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zoom RSS 旅 658 仏生寺

<<   作成日時 : 2017/04/19 13:27   >>

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2016年 6月7日
仏生寺

 大神神社(栃木市惣社町)から東に車を走らせ、田川、鬼怒川、五行川、小貝川と渡った。小貝川を渡ると田園地帯である。茨城県との県境に近い八溝山地の麓に仏生寺はあった。

 仏生寺(ぶっしょうじ)は、栃木県真岡市南高岡にある真言宗豊山派の寺で、本尊は薬師如来である。日光山を開山した勝道上人の生地に建っている。
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現地説明板より
『 仏生寺の由来
 衍応山勝道院仏生寺と号し、真言宗豊山派で、日光山の開山で知られる勝道上人生誕の地であり、上人の開基と伝えられている。
 本尊は薬師如来坐像(県指定文化財)で、その高さ81.5cm、脇侍日光・月光両菩薩(市指定文化財)は約82.5cmであり、寺伝によれば共に勝道上人の作であるという。

勝道上人産水の池
 勝道上人は天平7年(735)南高岡の仏生寺境内で生まれ、幼名を藤糸丸といった。
 仏生寺参道から東南200m先の山沿いに、上人の産湯に使ったという「勝道上人産水の池」が残っている。
 傍らに「勝道上人霊」「誕生水」と刻まれた石塔と灯篭が置かれ、静かなたたずまいの中に往時をしのばせている。  』 
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 山門の両脇に大きなケヤキがあった。
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 このケヤキは栃木県指定天然記念物に指定されていて、樹高約28m、目通り幹囲5.5m、推定樹齢700年だという。
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現地説明板より
『 栃木県指定史跡 日光開山勝道上人誕生地(昭和32年8月30日指定)
 上人は、天平7年(735)7月、芳賀郡大内庄高岡(現真岡市南高岡)字卯ノ木花錫状嶽の麓(現真言宗仏生寺境内)で生まれた。(父 下野国府の次官若田高藤介、母 芳賀郡高岡吉田主典の娘明寿)
 上人は幼名を、藤糸丸と称したが、幼い頃から仏心厚く20歳の時出流(いずる、現栃木市満願寺)の洞窟に籠もって修行し、のちに薬師寺(下野市)に至り、5年間、この寺で修行し、名を改めた。後に日光山に入り苦行を積み重ね、日光山内に四本龍寺を建立し次いで中禅寺湖畔に二荒山神社奥社を祀り、立木観音堂を建立、山岳信仰の基礎をつくった。 
 栃木県教育委員会・真岡市教育委員会  』
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 薬師堂(勝道院)は真岡市指定有形文化財で、寛保2年(1742)に再建されたもので、三間四面、宝形造り、銅板葺きで内部には本尊である木像薬師如来坐像が祀られている。
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 帰りに天然記念物のケヤキをもう一度見たが、存在感がある。樹齢700年だとすると勝道上人(735〜817)が亡くなってから500年後に植えられたものだ。
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 ケヤキ越しに見る風景は、のどかな田園で、勝道上人が生まれた頃とそれほど変わらないのではないかとさえ思われた。
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 日光に東照宮が造られたことによって、日光山の開山である勝道上人は有名になった。勝道も800年後に東照宮ができ、自分がこれほど有名になるとは思いもしなかっただろう。

 説明板には、「勝道は20歳の時、出流(いずる、現栃木市満願寺)の洞窟に籠もって修行し、のちに薬師寺(下野市)に至り、5年間、この寺で修行し、名を改めた。」とある。
 勝道は、762年(天平宝字6年)下野薬師寺の如意僧都に師事して沙弥戒・具足戒を受けている。

 道鏡は、770年に下野薬師寺に左遷され、2年足らずで亡くなっているので、勝道(735〜817)と道鏡の接点はあったのかは分からないが、都から法王にまでなった僧が来たのだから話題になったことは確かであろう。道鏡の講義を勝道が受けた可能性は否定できない。

 道鏡の父は、下野国府の次官であった下野介・若田高藤とされる。若田氏は、『補陀洛山建立修行日記』では、垂仁天皇の第九皇子で、下毛野国「室の八島」に移住した巻向尊の子孫であるとされ、『日光市史』では、上野国片岡郡若田郷から東に移った一族とされている。
 「室の八島」のある大神神社には、道鏡が当社で講義をしたという伝承が残っている。


 弟子たちが書いた『補陀洛山建立修行日記』によると、なかなか子供ができなかったので、父母が伊豆留(現、栃木市出流町)の千手観音に祈願してできた子が勝道(童名、藤糸)だとされる。
 勝道は、765年(天平神護元年)には出流山満願寺(栃木市)を開創している。


 勝道の宗風については、当時の関東に鑑真の系列にあたる道忠の天台教団があったほか、朝鮮からの渡来人を通じて華厳の教えも広まっていたことから、天台宗や華厳宗などの一仏乗の流れを汲んでいた可能性があるという指摘がある。

 勝道の下野薬師寺(戒壇がある)での師である如意は、鑑真と共に海を渡った高弟のひとり如宝だとされる。また、指導を受けた恵雲も鑑真と共に海を渡った高弟の慧雲である。
 勝道が、鑑真の高弟である如意、道忠、恵雲の影響を受けなかったわけはなく、鑑真の門流に連なっていたことは確かであろう。

 鑑真は中国から戒律や天台宗をもたらした。後に天台宗の日光山輪王寺が創建されることや「華厳の滝」の命名から、勝道が天台宗や華厳宗などの一仏乗の流れを汲んでいたことは間違いない。
 そもそも一仏乗(一乗)は、大乗仏教で「仏と成ることのできる唯一の教え」とされるのだから当然と言えば当然だ。日本に入ってきた仏教は大乗仏教と考えてよい。

 六地蔵をよく目にするが、六地蔵は六道においての守護仏である。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、 人間 、天上を指す。よく「餓鬼道に落ちる」とか「修羅場と化す」などの言葉につかわれる。

 天台宗の教学では、この六道(六界)の上に更に4界を設け、人間の心の境涯を次のような十の世界(十界)に分ける。
地獄  餓鬼   畜生  修羅   人間  天上  声聞  縁覚  菩薩  仏
 こうしてみると、一番上の仏に成る(成仏)ことは難しそうであるが……。

 更に六界の上にのせた、声聞、 縁覚、 菩薩、 仏 を「声聞・縁覚」と「菩薩・仏」に分け、「声聞・縁覚」を小乗の教法として二乗と呼び、「菩薩・仏」を大乗の教法として一乗と呼ぶ。
 「乗」は衆生を乗せて仏果に運ぶ教法の意である。声聞・縁覚・菩薩を三乗と呼び、人間界から菩薩界までを五乗と呼ぶこともある。一乗は、二乗・三乗・五乗の教法に対する語である。
 具体的には、『華厳経』、『法華経』、『浄土三部経』、『涅槃経』などが一乗を明確に打ち出した経典とされる。

 天台宗や日蓮宗は『法華経』を根本経典とする宗派である。浄土宗は『浄土三部経』(「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」)を根本経典とする宗派である。こうして見ると日本天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、時宗などはルーツを同じくする。
 エルサレムを聖地とするイスラム教、キリスト教、ユダヤ教も、ルーツを同じくするのだろう。「教え」でも「信仰」でも、枝分かれして同じ根から養分を奪い合うとき熾烈な競争が始まるのだろうか。
  

 勝道は782年(延暦元年)に、日光山の登頂に成功して、日光山を開山したとされる。795年(延暦14年)以降に上野国講師に任じられ、上野国分寺に滞在した。
 勝道は下野薬師寺で修行したり、上野国講師に任じられたことから、単なる修験者ではなく、官僧であったことが分かる。
 807年(大同2年)の旱魃に際しては日光山で祈雨を修法し、その功により伝灯法師位を授けられた。

 上野国分寺の北東にある赤城山には、勝道が開山したという伝承がある。上野の赤城山と下野の日光山を開山したとなれば、勝道の関東仏教界での影響力はただごとではない。
 勝道は、下野国都賀郡城山に精舎を建立するなどしたが、この「精舎」は現在の栃木県栃木市都賀町木に史跡が残る「華厳寺」に比定されている。

 私が勝道について注目するのは、彼が日光で弟子たちに深沙大王と明星天子の両神への信仰を説いたことと、なぜ祈雨の修法を日光山で行ったかである。そのことは日光二荒山神社を訪れた時に詳しく調べてみたい。

 勝道は国府に赴任していた下野国の博士の伊公(伊博士)を介して、空海に日光山について文章の作成を依頼し、814年(弘仁5年)に空海が『勝道碑文』を作成した。
 勝道は816年(弘仁7年)4月、日光山山頂に三社権現の社を建立。817年(弘仁8年)、四本龍寺(輪王寺の前身)の北にある岩窟にて、83歳で死去した。空海が『勝道碑文』を作成した3年後のことであった。

 勝道については、その存在を裏づける山頂の遺跡が発掘されており、当時の修行者としては、史料と物証との両面から考察できる点で非常に稀とされる。山頂遺跡の出土品からは、勝道に有力な支持者がいたことが推測されるという。それは朝廷であろう。前にも記したが勝道は単なる修行者(修験者)ではなく関東の官僧界では有名人だったと思う。

 十一面悔過、千手悔過、薬師悔過などは大寺院だけでなく山林でも行われていた。勝道が日光山の山頂で行ったのは悔過会だったのではないか。それは千手悔過会だった可能性がある。
 中禅寺の寺伝によれば784年(延暦3年)、日光山の開祖である勝道上人が船で湖を遊覧していた際に、湖上に千手観音の姿を感得し、桂の木に立木のまま千手観音像を刻んだ。この「立木千手観世音菩薩」を本尊として、中禅寺が開かれたとされる。
 日光とは、補陀洛 → 二荒(ふたら) → 二荒(にっこう) → 日光 と変化したもので、補陀洛(ふだらく)はサンスクリット語potalakaの音写であり、観音菩薩が鎮座します霊山をいう。


 道鏡の墓と称するものを守っている龍興寺の飛び地境内には二月堂があり、往時には十一面悔過会が行われていたようだ。

 日光山山頂の遺跡から僅かだが古墳期のものとされる遺物が出ているので、勝道が修法を行う前から祭祀場であったのだろう。

 良弁(初代東大寺別当)が開基とされる雨降山大山寺(755年創建)の本尊は、鉄造不動明王(重文)である。大山頂上で良弁が感得したのは石像の不動明王だとされるが、他説では十一面観音であったとされる。東大寺の二月堂で行われる修二会は十一面悔過会である。
 大山の山頂付近での発掘調査により、縄文時代後期の土器片、古墳時代の須恵器・土師器などが発掘されている。このため、信仰開始の時期はかなり古い時代にまでさかのぼることができると推定されている。

 良弁(689〜774)は奈良時代の華厳宗の僧である。良弁は聖武天皇の看病禅師も務めており、天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられている。因みに道鏡は孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の看病禅師であった。

 東大寺は全国の国分寺の総本山である。勝道(735〜817)は、795年(延暦14年)以降に上野国講師に任じられ、上野国分寺に滞在したことがある。もし、良弁が755年頃に大山寺を創建するために相模国に来たのであれば、若き勝道は出向いて華厳経について教えを受けていたことも考えられる。
 
 仏教は奈良時代から平安初期にかけてはまだ、朝廷、貴族、豪族、渡来系氏族の間で信仰されていたものであろう。義淵、鑑真、行基、良弁、道鏡、玄ム、徳一、最澄、空海など、それぞれの人生ドラマを演じながら必死で仏教勢力を拡げようと頑張っていたのであろう。
 今、全国の僧侶の数は約95000人だという。その家族を合わせれば40万人ぐらいになるのだろうか。仏教伝来から約1500年。現在、約40万の人が、時代の中で多くの僧侶たちが築き上げ伝えてきた形式や風習や既得権の恩恵に与っている。もちろん、檀家や信徒に奉仕している代償ではあるのだけれども……。

 平安時代後半からは菩薩戒などのみを受持する宗派では、肉食妻帯は菩薩戒の上では自律であって他より処罰される他律対象ではないとの主張が容認されるようになった。
 僧侶が肉食妻帯できるようになったのは親鸞(1173〜1263)以降のようだ。その意味では現在のお坊さんは親鸞に感謝しなければならないが、親鸞が飲酒を許可したかは分からない。

 空海や勝道は山野で厳しい修行をしたとされるが、この時代、女犯(にょぼん)という言葉があるように、僧侶が妻帯することなど以ての外であった。
 女犯とは、僧が戒律を破り、女性と肉体関係をもつことである。だから律(具足戒)では、僧侶に対して異性との接触は無論、性的関係を持つことを現在も一切認めていない。
 勝道は、762年(天平宝字6年)下野薬師寺の如意僧都に師事して沙弥戒・具足戒を受けているので、女犯とは遠い境涯で厳しい修行をしていたのであろう。
 形式的には1872年(明治5年)に太政官布告133号が発布されて僧尼令は廃止され、僧侶の肉食妻帯はこの布告をもって自由であるとされる。

 鎌倉時代以降の仏教はともかく、奈良時代から平安時代前期の仏教を今と同じような視点で捉えるのは適当でないことだけは言えそうだ。

 仏教だけでなくカトリックでも、神に仕える者の戒律は厳しい。
男性修道者には、司祭叙階を受けた修道司祭と、受けていない修道士がいて、後者への呼称を英語ではブラザーと言う。
 司祭叙階は男性のみとなっていて、修道女に司祭叙階を受けた人はいない。修道女への呼称がシスターで、マザーというのは指導的立場にある修道女への敬称で正式呼称ではない。マザー・テレサが有名だが、今ではマザーという呼称はつかわれていない。
 司祭には、修道司祭と修道者でない司祭(教区司祭)の二種類があるそうだ。 司祭への呼称は、神父(英語ではファーザー)であるが、神父というのは位階名ではなく、司祭叙階された人への呼称である。
 修道院は、「信徒団体」というより、「修道者」の共同体だという。
 修道士は、修道誓願(清貧・貞潔・服従の三つの誓い)を行い、禁欲的な修道生活を送る人々のことで、ブラザーもシスターも結婚しない。従って、本来ファーザーもマザーも父にも母にもなれない人である。
 仏教でもキリスト教でも神や仏に仕える者の生活は厳格であったのだ。


 聖心女子大学の創立は1916年で、 1800年にフランスに設立された女子修道会「聖心会」を母体とし、世界42カ国に170校の姉妹校を持つ。現在の聖心会総本部はイタリア・ローマにある。今上天皇皇后美智子さんの出身大学としても有名である。

 シスターで日本近代文学研究者の鈴木秀子さん(1932〜)は、 聖心女子大学の卒業生で後に聖心女子大学の教授にもなった人だが、彼女が入学した頃はマザーもシスターもほとんど外国人で、授業も全部英語だったという。
 鈴木さんの談では、夏休みに3ヶ月英語のできない人のための特訓コースがあり、朝から晩まで少人数の授業を受けて、それで聞くことだけは大分できるようになったという。
 昭和9年(1934)生まれの皇后美智子さんは鈴木秀子さんより2歳年下であるから、やはり授業は全て英語だったのだろう。

 鈴木秀子さんが聖心女子大学に入学して一番驚いたことはシスターたちが挨拶以外何も喋らないことだったという。

 鈴木秀子さんの談を続ける。
『 学長さんだけは必要な学生を呼んで話したりしますが、マザーやシスターはいつもにこやかにしているだけで、何も喋らない。だから初等科から来ている人に「あの人たちはどういう人?」と訊いたら、「16歳くらいで国も捨てて修道院に入って、日本のために働くために来た人たちだ」って。だけど、働くだけで何も言わないから、日本語を覚える必要もないのです。
 とにかくマザーもシスターというのは、私にとって神秘的な存在でした。絶対に人の前では話さないし、水を飲んだりもしない。人間的なことは何もしないのです。だけど、例えば英作文のテストなどがあると、私が提出した解答が赤い字で丁寧に直してある。直し方が本当に徹底しているんですよ。授業もとても親身で、学生のことを心から考えてくれているということを強く感じました。
 私は中学1年の夏休みに終戦を迎えたんです。すると、それまで「神社の前ではお辞儀をしなければいけない」などと言っていた先生が、終戦を境に墨で教科書を塗りつぶして、「今でも神社にお辞儀をしているバカがいる」なんてことを言い出すのですね。価値観の大転換を体験しました。信じられるものは何もないという感覚で、心に穴が開いたように感じていたのです。
 ところが聖心の初等科から来た人たちに聞くと、「シスターやマザーは何も変わらなかった」と言います。戦争中、彼女たちの中でもドイツ人は残れましたが、アメリカ人やイギリス人はみんなキャンプに連れていかれました。だけど、終戦になってキャンプから帰ってきたときも、以前と同じようにニコニコして、キャンプでの辛い生活のことなどいっさい言わない。何事もなかったかのように、一貫して同じことを続けていたというのです。
 すごく驚きました。私は尊敬していた先生たちが一夜にして変わり、それまで一番大切にしていたものをあざ笑うような価値観の大転換を経ていました。そういう体験ばかりしてきたのに、この世には一貫して変わらないものがあるというのは、私にとって本当に大きな驚きでした。憲兵が来ようが、終戦になろうが変わらない。それでアメリカが勝ったのだから、勝ち誇ったように戻ってくるかと思ったら、そんなことはない。とにかく「あの人たちは変わらない」と言うのですから。
 それを聞いたとき、驚きとともに、そういう生き方の根底には、やはり神という存在がないはずはないと思いました。あの人たちは神様のために生涯を捧げ、日本人を神様の子どもとして愛し抜いている。神様のためにすべてを捨てることができるのだし、神様があるからこそ、どんな境遇の変化が起こっても価値観が変わらない、一貫した生き方ができるのだと。神様とはそういう存在なのだと。 』

 鈴木秀子さんが聖心女子大学へ入学したのは偶然だった。両親の入学条件は大学の寮に入ることだった。最初は東京女子大の英文科に入るつもりだったが、寮が満員で入れなかったので、寮に入れる聖心にしたのだという。

 
 私の父は、大腸癌がもとで亡くなった。手術をしたが、再発転移した。80歳を過ぎていたので、最後はキリスト教系のホスピスでターミナルケアを受けた。終末医療である。
 父が亡くなって遺骸を家に運ぶ前、ホスピスに付属のチャペルで簡単なお別れ会が行われた。神奈川に住んでいたため、長野のホスピスに見舞いに行くことも少なかった私が肩を落としているのを見て、父を看護してくれたナースが私の所へ来て次のように慰めてくれた。
 「生前お父様は、自分の息子は神奈川県で小学校の先生をやっているんだと自慢げに話しておられました。」
 その一言で私は救われた。父の葬儀は仏式で行ったが、本当の葬儀はホスピスでのお別れ会だったのかもしれない。

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