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zoom RSS 旅 646 雨降山 大山寺(2)

<<   作成日時 : 2017/03/14 12:06   >>

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2016年 5月18日
雨降山 大山寺(2)

 帰りは女坂を歩いて下ればよかったが、大山ケーブルの往復券を買ってしまったので、大山寺駅へ戻ることにした。
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 案内板には、「真言宗 雨降山大山寺 本尊国宝不動明王 五大明王 十一面観音(石尊権現) 倶利伽羅流王 」とあった。

 女坂を少し下ったところに、八大龍王を祀った龍神堂があり、そこの説明板には次のようにある。
『 龍神堂(八大堂)
 元は二重滝あり、寛永18年(1641)に再建、三代将軍の徳川家光公により寄進される。
 奈良時代に、大山別当の良弁僧正が大山龍神を感得す。以後、八大龍王と呼び大山の守護神にして雨乞いの本尊なり。数々の龍神伝説あり。
 青専研 』
 
 龍神は恵みの雨を降らすことから、五穀豊穣の神としても信仰されてきた。また、不動明王の化身は龍神ともされる。大山寺の山号が雨降山とされるのも、大山が雨乞いの山であったことからと考えられる。

 大山ケーブルの大山駅へ戻る参道で、水に関するものに注意しながら帰った。
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 枯れ沢であるが、雨が降れば水が流れ、谷に集まるのだろう。

 沢を流れる水を集め利用する簡易水道のような施設もあった。
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 参道を少し外れた場所に「幸福の鐘」がある。案内板の説明を載せる。
『 幸福の鐘 由来
 昔大山詣の帰路 江の島に詣でた後、精進落としをするのが主流でした。両方を参詣しないと片参りと云いました。
 大山を男性神 江の島を女性神とみたてたものでした。そこで当山ではその由来により「幸福・恋結び」の鐘を建立いたしました。
 この鐘は江の島が見えるところに建っています。恋愛成就・縁結び・厄除招福(幸福)・子宝成就・安産・火難除などの御利益があります。
○愛を誓う二人は一緒に紐を持ち海に向かって心に願いを念じながら3回鳴らす。
○恋愛成就の人は海に向かって心に願いを念じながら5回鳴らす
○幸福成就の人は平和観音に向かって心に願いを念じながら7回鳴らしてください。
 鐘を鳴らした方は必ず当山総本尊鐵(くろがね)不動明王様に参拝してください。(すでに参拝の方はよろしいです)
 願かけのカギ(愛の誓いのカギ)やお守り等は本堂内で授与致しております。
 大山寺  』

 江戸時代、大山詣では手ごろな観光でもあったから、江ノ島の弁天様とセットで考えられていたようだ。大山の信仰と江ノ島の弁才天との信仰に繋がりがあるかは分からないが、願行上人が大山寺の本尊である鉄造不動明王を造るとき、江ノ島の龍穴にこもって祈願したとの伝承がある。

 平和観音を見ようと上に上がった。
現地説明板より
『 平和大観音(十一面観世音菩薩)
 この観音様は世界平和を祈り建立されました。観音様御札・御守・御朱印は本堂にてお授けいたします。
 大山寺 』
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現地石碑より
『 十一面観世音由緒
 当山の十一面観音は山頂の石尊大権現の上の本地仏として不動尊とならび祀られて居りましたところ安政の大火により一木造り一丈の御身を焼け焦げにされながらも其の身に代えて麓の二百余戸も一山の堂社もことごとく灰燼に帰したにもかかわらず、唯一人の損復も無く守護され、以来「火難身代り」の観音様として本堂東壇に安じて御斗帳で閉じて居りますので茲に尊客を一新し絵札と同じお姿で建立しました。
 又、人は生まれ人は病み且つ老い行く中で、癌となり老いてぼけては生き甲斐を失い家族を悩ませます。癌とぼけは遠ざけましょう。
 雨降山 大山寺  』

 よく分からない説明文だが、石尊権現は十一面観音として祀られていたようだ。どうも開山の良弁が大山で感得したのは、十一面観音や龍神であったようだ。
 この平和大観音(十一面観世音菩薩)の顔は、少し怒ったような顔で、不機嫌そうにも見える。
 ここからの眺望もよかった。平和大観音(十一面観世音菩薩)は江ノ島の方角を向いているのかもしれない。
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 頂いた栞より寺の歴史などを載せる。
『 お寺の歴史
 大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝7年(755)に開山したのに始まります。
 行基菩薩の高弟である光増和尚は開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を建立。
 その後、徳一菩薩の招きにより、大山寺第三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所が開かれました。大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、現在は大山七不思議と称される霊地信仰を確立しました。
 また日本古来の信仰を大切にし尊重すべきとのお大師様のおことばにより、山上の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存を心掛け手厚く神社を保護してきました。
 元慶8年(884)には天台宗の慈覚大師の高弟・安然が大山寺第五世として入山。伽藍を再興し、華厳・真言・天台の八宗兼学の道場としました。
 これより大山は相模国の国御岳たる丹沢山系の中心道場として各地に知られ、別当八大坊をはじめとする僧坊十八ケ院末寺三、御師三百坊の霊山として栄えました。
 しかし明治初年の廃仏毀釈により、現阿夫利神社下社のある場所から現在の場所に移りました。

ご本尊 鉄造不動明王と二童子像
 文永11年(1264 年)に願行上人が鋳造。
 本堂に鎮座するそのお姿の迫力ある威圧感と重量感には眼を見張るものがあり、 願行上人の強烈な念力に圧倒されます。
 鎌倉時代より多くの武将、庶民がその御利益を賜ろうと参拝したのもうなずけます。
 不動明王は心をこめて参拝する人々に、わけ隔てなく現世の悩み、苦難を助けてくださる仏様なので、本堂にて一心に願い事を祈ってください。
 毎月8・18・28日がご開帳日となっています。
 大山不動明王及び二童子像は鎌倉時代に鎌倉大楽寺の願行上人によって造られた。その霊力の強さと御利益の大きさに時の将軍家はもとより、関東一円の武士や庶民に広く信仰された。
 江戸時代には春日局が家光が将軍になることを大山不動に祈願してその願いがかなったことから、 徳川家光によって強く信仰されることとなり大山寺にも数々の寄進や造営が行われました。
 明治初期の廃仏による災難からも奇跡的に破壊を免れたのは、其の御利益を受けた多くの人々がまさに死に物狂いで像をお守りしたからだといわれている。
 また里さとに伝わる伝承によると、権田直助に率いられた暴徒たちがこのお不動様を破壊しようと本堂におしかけたところ、お不動様の形相がまさに血も凍るような恐ろしい形相に一変していたため、余りの恐ろしさにだれひとり手を触れることができず、破壊をまぬがれたとのことでした。
 また周辺の主だった寺院が数十年以上にわたって活動できなかったのに比べ、大山寺のみ異例に早く再建が許されたのは、このお不動様に救われた多くの信者たちの要望が強かったのみならず、大山寺の破壊に加担した者たちがその時の恐怖心の強さから、一刻も早くお不動様の怒りを静めてほしいと、まったく妨害活動をしなかったからだともいわれています。

国宝大山不動尊五壇護摩法要
 五壇護摩供は古来天皇家や貴族の大事にのみ行われた修法でありましたが、今や日本国中当山だけに残る大祈祷会であります。元来は中央大日大聖不動明王、東方降三世、南方軍荼利、西方大威徳、北方金剛夜叉の各明王に向かって修法するものであります。
 当山は本堂荘厳の造りから中央は国宝大日大聖鉄(くろがね)不動明王、東から大慈大悲十一面観自在菩薩、弘法大師、開山良弁大僧正、鎮護国家五大力明王の御宝前で修行(執行)いたします。
 五つの護摩壇から一斉に燃え上がる聖火によって願主の願いを加持祈念して智(利)剣と智火をもって煩悩を断ち、貪・瞋・嫉の三毒を焼き尽くして煩悩を断ち、心願願望成就心身安楽のご利益をいただかれることをお勧め申し上げます。  』

 五壇護摩供を、中央を大日大聖不動明王(鉄不動明王)とするものの、他の4つを四方を護持する明王ではなく、十一面観音・空海・良弁などとする特異な五壇護摩であることが注目される。大日大聖不動明王(鉄不動明王)及び空海と良弁は鎮護国家に貢献したことは認めるにしても、十一面観音は果たして鎮護国家と繋がるのであろうか。

 栞には、「良弁僧正」「行基菩薩の高弟である光増和尚」「徳一菩薩」「弘法大師」「慈覚大師の高弟・安然」と、良弁・行基・徳一・空海・円仁といった奈良・平安時代を代表する仏教界の大物の名前が出てくるが、本尊の鉄造不動明王が鎌倉大楽寺の願行上人によって文永11年(1264 年)に鋳造されたことを考える時、古くからの土着信仰(水霊信仰)の上に仏教が便乗し、鎌倉時代以降になり仏教が信仰の主体となったように感じる。

 良弁と行基は聖武天皇と共に東大寺建立に関わる中心人物である。徳一も筑波山知足院中禅寺や会津の慧日寺を開いた僧として有名である。

 仏教が庶民のものになっていくのは、平安時代の後期からで、それまでの仏教は天皇家や貴族、地方の有力豪族のものであって一般庶民のものではなかった。庶民にとって外来の神である仏を普及させるためには、土着信仰でもあった地主神に便乗する以外方法はなかった。神仏習合は仏教側から仕掛けられた方略の一つでもある。仏教は神に対して優位性を保つために本地垂迹説により本地仏を神の上におき、神を権現化した。本地という思想は、仏教が各地で布教されるに際し、その土地本来の様々な土着的な宗教を包摂する傾向があることに起因する。
 権現の主なものは飯縄権現、蔵王権現、熊野権現、白山権現などで霊山との関係が深いことが注目される。大山の石尊権現もこのような流れの中での産物であろう。
 この本地垂迹の揺れ戻しで、鎌倉時代中期には神本仏迹説(反本地垂迹説)も現れた。神道側からの反撃である。

 栞に空海や円仁の名前が出るように、大山寺の信仰の中心は東密や台密などの呪術性が高い密教であったと考えられる。中期密教(日本に伝わったのは中期密教)において、仏道修行の保護と怨敵降伏を祈願する憤怒尊や護法尊が登場した。その代表が不動明王であろう。
 日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなった。各地の寺院・権現に伝わる山岳曼荼羅には両方の要素や浄土信仰の影響が認められるという。

 大山寺のホームページには、次のようにあった。
『 755年(天平勝宝7年) 第1世 奈良東大寺長者良弁僧正(華厳宗)
 奈良の東大寺を開いた良弁僧正が開山した。
 相模の国に生まれた良弁僧正は晩年に父母を思い当地を訪れて大山に登った。
 峰上に登ると、僧正は地面から五色の光が出ているのを見出し、不思議に思って岩を掘り返してみると石像の不動明王が出現した。
 不動明王よりこの山が弥勒菩薩の浄土であり、釈迦の変わりにこの山に出現して法を守護し衆生を利益しているとの託宣をうけた良弁僧正は一旦奈良に戻り、聖武天皇より東大寺を離れる許しを得るとともに、勅願寺の宣下を賜った。
 東大寺建立の際に協力した工匠・手中明王太郎を伴って大山に戻った良弁僧正は、3年間当地に住して伽藍を整えた。 』

 一説には、大山頂上で良弁が感得したのは石像の不動明王ではなく、十一面観音であったとされる。山頂の石尊大権現の本地仏が十一面観音とされるのもここから来ている。不動明王が密教の産物だと考える時、不動明王が山岳仏教で一般化するのは、空海以降だと考えられる。
 大山は、丹沢山地の東端、伊勢原市域の西北端に位置する標高1,252mの山であり、古くから山岳信仰の対象であった。
 大山信仰が始まった時期は不明だが、大山の山頂付近での発掘調査により、縄文時代後期の土器片、古墳時代の須恵器・土師器などが発掘されている。このため、信仰開始の時期はかなり古い時代にまでさかのぼることができると推定される。
 「大山」の名称は、山頂に大山祇神を祀ったためとされるが、大山祇神はかつては「石尊大権現」と呼ばれていた。『延喜式』神名帳(927年成立)には、相模国十三座の一つとして、大山の「石尊大権現」を祀る「阿夫利神社」の記載があり、神名帳の原本である神祇官の台帳が天平年間(729〜749)の完成とされることから、8世紀前半に阿夫利神社が創建されたとすることもできる。
 神仏習合の時代の後、修験道が隆盛を迎え、不動明王像を本尊とする大山寺が建立され、阿夫利神社の別当寺とされると、大山そのものへの信仰と「石尊大権現」への信仰とが一体化していったとされる。

 良弁が相模国の生まれかはともかく、東大寺の別当であり石山寺の開基とも伝えられている。また、福井県小浜市の白石神社には「良弁和尚生誕の地」の碑がある。

 全国の国分寺の本山である東大寺の初代別当である良弁にしても、国費で唐に留学した最澄(天台宗)、空海(真言宗)にしても、奈良・平安仏教の重要な使命の一つに、鎮護国家があったことは間違いない。この頃の国家とは天皇家と藤原氏に代表される中央貴族のための国家であった。
 良弁が、そして空海が、ここ大山に来たのが事実とすれば、大山には中央祭祀がそのまま認めることができない地主神がいたことが想像される。
 密教では“仏道修行の保護”と“怨敵降伏”を祈願する憤怒尊や護法尊を祀るが(不動明王もその一つ)、この「怨敵降伏(おんてきごうぶく)」「怨敵退散」の“怨敵”には中央祭祀によって悪神とされた地主神が含まれると考えられる。

 水神の代表格である瀬織津姫命(瀬織津姫穂乃子)の別名に大禍津日神、八十禍津日命があるが、瀬織津姫は中央祭祀では悪神とも捉えられていたようだ。
 水神については日本神話では龗神(おかみのかみ)や闇罔象神(くらみつはのかみ)などがあり、仏教と共に日本に入ってきた外来神では吉祥天・辯才天がこの特徴を持ち合わせている。
 大山に祀られていた神が、瀬織津姫であるとまでは言わないが、熊野神社を遡り調べると熊野権現は瀬織津姫なりという説があるように、瀬織津姫が山岳仏教や修験道と関係が深い神であることを挙げておきたい。


 平安時代の末に、大山は糟屋氏が支配する糟屋荘に編入されたが、久寿元年(1154年)12月に糟屋荘は安楽寿院に寄進された。糟屋氏や糟屋荘の「糟・粕」は、酒を醸し、液汁を漉して残ったもの(酒のかす)のことであるから、糟屋氏は酒の醸造にも関わった氏族であろう。大山山麓の三之宮の比々多神社にも大山阿夫利神社にも酒造に関わる神事がある。

 鎌倉時代には、糟屋氏が源頼朝の御家人となったため、大山寺は鎌倉幕府の庇護を受けることとなった。『吾妻鏡』によれば、建久3年(1192年)8月9日、源頼朝は北条政子の安産祈願のため、当寺を含む相模国の寺社に神馬を奉納している。

 一時衰退していた大山寺は、文永年間(1264〜1275)、鎌倉胡桃谷大楽寺の願行房憲静(けんじょう)により中興された。このとき、願行は蒙古を降伏させる秘法を修得するため大山に登り、百日間の苦行を行い、師匠・意教房頼賢が提供した鉄造の不動明王像の前で祈り続けると、怒り狂った不動明王の姿がみえ、その後、不動明王像の目が見開かれたという。
 願行は、この時の不動明王の姿をもとに、二体の鉄造の不動明王像を製作し、その一体が大楽寺の不動明王像(「試みの不動」と呼ばれる。現・覚園寺蔵。神奈川県重要文化財)となり、もう一体が大山寺の不動明王像(国重要文化財)となったとされる。
 願行は不動明王像の製作を江ノ島の龍穴にこもって祈願し、刀匠正宗とその一門が鋳造に加わったとも伝えられている。

 室町時代においても、当初、大山寺は室町幕府の庇護を受けることとなったが、同時代の末になると、大山寺は、幕府の衰退に伴い、外部からの侵入や管内の修験道の勢力に悩まされるようになったという。

 戦国時代に、大山は小田原の北条氏の支配下に入り、北条氏が修験道の勢力を利用しようとしたことから、大山における修験道は天台宗・本山派玉瀧坊の傘下とされた。
 天正18年(1590年)に徳川家康に与する軍勢が小田原を攻略した際には、大山の修験道の勢力は北条氏に与して、激しい戦いを繰り広げた。

 江戸に入った徳川家康は大山寺の改革を断行し、慶長13年(1608年)に57石、同15年(1610年)にさらに100石を寄進するなど保護を与える一方で、修験者や妻帯僧を下山させ、清僧(妻帯しない僧)のみを山上に住持させた。さらに大山寺を天台宗から古義真言宗へと改宗させ、初代学頭に成事智院の住持であった実雄法師(古義真言宗)を任命し、定住させることとした。
 3代将軍徳川家光も伽藍の修復代を寄進するなどの援助を与え、家光の代参として春日局が2度にわたり参詣している。

 江戸時代中期(18世紀後半)以降、豊作や商売繁盛などの現世利益を祈念する人々による「大山詣で」が盛んになり、関東各地に「大山講」が組織され、大山参詣へ向かう「大山道」が整備された。
 前述の家康の改革で下山した修験者らは「御師」として参詣者の先導役を務め、山麓の伊勢原や秦野には参詣者向けの宿坊が軒を連ね、門前町として栄えた。
 江戸の庶民にとって、熊野詣でやお伊勢参りよりも大山詣では近くて気軽に行ける遊山でもあったようだ。
 明治初期の『開導記』には、大山講の総講数は15700であり、総檀家数は約70万軒との記載がある。このように大山信仰が流行することとなった要因として、『大山寺縁起』(正確には『大山寺縁起絵巻』)の内容が民間に伝わったことが指摘されている。寛政4年(1792年)には、『大山不動霊験記』が出版された。

 明治初年の神仏分離で、大山寺は阿夫利神社と分かれ狭い境内に逼塞することになるが、不動明王への信仰は維持された。
 本尊の鉄造不動明王及び二童子像は、昭和3年に国宝に指定され、昭和5年に補修作業が行われる。戦後、国の重要文化財に再指定される。 昭和48年には文部省補助事業により本尊昭和大修理を行う。
 本尊は700年の間に数度の火難に遭ったが、鉄造のため耐えてくることができた。昭和の大修理は、国が10年かけて開発した鉄と最も相性の良い合成樹脂の開発により過去の傷みの修復が可能になったことから行われた。

 大山寺はもみじの名所で、紅葉の時期になると本堂前の石段を覆う真っ赤なモミジが多くの見物客の目を楽しませ、夜にはライトアップもされるという。


 大山ケーブルの大山寺駅で下りのケーブルカーを待った。
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 ケーブルカーは、上りと下りが連動して運転され、動力を補助している。中間点の大山駅でお互いが停車しすれ違うことになる。上から下りてくるケーブルカーを確認してから下を見ると、上りのケーブルカーが上がって来るのが見えた。
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 下の大山ケーブル駅まで下りてきた。ここには根之元神社があった。
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現地説明板より
『 根之元神社の由来
御祭神 
・磐拆神(いわさくのかみ) 
・根拆神(ねさくのかみ) 
・石筒之男神(いわつつのおのかみ)
 古事記によると、伊邪那美命が、火迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の災難により、この世を去られた時、その夫、伊邪那岐命は、火迦具土神をお切りになりました。
 その御佩刀(みはかせ)の先より生まれられたのが、当神社に祀られる三神です。
 悪縁・邪念を断ち切る。開運・病魔退散のご神徳あらたかと、広く崇敬されております。
  坂本町鎮守社世話人  』

 私はこれと同じような説明を宮崎県都城市高崎町東霧島にある東霧島神社(つまきりしま神社)の『 十握剣(とつかのつるぎ)と神石の伝説 』で知っている。

 日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれた神として、 龗神(おかみのかみ)または淤加美神(くらおかみのかみ)の名を挙げている。
 『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている。
 『日本書記』神代上第五段一書に、
「 伊弉諾尊、剣を抜きて軻遇突智(かぐつち)を斬りて、三段に為す。其の一段は是雷神(いかづちのかみ)と為る。一段は大山祗神と為る。一段は高龗神(たかおかみのかみ)と為る。 」

 『日本書記』では、大山祗神=雷神=高龗神と考えているようだ。
 記紀が成立した奈良時代初期に、古社に対していろいろな勅命が出されたようだが、その一つに大山祗を祀る神社に高龗神と雷神を合祀するようにというものや大物主として大己貴を祀るようにというものがあり、これらは記紀のアリバイづくりでもあったようだ。また、迦具土をスサノオとする説もある。スサノオと母とされる伊弉冉の関係は暗く深い。
 記紀ではアマテラス(日向族)とスサノオ(出雲族)は姉弟とされるが、二人の間に宗像三女神が生まれているのだから、夫婦であった可能性が高い。

 高龗神は貴船神社(京都市)の祭神である。貴船神社のほか、丹生川上神社(奈良県吉野郡)では罔象女神(みつはのめのかみ)とともに祀られており、また、全国に「意加美神社」などと称する神社がある。 祈雨、止雨、灌漑の神として信仰されている。

 闇龗神と高龗神は同一の神、または、対の神とされ、その総称が龗神であるとされる。龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。「闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉である。

 根之元神社は、“石”に関係する三神を祀っている。また、大山には“水”に関係する三神(大山祗神・高龗神・雷神)を祀る神社もあったのであろう。現在も阿夫利神社には大山祗神と高龗神が祀られている。



 私は豆腐が大好きなので、名物の大山豆腐を食べようと思い、土産物屋が並ぶ参道を下りながら、どこの豆腐が美味しいか訊いた。美味しいと評判の豆腐店が1〜2軒あるようだが、どこも水曜日が定休日だという。大山の天然水で作る豆腐は美味しいという。
 美味しいという評判の豆腐店の豆腐ではないようだが、食事処「山ゆり」で豆腐を食べた。
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 美味しかったが、格別というほどではなかった。

 私は、大山(雨降山)は雨乞いの山で、水神を祀ったのが起源ではないかと思う。十一面観音と習合し「石尊大権現」と権現名で呼ばれ封じられた神は、“石”と“水”の神格をもつ神のように感じた。その水の恵で美味しい豆腐が作られているようにも思う。
 大山の天然水で豆腐を作る店が水曜日が定休日なのは相応しくないのではないかと、妙なことを考えながら駐車場へ向かった。

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