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zoom RSS 旅 653 下野薬師寺跡 と 安国寺

<<   作成日時 : 2017/04/10 17:24   >>

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2016年 6月6日
下野薬師寺跡 と 安国寺

 福島県田村郡三春町でいくつかの寺社を訪れた後、車で下野市薬師寺跡までやってきた。時刻は午後5時半になるので、今日の見学はここが最後になる。
 下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと)は栃木県下野市薬師寺にある古代寺院跡で、国の史跡に指定されている。
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現地説明板より
『 下野薬師寺跡周辺の史跡マップ
 県南のこの地域は、鬼怒川・田川と姿川・思川に挟まれた台地上にあり、古代の政治・文化の中心地、交通の要衝地でした。したがって、古代の重要な遺跡が集中しています。
この図は周辺地域の史跡案内図です。多くの史跡がありますので、訪れてみてください。 』
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 外郭施設の塀に囲まれた範囲は、東西250m、南北350mあるという。
 伽藍配置は一塔三金堂で、伽藍中央に塔、そしてその北に規格の違う東西金堂が確認され、回廊北に中金堂が取り付く配置である。
 一塔三金堂の例としては飛鳥寺が挙げられるが、堂塔の配置は異なっている。
 中金堂の北には講堂があり、さらにその北には僧坊があったことが確認されている。さらに伽藍東には、伽藍内の塔が焼失した後に改めて建てられた塔があったことが確認された。

現地説明板より
『 下野薬師寺跡の地形
 この地域は、南北に流れる東側の田川と西側の浅い浸食谷に挟まれた洪積台地となっています。
 下野薬師寺は、この南北に細長く、北から南に緩く傾斜する半島状の台地のほぼ中央にあります。伽藍の建物は低地から見上げられ、人々の目にはたいそう壮大に映ったことでしょう。

下野薬師寺の関連遺跡
 下野薬師寺の造営や運営に関わった人々は、寺の周辺に集落をつくり暮らしていました。
 寺の南 約1400mの大集落跡「薬師寺南遺跡」や歴史観建設地の集落跡「落内遺跡」は、寺の造営、改修の工人、寺の下働きの人々の住む集落であったと考えられます。
 これらの遺跡から、寺の造営や運営にともない、たいへん多くの人々が、寺の周辺で暮らしていたことが伺われます。 
「薬師寺南遺跡」
 8世紀初頭〜9世紀の竪穴住居跡120軒などが見つかった。下野薬師寺の創建以降、集落は次第に南へと広がっていった。
「落内遺跡」(おちうちいせき)
 下野薬師寺の周囲に存在する集落で、7世紀後半〜10世紀代の竪穴住居跡100軒などが見つかった。長い時期にわたり同じ場所に何軒もの住宅がつくり続けられた。 』


 下野薬師寺跡のすぐ西側には「御鷲山古墳」があった。
現地説明板より
『 御鷲山古墳
 形態 2段築成の前方後円墳
 大きさ
 第1段(下段)墳丘全長約83m、第2段(上段)墳丘全長約63m、前方部前端幅約24m、後円部直径約28m、第1段墳丘上面からの高さ前方部約4m、後円部約5m。
 埋葬施設
 凝灰岩切り石積みの横穴式石室がくびれ部の前方寄りにつくられている。石室全長約12m、玄室全長2.8m、奥壁幅約2.0m、高さ約2.0m。
 遺物
 石室内から馬具、鉄製の矢尻、鎧の部品が見つかった。
 築造年代
 遺物や他の古墳との比較から6世紀後半と考えられている。 』
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 後の考察に必要となるので、少し長くなるがWikipediaから下野薬師寺跡について載せる。
『 概要
 栃木県南部、鬼怒川右岸に広がる広大な平野上に位置し、奈良時代に正式に僧尼を認める戒壇が設けられていたことで知られる。
 当時、戒壇は当寺のほかに奈良の東大寺と筑紫の観世音寺にしか設けられておらず、これらは「三戒壇」と総称された。
 そのほか、道鏡が宇佐八幡宮神託事件ののち当寺に左遷されたことでも知られる寺院である。
 下野薬師寺は衰退と中興を繰り返しており、現在は初期寺院跡の発掘調査が進んでいる。また、跡地には安国寺が設けられ、下野薬師寺の法燈を現在に伝えている。

創建
 薬師如来を信仰する「薬師信仰」は、中国では敦煌、また朝鮮半島では新羅で見られる。日本には飛鳥時代までに伝来したと考えられている。日本で薬師信仰が盛んになったのは聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈って薬師如来像を造立して以来、天武天皇9年(680年)11月に天武天皇が皇后の病の治癒を願って大和国に薬師寺を建立してからのことである。
「下野」(当時は「下毛野」)の文字が六国史に頻出するようになるのもこの頃からで、大和国の薬師寺建立発願より4年後の天武天皇13年(684年)11月、日本全国の52氏が天武天皇より朝臣を賜姓され、下野国造家である下毛野君も大三輪君や大野君、上毛野君、中臣連、石川臣や櫻井臣等とともに朝臣姓を賜っている。
 その数年後以内(持統天皇元年(687年)3月、同3年(689年)4月、同4年(690年)8月)には帰化した新羅人が下毛野国に賦田を受けて居住し始めたと記録されており、創建に関わったとされる直広肆下毛野古麻呂の名も同年10月の条に登場する。
 下野薬師寺が建立されたのもこの天武天皇から持統天皇の御代と考えられており、『類聚三代格』には「天武天皇所建立地」とあり、『続日本後紀』には「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也」と見える。
 また、下野市では下野薬師寺は7世紀末に下毛野古麻呂が建てた寺と考えられるとしている。
 現在でも「薬師寺」と名付けられた寺は全て天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺も奈良時代以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺とされる。
 発掘調査の結果、出土した瓦が大和川原寺系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることから、7世紀末の天武朝の創建であると推定されている。

概史
三戒壇としての隆盛
 『続日本紀』によると、天平勝宝元年7月13日(749年9月3日)、全国諸寺墾田地限が定められた折には、奈良の法隆寺や四天王寺、新薬師寺、筑紫の観世音寺などと並んで500町とされた。
 なお、大安寺、薬師寺、興福寺、法華寺、國分金光明寺(東大寺)は4,000町、元興寺は2,000町だった。
 奈良時代には、僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明書である度牒を授ける戒壇が設けられた。当寺は東国の僧侶を担当し、中央戒壇(奈良の國分金光明寺(東大寺)戒壇院)と西戒壇(福岡の観世音寺戒壇院)に対して「東戒壇」とも呼ばれた。これらは「本朝三戒壇」(天下三戒壇、日本三戒壇とも)と総称され、国内の僧侶を統制した。
 宝亀元年(770年)、中央政界で権力をふるった道鏡が称徳天皇の死により左遷され、当寺の造寺別当(造寺司の長官)となった。
 このように当寺は特別な役割を担う官寺であったと考えられている。道鏡は772年に当地で没し、龍興寺に墓が伝わっている。

衰退
 平安時代に入ると、比叡山での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく。その理由として、当寺は戒壇に拠って存続していて特定の教団を持っていなかったため、戒律軽視の流れに逆らえなかったと考えられている。
 それでも『日本三代実録』によると、874年5月18日(貞観16年4月25日)から3日間の間、60名の僧が平安京紫宸殿において大般若経の伝読を行ったが、その金字仁王経71部を五畿七道各国に1部ずつ配布したほか、当寺には大宰府観世音寺および豊前国弥勒寺(宇佐神宮の神宮寺)とならび、各国配布分とは別の1部が配置されており、東国における当寺の位置付けの高さが窺われる。

中興とその後
 鎌倉時代、建久4年(1193年)には源頼朝により供僧3口が寄せられたほか、鎌倉幕府からの積極的な後援がうかがわれている。
 その後、慈猛上人が戒壇を再興、当寺は戒律・真言の道場として隆盛し、寺の前には門前市も形成されたという。
 室町時代、室町幕府は禅宗への帰依が篤くした。戒律・真言に拠る当寺は新たな庇護者を求め、足利尊氏・直義が全国に安国寺利生塔を建てるという意向を容れ、暦応2年(1339年)に「安国寺」と改名した。ただし、一般的にはその後も近世まで「下野薬師寺」と呼称されていた。
 戦国時代、後北条氏と結城多賀谷氏による戦渦に巻き込まれて堂宇は焼失し、以後威容を取り戻すことはなくなる。

 近世初頭には薬師寺不動院の流れをひくといわれる安国寺が旧伽藍内に再建され(現在の安国寺)、佐竹氏から寺領10石を寄進された。
 また、薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる龍興寺(現在の龍興寺)は、佐竹氏から寺領20石を寄進された。
 両寺は天和元年(1681年)から享保4年(1719年)にかけて薬師寺の正統を争う訴訟を起こしている。
 議論の末、天保9年(1838年)、「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護する」という合意に達し現在に至っている。
 なお、この過程で『薬師寺縁起』・『慈猛上人行状記』が書かれ、薬師寺の事績を現在に伝えている。

略年表
・白鳳期、天智天皇期(7世紀末)、創建と考えられる。
・天平5年(733年)頃、下野薬師寺造寺司がおかれる。
・天平勝宝元年(749年)、諸寺墾田地限度が定められ、当寺は500町が認められる。
・天平勝宝6年(754年)、薬師寺の僧行信、八幡神宮主神の大神多麻呂等と呪詛を行った罪で刑部省の取り調べを受けたうえ、当寺に遠流される。
・天平宝字5年(761年)、筑紫観世音寺とともに戒壇が設置される。
・宝亀元年(770年)、道鏡が左遷され造寺別当となる(772年没)。
・嘉祥元年(848年)、講師が置かれる。
・800年代、塔焼失。のち伽藍の外に塔が再建される。
・鎌倉時代、慈猛が再興。
・暦応2年(1339年)、安国寺に改名。
・元亀元年(1571年)、後北条氏と結城多賀谷氏による戦乱に巻き込まれて焼失。 』


 Wikipediaに、『暦応2年(1339年)、安国寺に改名。』とあるが、足利尊氏は北朝(後の室町幕府)の勢力扶植を狙って全国に安国寺利生塔を建てることを発願するが、各国に新規に安国寺を置く経済的余裕がなかったので、既存の寺を安国寺に改名した。下野薬師寺もそれを容れざるをえないほど自立そのものが難しい状況だったのだろう。

 また、『近世初頭には薬師寺不動院の流れをひくといわれる安国寺が旧伽藍内に再建され、佐竹氏から寺領10石を寄進された。』とあるが、下野薬師寺跡の東側には「安国寺」がある。


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現地説明板より
『 安国寺
 安国寺は暦応2年(1339)、足利尊氏が古代の国分寺にならって全国に安国寺を建立した際、下野国には薬師寺が存在することから安国寺を建てることなく、そのまま安国寺と寺名を改称したと伝えられている。
 当時はまだ下野薬師寺の伽藍配置が姿を留めていたと考えられるが、元亀元年(1570)に北条氏政の兵火によりその大半が焼失したと伝えられている。
 現在は、真言宗の寺院で薬師如来を本尊とする。その境内は、7世紀後半に創建された日本三戒壇の一つとして知られる史跡下野薬師寺跡の中枢部に位置しており、白鳳文化の香りを現在に伝えている。
 現在の本堂は明治38年に再建されたもので、近世以前の建物は六角堂と山門の一部を残すのみである。
 平成8年3月  』

 説明文の最後にテープが貼られていて、文責がどこなの分からなくなっていた。

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現地説明板より
『 六角堂
指定   昭和62年12月6日
所有者  安国寺
 安国寺の六角堂は、かつての下野薬師寺戒壇跡と伝えられる所に建てられています。江戸時代には、釈迦堂と呼ばれ、その姿は、文化2年(1805)に刊行された『木曽路名所図絵』によっても確認できます。
 現存する建物は、近年に修繕された部分も少なくありませんが、部分的に江戸時代後期の様式をとどめています。また、その名の通り建物の形、さらに屋根・外回りの柱・礎石までが正六角形造りの県内でも珍しい仏堂です。現在では、下野薬師寺跡のシンボル的な存在にもなっています。
 内部中央には、鑑真和上の画像を収めた厨子が安置されており、両脇には、木造の不動明王像・韋駄天像などが祀られています。
 平成7年10月  』

 この説明板は、はじめと終わりにテープが貼られている。テープの上から薄く透けて見える字は、はじめは「下野市指定有形文化財」で、終わりは「下野市教育委員会」であった。
 この六角堂は文化財指定を取り消されたのであろうか。下野薬師寺に筑紫観世音寺とともに戒壇が設置されたのは、天平宝字5年(761年)だとされる。それは下野薬師寺にとって大きな権威であり、歴史的事実である。
 しかし、1250年以上前の戒壇の様子や場所が正確に伝わっているわけではなく、六角堂が建つ場所の発掘調査が行われたわけでもないことから、「下野市教育委員会」の名で説明文を出していることが憚られる状況になったのだろう。
 「安国寺」の説明文も最後にテープが貼られていたが、消されていたのは「下野市教育委員会」であろう。

 次の写真は、少し前の下野薬師寺跡の写真と、発掘調査時の写真であるが、緑の木々が生い茂っている部分は安国寺の境内である。
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 一部の発掘調査では下野薬師寺の全貌は分からないであろう。だからといって今ある安国寺の境内を掘り返すこともできない。

 奈良時代に、東大寺(中央戒壇)、福岡の観世音寺(西戒壇)、下野薬師寺(東戒壇)に「本朝三戒壇」を置いた意義は大きい。
 東大寺(中央戒壇)、福岡の観世音寺(西戒壇)については、その置かれた場所については概ね納得できるが、東戒壇がなぜ下野薬師寺に置かれたかは興味ある問題である。

 この頃の仏教を考える時、まだ仏教は一般庶民のものではなく朝廷や貴族や豪族たちのものであり、寺を建てるのも朝廷や貴族や豪族たちであったと考えてよい。
 仏教を信じるのは渡来系の人々であり、部民に渡来系の人々を抱える氏族は積極的に寺を建てたことが考えられる。
 また、下野薬師寺には天平勝宝6年(754年)に行信が、宝亀元年(770年)に道鏡が流されていることが注目される。
 福岡の観世音寺には、天平17年(745年)に玄ムが左遷されている。


 下野薬師寺は古代の東山道という幹線道路に近く、田郡馬家(河内郡上三川町多功)の南に位置する。東国開発の最前線として渡来系氏族を送り込んだ場所であったことが考えられる。
 出土した古瓦から7世紀後半の天武天皇の頃の創建と考えられる。創建時は豪族の氏寺で規模は小さかったのだろうと推測する。
 隣にある御鷲山古墳(前方後方墳)の築造年代が6世紀後半であることから、被葬者の末裔が関係していることが予想される。
 落内遺跡で7世紀後半〜10世紀代の竪穴住居跡100軒など発掘されており、長い時期にわたり同じ場所に何軒もの住宅がつくり続けられたことから、この一族が新しい文化を取り入れながら、寺の造営にも携わったのであろう。

 官寺としての建物が整備され、規模が大きくなったのは、多数の古瓦から奈良時代後半(8世紀中葉以降)だと考えられる。この頃には「東戒壇」を引き受け、東日本の仏教の中核を担える存在になっていたのだろう。
 薬師寺南遺跡で、8世紀初頭〜9世紀の竪穴住居跡120軒などが見つかっているが、下野薬師寺の創建以降、集落は次第に南へと広がっていったことから、朝廷との関係をてこに勢力を伸ばしていったことが考えられる。氏寺から官寺への進展には下毛野古麻呂が関わったのかもしれない。
 伝承では鑑真が創立したとされるが、実際には鑑真の高弟如宝が関係したことが考えられる。師を開山開基とする例はよくある。鑑真(688〜763)は東国までは来ていないと考えるのが妥当である。


 安国寺は下野薬師寺後継寺院で、薬師寺不動院の流れをひくといわれる。また、龍興寺は下野薬師寺別院で、薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる。
 近世初頭に安国寺が佐竹氏から寺領10石を寄進されたのに対して、龍興寺は佐竹氏から寺領20石を寄進されている。この差はいったい何に由来するのであろう。
 龍興寺に行ってみることで何か分かるかも知れない。

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