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zoom RSS 旅 648 田村大元神社

<<   作成日時 : 2017/03/26 10:32   >>

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2016年 6月6日
田村大元神社(たむらたいげんじんじゃ)

 田村大元神社に行く道の左手に三春小学校があった。その裏山に三春城跡があり、現在は城山公園になっているそうだ。
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 現在の郡山市田村町守山にいたとされる田村義顕(よしあき)が三春城(通称舞鶴城)を築き入城したのは、1504年だとされる。
 標高410mの大志多山(おおしだやま)の一帯が三春城の跡とされている。大志多山は「お城山」と呼ばれ親しまれている。三春城は山の下から見上げて、鶴が舞うように見えることから「舞鶴城」と言われたそうだ。
 三春という地名はいつ頃からあるのか定かではないが、文字の上で確認されるのは1339年頃の史料に、「御春(みはる)」という地名があるという。南北朝の争乱に参加した武士団が三春地方に存在していたことがうかがえるという。

 三春小学校の校門が立派であり、「明徳堂」の扁額がかかっていた。
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 この校門は旧三春藩講所「明徳堂」の表門が移築されたものだ。
現地の説明板には次のようにあった。
『 藩講所表門
 講所とは昔の学校のことで、この門は秋田氏時代に建てられた門です。
 明徳堂はこの講所の講堂(学問所)に付けられた名前で、この扁額は七代藩主秋田倩季(よしすえ)公の書を写したものです。
 三春町教育委員会  』

 更に碑文には次のようにあった。
『 三春町指定重要文化財 藩講所表門
 三春藩の文校は、藩主秋田氏七代倩季によって天明期に創設され、講所名を明徳堂と称して武家子弟の学問武芸の教授にあたった。
 明治四年講所廃止後は、中学校や師範学校また民権運動家を育成した正道館などに転用された。この講所表門は、寛政年間の建築でしばらく公会堂の門として町民に親しまれたが、昭和二十二年、三春町の教育文化を象徴する建造物として現在地に移して、三春小学校校門として生かされている。 』 

 この校門がある場所はかつて追手門があった場所だという。このような歴史のある校門をくぐって通学している小学生は、将来にどのような夢を持って勉学に励んでいるのだろう。この小学校の校庭も東日本大震災の津波に関わる福島原発の事故による放射能の除染の対象になったのであろう。
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 田村大元神社は、三春小学校から県道を少し南東へ行った左手にあった。福島県田村郡三春町字山中に鎮座し、旧社格は郷社である。ここは三春城の三ノ丸下にあたり、ここからも城山公園へ上る散策路があるようだ。
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 鳥居の前に石橋があるが川は県道を挟んだ向かい側にある。

現地説明板より
『 田村大元神社 参道の石橋
 田村大元神社(旧社名大元明王社)の参道石橋は、文政10年(1827)桜川に架かる橋として出来上がったものである。
 当時の桜川は、清水端から中山の神社側を流れ、南町のところで現在の流路とほぼ同じになっていた。橋の長さは、現在より2mほど県道寄りに長かった。
 今のように道路から反対側の山岸を流れるように大改修されたのは、明治25年頃のことであった。
 宮橋は桜川の流路変更を物語る唯一の証になる文化財である。
 平成16年11月 橋畔住人記す  』

 鳥居をくぐり、右に曲がり坂を上がると仁王門があった。
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 この仁王門の後ろには随神が祀られていて、表から見ると仁王門で裏から見ると随神門となり、神仏習合を地でいっているような門である。
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 この門は慶応3年(1867)に仁王門として建てられたものだというが、仁王像は明治の神仏分離で別当寺院だった真照寺に移され、軒下で風雨にさらされていたという。
 仁王像がこの門に帰ったのは戦後の昭和36年のことで、その後篤信家によって修復されたという。現在は門も仁王像も町有形文化財に指定されている。


現地説明板より
『 田村大元神社
 永正元年(1504)、田村義顕の三春移城に伴い、守山の領内総鎮守大元師明王を三春城東館下に移した。
 明王堂は明治4年(1871)、廃仏毀釈によってとりこわされ、明治33年、文化8年(1811)再建時の部材を用いて本殿を建立した。
 表門は慶応3年(1867)の建造で、金剛力士像とともに町有形文化財に指定されている。境内末社八幡・熊野両社は、寛文10年(1670)消失後再建されてたもので、町有形文化財に指定されている。 
 三春町教育委員会 』


 仁王門をくぐって右手には神楽殿があった。この脇を登っていくと城山公園へ上れるようだ。
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 この拝殿は明治33年(1900)に建てられたものだ。前の大元師明王社として建造された仏教色の強い本殿・拝殿は、明治維新の神祇取り調べの際に取り壊されたという。
 江戸時代までは神仏混淆であったため『明王さま』と呼ばれていたが、明治3年に『大志太山神社(大志多山神社)』、明治12年に『田村大元神社』と改称し、そのとき祭神が国常立命にされたようだ。
 江戸期の秋田藩政下では三春藩領内総鎮守として三春五万石の領民の崇敬を受けてきたという。
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 拝殿の新しい扁額には「太元明王」とあった。

 本殿も拝殿と同じ頃に建てられたもので、一間社流造、銅板葺で当時の神社建築をよく表している構造で、複雑な木組みや彫刻など凝った造りとなっている。
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 主な境内末社は、向かって左に熊野神社、右に八幡神社がある。この2社は17世紀後半の再建で、拝殿や本殿よりも古い。どちらも町有形文化財に指定されている。 

 熊野神社は、屋根の三角の方に入口を作る「妻入り」で、向拝が屋根の三角の方から出ている。大社造も切妻造・妻入であるから、出雲系の神を祀っている可能性が指摘される。
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 八幡神社の方は一間社流造で、千木が付いていない。八幡神は僧形八幡像があるように、元もと仏教色が強い。現在の多くの日本家屋がそうであるように、家の廂の方に入口を作る「平入り」である。
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 猫の鳴き声がするので社殿の下を見ると、猫がいた。この猫のお気に入りの場所なのだろうか。
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 社伝によると延暦年間(782〜805)に坂上田村麻呂が征夷大将軍として東夷征伐の途中、磐城國岩瀬郡小山田村今明王壇に国常立命を奉斎し、武運長久を祈願したというのがはじまりとされる。一説では田村麻呂が祀ったのは国常立命ではなく小山田今明王だとされる。
 磐城國岩瀬郡小山田村は現在は須賀川市に属していて、郡山市田村町守山の南約6kmのところである。この小山田や隣の和田からは古代の直刀や兜などが発掘されている。中世は二階堂氏によって支配されていたようだ。
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 図から分かるように、福島県内の鉄剣の出土は県南の阿武隈川沿いに集中している。小山田に赤丸をした。青丸は三春、太平洋側の青丸は福島第1原発である。 (クリックして拡大するとよく分かる)

 どうやら当社は、小山田 → 守山 → 三春 と遷ってきたようだ。そして坂上田村麻呂らの東夷征伐とも関係しているようである。
 当社の社宝として、永仁3年(1295)に奉納された「銅製松喰鶴鏡」があるが、これは守山に鎮座していた頃に奉納されたものということになる。「銅製松喰鶴鏡」は国認定重要美術品とされる。

 三春の田村氏は、田村氏系図によると、坂上田村麻呂の子孫・古哲が田村荘を支配したのに始まるという。一説には、秀郷流藤原氏が始まりともいう。
 「三春町史」には、奥州藤原氏の時代から鎌倉初期にかけて田村荘を実質支配したのは、京にいた坂上氏の庶流で、奥州藤原氏の役人となってこの地に赴き、豪族化した一族とされている。

 田村荘は中世の陸奥国安積郡に置かれていた荘園で、現在の福島県郡山市・田村市・三春町・小野町の付近にあったと推定されている。
 田村荘の成立時期は不明であるが、田村荘の庄司であったとされる田村氏(俗に「田村庄司氏」と呼ばれる)の活躍が鎌倉時代末期にはみられることから、14世紀前期の段階では既に存在していたということが知られている。この田村庄司氏は、戦国大名田村氏の祖である「三春田村氏」とは別系統だとされる。

 建武2年(1335)10月26日付の陸奥国宣案(伊勢結城文書)によれば、白河結城氏の結城親朝は陸奥国内の8か所の検断職に任ぜられ、その中に田村荘も含まれている。
 田村庄司氏は南北朝時代には南朝方についていたが、北朝方に転じた白河結城氏などに攻められて屈服させられた。
 その後、検断職を梃子に田村荘進出を狙う白河結城氏と田村庄司氏の対立は続き、明応3年(1396)には、小山氏の乱と結びついた「田村庄司の乱」という形で軍事衝突に発展した。
 この反乱は陸奥国の管轄権を室町幕府から移譲されたばかりの鎌倉府(鎌倉公方)にとっては、奥州に力を示す好機であり、鎌倉公方足利氏満自らが出陣して白河結城氏の結城満朝とともに田村庄司氏を滅ぼした。
 その結果、田村荘は鎌倉府の御料所に編入され、同荘の検断職を持っていた白河結城氏及びその一門が代官として徴税などの業務にあたることとなった。
 その後、鎌倉府は室町幕府中央との対立による衰退によって荘園領主は熊野新宮に移ったと見られ、その中で滅亡した田村庄司氏の権益の一部を得た三春田村氏は熊野新宮の田村荘代官職を得て後に戦国大名として成長する。
 つまり、三春田村氏は直接田村庄司氏と繋がるわけではないが、田村庄司氏の権益の一部を引き継いだことは確かであり、熊野新宮の田村荘代官職を得たことから田村大元神社の境内末社に立派な熊野神社があるということに繋がる。

 豊臣政権の奥州仕置によって田村氏が所領没収されるまで、同荘の代官職にあったことが知られ、奥州仕置があった天正18年(1590)に新領主となった伊達氏家臣の片倉景綱(片倉小十郎)が熊野新宮に収められる年貢銭を代わりに納入している。(片倉文書) だが、翌年には伊達氏は田村荘を没収されており、田村荘も歴史から姿を消す。

 片倉景綱は弘治3年(1557)現在の成島八幡神社(山形県米沢市広幡町成島)とされる置賜郡長井庄八幡神社の神職・片倉景重の次男として生まれた。景綱の知才は豊臣秀吉にも高く評価され、奥州仕置のとき秀吉は景綱を直臣に迎えようとして三春5万石の大名に取り立てようとしたが、このとき景綱は伊達政宗への忠義を選んで辞退している。
 田村大元神社の境内末社に立派な八幡神社があるのは片倉景綱との繋がりを表しているのかもしれない。
 なお、田村荘とその周辺地域は江戸時代以後、安積郡から切り離されて田村郡と呼ばれるようになり、三春・小野両町は今日でも田村郡に所属している。


 三春で義顕、隆顕、清顕と3代続いた田村氏は豊臣秀吉の小田原の陣に参陣しなかった事から、天正18年(1590)の奥州仕置の際、改易された。愛姫(清顕の娘)が、伊達政宗の正室であったことから、4代目の田村宗顕は伊達政宗の家臣として仙台へ移り、一関(岩手県一関市)を領することになった。
 伊達家から養子を迎え家名としては一門として存続し一関藩3万石の大名格にはなったものの、一族や家臣の多くは伊達家に対して面従腹背であったという。

 田村氏は、明治期には子爵となり東京に住んだが、大正年間に一関に常駐するようになった。そのとき、釣山山頂にある八幡神社の境内に田村神社を祀った。江戸の藩邸にあった神社を移し、社殿を北向きに建て、田村麻呂を祭神としている。
 
 田村大元神社は江戸時代まで大元師明王社として大元師明王(太元明王)を祀っていた。この明王とはどんな神なのであろう。それは坂上氏が信仰していた神なのであろうか。坂上氏は渡来系であることを自称する。太元明王とは外来の神なのだろうか。
 田村氏は田村神社に坂上田村麻呂を祀っていることから、田村大元神社に祀られているのも坂上田村麻呂であるという説が根強い。

 八幡神にしても稲荷神にしても日本の神々は渡来系氏族が祀ったものが多い。そして仏教も平安時代までは渡来系氏族のものであった。そして天皇家でさえ桓武天皇以降渡来系であることを隠さない。
 21世紀の現在、渡来系とか帰化人とか言うことそのものがナンセンスなのだろうが、律令中央集権国家を志向したころから搾取する側とされる側が構造的に色分けされてきたように思えてならない。そして搾取する側は渡来系氏族であったように思う。
 現在もその構造が水面下で続き、勝ち組と負け組が色分けされる。それは時には地域差にも現れる。多くの富や情報は現在の都である東京に集められる。東京電力の福島原発の電力は東京へ送電され、一旦事故が起これば、その被害や苦難は地元住民が負うことになる。そんなことを考えるのは私が搾取される側にいるからであろうか。
 
 江戸時代の各藩の百姓への対応は、「生かさぬように、殺さぬように」であったと聞く。現在は既にセーフティネットから漏れ、生きていくことさえ大変な人たちが出てきた。縮小する日本社会の中で文化的な最低限度の生活の保障ができるのであろうかと不安になる中、目に余る国費の無駄遣いも発覚している。将来への不安から回るはずのお金も滞り、経済が沈滞していく。
 
 坂上田村麻呂の伝説には胆沢の高丸・悪路王・阿底利為・母礼など征服劇が多い。ここ三春の近くの阿武隈山地には仙台平を中心にした石灰岩台地がある。仙台平の東斜面、大滝根川の支谷にかかる鬼穴と言われる洞穴は一種のドリーネである。ここは平安時代に里人たちが重税に苦しんでいるのを見て、時の権力者に反逆し、坂上田村麻呂の軍と勇猛果敢に戦った大多喜丸が最期をとげた所だという鬼丸伝説がある。
 高丸・悪路王・阿底利為・母礼・大多喜丸らは果たして「悪」であり「鬼」であったのだろうか。
 私は、律令制中央集権国家を目指した大和朝廷の先鋒として戦った初代の征夷大将軍・坂上田村麻呂の伝説に触れるとき、彼が滅ぼしていったまつろわぬ地方の豪族たちの悲鳴にも似た声が聞こえるように感じることがある。 (形の上では初代の征夷大将軍は大伴弟麻呂だが、実質的には初代の征夷大将軍は坂上田村麻呂といってよい)
 安心させて最終的に阿底利為や母礼を裏切った田村麻呂。安全だと言って結果的には福島県民を騙すことになった福島第1原発。福島第1原発は現代の坂上田村麻呂だったのではないか?

 江戸時代に書かれた『仙道田村兵軍記』という本がある。江戸期に一関(岩手県一関市)に移封された田村氏が、三春で勢力を振るっていた時代を回顧して書かれたものらしいが、この本では坂上田村麻呂は奥州の生まれとされる。
 『仙道田村兵軍記』は、平姓田村氏の始祖といわれる田村清顕の一代記として書かれたもので、延暦13年(794)の坂上田村麻呂の征夷から始まり、古くからこの地に定着していた橋本氏に結び付け、自らの出自を貴種とする物語だという。
 そういえば三春田村氏3代の菩提寺である福聚寺の住職は橋本さんである。今の住職の玄侑宗久さん(橋本さん)は第35世住職で芥川賞を受賞した作家でもある。どの氏族でも跡取りでない子弟を寺に入れることを一般的にしてきた。橋本氏も田村氏の一族であったのだろう。福聚寺に絵が残る雪舟も跡取りを外れた佐竹氏の一族である。

 田村氏が三春を去ってから、江戸時代は三春藩主の秋田氏が田村大元神社を庇護してきた。7月の第3土日(海の日の前)に行われる夏祭りでは、神輿渡御に伴い長獅子舞や三匹獅子舞が祭りに花を添えるというが、これは秋田氏の祭であろう。


 薩長土肥が天皇を錦の御旗に担ぎ上げて戦った戊辰戦争は、新たな中央集権国家をつくる戦いでもあった。元々勤王派であった三春藩(秋田氏)は仙台藩などの圧力で奥羽列藩同盟に加わるも、いち早く新政府軍へ帰順し、二本松藩への攻勢を手引きするなどしたため、二本松ではつい最近まで三春に対して敵意があり、三春から嫁を貰うなと言われていたそうだ。同じような話は、新潟県の長岡と新発田の間でもあった。

 多くの血を流した戊辰戦争は本当に必要な戦いだったのだろうか。その後の大東亜共栄圏を掲げてアジアに進出した政策は正しかったのであろうか。国がまとまることは必要だが、その絆をどのように使うかは一部の人々のエゴに任せてはならない。

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