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zoom RSS 旅 647 福聚寺

<<   作成日時 : 2017/03/25 18:22   >>

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2016年 6月6日
福聚寺

 田村氏三代の墓を訪ねて、福聚寺(ふくじゅうじ)に来てみた。
 福聚寺は、福島県田村郡三春町字御免町にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は慧日山、本尊は釈迦如来である。
 福聚寺所在地の御免町は「寺入り御免」に由来していると伝えられている。中世には権力から逃れ保護を願い出る寺院があり、福聚寺はそうした寺院のひとつだったという。
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現地案内板より
『 臨済宗恵日山福聚寺
 暦応2年(1339)、田村輝定により安積郡八丁目(現在の郡山市日和田町)に創建された田村家の菩提寺で、16世紀初めに田村義顕が三春へ居城を移すのに際して、ここへ移りました。
 寺の裏手の高台に、田村義顕・隆顕・清顕の墓があり、町の史跡に指定しています。また、隆顕と清顕が2代に渡って寺に出した田村氏掟書は、福島県の指定文化財です。
 ほかにも、田村三十三観音の第2番札所となる木造十一面観音像や、戦国時代の画僧雪村周継筆の達磨図など、多くの文化財を所蔵します。 
 三春町教育委員会 』


 十一面観世音堂があるので行ってみた。
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 十一面観世音堂へ上がる道の左側には、無縁になった墓石がまとめられていた。どこの寺に行ってもよく見る光景だ。
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 この十一面観音像は町指定有形文化財だという。

 寺の由緒を書いた石碑も建っていた。
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『 慧日山福聚寺ハ臨済宗妙心寺派ニ属ス 開山ハ勅諡大光禅師復庵宗己大和尚(延文2年示寂)ニテ 正慶元年(1332)ノ創立 開基ハ田村輝定公(貞治元年薨ズ 法号福聚寺殿輝山定公大禅定門)ト伝フ 又永正元年(1504)現郡山市日和田町八丁目ヨリ現在地ニ移サルト
 本尊ハ木彫釈迦牟尼如来座像ナリ 当山ハ田村家ノ菩提寺ニテ城下町三春ノ基ヲ開ケル田村義顕・隆顕・清顕公三代ノ墓所アリ 観音堂ニハ田村家守護仏十一面観世音菩薩像ヲ安置ス
 昭和51年丙辰孟春 住職 宗明 謹記  』

 この石碑は新しく見えるが、「昭和51年丙辰孟春」とあるから、既に40年経っている。住職の宗明さんは前住職らしい。今の住職の玄侑宗久さん(橋本さん)は第35世住職で平成20年(2008)から住職をしているそうだ。玄侑宗久は2001年『中陰の花』で芥川賞を受賞した作家である。私は文学にそれほど興味がないので、玄侑宗久さんを知らなかった。玄侑宗久は慶応大学を出ているそうだが、父親の宗明さんは東京大学を出ているというので優秀な親子である。


 田村氏三代の墓(町指定史跡)は裏山の墓地の一画にあった。
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 大きな樅の木の下に田村氏三代の墓があると聞いていたが、樅の木は途中で折れていた。地元に人に訊いたら、先の台風で折れてしまったとのことである。
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 石碑があった。
『 田村公三代之墓所
前左金吾校尉梁山棟公大居士 霊位
 永禄四辛酉年三月二十五日薨(1561年)
  左衛門尉義顕公

前藝州太守兼左金吾校尉長岳泰公大居士 霊位
 天正二甲戌年九月六日薨(1574年)
  安藝守隆顕公

前長雲寺殿前光禄雲岳松公大居士 霊位
 天正十四丙戌年十月九日薨(1586年)
  大膳大夫清顕公

 昭和59年3月  』
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 向かって右から、田村義顕、田村隆顕、田村清顕の墓らしい。
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 田村義顕(よしあき)は、守山城(現・郡山市田村町)から三春城へと居を移し、戦国大名・三春田村氏の礎を築いた。それにより菩提寺である福聚寺も安積郡八丁目(現・郡山市日和田町)から現在地に移されたというが、郡山市田村町守山と郡山市日和田町は直線距離で13kmほど離れている。この時、田村大元神社も遷されたようだが、田村大元神社は守山から移ってきている。
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 石像は義顕であろうか。かなり風化していてはっきり分からないが、何だか恐そうな顔に見える。義顕の妻は岩城常隆の娘である。義顕の没年は1561年とされる。
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 田村隆顕(義顕の子)の妻は伊達稙宗の娘である。隆顕の没年は1574年とされる。
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 田村清顕(隆顕の子)の妻は相馬顕胤の娘である。娘・愛(めご)姫を伊達輝宗の子・政宗に嫁がせた。つまり伊達政宗の義父である。清顕の没年は1586年とされる。

 田村氏は隆顕、清顕の代に複雑な争いをしながら伊達氏(稙宗・晴宗・輝宗)との連帯を強め、会津の芦名氏や常陸の佐竹氏と戦った。
 田村氏の周囲には芦名、畠山、大内、相馬、二階堂、結城、岩城、佐竹、伊達といった大小の大名がいたことから、生き残りをかけてどこと組むのかは重要な問題であった。それでも戦国末期には田村郡を中心に安積郡や岩瀬郡の一部も支配下に入れ、9万石を領していたという。

 田村氏は豊臣秀吉の小田原の陣に参陣しなかった事から、天正18年(1590)の奥州仕置の際、改易された。愛姫(清顕の娘)が、伊達政宗の正室であったことから、4代目の田村宗顕は伊達政宗の家臣として仙台へ移り、一関(岩手県一関市)を領することになった。
 田村氏はその出自については異論もあるが、平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂の子孫を名告り、東北では名門とされた。
 通常、源氏がそうであったように、下向したときに土地の豪族の娘との間に子ができて、その子が貴種として名門を名告ることが多いが、郡山市田村町守山あたりの地元には、坂上田村麻呂は当地の出身であるという伝承があり、それを信じているという。

 田村麻呂は天平宝字2年(758)に坂上苅田麻呂の次男または三男として生まれたとされる。坂上氏は渡来人である阿知使主の子孫を自称し、田村麻呂の祖父の犬養や父の苅田麻呂もそれぞれ武をもって知られた。
 坂上氏は、坂上大国 → 犬養 → 苅田麻呂 → 田村麻呂という系図があり渡来系の中央の貴族であり、福島県の田村郡とは繋がらないように考えられる。
 しかし、坂上氏は代々弓馬の道を世職とし馳射(走る馬からの弓を射ること)を得意とする武門の一族として、数朝にわたり宮廷に宿営してこれを守護したことを考える時、馬との関係で東北に氏族に関係する部民をもち田村郡とも何らかの関係があった可能性が否定できない。三春は三春駒で有名で馬の産地でもあったようだ。

 田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており(蝦夷征討)、延暦8年(789年)には紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。
 田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり、延暦11年(792年)に大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、翌延暦12年(793年)に軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は4人の副使(副将軍)の1人ながら中心的な役割を果たしたとされる。
 なぜ副使(副将軍)の1人であった田村麻呂がその後頭角を現し、延暦16年(797年)には桓武天皇により征夷大将軍に任じられ、延暦20年(801年)に遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じることができたのであろう。
 田村麻呂はいったん帰京してから、翌21年(802年)確保した地域に胆沢城を築くために陸奥に戻り、そこで阿弖流為と盤具公母礼ら500余人の降伏を容れた。田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の貴族は反対し、2人を処刑した。田村麻呂は延暦22年(803年)には志波城を造ったとされる。
 なぜ阿弖流為と盤具公母礼は田村麻呂を信用したのだろう。田村麻呂の蝦夷征討は武力だけではなかったようだ。田村麻呂が蝦夷と交渉できた背景には、もともと蝦夷地との何らかの繋がりがあった可能性がある。

 大和朝廷は地方の反乱に対して、その地方と縁のある中央氏族を派遣して鎮圧する傾向があった。
 養老4年〜養老5年(720〜721)、大隅国で隼人の反乱があった。このとき朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命し隼人の征討にあたらせた。
 大伴氏は神武天皇が大和へ東遷した時の随伴者のひとりである天忍日命の子孫とされ、大隅国はその出身地でもあったようだ。

 蝦夷征討においても紀古佐美や大伴弟麻呂では成果を挙げられなかったようで、蝦夷地との何らかの繋がりがあった坂上田村麻呂が起用されたのではないだろうか。

 小野妹子 → 小野毛人 → 小野毛野 → 小野老 → 小野竹良 → 小野永見 → 小野石雄 → 小野春風と続く小野氏も蝦夷地との関係を持った。
 小野石雄(おののいわお)は、弘仁4年(813年)に起きた蝦夷の吉弥侯部止波須可牟多知の乱において、文室綿麻呂を征夷大将軍とした征夷軍に従軍している。文室綿麻呂は延暦20年(801年)には征夷大将軍の坂上田村麻呂らと共に蝦夷征討のために東北地方へ派遣された武将である。文室綿麻呂の子孫は東近江市北菩提寺町にある押立神社の神主を世襲している。

 小野石雄の父である小野永見も征夷副将軍であった。
 小野石雄の子である小野春風は、元慶2年(878)3月に元慶の乱が勃発すると、出羽権守として夷俘討伐を担うこととなった藤原保則の推挙により、同年6月鎮守府将軍に任ぜられ、陸奥権介・坂上好蔭とともに精兵500人と甲冑一揃えを与えられ、陸奥国から秋田城へ救援に向かう。
 春風は防具・武器を脱ぎ捨て単身で夷俘の中に乗り込み、夷語を用いて降伏を促すなど、硬軟取り混ぜた対応により乱を収めた。
 春風が夷語を話せたのは、小野永見、小野石雄と祖父と父が蝦夷地と深く関わったことが関係している。 小野小町の伝承地が秋田県湯沢市小野地区にあるのも頷ける。

 小野春風が蝦夷地で活躍できたのは祖父の代から蝦夷地との関わりがあったからである。坂上田村麻呂も当初から蝦夷地との関係があったのではないか。
 「御伽草子」では、田村麻呂の母は、田村郷(福島県田村郡)の賤女(下級巫女)だとされる。坂上苅田麻呂の蝦夷地での落胤が長じて京へ上がったのが田村麻呂であったという説話であろう。このような話があるためか、田村麻呂は東北では裏切り者としての一面があるようだ。田村麻呂が東北出身かはともかく、少なくとも田村麻呂の後裔が蝦夷地に扶植されたことはあったのだろう。陸奥権介に任命された坂上好蔭の名もある。
  田村氏が坂上田村麻呂の子孫を名告るのも故があることなのかもしれない。田村氏が東北地方で名門であることは伊達氏も認めている。

 私が気になるのは田村氏が守山(現・郡山市田村町守山)から三春に移ってきたことである。守山の地名からも分かるように、ここにはいくつかの古墳がある。
 私は2015年4月に大安場古墳を訪れたことがある。いずれにしても阿武隈川沿いの郡山市田村町周辺は古くから開け、しかも大和朝廷と古くから繋がっていた豪族が住んでいて、それが田村氏(田村庄司氏)の祖先である可能性が極めて高いように思う。三春田村氏は滅びた田村庄司氏の権益の一部を引き継いだ別系統であるとされる。


 田村清顕は娘・愛(めご)姫を伊達政宗に嫁がせた。愛姫は政宗の正室である。政宗と愛姫(陽徳院)の間には長女の五郎八姫のほか伊達忠宗(仙台藩第2代藩主)、伊達宗綱 (岩ヶ崎伊達氏初代当主)、伊達竹松丸(早世)が生まれた。
 私が興味深く思ったのは五郎八姫の霊屋(たまや)の前にも田村氏三代の墓同様に大きな樅の木があったことだ。

 五郎八姫はキリシタンだったと言われる。そしてそれは母の愛姫がキリシタンだったからだと言われる。それが遣欧使節・支倉常長にも繋がっていくようだ。
 愛姫がキリシタンだったことを考えれば、田村氏にもキリシタン信仰があったのではないか。田村氏は坂上田村麻呂の子孫を自認する。そして坂上氏は阿知使主(漢人系渡来人)の子孫を自称している。

 支倉常長は元亀2年(1571)、桓武天皇を祖先とする山口常成の子として置賜郡長井荘立石邑(山形県米沢市立石)に生まれた。当時米沢市には伊達氏の居城があり、伊達政宗も米沢城で生まれた。
 常長は伯父支倉時正の養子となり、7歳から陸奥国柴田郡支倉村(宮城県川崎町支倉地区)に在する上楯城で長い青年期を過ごした。その後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し、600石取りとなる。
支倉氏は初め伊藤と称し姓は平。「伊達世臣家譜」によれば、その祖先は高望王から代々続き、伊勢国国司に任ぜられて伊藤庄に住んだ伊藤常久を祖とする。ここで伊勢平氏との繋がりができたようだ。
 私は熊野にも伊勢にも形を変えたキリシタン信仰があったのではないかと考える事がある。熊野から松島あたりまでの太平洋側海岸線に点々と隠れキリシタンの里があり、それらは江戸時代のキリシタン禁止以前からあったようだ。私が住む三浦半島にもあるようだ。
 最近、用事があり三浦半島の先の三浦市毘沙門の近くへ出かけたが、何だかそれらしい雰囲気を感じた。そこには鈴木姓が多く、全ての鈴木姓がそうではないが、鈴木を名字とする家の多くは穂積朝臣を本姓としており、熊野三山信仰と関係が深いという事実がある。「八咫烏紋」は鈴木氏が用いた家紋である。

 鎌倉公方足利氏満と白河結城氏の結城満朝によって田村庄司氏は滅ばされた。その後、田村荘は鎌倉府の御料所に編入されが、鎌倉府の室町幕府中央との対立による衰退によって荘園領主は熊野新宮に移ったと見られ、その中で滅亡した田村庄司氏の権益の一部を得た三春田村氏は熊野新宮の田村荘代官職を得て後に戦国大名として成長する。つまり田村荘は熊野新宮の領地であり、三春田村氏はその代官であったのだ。


 松島には五大堂があったが、現地説明板には次のようにあった。
『 五大堂縁起
 平安時代初期の807年、坂上田村麻呂がこの島に毘沙門堂を建て、828年、慈覚大師が瑞巌寺の前身・松島寺を建てて、ここに五大明王を祀り、五大堂と呼ぶようになった。
 現在の建物は1604年、伊達政宗が紀州(和歌山県)の名工鶴衛門家次に命じて建立した。方三間の宝形造で、四方に勾欄つきの縁を巡らし、正面に向拝をつける。内部に重厚な家形厨子を置き、五大明王を安置する。
 有名な蟇股の彫刻など、雄健な桃山建築として、国重要文化財に指定されている。
 瑞巌寺  』
 慈覚大師手彫りと伝えられる厨子内の五大明王(国重文、中央・不動 東・降三世 南・軍荼利 西・大威徳 北・金剛夜叉)は、平安時代中期に制作された秘仏で、33年に一度開帳される。
 注目されるのは坂上田村麻呂が祀ったのは毘沙門天で、それを円仁が不動明王に替えたらしいということだ。


 中国へのキリスト教の伝播は唐の太宗の時代の635年(貞観9年)にペルシア人司祭「阿羅本」率いる一団の宣教師によって伝えられたとされる。
 大秦寺は、中国における景教(中国に伝来したネストリウス派キリスト教)の寺院(教会)の一般名称であり、唐の時代に長安に存在した大秦寺が有名である。
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 大秦寺から連想するのは渡来系氏族の秦氏である。秦氏は景教徒のユダヤ人であるとの説が佐伯好郎さん(1871〜1965)によって唱えられた。佐伯好郎さんは広島県廿日市市(はつかいちし)の市長をやったことがある人で、生家は厳島神社神主職を務めた佐伯氏の流れをくむとされる。

 秦氏が景教徒のユダヤ人であるかはともかく、奈良時代までに渡来人によって景教が持ち込まれていた可能性は否定できない。極東の国である日本は全ての文化や宗教が流れつき留まる場所でもあった。漢人系渡来人を自称する坂上氏が景教徒であっても不思議はない。
 そんなことを考えていると、十一面観世音堂にあった十一面観音がマリア像の化身ではないかという妄想まで浮かんだ。碑文には、「観音堂ニハ田村家守護仏十一面観世音菩薩像ヲ安置ス」と刻まれていた。因みに田村麻呂が創建に関わった清水寺の本尊は千手観音である。


 福聚寺の墓地のある裏山の一部は、城の土塁の跡のようにも見えた。寺であると同時に砦でもあったのかもしれない。
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 福聚寺には、雪村の『達磨図』(町指定有形文化財)があり、正月など特別な時に公開されるという。
 雪村は戦国時代の水墨画家、僧侶で、雪村周継とも称す。常陸国部垂(茨城県常陸大宮市)に佐竹氏の一族の長男として生まれる。本来なら長男として家を継ぐはずだが、雪村の父は他の妻の子を跡取りとしたため、幼くして夢窓疎石を開山とする正宗寺(佐竹氏の菩提寺)に入って修行した。
 雪村は周文や雪舟に私淑し、雪村の「雪」は雪舟から採ったようだが、特に直接師と仰いだ人はいなかったらしい。
 雪村は天文15年(1546)会津の芦名氏の知遇を得て、ここで約20年間その保護を受け絵を描いたが、芦名氏滅亡後、天正元年(1573)70歳の時三春に来て、福聚寺に一時寄寓し、田村氏の庇護のもと雪村庵(現・郡山市西田町大田字雪村)に移り住み、そこで没したとされる。その生涯には不明な点が多く、生没年もはっきりしないが、記録によれば少なくとも82歳までは絵を描いていたことがわかっている。

 雪村の水墨画は評価が低い時期もあり、作品は海外へ流出したが、美術史家フェノロサは、雪村は雪舟・ターナーを凌ぐと評価した。
 雪村庵は、明暦4年(1658)に当時の藩主秋田盛季の命で再建され、高乾院住職だった一元和尚に与えられ、桜梅山観音寺と呼ばれたが、いつの時代か福聚寺の所有になった。
 福聚寺は天明5年(1785)の大火災により堂字のほとんどが焼失したため、雪村庵が庫裏として移築され、その後寛政12年(1800)、仮堂(現本堂)が建てられた。
 現在は雪村庵は元の場所に復元されているようだが行ってみなかった。

 雪村の作品は多いが、福島県内で見られるのは会津若松市森川家所蔵の『神農図』と福聚寺にある『達磨図』ぐらいだという。今は三春町歴史民俗資料館ができ、雪村の『奔馬図』を所蔵しているそうだ。


 2015年4月の初めに大安場古墳を訪れたとき、学芸員の人に近くの観光名所を訊いたら、三春町の「滝桜」がいいが、まだ少し早くて咲いていないと言われた。
 三春町には国の天然記念物指定の「滝桜」があり樹齢を1000年と推測されている。三春の名は梅・桃・桜が一度に咲き競うところから名付けられたともいう。
 ここ福聚寺も樹齢約470年の枝垂れ桜が有名で、田村氏が植えたと伝えられているそうだ。
 国の天然記念物指定の「三春滝桜」もエドヒガン系ベニシダレザクラで、枝垂れ桜である。この「三春滝桜」は、根尾谷淡墨桜(岐阜県本巣市)、山高神代桜(山梨県北杜市)と共に日本三大桜だと言われる。根尾谷淡墨桜も伝説を秘めた桜でいつか訪ねてみたいと思っている。


 駿河国一宮である富士山本宮浅間大社は、大同元年(806)に坂上田村麿が平城天皇の勅命を奉じ、現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座したものだ。この富士山本宮浅間大社の主祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)で、境内は桜の名所である。しかし、この桜は枝垂れ桜が多い。武田信玄が奉納したものも枝垂れ桜だったとされる。
 田村氏が福聚寺に植えたのも枝垂れ桜であることから、坂上田村麿を意識してのことであろう。
 私は日本一の富士山には、日本を代表する女神が隠されていると感じる。それは木花之佐久夜毘売命などという抽象的な名前の女神ではなかったのだろう。坂上田村麿は朝廷の将軍としてこの女神の名を隠すことも使命の一つとしたのであろう。それは渡来系氏族である坂上氏にとっても都合がよいことであったのだろう。

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