊斟渟尊)に引き継がれているのであろう。

 うずら甕(県重要文化財)について、『新編相模風土記稿』(江戸時代の官撰地誌・1841年)に、「鶉瓶と名付口直径六寸八分高一尺五分、石凝姥命(いしこりどめのみこと)作と云傳ふ、旱魃の時は此器に水を盛り神前に供して雨を請ひ、又霖雨(長雨)の時は社地四隅の土を盛りて晴を祈るに験あり」と記されている。 うずら甕は酒を醸すのに使われる前は、雨乞いなどの神事に使われたようだ。


 天長9年(832)、国司、橘朝臣峯嗣を勅使として当国総社「冠大明神」(こうぶりだいみょうじん)の神号を天皇より賜って以来、当社は中世冠大明神と呼ばれていた。
 当社は大山(雨降山)の南東山麓に鎮座していて、元宮の背後には霊山とされる大山が見えることから、中世においては大山を遥拝する宮としての一面があったと推察される。
 そして大山を介してその信仰は霊峰富士山に繋がる。

 相模国の一之宮である寒川神社は相模川の水神を祀ったのであろう。相模川は上流で山梨県に入ると桂川と名を変える。桂と月はシンクロする。そして桂川は富士山麓から流れ出す。富士山に関わる水神は月神でもあった。
 相模国の二之宮である川勾神社は酒匂川からずいぶん離れているから、酒匂川とは関係ないようだが、もし関係するとすれば、酒匂川も富士山麓から流れ出している。私は何らかの形で、相模国の一之宮から四之宮までは山や川を通して富士山と関係があるのではないかと思う。富士山の信仰圏として駿河・甲斐・相模には共通の信仰があったように考える。
 
 県無形民俗文化財に指定されている国府祭(こくふさい・こうのまち)は、5月5日に行われる。
 参拝の栞には次のようにある。
『 平安時代から連綿と受け継がれる、一宮寒川神社、二宮川匂神社、三宮比々多神社、四宮前鳥(さきとり)神社、平塚八幡宮、総社六所神社の合同祭典で、相模國の成立と国司による班幣行事を今に伝える。神揃山の特殊神事古式「座問答」、大矢場での国司祭など多くの神事が行われ、国土安泰、天下泰平が祈念される。 』  

 毎年5月5日に中郡大磯町国府本郷に鎭座の六所神社(総社とされる)の社有地の神揃山及び大矢場において執り行われる国府祭(端午祭)は、相模国の一宮寒川神社・二宮川勾神社・三宮比々多神社・四宮前鳥神社・平塚八幡神社の五社の神輿が参集して、それぞれの御霊代(玉串)を六所神社の神輿に遷し奉る祭儀である。
 この際、一宮である旧国幣中社の寒川神社と雖も、六所神社の下位に座せしめられているのは注目される。

 国府祭の初見としては、旧国府本郷村民吉兵衛所藏文書の天文13年(1544)12月23日付の後北条氏印判状に「相州六所領六十五貫七十八文之内…五百文端午祭」(『相州古文書』)とあるもので、かなり後代の記録しか残っていないが、この神事(祭)は平安の末期より現代に至るまで引き続いて執り行われているのは確かなようだ。
 それは、この祭は総社である六所神社の総社創立祭・総社創立記念祭と考えられるからでもある。総社は国司が国内の主な神社を参向する手間を省くため一つにまとめて祀ったものとされる。
 六所神社は自社の祭神として、当地に元々あった柳田大明神社の祭神、櫛稲田姫命・須佐之男命・大己貴尊を祀ると共に、一宮寒川神社祭神、二宮川勾神社祭神、三宮比々多神社祭神、四宮前鳥神社祭神、平塚八幡宮祭神を祀る。平塚八幡宮(鶴峯山八幡宮)は奈良時代に一国一社の八幡宮を祀った時の相模国の八幡宮とされる。

 公式な制度ではない一之宮制度も、この頃(平安末期)に整ったようだ。 寒川神社川匂神社は一之宮を争ったようだが、比々多神社は三之宮に甘んじて、両社の仲裁までしている。
 平安末期に一之宮を争った寒川神社と川匂神社は、雲泥の差となって現在に至っている。やはり一之宮の看板は有力であるようだ。後代、源氏の氏社として鶴岡八幡宮が一之宮となった時期があるようだ。


 私は比々多神社への参拝で、密かにペトログラフ(ペトログリフ)との出合いを期待していたが、今回の訪問ではそれは叶わなかった。

 私がペトログラフを知ったのは大分県安心院町を訪れた時である。2012年の九州への旅で、大分県安心院町を訪れ、三女神社(さんみょうじんじゃ)や妻垣神社に参拝した。

 安心院(あじむ)には、太古祭祀の面影を伝える巨石群がある。中でも有名なのが佐田地区の列石群。円錐型の米神山の山麓から頂上にまで、数々の人工の巨石遺構が意味ありげに点在している。
 『豊後風土記』などの伝説によると、「 吾、千柱(ちばしら)の石柱を降らしめて 此処に都城(みやこ)を成さむ 」とし、「大昔、米神山の女神がこの地を倭国の都にしたいと願い、天から一夜のうちに千本の石柱を降らせていたが、あと一本で千本という時に、他人(穢れた女性とも)に見られてしまい、都を作るのをやめた。だからその不思議な石柱群を『京石』という。」とある。
 この京石の中に奇妙な模様=「ペトログラフ」を刻んだ石がいくつもあるという。このペトログラフはシュメールの古代文字だとも言われる。

 安心院と書いて「あじむ」と読むが、その由来にはいくつかの説がある。その一つに安心院(アジム)の語源は、「阿曇」(アズミ)の転詑であるとするものがある。確かに安心院には古代海洋部族の阿曇(安曇)族の伝承が残る。ペトログラフについても海人族の安曇氏との関連が推測される。

 シュメール系シナイ文字などで読めるペトログラフは、以前は北海道から沖縄までの38ヶ所で40個が見つかっていたが、昭和57年以降、西日本の11ヶ所(山口県角島、同豊浦町川棚、下関市彦島、山口市鋳銭司、山口県吉敷郡秋穂、福岡県北九州市門司区、同小倉北区、福岡県粕屋郡外宇美町、福岡県豊前市、佐賀県江北町、大分県安心院町)で88個が追加発見されていた。
 その88個のうち87個の岩に彫られたペトログラフがなぜか、皆シュメールのクサビ型文字やシナイ文字コードで解読でき、それらの殆どにシュメールの神々の名前や祈願の言葉が彫られているそうだ。

 歴史言語学者の川崎真治氏による調査では、全国的には北海道岩内町の円山線刻岩はじめ常陸太田市春日神社線刻石、神奈川県伊勢原市の比々多神社、出雲木次神社線刻石など、多くのペトログラフが彫られているとの報告がある。
 このことをネットで知ったので、比々多神社でペトログラフが見られるのではないかと期待していたのだ。

 ペトログラフには「七枝樹」文様のものがあるという。七枝樹ペトログラフは大分県宇佐郡安心院町の京石遺跡、福岡県粕屋郡宇美町の宇美八幡宮にある「韓石」、下関市彦島の杉田丘陵の「不思議な絵文字岩」や広島県宮島の彌山頂上、岐阜県恵那市の笠置山頂上にある「見晴らし岩」、熊本県入吉市高塚山などで見つかっており、「シュメール由来の豊穣神信仰のしるし」とされている。

 宇美八幡宮には行ったことがあるが、この情報を知らなかったので「韓石」を見なかった。「韓石」は本殿右裏の聖母宮の横にあり、神社の説明では次のようにある。
「聖母宮の左側にあるが、神功皇后が向うから(朝鮮) 持ってお帰りになったものだと古老から言い伝えられているがわからない。 石の質が変っているので、いずれにしてもこの地方の石でないことはわかる。」

 七枝樹は蛇女神(大地母神)信仰に密着しているとも云われる。
 東北大学教授であった土居光知氏は、「生命の木(七枝樹)の東遷」説を唱え、古代中国では海神の宮殿に描かれているのが確認されたほか、股塘出土の彩陶にもその文様が見知されるとする。日本で見られるその思想の具現例としては古事記の天若日子と下照姫の家の門にある湯津楓(ユツカツラ)や、豊玉姫の海神の門にある湯津香木(ユツカツラ)、田道守伝説の非時香菓(ときじくのかくのこのみ)とはペルシャから持ち帰った「生命の木」の若木ではないかとまで言及している。
 どうも七枝樹やペトログラフの東遷には、海人族が関与しているのは確実のようだ。しかもその海人族には竜神信仰もあったようだ。

 比々多神社周辺では、縄文時代・弥生時代・古墳時代と各時代の遺跡が連続的に確認されている。この地でペトログラフが発見されたとしても不思議ではないような気がしてきた。

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