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zoom RSS 旅 655 下野国分寺跡・国分尼寺跡

<<   作成日時 : 2017/04/12 02:18   >>

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2016年 6月7日
下野国分寺跡・国分尼寺跡

 下野国分寺跡・国分尼寺跡は、栃木県下野市国分寺にある古代寺院跡。国の史跡に指定されていて、現在は史跡公園となっている。

 国分寺などの廃寺跡は、どこを訪れてもただ広いだけで面白くはない。しかし、今回は下野薬師寺跡と比較する意味もあり来てみた。
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現地説明板より
『 1.時代背景
はじめに
 国分寺が造られたのは、今から約1250年前。皆さんはその頃の様子やなぜ国分寺が造られたか想像できますか?

律令国家の成立
 飛鳥・藤原京の時代、「日本」という中央集権的な国家をつくるため、唐(中国)の法律を参考に西暦701年(大宝元年)、大宝律令がつくられました。この法律制定事業には、下野市と関係の深い下毛野朝臣古麻呂が深くかかわっていました。その後、都が平城京(現在の奈良市・710〜784年の74年間)に置かれたこの奈良時代に、下野国分寺と尼寺は造られました。
※律は罪と罰を定めた刑法、令は国を治めるしくみを定めた法令

天平の光と影
 聖武天皇の時代、律令制度が整い国家の力が全国に及ぶとともに、唐や東アジアなどとの交流により、国際色豊かな天平文化が花開きました。
 しかし、この華やかな時代背景の一方で、現実の社会の動きと律令制度の間で様々な矛盾があらわれてきました。西暦729年には、年号が神亀から天平にかわりました。この「天平」改元の背景には、伝染病の流行、災害、政治の混乱など、不安と苦悩から逃れたいとの願いがあったとも言われています。

国分寺関係年表
・740年(天平12年)6月 国ごとに法華経10部を写し、七重塔を建てさせる。
・741年(天平13年)1月 故太政大臣藤原不比等の封戸5000戸を返上し、そのうち3000戸を諸国国分寺の丈六仏を造る費用に充てる。
・同2月 聖武天皇による国分寺建立の詔。
・742年(天平14年)5月 諸国に国分寺の僧尼を選び定めさせる。
・743年(天平15年)10月 大仏造立の詔を発する。
・744年(天平16年)6月 諸国で毎年稲4万束を貸出し、利息の稲を国分尼寺建立費用に充てさせる。
・同10月 国司と共に国師も国分寺造営に参画させる。
 ※国師とは、国司とともに中央から諸国に派遣され寺院の管理監督、国分寺造営の指導に携わった。795年(延暦14年)講師と改称。
・745年(天平17年)11月 国分寺の用地を定め、造営に努めさせる。また、実力ある郡司に建設を担当させる。寺田を追加しそれぞれ100町とする。
・749年(天平勝宝元年) この頃、国分寺の建設の資材や費用を献納した氏族に位が与えられる。国分寺造営の本格化。
・752年(天平勝宝4年)4月 東大寺の大仏開眼。
・754年(天平勝宝6年)1月 唐僧鑑真和上来朝。
・756年(天平勝宝8年)5月 聖武太上天皇没。6月、聖武太上天皇の一周忌までに必ず国分寺の丈六仏を造り終え、その後 引き続き金堂・塔を造るよう命じる。
・761年(天平宝字5年)1月 下野薬師寺に戒壇設置。6月、諸国国分尼寺に阿弥陀丈六仏、脇侍菩薩像二体を造らせる。 
・766年(天平神護2年)8月 国分寺の堂塔を修理させ、この頃、倍増されていた尼僧の待遇などを定める。
・770年(宝亀元年)8月 道鏡を造下野国薬師寺別当として下野国に配流。
・818年(弘仁9年)7月 東国(関東地方)で大地震。北関東の被害甚大。
・847年(承和14年)4月 下野国分寺塔会(塔で開催された儀式。下野薬師寺・大慈寺僧も出席。)
・869年(貞観11年)5月 陸奥国で大地震。津波による被害甚大。
・871年(貞観13年) 諸国国分寺に一万三千画仏像一舗を安置させる。
・939年(天慶2年)2月 平将門の乱。
・同12月 平将門により下野国府包囲される。この時、将門軍に下野国分寺が焼かれたとの伝説がある。

2.国分寺建立について
国分寺建立の目的
 700年代の中頃、飢餓や病気の流行、地震などの災害、貴族の対立や政治の混乱により社会に不安がひろがりました。741年(天平13年)、聖武天皇は大陸から伝わった仏教の教えで国が安泰となることを願い、当時60余りの国ごとに国分寺と国分尼寺を造ることを命じました。(国分寺建立の詔) この建立の背景には、聖武天皇とともに妃である光明皇后の仏教への厚い信仰があったからといわれています。
 僧寺には、像高一丈六尺(4.8m)の釈迦如来像や脇侍菩薩二体、四天王像が安置され、尼寺には阿弥陀丈六仏や脇侍菩薩二体などの仏像が安置されました。

国分寺の正式名称
 国分寺は、正式名称を「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺は「法華滅罪之寺」といいます。これらの名前は、さまざまな災いから国を守り、人々が豊かに暮らせることを祈る為の経典を参考に付けられました。
 また、全国に造られた国分寺は、国の予算で運営する国営のお寺でした。国分寺には20人の僧、尼寺には10人の尼を置くことが決められていました。僧たちは国の安泰のために経典を学び、修業をしました。定期的に勉強会を開催し、災害や病気の流行があった時には特別の法会が行われました。
 国分寺は、現在に例えると大学や研究機関のような役割のため、今のお寺のように一般の人のためにお葬式は行いませんでした。また、個人のお墓は国分寺や尼寺にはありませんでした。

3.全国の国分寺
全国の国分寺の所在地
 国分寺の建設地を選定するにあたっては、「国分寺建立の詔」に国華にふさわしい好処を選ぶことが命じられています。好処の選定は寺院に限らず、都城・国府などにおいても重要なことであり、当時は中国の思想にもとづく四神相応の土地が好処とされていました。
 「建立の詔」に記されている内容や諸国の国分寺の調査成果によって得られた情報を整理すると次のようになります。

地理的条件
@国華として仰ぎ見るのによい地形
A水害の憂いない長久安穏の処(安全な場所)
B南面(向)の土地。都市計画的条件に優れているところ
C人家雑踏から離れている
D人が集合しやすいところ(交通至便の地)
E条里制区画(方形地割にもとづく土地制度)の及んでいるところ(開けた場所)

政治的条件
F国府(役所)に近いところ(国司が国分寺を監督したことによる)

西海道
筑前 僧寺:福岡県太宰府市 尼寺:福岡県太宰府市(推定地)
筑後 僧寺:福岡県久留米市 尼寺:福岡県久留米市(推定地)
豊前 僧寺・尼寺:福岡県京都郡みやこ町
豊後 僧寺:大分県大分市 尼寺:大分県大分市(推定地)
肥前 僧寺・尼寺:佐賀県佐賀市
肥後 僧寺・尼寺:熊本県熊本市
日向 僧寺・尼寺:宮崎県西都市
大隅 僧寺:鹿児島県霧島市 尼寺:鹿児島県霧島市(推定地)
薩摩 僧寺:鹿児島県薩摩川内市 尼寺:(不明)
壱岐 僧寺:長崎県壱岐市 尼寺:(不明)
対馬 僧寺:長崎県対馬市 尼寺:(不明)

山陽道
播磨 僧寺・尼寺:兵庫県姫路市
美作 僧寺・尼寺:岡山県津山市
備前 僧寺・尼寺:岡山県赤磐市
備中 僧寺・尼寺:岡山県総社市
備後 僧寺・尼寺:広島県福山市
安芸 僧寺・尼寺:広島県東広島市
周防 僧寺:山口県防府市 尼寺:山口県防府市(推定地)
長門 僧寺・尼寺:山口県下関市

山陽道
丹波 僧寺・尼寺:京都府亀岡市
丹後 僧寺:京都府宮津市 尼寺:京都府宮津市(推定地)
但馬 僧寺・尼寺:兵庫県豊岡市
因幡 僧寺・尼寺:鳥取県鳥取市
伯耆 僧寺・尼寺:鳥取県倉吉市
出雲 僧寺・尼寺:島根県松江市
石見 僧寺・尼寺:島根県浜田市
隠岐 僧寺・尼寺:島根県隠岐郡隠岐の島町

南海道
紀伊 僧寺:和歌山県紀の川市 尼寺:和歌山県岩出市(推定地)
淡路 僧寺:兵庫県あわじ市 尼寺:兵庫県あわじ市(推定地)
阿波 僧寺:徳島県徳島市 尼寺:徳島県名西郡石井町
讃岐 僧寺・尼寺:香川県高松市
伊予 僧寺:愛媛県今治市 尼寺:愛媛県今治市(推定地)
土佐 僧寺:高知県南国市 尼寺:(不明)

畿内
山背 僧寺・尼寺:京都府木津川市
大和 僧寺・尼寺:奈良県奈良市
河内 僧寺・尼寺:大阪府柏原市
和泉 僧寺:大阪市和泉市 尼寺:(不明)
摂津 僧寺・尼寺:大阪府大阪市 

北陸道
若狭 僧寺:福井県小浜市 尼寺:(不明)
越前 僧寺:福井県越前市 尼寺:福井県越前市(推定地)
加賀 僧寺:石川県小松市 尼寺:(不明)
能登 僧寺:石川県七尾市 尼寺:(不明)
越中 僧寺:富山県高岡市 尼寺:(不明)
越後 僧寺:新潟県上越市 尼寺:(不明)
佐渡 僧寺:新潟県佐渡市 尼寺:(不明)

東海道
伊賀 僧寺・尼寺:三重県伊賀市
伊勢 僧寺:三重県鈴鹿市 尼寺:三重県鈴鹿市(推定地)
志摩 僧寺:三重県志摩市 尼寺:三重県志摩市(推定地)
尾張 僧寺:愛知県稲沢市 尼寺:愛知県稲沢市(推定地)
三河 僧寺・尼寺:愛知県豊川市
遠江 僧寺・尼寺:静岡県磐田市
駿河 僧寺:静岡県静岡市 尼寺:静岡県静岡市(推定地)
伊豆 僧寺・尼寺:静岡県三島市
甲斐 僧寺・尼寺:山梨県笛吹市
相模 僧寺・尼寺:神奈川県海老名市
武蔵 僧寺・尼寺:東京都国分寺市
安房 僧寺:千葉県館山市 尼寺:(不明)
上総 僧寺・尼寺:千葉県市原市
下総 僧寺・尼寺:千葉県市原市
常陸 僧寺・尼寺:茨城県石岡市

東山道
近江 僧寺:滋賀県甲賀市(推定地) 尼寺:(不明)
美濃 僧寺:岐阜県大垣市 尼寺:岐阜県不破郡垂井町
飛騨 僧寺・尼寺:岐阜県高山市
信濃 僧寺・尼寺:長野県上田市
上野 僧寺・尼寺:群馬県高崎市
下野 僧寺・尼寺:栃木県下野市
陸奥 僧寺・尼寺:宮城県仙台市
出羽 僧寺:山形県酒田市(推定地) 尼寺:(不明)

4.下野国分寺の規模と変遷
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 下野国分寺は、発掘調査により、創建期(T期)以降、3回の改修期(U〜W期)があったことが判明しました。
T期(8世紀中頃)
 この時期は、金堂や七重塔などの主要な建物を造営している時期です。金堂が完成するまで、仮設の仏堂(金堂と僧房か)を金堂の東に建てています。

U期(8世紀後半〜9世紀前半)
 伽藍が整い、下野国分寺の最盛期ともいえる時期です。金堂や七重塔などの主要な建物が完成し、それらを掘立柱塀で囲んで伽藍地とします。塀の建替えからU-A期とU-B期に分かれます。
 B期の塀は、東と南辺を同位置で建替えますが、西辺を約13.5m東に移し、北辺塀西側の屈折位置を西回廊・僧房の西梁筋の延長線上にあわせています。掘立柱塀に囲まれた伽藍地の外側は、寺院地溝で区画した広大な寺院地が広がっていました。

V期(9世紀後半)
 この時期に、主要堂塔の大規模な改修・補修が行われました。掘立柱塀から築地塀に改築されます。塀は、東西の位置はほぼ変わりませんが、北辺は45mほど南に、南辺は北に9m移動し、伽藍地が縮小します。

W期(10世紀以降)
 国分寺が衰退し終焉を迎える時期です。主要堂塔では、塔・経蔵は焼失、講堂・回廊は倒壊・解体され、金堂を中心とした寺の機能だけが維持されていたようです。その金堂も軒先が下がってしまい、支えをしていたことがわかっています。
 寺院地溝も埋まって区画施設は築地塀のみとなります。

 中世には金堂跡に小さなお堂がつくられました。この頃から僧寺付近は薬師堂、尼寺付近は釈迦堂と呼ばれたようです。その後、江戸時代後半まで人が住んだ形跡はありません。

5.国分寺周辺の史跡
下野薬師寺跡
 7世紀の終わりごろ(藤原京の時代)、中央政府において大宝律令の制定などで活躍した下毛野(しもつけぬ)氏の氏寺として創建されたと考えられています。8世紀前半に官寺(国営寺院)として改修を受け、東大寺・筑紫観世音寺とともに「戒壇」が設置された東国仏教文化の中心的寺院です。
 ※戒壇は僧侶になるための試験をするところ

下野国府跡
 奈良時代、日本の各所には国府とよばれる役所が置かれました。国府は、その国の政治・経済・交通の重要な場所に置かれ、中央政府から派遣された国司と呼ばれる役人のもとでその国の政治が行われました。

下野国分尼寺跡
 下野国分寺と共に建立された尼寺。国分寺から低地を挟んで東へ約500mの場所に建てられました。下野国分尼寺は昭和39年に発見され、国分尼寺跡として全国で初めて史跡整備がされました。 』


 説明板が充実していて、国分寺のことがよく分かった。
 全国の国分寺・国分尼寺の中で尼寺が不明となっているものがあるが、あるいは国分尼寺は建立されなかったケースがあるのではないか。
 国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」である。この名を聞くたびに、藤原氏の犯した罪を滅罪(罪滅ぼし)するための寺のようなイメージが浮かぶ。

 藤原不比等と県犬養橘三千代の女子である光明子は、「藤三娘」(とうさんじょ)と署名するほど藤原氏の女子であることを強く意識している。彼女は「積善の藤家」を掲げ善行のパフォーマンスを行ったようだが、藤原氏の罪障が我が身におよぶことを恐れていた節がある。
 滅罪生善(めつざいしょうぜん)とは、“現世の罪障を消滅させ、後世(ごせ)のよい果報のために善行を行うこと”である。
 光明子は長屋王の祟りにより兄たちが地獄に落ちたのでないかと思い、父や兄たちがしてきたことの因果応報が藤原氏を滅ぼさないように、法華滅罪之寺を全国に建て仏の加護があるように祈ったのであろう。


 旅先で国分寺跡があっても訪れないことが多いが、私が今まで訪れた国分寺跡は、陸奥国分寺跡越後国分寺佐渡国分寺跡信濃国分寺跡豊前国分寺跡薩摩国分寺跡などがある。
 国分寺がある場所は、今でも好処である場合が多いが、薩摩国分寺跡のある鹿児島県薩摩川内市は、川内原子力発電所(せんだいげんしりょくはつでんしょ)があるので現代では好処とは言えないかもしれない。


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現地説明板より
『 寺院の規模と時期別変遷
 下野国分寺跡は、奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇の詔によって全国60数カ所建てられた国立の寺院のひとつです。
 伽藍(寺の建物)配置は、全国の総国分寺である奈良の東大寺と同じ形式で南北一直線に南から南大門・中門・金堂・講堂・僧房が並び、中門と金堂は回廊によってつながっています。
 塔は回廊の外側東方におかれ、基壇の規模から七重塔であったと推定されています。また、金堂・講堂を挟んで東西には経蔵・鐘楼がおかれています。
 これまでの発掘調査で、寺院の敷地が東西413m、南北457mの広さであることや金堂、塔などの建物の大きさが判明しました。また、溝や塀などのつくりかえから、伽藍地とその外側を区画する寺院地の範囲や変遷が明らかになり、1〜4期に時期区分されています。
 1期(8世紀中葉)は塔・金堂などの創建期、2期(8世紀後半〜9世紀前半)は主要堂塔が完成し、それらの建物を掘立柱塀で囲む時期、3期(9世紀後半)は伽藍地を縮小して掘立柱塀を築地塀につくりかえ、寺院全体を大改修した時期、4期(10世紀以降)は主要堂塔の補修や溝の掘り直しを行わなくなる衰退期と考えられています。
 下野国分寺の終焉は明確になっていませんが、遺構・遺物からみると11世紀ないし12世紀まで寺院として機能していたと考えられます。 』
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 南大門の基壇規模は東西21m、南北9.6mである。

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 中門の規模は東西約21m、南北約9.6mで、南大門とほぼ同じ大きさである。

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 塔の構造は、心柱の直径は90cm(推定)、床は30cm×30cmの凝灰岩製切石敷だった。基壇規模は18m四方、四方向に階段がついていた。火災により南側に倒壊したことが発掘調査から分かった。塔の高さは60mと推定される。

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 金堂は本尊を祀る寺院の中でも中心的な建物で、全ての建物の中で最初に建造された。一重の寄棟造だったとされる。基壇規模は東西33.6m、南北21m。中央須弥壇に本尊の釈迦如来像、脇侍菩薩二体、四方に四天王像を配置していたと考えられている。


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 下野国分寺跡の近くには甲塚古墳があった。
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現地説明板より
『 史跡 甲塚古墳
種類 史跡
所在地 下野市国分寺847
所有者・占有者 国分寺
 甲塚古墳は、6世紀後半頃に築造された帆立貝形の前方後円墳です。墳丘は2段につくられ、墳丘第一段の平坦面(基壇)の幅が広いのが特徴です。
 墳丘の大きさは、推定全長80m、墳丘第一段はほぼ円形で、外縁の直径が61mになります。南側は前方部側に張り出す可能性がありますが、未調査のためわかっていません。墳丘第二段は全長47m、後円部径34m、前方部長14.5m、前方部前端幅17mになります。
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 埋葬施設は凝灰岩の切石を使用した横穴式石室が前方部の前端に確認されています。
 平成16年度の発掘調査により、墳丘第一段で幅約14mある平坦面の中央付近に円筒埴輪が円形に廻ることが確認されました。
 墳丘第二段のくびれ部付近からは、馬や人の形をした形象埴輪が、復元できるもので24基出土しました。この埴輪列の中央付近から機織りをする女性を表現した、2種類の機織形埴輪が出土しました。
 また、形象埴輪列の南東付近からは360個体以上の土器群が出土しました。
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 この古墳に設置された埴輪には、赤・白・黒・灰色の4色が塗り分けられた彩色が残っており、古墳築造時の埴輪列の様相を復元することができます。
   下野市教育委員会  』



 東へ約500mのところにある国分尼寺にも行ってみた。
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現地説明板より
『 下野国分尼寺は昭和39〜43年度にかけて栃木県教育委員会と町教育委員会により4次にわたる発掘調査が実施され、伽藍配置が明らかになりました。昭和40年4月に僧寺跡同様国指定史跡となり、昭和45年度までに国・県の補助を受けて史跡整備が実施されました。この伽藍全体に及ぶ調査・整備は全国に先駆けて実施されたものです。(国分寺は大正10年に国の史跡に指定されている)
 尼寺の伽藍は、国分寺と同様に掘立柱塀で囲み、その南辺中央に南門を設け、中門・金堂・講堂・尼房が一直線に並び、回廊が中門と金堂をつないでいます。また、金堂・講堂の東西に鐘楼・経蔵を配し、塔は持っていません。
 建物規模は、金堂が桁行7間(20.9m)、梁間4間(12.1m)で、講堂が桁行5間(17.6m)、梁間4間(12.1m)となっています。
 四至については、近年の調査によって、国分寺と同様に伽藍他の掘立柱塀を築地塀に建て替えること、寺院地の区画溝を周囲に巡らすことが判明しています。また、尼寺からも国分寺改修の時期の瓦が多量に出土しており、尼寺も9世紀後半頃、国分寺同様に、主要堂宇の改修を行っていることが判明しています。 』


 下野国分寺・国分尼寺は、姿川と思川に挟まれた台地上にあった。思川の対岸には下野国庁跡も残っている。一帯は古代から下毛野氏の本拠地として先進地帯であったと考えられている。

 国分寺も国分寺も国府同様権威の象徴であり、一般庶民には親しまれるものではなかったのだろう。遠くからでも見える高さ約60mの塔は、周囲を威圧し朝廷の威光を示すものであったと考えられる。この寺で修業する僧や尼は今で言う国家公務員で、国家安寧のために法会を行い、それは取りも直さず朝廷の繁栄を祈念するものであった。国家はあっても国民はいなかった。いや、国民は皇族・貴族・豪族といった搾取をする側の人たちだけだったのかも知れない。百姓(おおみたから)は天皇にとっての労働者として宝であったのだろう。
 推古紀には、「百姓(おおみたから)礼(いやび)有るときは、国家(あめのした)自らに治まる」と言われた。

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