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zoom RSS 旅 654 龍興寺

<<   作成日時 : 2017/04/10 18:08   >>

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2016年 6月6日
龍興寺

 龍興寺(りゅうこうじ)は栃木県下野市薬師寺にある真言宗智山派の寺院で、下野薬師寺跡の南方に建ち、薬師寺地蔵院の流れをひくといわれ、下野薬師寺の別院とされている。

 頂いた栞から略縁起を載せる。
『 龍興寺略縁起
◎天武天皇が皇后の病気平癒を願い、勅願により白鳳8年(680)祚蓮上人が建立した下野薬師寺の別院であり、聖武天皇の勅願により戒壇を開いた開いた鑑真和尚(688〜763)が、天平宝字5年(761)唐の揚州龍興寺の舎那殿壇の法を当寺に移し、寺名を生雲山龍興寺として開基。直末37ヶ寺の本寺である。
◎太政大臣・法王 弓削道鏡禅師(708〜772)は、宝亀元年(770)8月造下野薬師寺別当職として着任したが、宝亀3年(772)4月7日歿する。
◎日光開山 勝道上人(735〜817)は、天平宝字5年(761)栃木出流山から龍興寺に移住し、4年間の修行の後、天平神護元年(765)日光へ趣く。
◎弘法大師 空海(774〜835)は、弘仁11年(820)5月〜7月まで龍興寺に逗留し、如意・恵雲などに密教を伝授した。爾来、龍興寺は六宗兼学に加えて真言道場となる。
◎意教流祖 頼賢阿闍梨(意教上人1196〜1273)は、醍醐山25代成賢座主(遍智院僧正)より密教の奥義を伝授され、文暦2年(1235)龍興寺貫主、兼、下野講師に任ぜられる。
◎龍興寺中興 慈猛上人(1211〜1277)は、弘長2年(1262)から龍興寺に住し、文永9年(1272)12月7日、願行・良智などと共に頼賢阿闍梨より三宝院意教流を伝付された後、慈猛流を開き関東各地に広めた。建治元年(1275)当寺から足利鶏足寺に移住し、建治3年(1277)4月歿する。
◎元亀元年(1570)北条氏政の兵火に遭い、龍興寺焼失。
◎真言宗智山派総本山智積院第4世化主 元寿僧正(1578〜1648)は、龍興寺檀那田中の野口家出自。元翁に師事し広沢流。後、小野流を受伝し智山能化、中性院を兼ね徳川家康からも厚い信任を受けた。
◎現金堂は、安政7年(1860)3月3日再建。
◎自治医科大学聖霊殿、昭和50年(1975)11月13日建立。
 ※尚、龍興寺は往時、広大な寺領を有し、壮大な堂塔伽藍を配するも、時代の変遷に伴い、山容を著しく変貌させ現在に至り、悠久の歴史を土中に匿す。 』


 まだ新しいが立派な仁王門があった。
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現地説明板より
『 山門
 山門は、三門(三解脱門)ともいい、本尊に通ずる正面門であり、空解脱・無相解脱・無作解脱の三つの解脱(さとり)を求め、涅槃寂静の境地に至るため、菩提心を発して通る寺院の玄関門である。
 左右には仁王(金剛力士)像が配置され、山門を守護し、我々の発菩提心を試している。東大寺様式に倣い、本堂向かって左側が、阿形の密迹金剛像、右側が、吽形の那羅延金剛像で、執金剛神という一神異体の仏法守護善神である。
 龍興寺山門は、江戸時代後期までは南面の門で、現在の薬師寺小学校敷地内にあり、参道は、現南河内中学校裏まで続く約1.5kmほどの長さがあった。現本堂が安政7年再建時に西面したことにより、西の高麗門を正門とした。
 現山門は、平成大改修の一貫として建て直しが図られ、八脚切妻 東大寺転害門様式となった。
 この山門は宮大工 人間国宝 故 西岡常一棟梁 御弟子 岩下清 名棟梁 会心の作である。 』


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 本堂も庫裡も新しくて清々しかった。


 本堂に向かって左側の木が生い茂っている場所は直径約38mの円墳で、出土の埴輪から6世紀末頃に造られた考えられている。
 当寺ではこの古墳に追葬の形で道鏡が葬られたと伝え、「道鏡塚」としている。
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 石柱には「史跡 道鏡塚」とある。
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現地説明板より
『 道鏡禅師の墓所
 奈良時代の高僧、道鏡禅師の墓所(道鏡塚)が当所です。
 道鏡は若くして出家し、葛城山で厳しい修行をし、義淵、良弁から法相を学び、梵文(サンスクリット)と写経に通じ、如意輪法・宿曜法、あわせて、薬法や医術にも精通された高徳の僧です。
 天平勝宝年間、(宮中)内道場の看病禅師となりました。そして、孝謙上皇の病を療治した功績により、天平宝字7年(763)少僧都に任じられました。
 次の年に恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が起き、道鏡は上皇から大臣禅師に任じられ、乱に勝利した孝謙上皇は、重祚して称徳天皇となりました。新しい政治を進めようとする天皇より、天平神護元年(765)、道鏡は太政大臣禅師に引き立てられ、さらに翌年、天皇に准ずる待遇の法王に任命されました。
 禅師、宮中に奉職すること十余年、多くの功績を上げましたが、宝亀元年(770)8月4日、称徳天皇が崩御されますと、同年8月21日、下野国薬師寺別当職(長官)に任じられ、平城の都から遣東されました。
 禅師は、薬師寺に着任後も、各地で積極的巡錫や親教をし、多くの人々を教化してきましたが、宝亀3年(772)4月7日、日本三戒壇の一寺であるこの聖地から、天皇のご冥福と人々の幸せを祈りながら、その生涯を閉じました。
 人々は、これを深く哀しみ、禅師の徳を偲び、すでにあったこの円墳を墓標として、手厚く葬りました。
 かつて道鏡禅師に対する偏見は、その時代時代の権力者の思惑や作為によるもので、決して正しい評価ではなかったことを遺憾に思います。私たちは、真実の歴史を探究してこられた先達に敬意を表し、その意志を受け継ぎ、道鏡禅師の更なる顕正をめざしていきます。
 平成28年(2016)4月7日  龍興寺 道鏡を守る会  』


 境内には天然記念物のシラカシがある。
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現地説明板より
『 栃木県指定 天然記念物 龍興寺のシラカシ
所有者 龍興寺
平成元年8月25日指定
樹高 20.5m  目通周囲 3.6m 
枝張り 東西22.7m  南北17.8m
推定樹齢 500年
 この木は、龍興寺本堂と同境内北西部にある道鏡塚古墳との中間にそびえ、周囲に枝を広げた雄大な姿は周囲の景観に落ち着いた雰囲気を与えている。
 人為的な攪乱の少ない境内地であるため、枝振りが良く、幹の枯損、菌類による浸食等も見られず、樹勢は旺盛である。
 この樹種は、本州内陸部における北限が福島県付近であり、関東地方ではよく見られるが、これほどの巨木は稀である。
 栃木県教育委員会  』


 龍興寺の寺名は鑑真が唐の揚州の龍興寺の住職だった縁故によってつけられたという。
 寺伝では奈良時代の天平宝字5年(761年)、鑑真が唐の龍興寺の舎那殿壇の法を移し「生雲山龍興寺」として開基したという。

 龍興寺には「鑑真和上碑」があるが、当地で鑑真が亡くなったという伝承はないし、鑑真が当地に来たことも考えられないので、碑の写真を撮ることもしなかった。
  しかし、家に帰ってから頂いた栞を見ると、下野市指定文化財とあるのでネットで写真を探し掲載し、栞の説明文を載せる。
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 栞より
『 野市指定文化財 鑑真和尚碑
 鑑真は、唐の揚州江陽県の生まれで、14歳で智満について出家し、道岸・弘景から律宗・天台宗を学びました。律宗とは、僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派で、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、四万人以上の人々に授戒しました。
 揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧栄叡・普照らからの懇請に応じ、苦難の末、6度目で渡来、日本に戒律を伝え、天平宝字5年(761)に日本三戒壇を設置しました。
 この塔は弟子たちが師の遺徳を偲び建立した供養墓です。 』

 私は2012年の九州への旅で鑑真の上陸地に寄ったことがある。


 本堂の右手前には、自治医科大学附属病院聖霊殿の納骨堂があった。献体として医学の教育や研究に協力した人や動物の遺骨を納める場所なのだろうか。

 龍興寺の最寄りの駅はJR宇都宮線(東北本線)の「自治医大駅」で、約2.5kmの距離にあり、歩くと約30分かかるという。
 「自治医大駅」は、昭和58年(1983)4月27日に開業した。開業時の駅名選定の際には、駅の所在する旧国分寺町が「新小金井駅」を、また駅に隣接しグリーンタウンしもつけの大部分を占める旧南河内町が「薬師寺駅」を推し、開業直前まで駅名が定まらない事態となったが、当時の渡辺文雄栃木県知事の意向により近接する自治医科大学の名を冠することで収束したという。
 自治医科大学は昭和47年(1972)に開学し、大学・病院を栃木県下野市に置いた。近くに下野薬師寺跡があったからという訳ではないだろうが、何かに導かれるようにこの場所に設置されたのかもしれない。
 自治医科大学は僻地医療、地域医療の充実を目的に作られた。卒業後は採用枠都道府県の定めにより、公立病院を中心に9年間地域医療に従事することが求められている。6年間の学費は2200万円程度だが在学中は貸与され、卒業後9年間指定公立病院等に勤務した場合その返還は免除される。

 1972年(昭和47年)は、私が大学受験した頃である。夏休みに家の近くの長谷寺(長野市篠ノ井塩崎)に行くと、その参道の杉並木が作る日陰の石段で、本を読んでいる生徒がいた。この涼しい場所で勉強していたようだ。
 彼とは同じ小学校・中学校で学んだが一緒のクラスにはなったことがないので話したこともなかったが、この時は彼から話しかけられて少し話した。
 彼は医学部入学を目指していて、大学受験の話になった。この時、自治医科大学の話が出た。彼の家は裕福なので金銭的に医学部にいくことに問題はなかっただろうが、「自治医科大学という大学ができて、学費がタダだから受けようと思っているが、卒業後に何年間かは地方で働かなければいけない。」と言っていた。
 この時、はじめて自治医科大学の名を耳にしたが、彼は一浪して自治医科大学に進学した。
 もう40年以上も前のことを懐かしく思い出したが、その自治医科大学がここにあったことを初めて知った。


 境内を見て回っていると住職らしき人がいたので、少し当寺のことを質問した。檀家でもない訪問者と話をするのは、気乗りがしないようだったが、道鏡の話になったときにテンションが変わった。
 私が、「道鏡は修験僧であり学僧でもあったから学識はあったが、皇位を簒奪するような野望はなかったと思う。それよりも称徳天皇で天武系が途絶え、天智系に替わり、藤原氏が一人勝ちになる平安時代が始まることの前段階としての道鏡事件に興味がある。とにかく東大寺の大仏というモニュメントを残した奈良時代は未だに謎に満ちた不思議な世紀だ。」と言うと、住職も「縁あって道鏡さんの墓を守る私も、道鏡さんは純粋な人だったと思います。」と話した。
 住職は、「道鏡を守る会」の入会案内と、「道鏡を守る会」の会誌である2014年第36号と2008年第30号記念をくださった。
 「道鏡を守る会」は年会費3000円で、会誌や通信紙が頂ける。私は群れることが苦手なので、入会はしなかったが、住所を書き残したので、その後一度連絡が来たが都合がつかず参加しなかった。
 帰って来てから会誌を読んだはずだったが、今回ブログをまとめるに当たり、もう一度目を通すと、その内容に感心した。しかも読んだ日が4月7日で、奇しくも道鏡の命日であった。その後、道鏡のことが気になり調べているうちに日にちが過ぎてしまった。

 道鏡について書き出すと長くなるので、他の機会に詳しく書くとして、「道鏡を守る会」について少し記す。

 「道鏡を守る会」の会員は各地にいるが、道鏡の墓(龍興寺)がある栃木県がやはり多い。道鏡の出身地と言われる弓削神社などがある大阪市八尾市に「道鏡を知る会」があり、連繋して活動を行っている。
 「道鏡を守る会」の活動が始まったのは、1922年(大正11年)頃からだが、正式に会が発足したのは1985年(昭和60年)からである。会誌を見る限り、道鏡の顕正に真面目に取り組む会で、道鏡愛に満ちている。また、会誌の内容も会報としての面だけでなく学究的内容が含まれ参考になる。
 歴史に興味を持つ若者が少ない中、道鏡というピンポイントに絞っていることもあり、新規入会者が少なく、会員の高齢化が進んでいるようだ。それは「道鏡を守る会」だけでなく、日本全体が高齢化、過疎化の波にさらされていることにも関係するのであろう。


 私には道鏡愛はないが、道鏡を通じて一つの歴史の裏側が見えることはあるのではないかと考えている。
 道鏡は、少僧都、大臣禅師、太政大臣禅師、法王と位人臣を極めるが、それらは単に天皇から与えられたもので、権威として機能したかどうかは疑問である。称徳天皇が崩御すると道鏡は位を奪われ左遷されることが全てを物語っているように思う。
 孝謙天皇(後に重祚して称徳天皇)は、先例の未婚の女帝・元明天皇同様、結婚して子どもを持つことが許されていない。従って、我が子を天皇にすることはできない。
 孝謙天皇の父である聖武天皇は東大寺を中心に全国に国分寺(金光明四天王護国之寺)を造り、母である光明皇后は国分尼寺(法華滅罪之寺)を造り、仏教による国家鎮護をめざした。
 父母がそうであったように孝謙天皇(称徳天皇)も仏教による国づくりをめざし、西大寺を造った。
 天皇で正式に出家したのは、称徳天皇だけで、その意味では称徳天皇は法皇でもあった。仏教の師であり人生のパートナーの道鏡を法王にして、天皇位まで譲ろうとしたことは、本当に仏教により国を治めようとしたのであろう。また、我が子を天皇とすることができない称徳天皇は天皇位を万世一系の世襲ではなく、徳のある人物に禅譲する思想を持っていたのかもしれない。
 仏教の思想の中に平等があるが、称徳天皇には平等思想があったのではないか。天武天皇の制定した八色の姓は厳しい身分秩序(階級制度)だが、称徳天皇は「朝臣」の姓を乱発して、結果的にこの身分秩序を意味のないものにする流れを作った。

 何れにしても奈良時代は特異な時代であり、その中で律令制度による中央集権が進み、それは官僚制度に名を借りた中央による地方からの搾取の構造が進んだ時代であったことは間違いない。


 今日の見学を終えて、カーナビでファミレスを探すと、自治医大駅周辺にいくつかあった。自治医大駅周辺は街として開けていて、そこにあるファミレスで夕食を食べながら今日のまとめと明日の計画を立てた。
 宿泊は、下野市薬師寺の国道4号(新4号国道小山石橋バイパス)沿いにある道の駅「しもつけ」で車中泊した。
 この道の駅は 2011年(平成23年)にオープンしたもので、前のカーナビのDVDなら載っていない。今のカーナビのDVDも2年以上過ぎているので新しく開通した高速道路や新規にオープンした道の駅などは載っていない。
 全てのものは古くなるが、その中でも古くなるのが早いのが情報である。情報が集まる都はいつでも時代の先端を走る。そして情報が集まる都には人も富も集まる。都市と地方の格差が生まれたのは今に始まったことではない。



 最後に、龍興寺の住職である近藤さんが、道鏡を守る会の2008年第30号記念に、「下野薬師寺二月堂についての一考察」を載せているので、その骨子を簡略にまとめて記しておく。

『 下野薬師寺二月堂は、龍興寺飛び地境内(龍興寺西方約200m)の一堂宇で、龍興寺の管理運営下にある。本尊は十一面観音菩薩である。
 二月堂は他所にはないようで、東大寺二月堂(東大寺上院十一面悔過所)だけらしい。
 東大寺二月堂の十一面悔過会は、十一面観音菩薩の御前にて諸々の罪過・罪障を懺悔して安穏豊楽を願うものだという。

 聖武・光明の観音信仰は、その子の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)に受け継がれ、道鏡と共に創建した西大寺に十一面堂院と名づく金堂を創建させている。

 東大寺二月堂の由来は、旧暦2月1日より14日間にわたり行を修する法会であり、正月に修する「修正会」に対して2月に修することから「修二会」と称し、2月に修法を行ずる堂であることから「二月堂」と呼ぶようになった。
 東大寺の寺伝によると、修二会の始まりは天平勝宝4年(752)とされるが、天平勝宝8年6月に描かれた正倉院宝物『東大寺山堺四至図』には二月堂は載っていない。

 歴史書によると、間違いなく天平勝宝年間に十一面悔過会を修していたのは、光明皇大后の役所、紫微中台付属の十一面悔過所である。この十一面悔過所の正確な創建年代は明らかでないが、天平勝宝3年10月に聖武上皇の病気平癒を祈るために設けられたと考えられている。天平勝宝4年に実忠が十一面悔過会に奉仕したのは紫微中台十一面悔過所だったのではないか。実忠と光明皇大后は親密だったことからも可能性は高い。

 紫微中台は光明皇大后の崩御により廃止されたため、「二月堂縁起絵巻」に見える実忠の十一面観音感得による悔過会継続奉修の目的と聖武・光明両皇の菩提を弔う理由により、十一面悔過所は東大寺境内に移された考えられる。

 因みに悔過会14日間の法会中、5日と12日に、東大寺創建以来の有縁の人々、特に二月堂にゆかりの深い人々に対し、初夜の大導師作法の間に読み上げる東大寺上院修中過去帳は、現在に至るまでの膨大な人名が間断なく続くが、その始まりは、大伽藍本願聖武天皇・聖母皇太后宮・光明皇后・本願孝謙天皇・云々である。
 ここでの疑問は、東大寺そのものの発願者である聖武天皇の「大伽藍本願」は理解できるが、なぜ孝謙天皇が「本願」なのかである。二月堂と孝謙天皇、実忠との関係を考える必要がある。
 つまり、東大寺境内に紫微中台の十一面悔過所を移し二月堂を創建し十一面悔過会の「本願」者となったのは孝謙天皇ではないかということだ。東大寺二月堂で実忠に十一面悔過会を行わせたのは孝謙天皇であった可能性は高い。
 実忠は良弁の弟子である。また良弁は義淵の弟子で、道鏡も義淵の弟子であったという。当然、実忠と道鏡は親しかったと考えられる。

 下野薬師寺に左遷された道鏡が称徳天皇の菩提を弔うために、薬師寺にも二月堂を建てた可能性がある。
 薬師寺の二月堂宇の規模は東大寺の二月堂とは比べものにならないが、『東大寺要録』によれば、東大寺の二月堂も創建当初より平安時代に至るまでは三間二面の小堂であったとされる。現在は桁行十間梁間七間、寄棟造りの大堂である。しかし、堂内中央内陣は、間口三間奥行三間の独立した構造となっており、その内陣(根本堂)を鞘堂が覆う構築法により、現在見える大規模堂となっている。
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 三間四方の内陣(根本堂)が創建当初の規模を踏襲したものならば、それは正に薬師寺二月堂の三間四方堂と同じだという。

 東大寺二月堂の十一面悔過会は「お水取り」が有名である。閼伽井屋である「若狭井」は若狭の「鵜の瀬」に繋がるという。
 龍興寺の近くにも「吉田ヶ池」があり、その池は日光中禅寺湖と繋がるという伝説がある。
 日光開山の勝道上人は薬師寺で修業した事実がある。
 日光とは補陀洛 → 二荒(ふたら) → 二荒(にっこう) → 日光 と変化したもので、補陀洛(ふだらく)はサンスクリット語potalakaの音写であり、観音菩薩が鎮座します霊山をいう。
 吉田ヶ池は薬師寺二月堂十一面悔過会中、12日目の「お水取り」式に汲み取られた閼伽井屋であった可能性は限りなく高い。 』


 ネットで薬師寺二月堂の写真を探して掲載する。古墳の上に建っているという。以前は古墳にも木が生えていて二月堂も緑に覆われていたが、今は伐採され整備されてしまったようだ。
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 栞に、「龍興寺は往時、広大な寺領を有し、壮大な堂塔伽藍を配するも、時代の変遷に伴い、山容を著しく変貌させ現在に至り、悠久の歴史を土中に匿す。」とあったが、この飛び地境内や隣の薬師寺小学校敷地もかつては龍興寺の境内だったのだろう。


 道鏡はサンスクリット語を解した。道鏡は770年に下野薬師寺に流されてから、2年足らずで没した。
 勝道は少年期から山林修行を行い、762年(天平宝字6年)下野薬師寺の如意僧都に師事して沙弥戒・具足戒を受けた。
 勝道(735〜817)と道鏡の接点はあったのかは分からないが、名前に「道」の一字が共通していることが気になる。

 私は、東大寺二月堂の十一面悔過会で大導師作法の間に読み上げる名前の中に、大伽藍本願聖武天皇・聖母皇太后宮・光明皇后・本願孝謙天皇・云々とあり、2番目に読み上げられる「聖母皇太后宮」のことが気になった。
 聖母皇太后宮とは聖武天皇の母とされる「宮子」のことである。宮子は藤原不比等の娘で光明子の姉とされるが、その出自に謎が多い。私は宮子は不比等の養女であり不比等とは血が繋がっていないのではないかと考えている。もし血が繋がっていれば、聖武と光明子との結婚は甥と叔母の結婚になり、血が濃すぎる。同じ理由で、天武の妃である持統は天智の娘ではないと考えている。あるいは、天武と天智は異父兄弟かもしれない。

 宮子は聖武を産んだ後、憂愁に沈み、737年にやっと平癒し聖武天皇と36年ぶりに対面した。つまり、宮子と聖武の母子は36年間も引き離されていたわけだ。それには深い理由があったのだろう。
 宮子の病(憂愁)を治したのは玄ムであり、玄ムは天平17年(745)に筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年に没している。
 筑紫観世音寺は、下野薬師寺、東大寺とともに「天下三戒壇」の一つが設置された寺院である。

 玄ムも道鏡も、天皇家の女子を治療した僧は流されて異郷で亡くなっている。天皇家の秘密を知った僧は所払いをされ、抹殺される運命にあったのか? そして聖武天皇(天武系)の血筋も途絶え、奈良の都では聖武天皇が発願した大仏だけが幾たびかの災難を乗り越え威光を放っている。

 奈良の大仏は、『華厳経』に説かれる盧舎那仏(毘盧遮那仏)という名の仏である。毘盧遮那(びるしゃな)とはサンスクリット語のVairocana「ヴァイローチャナ」の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。密教における大日如来(Mahāvairocanaマハー・ヴァイローチャナ)も語源を等しくする。

 神仏習合では、天照大神には十一面観音菩薩が当てられたが、やがて大日如来となり、両部神道が登場すると天照大神は宇宙神である大日如来と同一視されるようになる
 つまり、天照大神 → 大日如来 → 毘盧遮那 となり、奈良の大仏は天照大神とも見られた訳である。
 奈良の大仏はどう観ても男がモデルである。天照大神が男神であるという説は根強い。その男神に饒速日命を充てる場合が多い。饒速日命の正式名は「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」とされ、その名の中に「天照」があることも証左の一つとされる。饒速日命は、物部氏、穂積氏、尾張氏、熊野国造らの祖神とされる。

 女神の天照大神と習合したのは十一面観音菩薩であろう。しかし、十一面観音菩薩も古いものになれば男の仏として造られていた。
 それにしても十一面観音とは不思議な観音菩薩だ。密教の「六観音」の一つだけに留まらない。本地垂迹では、天照大神や白山の菊理姫と習合するので、天照大神の女神の方と習合したのは確かだろう。

 光明皇后は十一面悔過会で十一面観音の前で何を懺悔したのであろう。国分尼寺の正式名称「法華滅罪之寺」と合わせて、奈良時代の深い祈りの果てに今の日本があり、現在も東大寺二月堂では「お水取り」の行われる十一面悔過会が続いていることを考える必要がある。この十一面悔過会は、戦時中でも途切れることがなかったという。そんなことを考えていると奈良の大仏と法華寺(法華滅罪之寺、総国分尼寺)の十一面観音を拝みたくなった。法華寺の十一面観音(国宝)は、平素は非公開だが、春と秋に期日を限って開扉されるという。

 私は、忙しく仕事をしてきて、遠くへの旅行には出たことがなかった。京都へは2回行ったが、奈良には高校の修学旅行で行っただけである。そのとき見た大仏の印象はただ大きいというだけで、掌の上に子供が20人以上乗れると聞いて驚いたことくらいしか記憶にない。
 リタイヤしてから歴史をテーマに旅に出るようになったが、深い歴史がある奈良と京都は敷居が高く、なかなか訪れることができないでいる。

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