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zoom RSS 旅 656 大神神社( 栃木市)(1)

<<   作成日時 : 2017/04/17 08:39   >>

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2016年 6月7日
大神神社( 栃木市)(1)

 下野国分寺跡から大神神社へやって来た。何とかもっていたという空模様だったが、ついに小雨が降ってきた。参拝中にはかなり激しく降ってきたが、しばらく雨宿りをしていると大分小降りになり、気にならない程度になった。

 大神神社(おおみわじんじゃ)は、栃木県栃木市惣社町にある神社で、下野国総社とされ旧社格は県社である。延喜式神名帳にある「下野国都賀郡 大神社」の論社とされる。
 古くは「下野惣社大明神」「惣社六所大明神」「八島大明神」などの別称があった。

 総社(惣社)で式内社のものは、それほど多くはない。推定社を除けば11社である。66ヶ国と隠岐、壱岐、対馬を入れて69の総社があったとすると、その内の11社が式内社であることを多いとするか少ないとするかは解釈のちがいとなるが、式内社と言ってもこの大神神社の場合と同様に論社であることに注意するべきだ。
 “総社と式内社”については、最後に考察してみる。
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 駐車場に車を駐めることもあり、西参道からの参拝となった。
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現地案内板より
『 国府(こう)地区の案内
 本地区は、その名の示すように、律令制下(奈良・平安時代)における地方統制のための国府(役所)が置かれていました。
 いにしえの香り漂う下野国庁跡は、昭和57年に国の指定史跡となり、その保存・整備が進められています。また、本地区は、交通の利便性や水と緑に恵まれた自然環境のもと首都圏農業の中核的な役割を果たすとともに、歴史的文化的環境を背景に古くからの伝統伝承文化が今も受け継がれています。
国府地区の概要
○ 位置:市の東部に位置しており、主に田園集落地の編成であり、思川沿いに工業団地があります。
○ 面積:1523ha (東西約5.0km、南北約5.4km)
○ 主な見所:下野国庁跡 大神神社
○ 主な行事:国庁まつり、春の例大祭(流鏑馬、神楽)秋の大祭(御鉾祭)
○ 特産品:イチゴ、トマト、ニラ    』
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現地説明板より
『 大神神社
 創建は、約1800年前、第10代崇神天皇の第一皇子、豊城入彦命によると伝えられています。別名を六所明神といい、延喜式内社の筆頭となっています。
 社伝によりますと、大神神社は天皇の皇子、豊城入彦命が、東国治定のとき、大和国三輪山(奈良県桜井市)に鎮座する日本最古の神社、大和国一ノ宮三和明神の分霊を奉斎し、民の平和と五穀豊穣を祈願したのが始まりで、その後7世紀後半下野国府が当地に置かれ、その後、国司が国内の有名な神々を大神神社に奉斎して惣社(総社)としたとされています。
主な祭り
○ 春の例大祭 遣幣使参向(流鏑馬、神楽) 4月中旬
○ 秋の大祭(御鉾祭)

室の八嶋(むろのやしま)
 大神神社一帯は古来「室の八嶋」とも言われ、神社境内には池の中に石橋や、朱塗りの橋が架かる島が八つあって、それぞれの島に筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、浅間神社、熊野神社、二荒神社、香取神社が鎮座している。
 室の八嶋は、けぶりたつ(煙立つ)「室の八嶋」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都まで聞こえた名所であり、幾多の歌人によって多くの歌が残され、江戸時代には「奥の細道」の途上、松尾芭蕉も訪れています。 』

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現地説明板より
『 大神神社
 大神神社は、日本最古の神社である奈良県の大三輪神社の分霊を祭るため、建立されたと伝えられている。境内には、下野の名勝地「室の八嶋」があり、元禄2年(1689)松尾芭蕉はこの地を訪れ、「糸遊に結びつきたるけぶりかな」の句を残している。毎年11月25日の夜には、安産を祈願する「御鉾祭」が行われる。
 環境庁・栃木県  』
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茅の輪が設置されていた。

現地説明板より
『 下野惣社(史跡)
 惣社明神、室の八嶋明神ともいう。下野惣社として知られたもので、祭政一致の時代、毎朝国司がおまいりした神であり、それは下野国中に分布する神々にお参りする代わりにこの神社に奉幣する。いわゆる惣社の神であった。
 おおみわの神は大和の三輪神で、山そのものが御神体として知られている。国司がその神をお迎えし、惣社に相殿として祀ったものがいつの間にかこの神の名を以って、おおみわ神社と唱えられることになったものです。  』
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 本殿を撮影する頃には、雨が激しくなってきた。私は“晴れ男”で、神社参拝中に雨に降られることは稀である。後で考えると不思議に雨に降られた参拝は、祭神が水の女神と関係することが多く、当社でもそうなのだろうかと想像をたくましくした。
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現地説明板より
『 本殿の主祭神は、“倭大物主櫛瓱玉命”(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)別名「大物主命」で、福の神、婚姻、安産、子育て、医薬、醸造、方位、厄除け、交通安全、受験合格、商売繁盛、五穀豊穣、家内安全、企業繁栄等万能の神として厚いご利益があります。
 大神神社  』

 説明板では、「みか」という漢字は、「瓱」をつかっていたが、正式には瓱の“毛”の部分が“镸”という字であるようだ。私のパソコンでもその漢字が打てなかった。

 配祀神として、木花咲耶姫命、瓊々杵命、大山祇命、彦火々出見命を祀っているようだ。

 境内社で一番大きいのは「神宮」である。
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現地説明板より
『 神宮(相殿)
ご祭神
 天照大御神
 木花咲耶姫命
天忍穂耳命
瓊々杵命
彦火々出見命
大山祇命
 この他、神社を廃殿した折り、行き場のない御祭神が、数体納められている。
系譜
 天照大御神は皇祖神、最初の神である。 天忍穂耳命 → 瓊々杵命 → 彦火々出見命と続く天皇の祖先の神々である。
 彦火々出見命は初代天皇である神武天皇の祖父にあたり、その父が瓊々杵命で、その妻が木花咲耶姫命であり、大山祇命は木花咲耶姫命の父である。
 本殿に祀られている大物主神は「国つ神」であり、天孫降臨以前からもともと地上に土着していた神である。 』

 奈良時代のはじめに成立した記紀神話と同じ系譜を載せている。それにも関わらず当社の主祭神の大物主神を国津神としていることは、天津神の前に天下(あまのした)を治めた神々がいたことを認めていることに繋がる。
 大国主に代表される「国譲り」は、正に天孫族の前にそれぞれの大国を治める“大国主”や“大物主”が存在し、彼等も神であったことを認めるものである。そして天皇家は祭祀者として天津神だけでなく国津神も祀ってきたことが、王家として存続できた理由であろう。
 天津神をことさら国津神の上位に置き、天津神系が攻勢を強めたのは律令国家を目指した頃からで、大王(おおきみ)が天皇と呼ばれるようになる頃に記紀の神話が創られたことに注目する必要がある。その神話が歴史の一部のような形で結実したのが『古事記』であり『日本書記』である。日本の神まつりの不幸はここにある。

 境内の内の鳥居の外に神楽殿があった。
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 御神木の杉の木があった。
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現地説明板より
『 御神木
 寛永17年、三代将軍家光公が日光社参の折、当社に参拝された。当時当社は荒れたままの状態であった。家光公は延喜式内社・煙の名所として名を馳せた当社の荒廃を嘆き、社領30石と杉苗1万本を寄進し、復興に当たった。随行の諸大名、旗本等からも多額の寄進を受けて再建された。天和2年社殿が完成された。
 現在の社殿は当時の社司野中猪三郎氏が社殿の朽廃をみて、自らも私財を投じ氏子崇拝者の協賛を得て、大正14年に起工し、大正15年4月に完成したものである。
 この御神木は平成16年、荒川真澄宮司が設定された。先代の御神木は御神庫(石庫)の脇に切り株のみ残っている。 』

 この御神木の樹齢などは記されていないが、家光が寄進した杉苗なのだろうか。
 説明文に、「当時当社は荒れたままの状態であった。」とあるが、総社によっては廃絶したり、他の神社の境内社に格下げされているものもあることから、当社が寛永17年(1640)の時点で荒廃していたのは総社であった可能性が高いように思う。


 境内には広葉杉という杉もあった。
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現地説明板より
『 日本最大の広葉杉
 コウヨウザン(広葉杉)は、中国南部原産のスギ科コウヨウザン属の常緑針葉樹である。日本には、江戸時代後期に渡来した。本来、漢字の「杉」は広葉杉のことを指したといわれる。現在でも、中国においては、日本の杉を「柳杉」と呼び広葉杉と分けて呼んでいる。
 大神神社境内にある広葉杉は、現在(2010年)大きさは、幹周りは約6.5m、根回り約5.6mある。樹齢は数百年である。特に幹周りは、日本最大の広葉杉である。
 延喜式内社 下野国一之宮 大神神社  』
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 説明文の最後に、「延喜式内社 下野国一之宮 大神神社」とあるが、現在、下野国の一之宮は二荒山神社(宇都宮)及び日光二荒山神社とされる。総社(惣社)が一之宮を名告ることは、ほとんど無い。
 ただ、不明や廃絶した総社の中に、一之宮が総社を兼ねていたという説があるものがある。丹後国総社は廃絶したとされるが、籠神社(京都府宮津市大垣)が総社を兼ねていたとする説がある。伊豆国の総社は不明とされるが三嶋大社(静岡県三島市大社町)が総社を兼ねていたとする説がある。

 それにしても説明文の「樹齢は数百年である。」という大ざっぱさには呆れる。また、「現在(2010年)大きさは、幹周りは約6.5m、根回り約5.6mある。」とあるが、幹周りの方が根回りよりも太い。幹周りの6.5mは6の上に板が貼られ「6」に訂正された跡がある。恐らく5から6に変更されたのだろう。この説明文が書かれた時点は“現在(2010年)”とあるから、今から6年ほど前だ。約6年間で幹周りが1mも増えるとは考えられないが、“日本最大の広葉杉”とうたっている以上、逐次太さの変更をする必要があったのだろうが、一部だけの訂正は文章としての整合性が損なわれるので考慮する必要がある。


 芭蕉が訪れたという「室の八嶋」は、想像したほど広くはなく、その中に8社がこぢんまりと祀られていた。
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現地説明板より
『 栃木市指定文化財(指定第38号)
 下野惣社(室の八嶋)  昭和43年2月16日指定
 大神神社は、今から1800年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀して創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。
 惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。
 また、この地は、けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都まで聞こえた名所でした。幾多の歌人によって多くの歌が、残されています。

煙たつ室の八嶋にあらぬ身は こがれしことぞくやしかりける  大江匡房
いかでかはおもひありともしらすべきむろのやしまのけぶりならでは 藤原実方
くるる夜は衛士のたく火をそれと見よむろのやしまも宮こならねば 藤原定家
ながぶればさびしくもあるか煙たつ室の八島の雪の下もえ 源実朝
東路の室の八島の秋のいろそれともわからぬ夕けぶりかな 連歌師 宗長
糸遊にむすびつきたるけぶりかな 松尾芭蕉
  栃木市教育委員会  』


 室の八嶋の入口には、芭蕉の句碑があった。
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現地説明板より
『 芭蕉と室の八嶋
 松尾芭蕉は元禄2年(1689)「奥の細道」への旅に出発した。途中、間々田、小山を経て飯塚から左に折れて川を渡り室の八嶋に立ち寄っている。その時、詠んだというのが、「糸遊に結びつきたるけぶりかな」の句である。
 むかし、このあたりからは不思議なけむりが立ちのぼっていたといわれ、「室の八嶋に立つけぶり」は京の歌人たちにしばしば歌われている。
 句碑
 江戸後期の書家、萩原秋巌書 明治2年江戸の俳人達が建設する。 』
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現地説明板より
『 奥の細道(松尾芭蕉著、元禄15年刊)
 「室の八嶋」の条、本文
 室の八島に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより、室の八島と申。又煙を読習し侍るもこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍し。

現代訳文
 室の八嶋に参詣した。旅を共にした曽良が次のように話してくれた。「この神社の神は木の花さくや姫といって、富士山と同体です。瓊々杵尊の妻となった木の花さくや姫が一夜の契りで懐妊したのを疑われたので、四面を土でふさぎ、出入り口のない部屋に入り、若し他神の子ならば焼け死んでしまうでしょう。と言って火をつけました。火の中で彦火火出見尊を生みました。この子が八嶋の神となりました。(日本書記・巻第二)。このことから室の八嶋というようになりました。室の八嶋は、古くから“煙り立つ歌枕”として聞こえたところだが、そもそもの原因は木の花さくや姫の故事にありました。」また、このしろ(中型のものはコハダ)という魚を食べることを禁じられている。  』

 河合曾良は江戸の吉川惟足に吉川神道を学んだこともあり神社フリークである。芭蕉と旅に出る前には、何処に寄るかよく下調べをしている。昨日訪れた田村神社(郡山市田村町)にも芭蕉と曾良は寄っている。

 芭蕉は当社で「糸遊に結びつきたるけぶりかな」の句を作っているが、気に入らなかったのか『おくのほそ道』には収録されていない。収録されていないのに、当社でこの句が作られたのが分かるのは、後年 曾良が著した『俳諧書留』に書かれているかららしい。


 芭蕉が当社を訪れたのは元禄2年(1689)で、『おくのほそ道』が刊行されたのは元禄15年(1702)である。芭蕉は元禄7年(1694)に亡くなっているので、死後の刊行となる。
 元禄時代は社会も安定し、ちょっとした旅行ブームがおとずれていたようだ。そんな中で旅の案内本がよく売れたという。芭蕉の句入りの紀行本『おくのほそ道』が生前に刊行されていたら、芭蕉には幾ばくかの収入があったことだろう。

 芭蕉は生前に推敲に推敲を重ね、『おくのほそ道』を完成させていた。しかし、死後にしか刊行できない複雑な事情があったようだ。
 曾良は宝永6年(1709)に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、翌年、壱岐国可須村風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で巡見の途上に病没した。
 芭蕉も曾良も単なる俳諧師ではなかったようだ。

 『おくのほそ道』に収められた芭蕉の句は、生前に発表され俳諧仲間の中ではよく知られていたが、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という序文より始まる『おくのほそ道』が時代を超えた名作として評価され、芭蕉がこれほど有名になるとは当時の弟子たちも思っていなかったようだ。

 さて、「糸遊に結びつきたるけぶりかな」とは、どんなことを詠んだ句なのだろう。
 “糸遊結び”とは、「糸を揚巻結びに結ぶこと」、「几帳(きちょう)の飾りの緒の所々を揚巻結びに結んで長く垂らしたもの」、「花の形に結び連ねた緒を少年の狩衣の袖に張りつけたもの」という意味がある。
 また、“糸遊”だけだと、「陽炎(かげろう)」、「糸遊結びの略」という意味がある。陽炎は春の季語である。

 芭蕉はいろいろなことを絡めて、複雑な句を作ることがある。陽炎が春の季語であることを考えると、「陽炎(かげろう)」と「糸遊結び」と「煙」を複雑に結びつけて、あとは各々が想像を逞しくしてくれと放り出す、芭蕉一流の句の世界なのかも知れない。

 芭蕉が当社を訪れたのは元禄2年(1689)で、御神木の説明文に「寛永17年、三代将軍家光公が日光社参の折、当社に参拝された。当時当社は荒れたままの状態であった。家光公は延喜式内社・煙の名所として名を馳せた当社の荒廃を嘆き、社領30石と杉苗1万本を寄進し、復興に当たった。随行の諸大名、旗本等からも多額の寄進を受けて再建された。天和2年(1682)社殿が完成された。」とあるので、芭蕉が当社を訪れた時にはある程度の社観は整っていたのであろう。
 芭蕉は曾良の説明を借りて、当社と室の八嶋のことを書いているが、神社と歌枕の「室の八嶋」とは全く関係がなかったことを英敏な芭蕉は気づいたのであろう。

 歌枕の「室の八嶋」は下野国府の周辺にあったようだ。古代とは地形が変わっているのでその場所は特定できないが、周辺は湿地帯であったようだ。

 栃木市街西方にある永野川と東方にある思川に挟まれた地域は、「巴波川低地」(うずまがわていち)と呼ばれていて、その低地では思川の伏流水が地表に湧出して、巴波川を形成し栃木市街を貫流しているのだという。
 当社は栃木市街の北方にあるが、堤防が構築されていない時代は、川が氾濫すると広い範囲が水に浸ることもあり、当社周辺はかっては広い湿地帯があったと推定される。
 この湿地帯から気象環境によっては水蒸気が煙のように上がることがあり、幽玄に見えることもあったのではないか。
 この地は、けぶりたつ「室の八嶋」と呼ばれ、平安時代以来東国の有名な歌枕として都まで聞え、歌人によって多くの歌が残された。
 その時代から600年以上経った芭蕉の時代には、地形も変わり歌枕のような情景は見られなくなっていたと考えられる。
 
 けぶりたつ「室の八嶋」が知られるようになったのは国府が置かれた奈良時代からだという。一旦「室の八嶋」が歌枕とされると、歌枕が一人歩きするようになるのは、他の歌枕の地でもみてきた。歌人は煙から「恋の炎の消え残りの煙」を連想して恋の歌を詠むようになる。平安時代の歌人はこの地を訪れることもなく想像で歌を詠んだに違いない。
 「室の八嶋」を歌枕にした恋の歌には次のようなものがある。

いかでかは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙ならでは (藤原実方)
人を思ふ思ひを何にたとへまし室の八島も名のみ也けり (源重之女)
煙たつ室の八嶋にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける (大江匡房)
いかにせむ室の八島に宿もかな恋の煙を空にまかせて (藤原俊成)
恋ひ死なば室の八島にあらずとも思ひの程は煙にも見よ (藤原忠定)

 また、「室の八嶋」の「室」から、八嶋は竈(かまど)の古語であるとの説がある。『色葉和難集』には、「むろのやしまとは、竃をいふなり。釜をぬりこめたるを室といふ。」とあり、宮中の大炊寮((おおいづかさ)の竃(かまど)のことを「室の八嶋」と言ったらしい。
 こうなると、当地と「室の八嶋」は関係なくなる。あるいは国府周辺には住居が沢山あり、そこから上がる竈の煙を国府の賑わいに見立てた歌が奈良時代にあったのかもしれない。
 「たえず焚く 室のやしまのけふりにも なをたちまさる 恋もするかな」 (摂津公 源崇宇)
 この歌などは、完全に火を焚いた煙を歌っている。

 しかし、平安時代の王朝歌人が、煮炊きのための竈から出る煙に風流を感じたとは考えにくく、「室の八嶋」はやはり古東山道を通って奈良の都に運ばれた下野国府周辺の情景と思いたい。

 「室の八嶋」を詠んだ歌はたくさんあるが、それが下野の「室の八嶋」であるか分かる歌は少ない。
『古今六帖』に詠み人知らずで次の歌が載る。(大江朝綱の歌らしい)
「下野や室の八島に立つ煙 思ひありとも今日こそは知れ」 

 私の好きなのは次の歌だ。
「 霧はるる むろのやしまの秋風に のこりて立つは けふりなりけり 」(藤原宗秀)
「 立昇る 煙も空となりにけり 室の八嶋の五月雨のころ 」(藤原家隆) 

 近世の歌人も訪れているが、さすがに「けふり」を見ることはできなかったようだ。
「 見上ぐれば 秋の大空突く如く 室の八嶋の秀枯(ほがれ)しの杉 」(長塚節)
「 仄暗(ほのぐら)き室の八嶋の神領の 三万余坪みな蝉のこえ 」(伊藤左千夫)
「 糸遊に結びつくべき煙なし 風趣風情なし雑木の芽生え 」(土屋文明)
「 松の間の雨に匂へる桜花 これ皆木の花のさくや姫 」(土屋文明)


 下野国庁も国分寺も総社も、律令制度の崩壊と共に廃絶する運命にあった。国分寺跡に後継寺院(奈良朝の国分寺とは関係がない)が残ることがあるように、総社も便宜的に集められた神々といえども、その国の神を祀っていたので存続したものがある。中には総社創建の時、国府近くに元もと祀られていた神社を総社として活用した社もあるようで、氏子がいた総社は存続したようだ。それでも、朝廷の後援を失った総社は官社としての規模を維持するのは難しく、荒廃した。
 しかし、総社には神主がいたわけで、幾ばくかの社領を維持して生活していかなければならない。そこで、後世、その地の伝説や有意義な事柄を組込み自社の縁起をつくり、祭神さえも替えて存続に有利な伝承を創った。

 当社にとって往古に都まで聞こえた歌枕「室の八嶋」は絶好の材料であった。本来、歌枕「室の八嶋」と神社の信仰は一線を画すもので、関係はない。従って、境内の「室の八嶋」は、大正13年(1924)になって社殿の老朽化にともない大改修が行われた際に整備されたようで、歌枕とは関係ないと考えるべきだ。また、1993年(平成5年)に室の八嶋の大改修などが行われて現在に至っている。

 多くの神社が池の中に島をつくり厳島神社を祀ったように、江戸時代の初め当社にも池があり、芭蕉は池を見た可能性はある。しかし、正徳4年(1714)に刊行された貝原益軒の「日光名勝記」には、当時、池に水は無く、水蒸気が立ち上がる景も見られなかったと記されている。

 将軍家光も芭蕉や曾良も、当社の創った伝承に乗っかって当社を訪れているので、社伝は成功したと言える。それにしても芭蕉の影響力は大きい。現在、当社の「室の八嶋」は芭蕉が「おくの細道」で訪れたことを以て、その存在意義を保っているといってもよい。

 当社は平将門の乱により被害を受けたが、藤原秀郷らの寄進により再建され、室町時代まで社殿は大きく立派であったと伝えられる。
 平将門は朝廷の権威に逆らった武人であるから、朝廷と繋がってきた社(旧勢力)を焼くことには抵抗はなかっただろうが、藤原秀郷は中央に逆らいながらもその根底には旧勢力の威光を背負っていたので当社を再建したのであろう。

 しかし戦国時代に皆川広照の残兵が当社に篭り、北条氏直の軍勢が火を放ったために焼失し荒廃した。その後、北条氏は秀吉の小田原征伐まで関東一帯を支配することになる。秀吉により関東へ転封させられた徳川家康は、北条遺臣や武田遺臣が残る関東一帯の難しい統治に取り組むことになる。家康は北条遺臣や武田遺臣を巧みに家臣に取り込み、領国経営に成功していく。徳川氏が神社仏閣の復興にかなりの寄進を惜しまなかったのも、新領国の民と上手くやっていく方便でもあったのだろう。

 荒廃していた当社を復興したのは徳川家光であり、江戸時代には忘れかけられていた歌枕「室の八嶋」を当社と関連づけて有名にしたのは松尾芭蕉であることを考える時、社伝や縁起が語る古文書の影響力やそれを神社の復興に繋げた神職の策の巧みさに敬服するよりしかたがない。神職の力量が神社の存亡に大きく関わった。

 説明文の中の、「このしろ(中型のものはコハダ)という魚を食べることを禁じられている。」については、社伝とも関係するようなので後で記す。

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現在の大神神社境内に在る「室の八島の池」は、1738年頃に作られたので、芭蕉が訪れた1689年当時には存在しませんでした。

また、芭蕉は「室の八島が池である」って話を江戸で聞いていませんでした。何もない田んぼになってしまったと聞いていたんです。

そこで、大神神社に来る途中次の俳句を詠みました。

「糸遊に結びつきたる煙かな」
かの有名な歌枕の室の八島も、今では煙の代わりに糸遊(陽炎)が立つような田園地帯に変わってしまったんだなあ。



八島 守
2017/07/04 21:19
どこの神社もそうだったんだろうと思いますが、大神神社の祭神も明治の初め頃に何回も替えられました。その記録が残ってるんです。天照大神はその頃にくっつられた神です。
八島 守
2017/07/04 21:29
「下野国の一之宮は二荒山神社(宇都宮)及び日光二荒山神社とされる。」につきまして

日光には、江戸時代まで「満願寺」という神仏習合の寺社しかありまらせんでした。お寺扱いだったんです。

満願寺の新宮が明治時代に「二荒山神社」と名付けられました。

ですから、「下野国の一之宮の二荒山神社」とは宇都宮の二荒山神社でしょう。

八島 守
2017/07/04 21:49
「糸遊に結びつきたる煙かな」の句は[奥の細道]に書いた内容と食い違ているので、[奥の細道]に載せる訳にはいかなかったんです。
八島 守
2017/07/04 22:01
「芭蕉は池を見た可能性はある。」につきまして

残念ですが、当時の「室の八島の池」は40m四方もあるような大きな池だったんですが、水が涸れており、かつ底がとても浅かったんて、芭蕉は池だと気づきませんでした。

今でも、よく探せば、その池の跡は大神神社に残っています。

だから。
八島 守
2017/07/04 22:21
[延喜式神名帳]には「下野国河内郡 二荒山神社」と書かれており、宇都宮は河内郡 ですが、日光は都賀郡です。
八島 守
2017/07/04 22:55
「芭蕉が訪れたという「室の八嶋」は、想像したほど広くはなく、その中に8社がこぢんまりと祀られていた。」って、ご冗談でしょう。

芭蕉は、池なんかには訪れてません。神社の境内一帯を室の八島だとして訪れているんです。

[奥の細道]を読み返してください。

八島 守
2017/07/04 23:27
芭蕉が、「陽炎」の代わりに「糸遊」を使ったのは、次の「結びつきたる」との縁語関係、すなわち「糸を結ぶ」を導くためです。

縁語とは和歌用語かと思ってましたら、俳句にもあるんですね。
八島 守
2017/07/04 23:38
「将軍家光も・・・当社を訪れている」って、家光は室の八島として現在の大神神社には訪れてないと思いますけどね。

家光は壬生藩の殿様に室の八島を案内されたので、当時下野国内で室の八島と信じられていた壬生藩領内のケブ村辺りを案内されたんだと思いますけどね。
八島 守
2017/07/05 00:01
「当社は平将門の乱により被害を受けた」って、
そんなことが分かる史料はないと思いますけどね。
八島 守
2017/07/05 00:13
「戦国時代に皆川広照の残兵が当社に篭り、北条氏直の軍勢が火を放ったために焼失し荒廃した。」
恐らくそんなことが分かる史料もないと思います。
八島 守
2017/07/05 00:16
「江戸時代には忘れかけられていた歌枕「室の八嶋」」

ご冗談を。江戸時代には、江戸の町で室の八島を知らない人は一人のいなかったくらい有名だったんです。
ですからかなりいい加減な俗説まで生まれてたんです。

栃木宿がどこに在るかは知られていませんでしたが、室の八島といったら「ああ 壬生の城下町辺りにあるんだな」と皆知ってたんです。

八島 守
2017/07/05 00:33
「荒廃していた当社を復興したのは徳川家光であり」って、
え?

社殿が老朽化していたので、吉田神道が大名達から金を集めて、1680年頃に新築したことは推測できますが。
八島 守
2017/07/05 00:41
[徳川実紀]大猷院殿御実記

「室八島は下野の国にて古名勝の地なりとて立ちより御遊覧あり。」

神社やその境内の池が上記の「家光が遊覧する地」とはとても思えません。
八島 守
2017/07/05 00:54
 旅人が書く気ままなブログですが、しっかり読んでコメントを寄せて頂き有難うございます。
 過去ブログを訂正することは時間がなくて、なかなか出来ませんが、歴史の専門家ではないので、ご容赦ください。 

 「八島 守」というペンネームからも、「室の八島」の真実を伝え守りたいという思いや「室の八島」への愛着が伝わります。いい加減な記事には黙っていられない気持ちもよく分かります。
 
 もしよければ、「室の八島」のページを作って公開して頂ければ、リンクを張りたいと思います。
 「室の八島」のページを作ることがあれば、お知らせ下さい。  
ハッシー27
2017/07/08 16:10
実はホームページは2006年から開設してるんですが、内容が学術論文的で、細かくて長いんで、自分が読んでもうんざりします。
それで、私のホームページはどなたにも案内しておりません。
今まで私のホームページをきちんと最後まで読めたのは大学の先生くらいでしょう。

もちろんリンクはオーケーです。


私のホームページは探そうと思えばすぐ見つかります。

八島 守
2017/08/15 07:49
 八島さんのホームページは難しいようですね。 「私のホームページは探そうと思えばすぐ見つかります。」とありますので、私ごときがリンクを張るのは失礼かと考え、遠慮します。
 「内容が学術論文的で、……」とありますし、「今まで私のホームページをきちんと最後まで読めたのは大学の先生くらいでしょう。」とあるので、私のブログとは性質が違うホームページなのでしょうね。

 私はただの歴史マニアで、歴史をテーマに旅をして、それをまとめて、勝手な推測をして楽しんでいるに過ぎません。
 主に自分の記録の為に書いているのですが、公開しているのはその場所に興味を持って出かけてくれる人がいれば幸いだと考えてのことです。少しでも誰かの参考になれば嬉しいとの思いもあります。

 八島さんがご指摘の通り、内容については不正確なこともあると思います。記事についての解釈や正否については各自のリテラシーにお任せしております。
ハッシー27
2017/08/20 11:21
ハッシー27様が、栃木県南部の方か、松尾芭蕉の[奥の細道]の旅のルート上の町(ただし宮城県以南)の方でなければ、私のホームページを読んでもくそ面白くもないでしょう。

八島 守
2017/08/21 10:11
ここでコメントすべき内容じゃないんですが、一つだけ私のホームページの宣伝させてください。

[STAP細胞問題]
専門分野は全く違いますが、私も研究屋の端くれだったので、あの問題の本質がわかります。
それで、私のホームページで、あの問題の本質を誰でも理解できるようにわかりやすく説明しています。
それで、ハッシー27様に一度読んでいただけたらと思います。

トップページの下のほうから、[STAP細胞問題]の箇所にジャンプできます。

八島 守
2017/08/21 13:17

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旅 656 大神神社( 栃木市)(1) ハッシー27のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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