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zoom RSS 旅 657 大神神社( 栃木市)(2)

<<   作成日時 : 2017/04/17 16:23   >>

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2016年 6月7日
大神神社( 栃木市)(2)

 表参道は長いが、鳥居まで行ってみようと歩いた。
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 この参道で流鏑馬が行われるようだ。当社の流鏑馬は農耕の作柄占いのもので、鎌倉時代以降のものとは全く趣旨は異なるという。
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 下野国庁跡は長らくどこにあったか分からなかった。下野国分寺跡が栃木県下野市国分寺にあることから、近くに下野国庁跡があるはずだと調査が開始され、1976年(昭和51年)から栃木県栃木市田村町の宮目(みやのべ、宮延)神社境内付近の発掘調査が始められ、4年後の1979年(昭和54年)に国庁跡が確認され、昭和57年に国の指定史跡となった。 下野国庁跡が分かったことから惣社といわれた大神神社が注目されるようになった。

 下野国庁跡は栃木県栃木市田村町・宮ノ辺にあり、そこは思川を挟んで下野国分寺跡の西の対岸に位置する。そして大神神社は下野国庁跡の北約3kmにあり、思川の西に位置する。
 大神神社は惣社と言われてきた。表参道を真っ直ぐ南に延ばせば下野国庁跡へ通じる。
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 大神神社が総社(惣社)であったことは認めてもよさそうだ。当社は古くは「下野惣社大明神」「惣社六所大明神」「八島大明神」などの別称があった。
 しかし、実際には明治時代より以前の史料で当社を明確に「大神(おおみわ)」または「大三輪」と呼んだものは発見されていないので、大神神社と名告るようになったのは明治以降である。
 栃木県では明治以降、ほとんどの大権現や大明神は○○神社に名前を変えたという。なぜ、「惣社六所大明神」は「大神神社」と名前を変えたのであろう。
 それは、延喜式神名帳にある「下野国都賀郡 大神社」を意識してのことであろう。他の論社として太平山神社(栃木県栃木市平井町)がある。


 総社は祭神の合祀だけでなく、神社そのものの統合である場合もあるので、式内社の総社もある。
 総社の多くは中世にいったん廃れたが、後に再興されたものも多い。ただし今に至るまで再興されずにいるものや、どの神社が総社だったのか分からなくなってしまった国もある。
 推定社を除く総社であり式内社であるものは、全国に11社ある。それを以下に挙げる。

河内国 志貴県主神社(大阪府藤井寺市惣社)  
尾張国 尾張大国霊神社(愛知県稲沢市国府宮町)
遠江国 淡海国玉神社(静岡県磐田市見付)
駿河国 神部神社(静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町)
 ※神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の三社をまとめて静岡浅間神社と総称される。
下野国 大神神社(栃木県栃木市惣社町)
加賀国 石部神社(石川県小松市古府町)
但馬国 気多神社(兵庫県豊岡市日高町上郷)
石見国 伊甘神社(島根県浜田市下府町)  
播磨国 射楯兵主神社(兵庫県姫路市総社本町)
伊予国 伊加奈志神社(愛媛県今治市五十嵐)
日向国 都萬神社(宮崎県西都市妻)

 このうち私が訪れたのは、神部神社 と 都萬神社である。他に式内社ではないが、佐渡国 総社神社(新潟県佐渡市吉岡総社)と信濃国 科野大宮社(長野県上田市常田)を訪れた。 信濃国府は上田市から松本市へ移ったとされており、松本市にも総社として伊和神社(長野県松本市惣社)が鎮座する。

 大神神社(旧惣社六所大明神)は総社であったことは確かなようだが、式内社であったかは微妙である。式内社の肩書きを手に入れることも神社の格式にとっては重要な事になり、神社の盛衰に関わるのであろう。

 延喜式神名帳には、「下野国都賀郡 大神社」とあることから、927年以前からこの地には大神社があり、927年の時点でも当地を代表する神社として栄えていたことは確かである。それが、現在の大神神社であるかはともかく、大神神社がその後継社としてその祭祀を引き継いだことはあり得ることである。


 社伝では、第10代崇神天皇の時代に豊城入彦命(崇神天皇皇子)が東国平定の折に戦勝と人心平安を祈願し、崇神天皇が都とした大和国磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)に座した大三輪大神(大神神社)を勧請したのが創建とされている。
 従って主祭神は、倭大物主櫛瓱玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)別名「大物主命」である。この大物主命を大己貴命と同じとするようになったのは、7世紀の後半頃からのようだ。

 豊城入彦命は上毛君・下毛君の祖であるともされ、二荒山神社(宇都宮)などに祀られている。


 崇神天皇は三輪山を御神体とする大神神社(旧大神大物主神社)を大田田根子(三輪氏の祖)に祀らせた。応神朝や継体朝以降はともかく、それ以前の大和の大王(おおきみ)は三輪山の神を祀っていたことは確かである。そしてこの三輪山(御諸山)の神は国津神である。つまり天津神に天下を譲った神である。
 全国各地に大神神社が分祀されていて、既に「延喜式神名帳」にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。
 大物主神は蛇神であると考えられ、水神または雷神としての性格を合わせ持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として特に篤い信仰を集めている。
 三輪山は御諸山とも呼ばれるが、私は御室山が御諸山に転じたのではないかと考えている。
 
 崇神天皇は大物主神を祀るだけではなく、宮中で祀られていた天照大神と倭大国魂神を宮中から外に出して祀った。倭大国魂神は伊香色雄(いかがしこを、 物部連の祖)によって大和神社(奈良県天理市)に祀られるが、天照大神は各地を彷徨った後、伊勢に祀られることになる。

 伊勢神宮を頂点とする天津神が日本の神まつりの中心になる前に、大和朝廷の大王は三輪山に国津神を祀っていたことは確かで、記紀では日本の歴史を古く見せるため660年ほど古くしたのでいろいろな矛盾が出てしまい、天皇の在位年はあてにならないが、四道将軍を派遣した崇神天皇の時代には、大和朝廷の影響力がかなりの広範囲にわたっていたようで、各地の伝説や伝承を全てそのまま荒唐無稽のものとして排除できないようだ。

 崇神天皇の頃に三輪山の神が各地に勧請されたことを伝える社伝はいくつもあり、それはただ神だけを勧請したのではなく、三輪山周辺の大和朝廷の勢力(三輪氏・大神氏もその一つ)が各地に進出していったことを示すようである。古代の大豪族である物部氏やその一派ともされる尾張氏もそうした進出した氏族の一つであろう。

 天皇家を万世一系とするかはともかく、祭祀者としての天皇家を考える時、その存続を可能たらしめた一つが、何らかの形で三輪山の祭祀を引き継いだことが挙げられるようだ。
 不思議な事に、他の地方から来た大王も前王家の女子を正后に迎えて、三輪山祭祀を継続した節がある。それが正統性の護持でもあった。伊勢神宮を参拝したのは律令制度づくりが本格化した頃の持統天皇だけで、その後 明治天皇まで誰一人参拝した天皇、上皇はいない。交通不便な熊野三山には行幸しても伊勢神宮には参拝していないのである。宮中で密かに続けられた祭祀は三輪山の神を祀ることであったようだ。

 奈良から都を遷すときも、新しい都に三輪山の神を勧請したようだ。天智天皇が近江大津宮(現在の大津市)へ遷都したときは、日吉大社に西本宮を造り三輪山の神を勧請している。
 桓武天皇が京都へ遷都したときは賀茂神社(賀茂別雷神社・上賀茂神社)があり、この祭神と三輪山の神は深い関係があるようで、新たに三輪山の神を勧請しなかった。
 また、明治天皇が江戸(東京)に遷都したときには、氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町)の祭神が三輪山の神と深い関係があるようで、新たに三輪山の神を勧請しなかったようだ。明治天皇は正式に遷都を宣言していないので、京都の人の中にはいまだに天皇は出かけているだけでいつか京都に戻ってくると思っている人がいるそうだ。

 天皇家が存続した背景には、三輪山の神を祀る祭祀が、中央豪族や地方豪族に支持されたという古い記憶があり、伝統を重んじる日本民族のアイデンティティーに適ったからであろう。天皇家の中では結果的には神々の国譲りはなかったのかもしれない。

 私は奈良時代を特異な時代だったと感じる。天武天皇系の出自の問題も含めて、道教や仏教による過剰なまでの中国化は果たして律令制度導入に必要であったのだろうか。そのままでは日本は完全な仏教国になってしまう勢いであった。その最期を飾ったのが、称徳天皇と道鏡だったのかもしれない。

 その後、天武天皇系は根絶やしにされ、天智天皇系に天皇家は戻り、渡来系の母を持つ桓武天皇は京都に遷都した。そして宮中では形こそ変わったものの三輪山の神の祭祀が復活したのであろう。その後、仏教と神道は適当なバランスで祀られ、やがて神仏習合が本格化する。神主よりも僧の方が寺社領の経営に長けていたので、別当という形で寺の方が神社より上位になる傾向が現れたが、長く続いた寺と神社の蜜月時代を破ったのは伊勢神宮を頂点とした国家神道を選択した明治政府であった。


 さて、当地は古墳が多い地域である。前方後円墳も多いので古くから大和朝廷との繋がりを持った豪族がいたことは確かで、その豪族の中に大神社を祀った氏族がいたのだろう。大神社は「おおみわやしろ」とでも訓じられたのだろう。(「むわのかみやしろ」と訓じられたともいう)

三輪山の神は出雲系だという説も根強い。それが後世、大己貴命を大国主として祀ることにも繋がる。
 私は、古い時代に勧請されたと考えられる大神社の後継社とおぼしき大神神社が、主祭神を倭大物主櫛瓱玉命(倭大物主)として、大己貴命の神名を挙げていないことに好感を持つ。
 
 この地域は渡来系の氏族が早くから入植し、仏教も盛んだったと考えられる。下野薬師寺(栃木県下野市薬師寺)には761年に戒壇が設けられている。当社には、弓削道鏡が下野薬師寺に左遷されたとき当社で国学や医学の講義をしたという伝承がある。その頃、国学があったかは疑問だが、神話や神まつりについて講義したのだろう。
 大神社も恐らく神仏習合して栄えていたのであろう。本社の大神神社((奈良県桜井市)もしっかり神仏習合し神宮寺まであったので、大神社も仏教勢力の恩恵も受けていたのではないだろうか。大神社が衰えたとすれば、それは下野薬師寺や国分寺が廃絶してからではなかったかとさえ思う。
 その後は、総社と大神社は一体となり存続してきたのであろう。

 
 次に、説明板の奥の細道「室の八嶋」の条の説明文の中にある、「このしろ(中型のものはコハダ)という魚を食べることを禁じられている。」について記す。

 本文に、
『同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより、室の八島と申。又煙を読習し侍るもこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍し。』
 とあるが、曾良が語ったのは記紀の「一夜で懐妊したため貞操を疑われた木花咲耶姫が、不貞でできた子なら焼け死んで出産できないはずと、身の潔白を誓って無戸室(うつむろ)に入って火を放ち、燃え盛る炎の中で無事に彦火々出見命ら三柱を産み落とした」という神話に依るもので、当社の祭神でもある木花咲耶姫(富士山の女神)と「室の八嶋」を関係づけたものである。

 しかし、木花咲耶姫がこの神社の祭神として出てくるのは、江戸時代が始まる頃だとされる。
 一部の海人族は、産室を海岸につくり、出産後に産室を焼くという風習があったという。血の不浄を嫌ったものかもしれない。
 また産土(うぶすな、生まれた土地)は、産砂からきていて、これも海岸に産室を築いたことから出た言葉だとされる。
 神武天皇の父とされるウガヤフキアエズ(日子波限建鵜草葺不合命・彦波瀲武盧茲草葺不合尊)などは、安産で海岸につくる産室が葺き上がる前に生まれてしまったことがその名の由来だと言う。
 ウガヤフキアエズは、彦火火出見尊(山幸彦)と海神の娘である豊玉姫の子で、母の妹(つまり叔母)であり育ての親でもある玉依姫と結婚し、神武天皇(神日本磐余彦尊)などを生んでいる。
 つまり、神話では天皇家はその初期において2代にわたり海人族の娘を妻にしている。産室を海岸につくり、出産後に産室を焼くという風習は戦前まで対馬に残っていたという。対馬は豊玉彦一族を祀る神社が多い。綿津見や豊玉彦一族(豊玉彦、豊玉姫、玉依姫、穂高見など)は安曇氏(阿曇氏)が祀る神である。

 さて、「このしろ(中型のものはコハダ)という魚を食べることを禁じられている。」とあるのは、富士浅間御本地由来に伝わる木花咲耶姫の伝承からきたもののようだ。
 木花咲耶姫が危難に遭った際に、焼くと死体を焼く匂いがするというコノシロという魚を姫の身代わりに焼き、野辺送りして、姫は既にこの世にいないと偽って難を逃れたという逸話がある。

 栃木県にも同様な逸話が伝わる。 (下野風土記逸文 慈元抄 十訓抄など)
 下野国に、むかし、五万長者と呼ばれる長者がおり、長者には常陸国の国司に嫁ぐことを約束した娘がいた。
 ある日、下野国に流離(さすら)い着いた孝徳天皇の子有馬皇子が長者の家に住み込み、いつしか娘と恋仲になった。(史実では有馬皇子は天智天皇に謀叛の罪をきせられて殺されている)
 国司は婚姻の約束を果たすよう長者に催促するが、すでに娘は有馬皇子に心が移ってしまい長者は途方に暮れる。
 そこで思い立ったのが娘を死んだと見せかけて国司に婚姻を断念してもらうことだった。偽りの葬儀で、長者は棺(ひつぎ)に「子の代(このしろ)」として「つなし(ニシン科)」とニラを入れて野辺送りをした。
 すると、これを焼いた匂いが人を焼いたときと同じ匂いのため、国司は娘がほんとうに死んだものとあきらめ、常陸国に帰って行った。
 いつしか「つなし」は「このしろ」とも呼ばれるようになった。むかし、大神神社で行われていた毎年9月9日の「つなし」を焼いて捧げる神事は、この謂れによるという。
 「このしろ」は現在の種に当てはめるとコハダの成魚で関西では「つなし」というらしい。

 現在、大神神社の重要な神事は、春季例大祭 (4月16日)と秋季例大祭(御鉾祭) (11月18日〜24日頃)である。
 春の例大祭では流鏑馬と神楽(市指定無形民俗文化財)が催行され、秋の大祭である御鉾祭(おぼこまつり)は市指定無形民俗文化財となっている。当社の御神体は「鉾」である。
 市指定無形民俗文化財の神楽は、日光東照宮(又は二荒山神社)から上都賀尾裂神社を経て伝わったと云われている。神楽は古くからあったが、天保4年(1834)に舞伎、舞面、装束、楽器など一切が完成した。現在も純粋な古い型を残している。

 弥生時代には近畿地方中心に銅鐸の祭祀が行われてきたようだ。銅鉾・銅剣の祭祀は北九州から中国地方西部に見られる。中国地方と四国地方は、東部が銅鐸、西部が銅鉾・銅剣の祭祀が見られ、微妙に混じりあう地域でもある。

 なぜ、大神神社の御神体が鉾なのかは分からないが、御鉾祭は高さ4〜5mの神鉾(おほこさま)をお假屋に奉祭し、久良女(くらめ)と呼ばれる童女を捧げる祭だという。この童女を「おくるめ様」とも呼ぶ。
 童女は、祭期間中、お假屋で潔斎しなければならない。神鉾還御の行列の後、神鉾の体内から縄を出す。この縄が安産の守りとなるらしい。
 また、翌26日には、コノシロ・ニラ・ニンニクの三種を神に捧げて終了する。国府(こう)地区の特産品は、イチゴ、トマト、ニラだと言う。ニラが特産品の一つであることは注目される。

 この神事に関して、以下の伝承がある。
 「昔、この地の長者に絶世の美人の姫があったが、都から流された公卿により懐妊した。その後、国司がこの姫を乞うたが、懐妊のため、「娘は死んだ」と嘘をつき、偽の葬儀を行い、棺の中に鮗(このしろ)と韮(にら)を納めて火葬にした。」
 この時の気持ちを歌に詠んだのが、
 「下野や室の八島に立つ烟 我このしろにつなし焼くなり」 だと言う。
 
 この歌は、『古今六帖』に詠み人知らず(江朝綱の歌とも)で載る次の歌によく似ている。
「下野や室の八島に立つ煙 思ひありとも今日こそは知れ」
 
 この歌が神事と関係ある歌だとすると、“思ひありとも今日こそは知れ”の「思ひ」とは、恋の思いなどではない。 また、煙も火葬の際の煙ということになる。 

 これらは栃木県に伝わる逸話を神社の伝承に取り込んだものだろうが、このような逸話がこの地域にあることに興味が湧く。

 当時、火葬は珍しかったのだろう。
 日本での初めての火葬は、文武天皇4年(700年)に火葬された元興寺の開祖道昭だとされる。初めて火葬された天皇は持統天皇で、702年に死亡し殯(もがり)の儀礼の後、703年に火葬された。遺骨は銀の骨つぼに収められたが、1235年(文暦2年)に盗掘に遭った際に骨つぼだけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄されたという。

 江戸時代から天皇皇后については土葬とされてきたが、2012年4月26日、宮内庁は天皇や皇后が崩御した際の埋葬方法を、今上天皇および皇后の意向により旧来の土葬から火葬に変える方針で検討すると発表した。贅沢は禁物で遺骨は銀の骨つぼに収めないほうがいいだろう。

 下野薬師寺や国分寺があるこの地域は、仏教徒が多く、当時珍しかった火葬も多かったのではないか。


 鮗は、昔は「つなし」と呼ばれていたが、この歌より、「このしろ」と呼ばれるようになった。「このしろ」とは、子代(子の身代わり)という意味だとされる。
 「このしろ」は一般に「鮗」と書かれるが、異字に、「魚偏に祭」「魚偏に制」「魚偏に庸」という字がある。
 栃木県は海なし県なのでコノシロは手に入らない。やはり静岡県の浅間神社に伝わる逸話だったのだろう。

 御鉾祭は五穀豊穣・安産子育・醸造祈願の祭だとされる。何となく女神(木花咲耶姫?)に感謝する祭のように感じる。木花咲耶姫も父とされる大山祗神も国津神である。

 式内社の大神社に祀られていた神は、倭大物主櫛瓱玉命であろう。古代祭祀を考える時、男女の神がペアで祀られることがよくある。大神社には倭大物主櫛瓱玉命の他にもう1柱女神が祀られていたのではないか。それは「室」とも関係する蛇神であり、水神でもあったのではないか。それが後世、富士山の女神である木花咲耶姫に仮託されたのではないだろうか。木花咲耶姫は桜神でもある。

 秋田県の雄物川は、「御物川」が転じて「雄物川」になったという。しかし、私は元は雄鬼川(おものがわ)であったのではないかという説を立てた。更に大物主川 → 雄物川 あるいは 大物忌川 → 雄物川 と云うことも考えられると記した。
 そして、大物忌神は大物忌神社の祭神であり、大物忌神=瀬織津姫 という説もあることを紹介した。。

 「大物忌」とは不浄を嫌うという意味で強い浄化力があるということらしい。従って大物忌神とは、穢れを清める神でもあるという。瀬織津姫は瀧神、川神であるが、祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神ともされる。


 大神神社の近くには思川(おもいがわ)が流れる。 「田心姫」の田心を縦に続けて書いた「思」から思川となったという説があるが、この川には女神が住んでいるようだ。
 田心姫(たごりひめ)は、宗像三女神の一人である。宗像三女神は田心姫、湍津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)である。私は湍津姫の別名が瀬織津姫ではないかと考えている。また、市杵嶋姫は後世弁才天と集合する。いずれも水の女神の神格を持つ。

 私は、思川は大物忌川だったのではないかという着想が湧いた。

 小山市の諏訪家には、道鏡が伝えたとされる一子相伝の「しぼり紙」があるという。一度絞った和紙に渋柿から作った渋汁を塗り、干してからまた塗ることを繰り返すと固い紙ができるという。そのしぼり紙を活用した人形で「下野人形(しもつけひとがた)」というものがあるそうだ。50年ほど前から、しぼり紙で作った人形を紙雛にして、七夕に思川で流し雛が行われるという。流し雛の人形(ひとがた)とは子代(このしろ)でもある。
 思川には水の女神がいるのであろう。人々は流し雛に託して、どんな思いを思川に流すのであろう。
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 最後に、「室の八嶋」を見て、その伝承を知ったときから、頭の中に引っかかっていることを記しておく。
 あまり実証的ではなく、かなり穿ち過ぎた見方であるが、三輪山に祀られている神が、出雲神であると仮定したとき、出雲の代表的神である、出雲のスサノオ、新羅のスサノオから「室の八嶋」を考えてみた。

 京都の八坂神社(旧牛頭天王社、祇園社)は、素戔嗚一族を祀る神社だが、素戔嗚尊(中御座)、櫛稲田姫命(東御座)の他に東御座に八柱御子神 (やはしらのみこがみ)が祀られている。その八柱御子神の中に、素戔嗚尊と櫛稲田姫命の長男として八島篠見神が祀られている。
 この八島篠見神は出雲では、八島野尊と呼ばれ、その諡号は、「清之湯山主三名狭漏彦八島野尊(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬのみこと)」という長い名が付いている。
 島根県雲南市大東町須賀にある須我神社は、須佐之男命と妻の稲田比売命、両神の子の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと、八島士奴美神)を主祭神としている。
 この神社から南西約5kmほどの清田というところのそばに、「古代鉄歌謡館」(島根県雲南市大東町中湯石)があり温泉も湧いているので、清之湯山主三名狭漏彦八島野命はこの辺に住んでいたのかもしれない。

 私は清(すが)は須賀だけではなく蘇我に繋がり、蘇我氏に繋がる神ではないかと考えている。
 この八島野命については、古文書などの資料が少なく、よく分からないことが多い。それは7世紀の半ばに蘇我氏宗家が滅ぼされたことと関係があるようにも考えられる。
 蘇我氏は盛んに方形墓墳を造った。
 奈良の石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされるが、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるという。方形墳は出雲を含む日本海勢力の墓墳の特徴でもある。
 蘇我馬子は邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。その島の数は8つだったのではないか? ここでの8はただ多いという意味での8ではないように感じる。また、八千矛神は大国主命とされるが、本来は素戔嗚のことである。大神神社の御神体は鉾だとされるが、これもかつて素戔嗚を祀っていた痕跡かもしれない。

 大神神社は、三輪山(御諸山)の神を祀る。三輪山の神は蛇神(竜神)であり、出雲系とも云われる。私は御諸山は御室山から転じた名前だと考えている。「室」は蛇穴にも通じる。
 かなり飛躍した推測だが、「室の八嶋」とは、出雲系の神の八島野尊と関係した地だったのではないか。そして、蘇我氏のルーツは出雲にあり、八島野尊は蘇我氏の祖神ではなかったか?
 蘇我氏は物部氏宗家を滅ぼした後、各地でその領地(地盤)を蚕食している。

 『日本書紀』斉明天皇元年(655年)7月11日条には、難波朝(難波京の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応したとある。そこでは「北」と「東」にぞれぞれ「北越」「東陸奥」と注があり、北は越の方面、東は陸奥の方面と解せる。
 蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を和人にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。

 難波宮は孝徳天皇(在位645〜654)の宮で、実は難波宮は滅ぼされた蘇我宗家が中心となり既に造営を始めていたものだった。孝徳天皇は蘇我氏の政策を引き継いだと見られる。孝徳天皇が即位した後、重用したのは蘇我氏系豪族が多いことや仏教を重んじたことから分かる。
 孝徳天皇と皇太子の中大兄皇子(天智天皇)の仲はすぐに壊れ、中大兄皇子は皇祖母尊(斉明天皇)と皇后(間人皇女)、皇弟(大海人皇子)を連れて大和に帰ってしまう。

 最近の研究では、律令制度の導入を積極的に進めていたのは、蘇我氏や孝徳天皇であり、中大兄皇子らは抵抗勢力だったのではないかと言われる。それは、その時代の新興勢力であった蘇我氏は、旧勢力である物部氏や大伴氏等のように中央での大きな既得権や部民を持っておらず、旧氏姓制度を解体し律令制度を導入したほうが蘇我氏にとって都合がよかったようだ。また、蘇我氏が抱える渡来系氏族も旧氏姓制度の解体を望んだ。

 孝徳天皇は難波朝で蝦夷を饗応したようだが、それ以前から蘇我氏は日本海側の蝦夷とは親しく、饗応していたようだ。その流れは、物部氏宗家を倒した後の蘇我蝦夷や入鹿の代には既に日本海側の蝦夷だけでなく古東山道を通して北関東の蝦夷まで広がっていたようだ。蘇我氏と蝦夷の関係が良好だったのは、蘇我氏の同族(出雲族系)が早くから東国へ進出し蝦夷との関係をつくってきたからではないか。そこはやがて渡来人たちの入植の地にもなった。

 私の住む神奈川県の相模国総社は「六所神社」である。式内社ではない。この総社は元もとあった柳田大明神に国内の主な祭神を勧請して総社「六所神社」としたものだ。
 社伝によると、崇神天皇の時代、出雲国(現在の島根県東部)より移住しこの地を開墾した人々は、この地を柳田郷と名附け、出雲の祖神である櫛稲田姫命・須佐之男命・大己貴尊を祀って柳田大明神と称したという。柳田大明神は現在の総社「六所神社」より北西1kmの石上台(伊勢神台)に社殿を築いて、『六所明神之縁起』によれば、創建の年は崇神天皇甲申年と伝えられる。
 櫛稲田姫一族は、瀬戸内海にも進出しているが、そこから海人族と協力して太平洋側を東に進出したようだ。櫛稲田姫の名から、稲作を東国へ広めた一族の一つであろう。これらの一族はやがて古墳も造ったようだ。

 大神神社も「惣社六所大明神」と呼ばれていたが、全国に六所神社はいくつもある。そのうち総社であるものは次の6つである

出羽国総社 六所神社(山形県鶴岡市)
安房国総社 六所神社(千葉県館山市)
武蔵国総社 六所宮(現名称「大國魂神社」)(東京都府中市)
下総国総社 六所神社(千葉県市川市)
相模国総社 六所神社(神奈川県中郡大磯町)
出雲国総社 六所神社(島根県松江市)

 出雲国総社が六所神社というのが注目される。一般的に六所とは六柱祀っていることを指すが、全国に主な神社だけで30ほどあることを考えると、六柱祀っていることだけではなさそうだ。
 この6柱のセットは東国(特に関東地方)に進出した出雲族を祀ったものだったという可能性はないのだろうか。武蔵国造などに出雲氏の名前が見える。

 素戔嗚の子は八王子として祀られるが、全てが櫛稲田姫命との間の子ではないとされる。素戔嗚には妃が数人いたとされる。京都の八坂神社には素戔嗚尊の妻として櫛稲田姫命の他に神大市比売命、佐美良比売命が祀られている。また、素戔嗚とアマテラスの間には宗像三女神が生まれている。
 私は関東を中心に祀られる6柱のセットは、素戔嗚尊と櫛稲田姫命とその間に生まれた4人の子どもの合わせて6柱ではなかったかと想像する。あるいは出雲族を代表する6柱だったのではないか。

 総社の六所神社は関東に多い。「六」で想起されるのは第六天魔王を祀る第六天神社である。第六天神社の分布については関東地方が中心であるが、東北地方や中部地方にも存在している。一方で、長野県および静岡県より以西にはほとんど見られない。
 イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡の中で、織田信長は第六天魔王を信奉し自ら「第六天魔王」と名乗っていたとされる。
 織田氏の出自は、福井県丹生郡越前町(旧織田町)にある剣神社の神職にまで溯れる。剣神社 の主祭神は素戔嗚尊である。信長は素戔嗚の信奉者であったことは有名で、神社仏閣を焼いても、祭神が素戔嗚である神社は焼かなかったので、信長に焼かれないために祭神を素戔嗚に替えて欺いた神社もあったほどだ。

 信長が自らを「第六天魔王」と名乗ったのは、第六天神社に祀られていたのが素戔嗚一家であることを知っていたからであろう。第六天神社は六柱の天王を祀る神社だった可能性がある。素戔嗚が牛頭天王と呼ばれるように素戔嗚一家は天王として祀られていた。
 そこに「魔」を入れて「六天魔王」とし、さらに6柱であったことを隠すために「第」を入れて「第六天魔王」にしたのは、伊勢神宮を皇祖神として祀った中央の祭祀者で奈良・平安時代をかけて改変していったのだろう。

 7世紀の後半、大王(おおきみ)から天皇と名乗りを替え、記紀により天皇家の正統性と正当性を構築するに当たり、この6柱の天王はどうしても消えて頂く必要があったのだ。神々の世界で国譲りをして頂くのは大国主命だけでは済まなかった。

 私はこの消された6柱の中に、八島野尊がいたのではないかと考えた。八島野尊は6世紀に蘇った蘇我氏のルーツに繋がる神であったかもしれない。八島野尊の他の5柱に増しての悲劇は、蘇我氏の本流と繋がっていたからではないか。素戔嗚は新羅あるいはもっと北のモンゴルへのパイプを持っていたようで、早くから鉄器の流通に関わっていたのだろう。それは後の蘇我氏が渡来系氏族の擁護者になることにも繋がる。また鉄の流通だけでなく騎馬民族とも交流し、乗馬の文化を導入したのも出雲族だった可能性がある。素戔嗚の軍が強かったと云われるのは、馬の機動力と鉄器によるものだったのだろう。

 8世紀以降、朝堂は藤原氏に牛耳られる。その藤原氏の正当性は祖である鎌足が中大兄皇子と共に蘇我入鹿を討ったことである。討ったと云っても暗殺である。つまり、藤原氏の大義名分は蘇我氏が悪であることにより成立する。その蘇我氏が大和朝廷創建メンバーに繋がる名門であっては困るのである。 
 稲目 → 馬子 → 蝦夷 → 入鹿 と朝堂の中心にいた蘇我氏であるが、その出自が未だにはっきりしない。氏姓制度がまだ厳しかった6世紀に大臣になるのは、いい加減な家系ではなれないし、まして天皇家の外戚になるためにはそれなりの家格が必要だったはずだ。恐らく馬子、蝦夷、入鹿などの名も本名ではないであろう。同時代の蘇我氏の摩理勢や倉麻呂という名に比べて蔑まれた名のように感じる。
 名門蘇我氏の過去は、その後何代にもわたって繁栄した藤原氏によって徹底的に消され続けた。蘇我氏のルーツに繋がる八島野尊も消されたのであろう。

 藤原氏は中臣氏を傘下に置き、神々を管理させた。また、六国史などの歴史書の編纂には必ず加わり目を光らせた。
 『古事記』や『日本書紀』にも藤原不比等の目が光っていたことは間違いない。この時は特に長男の武智麻呂にこの役目をやらせたようだ。そのために一時、武智麻呂は弟の房前に昇進で抜かれている。房前が先に参議に任ぜられ、武智麻呂に先んじて公卿となっている。それほどこの役目は藤原氏にとって重要だったのだろう。

 901年、菅原道真は藤原時平に讒訴され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され、903年に現地で没した。亡くなった場所には太宰府天満宮が建っている。

 この事件は、朝堂で道真が藤原氏を脅かす存在になったから排除されたというのが一般的だが、私はそれもあるが、道真が歴史書の編纂に関わったことも大きな要因ではないかと考える。
 菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師氏より菅原氏に改めた。土師氏(はじし)の祖は野見宿禰で、天穂日命の末裔とされる。天穂日命は天照大神の子とされ天津神とされるがこれは怪しい。何れにしても野見宿禰は出雲氏であろう。野見宿禰は殉死者の代用品である埴輪を発明したとされる人物で、相撲の達人でもあった。

 古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。その土師氏の末裔が菅原道真であり、出雲氏の血を引く。

 菅原道真は、六国史の一つ『日本三代実録』の編者であるが、『日本三代実録』は左遷直後の延喜元年(901年)8月に完成している。左遷された事もあり編纂者から名は外されている。もちろん編者には藤原時平が加わり目を光らせていた。
 道真は右大臣の位置にあったので、歴史書編纂に当たり宮中にある過去の史料まで自由に閲覧できた。道真の不幸はそのことにより、藤原氏の歴史改竄を知ってしまったことである。学者でもある道真はそれを糺そうと考えた。そのことは藤原氏全体を敵に回すだけでなく天皇家にも影響を与えることであった。

 道真は後世天満天神として祀られることになる。なぜ天神さまなのか? それは道真は土師氏を通して出雲氏に繋がり、出雲の一之宮である熊野大社で祀られる素戔嗚に繋がるからである。

「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ ちっと通して下しゃんせ 御用のないもの通しゃせぬ この子の七つのお祝いに お札を納めにまいります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」
 『通りゃんせ』は、江戸時代に歌詞が成立したと見られるわらべうたで、作詞者不明である。

 ここで私は再び大神神社の御鉾祭に引き戻される。
 大神神社のパンフレットから秋季例大祭の載せる。
『 秋季例大祭 鉾祭
 おほこさま、くるめさまとも言う。
 大神神社は今から約1800年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられるが、鉾祭はその時から始まったと伝わる。大規模なこの神事は現在も当時のままの型を残し近郷にない珍しい祭である。
 毎年11月23日(勤労感謝の日)を軸に3日間(戦前は1か月、戦中は10日、戦後は3日)となる。
 境内にお仮屋(お旅所)を作り、御神体のお鉾を出御し、中の日におひもとき、還御祭、最終日に翌日祭があります。
 秋季例大祭は大勢の来賓をお招きして行われます。翌日祭終了後、年番の受渡しの行事がある。ドブロクを9合入りの大盃(木盃)で78枚の呑み分けが出来るまで続ける。(昔は関東三奇祭の一つと言われた)
 この祭の主役はくるめさまという初潮を見ない少女で、神に仕える大切な役をします。いつの頃からか、花見ヶ丘蓮華寺に伝わる大蛇得度の伝説の中で大神神社の社司の一人娘が人身御供にされたことからか、くるめさまが人身御供と伝わってしまったようである。
 親鸞上人(1173〜1262)の室八嶋滞在の時に出来たらしい。
 当地境内地には親鸞上人草庵のあと、弓削道鏡に関連した所もある。 』

 親鸞上人(見信大師)は思川岸の大蛇済度伝説で有名だという。

 私は「くるめ様」から、福岡県の久留米を連想してしまった。ここには水天宮があるし隣の八女には八女古墳群や岩戸山古墳などがあり古代豪族磐井の本拠地とされる。また、宗像三女神にも鉾にも繋がる。

 『通りゃんせ』の歌詞にある、“この子の七つのお祝いにお札を納めにまいります 行きはよいよい帰りはこわい こわいながらも通りゃんせ通りゃんせ ”が気になる。
 七つになった子は女の子であろう。日本の神まつりの闇は深い。


 菅原道真は太宰府や京都など縁の場所だけでなく、全国で祀られた。道真が全国的に知られていた訳ではない。道真が知られていたのは京や太宰府や国司として赴任した土地の人ぐらいであろう。
 なぜ道真は全国で爆発的に祀られたのだろう。
 それは、道真が没した時代にはまだ全国で出雲神こそ日本の中心の神であることが知られていたからである。道真を祀ることに託けて、素戔嗚やその一族をも祀ったのであろう。

 道真は太宰府に流された。天皇家の女子を治療した玄ムは筑紫観世音寺に流され、弓削道鏡(物部弓削連)は下野薬師寺に流された。玄ムも道鏡も宮中に出入りが自由だったので、古い歴史史料を見て天皇家の秘密を知ってしまったのかも知れない。そして、古代の大豪族物部氏に繋がる弓削道鏡は、法王だけでなく称徳天皇から天皇の位を譲られてもよいと考えたのかもしれない。
 天皇家の存続のために女性宮家の創設が議論されているが、天皇家の女性に近づく男性が不幸にならなければいいのだが……。



 鉄器を持った稲作の民として、出雲族は東国へ進出したのであろう。彼らは土木工事をした。古墳も造った。
 地球規模の気候変動はあり、平安時代は温暖期だったが、古墳時代は寒冷期だったとされる。寒冷期には食料の確保が難しくなる。従って、稲などの食糧を溜め込んでいる側と、それを分けて貰う側の地位の格差が広がる。つまり与える側は与えられる側を奴隷のように使役することができる。大きな古墳を造営する労働力はこのようにして生まれたと解く研究者もいる。

 古墳時代の寒冷化に伴い、北海道の道央や道南地方を中心に栄えていた続縄文文化の担い手が東北地方北部を南下して仙台平野付近にまで達し、西南日本から北上して来た古墳文化の担い手と接触・交流していたことが、考古学的に明らかとなっている。

 関東地方ではこれより早く古墳時代がおとずれたようだ。北関東や福島県辺りまでは、記紀で云う崇神天皇の時代には、古墳時代に入っていたのではないか。
 神々の世界でも出雲族は天孫族よりも蝦夷との関係は古く良好であったと考えたい。
 その出雲族の一派である蘇我氏が中央で復活した。
 
 継体天皇の子である宣化天皇の時に蘇我稲目が大臣になっているから、蘇我氏は継体天皇と一緒に北陸辺りから中央へ返り咲いたのかもしれない。宣化天皇の母が尾張目子媛(尾張連草香の女)であるから、尾張から中央へ出て行った可能性もある。何れにしても継体天皇がらみだったのだろう。

 戦国時代に素戔嗚の化身が現れた。織田信長である。彼が天下を取ることを一番恐れたのは、武家ではなく公家の藤原氏だったのだろう。「天下布武」を掲げる第六天魔王である信長は、旧来の権力を全否定する。もし、信長が天下統一を果たしていたら、彼は日本国の天王になったことだろう。その時には天皇は天王の陰に静に消え入るか、天上に帰るか、冥界に消えるかしかなかったのであろう。


 昭和天皇は「人間宣言」して現人神(あらひとがみ)であることを否定したとされるが、以前その詔書を読んだことがあるが、どこが人間宣言なのかさっぱり分からなかった。
 今上天皇のことを神だなどと思っている日本人はいない。昨今、天皇の譲位が話題になっている。神なら引退できないが、人間なんだから引退させてあげて、楽にしてあげたらいいのに、ということで国民の意見は一致しているようだ。

 今の天皇は日本国及び日本国民統合の象徴だという。何が象徴だかよく分からないが、象徴の誕生日が国民の祝日で休日になるのは嬉しいことだ。男女平等の世の中である。天皇が象徴ならそれを支える皇后も象徴でもいい。皇后の誕生日も国民の祝日で休日にしたらどうだろう。
 昭和天皇の誕生日が「昭和の日」として国民の祝日で休日になっている。平成天皇が譲位して上皇になったら、上皇が崩御するまでは「平成の日」として国民の祝日で休日にするべきであろう。上皇の誕生日も祝ってあげたいではないか。本音は休日がほしいのですが……。

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コメント(14件)

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栃木市の大神神社は、1890〜1900年に創建された神社です。

それまでは、木花咲耶姫を主祭神とする「室の八島大明神」「惣社大明神」あるいはそれらに類似する名前の別の神社でした。

ここで、神社名に付く「室の八島」「惣社」というのはだいたい同じ場所を意味する土地の名前で、この神社の神はそこの鎮守神でした。


八島 守
2017/07/04 13:36
「惣社」という神社名は、鎌倉時代以降江戸時代までずっと見られるので「惣社大明神」が下野国の惣社だったと思われます。

「惣社」になる前の事については、史料が無いので全く分かりません。
八島 守
2017/07/04 13:43
延喜式神名帳にある「下野国都賀郡 大神社」は、その後歴史から消えますので、どうなったかは全くわかりません。

八島 守
2017/07/04 13:46
大神神社の社伝は、1900年に創建された際にでっちあげられたものですから、奈良県の大神神社と繋がりが有る訳がありません。

八島 守
2017/07/04 13:55
[奥の細道]で
曾良が話したのは、記紀神話ではありません.芭蕉等が訪れる数年前に吉田神道から押し付けられた、この神社の由緒・縁起です。
曾良は内容をメモして江戸から持参し、芭蕉に読んで聞かせたんです。

記紀神話の木花咲耶姫が富士山の神であるわけないでしょ。
無戸室で生まれたのが、ヒコホホデミノミコト1柱たけであるわけないでしょ。
八島 守
2017/07/04 14:15
木花咲耶姫が「室の八島の大明神」の祭神になるのは1680年代です。
芭蕉らが訪れる数年前です。

その前は、江戸時代が始まる頃以降ヒコホホデミノミコトでした。
だから[奥の細道]に前の祭神の名前が登場してきてるんです。


八島 守
2017/07/04 14:24
では「ヒコホホデミノミコト」がなる前のこの神社の祭神は?
「室の八島大明神」「惣社大明神」という本地垂迹時代の神です。これらは元々神の名前です。

じゃあ、その前は?
下野国の惣社でしたので、神社固有の神は存在しません。

ということで、この神社の代々の神は全てわかります。

八島 守
2017/07/04 15:43
[奥の細道]や「下野風土記」にあるコノシロの話の元になったのは、[室町時代物語]にある[浅間御本地御由来記]です。

[浅間御本地御由来記]の前半は、木花咲耶姫が富士山の神になる前の、姫の故郷である下野国の室の八島での出来事が書いてあります。それが[下野風土記]に書かれてるわけです。


八島 守
2017/07/04 16:10
[神道史大辞典]からの引用 その1

「[古事記][日本書紀]・[風土記]などに、その祭神名が記されているのは、伊勢・ 大神(おおみわ)・松尾・住吉・宗像(むなかた)・鹿島・香取など特殊な場合に属し、 [三大実録]でも浅間神・弥彦神・大鳥神・小国神などと記し、それぞれで現在称されて いる神名を記していない。
八島 守
2017/07/04 16:12
[神道史大辞典]からの引用 その2 続きの文

[延喜式神名帳] にみられる・・・も、大半はその地名を冠した土地神的な神名(註)で、日本神話(記紀神話の こと?)中に語られる神名の社は少ない。多くの神社で、その祭神を、中央神話(これも 記紀神話のこと?)で語られる神名にあてて称するようになったのは中世以降のこと(江戸時代前期と明治時代)とみられ、ことに明治以降そのようにさせられてきた。」

(註)「栃木神社」と有ったら、それは「栃木神」という土地の名前を冠した神の社を意味する。

「室の八島大明神」「惣社大明神」などは、この土地神名が神社名に変わったものです。
神田明神と同じです。


八島 守
2017/07/04 16:27
「コノシロを焼くと死体を焼く匂いがする」と言うのは、中 国の秦の始皇帝の故事から来たようです。

始皇帝が真夏の旅先で亡くなった際、その死を 隠すために車に積んだ始皇帝の棺にコノシロを一緒に詰め、その腐臭で死臭をごまかした そうです。決してこの魚を焼くと人を焼く臭いがするわけではありません。

この魚 食べるとおいしいんですが、小骨が多くて食べにくいんです。
そこで、三枚に卸して酢水に一晩漬けておくと小骨がきれいに溶けて(?)無くなってしまいます。やったことあります。

寿司ネタのコハダが酢じめされているのは元々はこういう目的だったんじゃないかと思います。



八島 守
2017/07/04 16:48
「下野や室の八島に立つ煙 思ひありとも今日こそは知れ」

室の八島の煙が「恋の煙」という架空の煙であることは、大学などで室の八島の和歌を勉強された方は皆さんご存知のようです。
八島 守
2017/07/04 16:56
古墳の分布状況から見て、古墳時代の集落の中心は思川の東側に在ったんじゃないかと思われますが、なぜ国庁と惣社が思川の西に在ったんでしょう?

なんか見解はございますか?
私にはさっぱりわかりません。
八島 守
2017/07/04 18:18
 旅人が書く気ままなブログですが、しっかり読んでコメントを寄せて頂き有難うございます。
 過去ブログを訂正することは時間がなくて、なかなか出来ませんが、歴史の専門家ではないので、ご容赦ください。 

 「八島 守」というペンネームからも、「室の八島」の真実を伝え守りたいという思いや「室の八島」への愛着が伝わります。いい加減な記事には黙っていられない気持ちもよく分かります。
 
 もしよければ、「室の八島」のページを作って公開して頂ければ、リンクを張りたいと思います。
 「室の八島」のページを作ることがあれば、お知らせ下さい。  
ハッシー27
2017/07/08 16:13

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旅 657 大神神社( 栃木市)(2) ハッシー27のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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