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zoom RSS 旅 659 高田山 専修寺(1)

<<   作成日時 : 2017/04/25 11:52   >>

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2016年 6月7日
高田山 専修寺(1)

 仏生寺(勝道上人生誕地)から西へ3kmほど走り小貝川を渡ると専修寺がある。
栃木県真岡市高田にある専修寺(せんじゅじ)は、浄土真宗開祖の親鸞が開いた寺である。
 親鸞は越後流罪の後、42歳で常陸国稲田に移って布教にあたり、真岡の大内氏懇請で1225年(嘉禄元年)ここに一宇を建てた。
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現地説明板より
『 史跡専修寺境内
真岡市高田1482番地
境内面積464アール(14036坪)
昭和42年7月6日 国指定
 親鸞は承元元年(1207)法難にあって越後国に配流されたが、5年ののち罪を許されて関東に入り常陸国稲田に滞在、布教の為この地に巡錫されたとき大内氏一族の懇請によって一宇が造られたのが専修寺の始まりと伝えられている。
 信州善光寺感得の一光三尊仏を本尊とし、のち真仏(二代)さらに顕智(三代)にうけつがれ、東国における初期真宗教団の根本道場として隆盛をみるに至った。
 寛正6年(1465)真慧(十代)は、伊勢一身田に専修寺をつくり本山としたので、以来この土地は下野国旧本山と称されるようになった。
 御影堂、如来堂等その大半は江戸時代の再建にかかるものである。後堀河天皇(第86代)勅願所としても世に知られている。 』
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 この欅は県の天然記念物で樹齢800年といわれる。親鸞聖人のお手植えとされる。
 仏生寺(勝道上人生誕地)の欅(推定樹齢700年)も立派だったが、この欅も負けてはいない。
 実は、この樹高16m、幹周5.2mの欅は、親鸞聖人のお手植えとされた為、樹齢800年といわれるが、推定樹齢は600年であるようだ。
 仏生寺の欅も以前は勝道上人のお手植えとされていたが、さすがにそれは無理なので、今は推定樹齢700年とされている。


 国重文の総門があった。
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現地説明板より
『 重要文化財 建造物 総門
昭和56年6月4日国指定
 親鸞上人によって建立された専修寺の伽藍は嘉禄2年(1226)にととのったが、その後2回の火災によりほとんどの建物が失われました。
 この総門は唯一残った草創当初の建物と伝えられている。
 現在境内の建物のうちで最も素朴で萱葺の薬医門である。
 昭和56年12月 真岡市教育委員会  』

 上から貼られて「真岡市教育委員会」になっていた。2009年に合併して真岡市になったが、それまでは芳賀郡二宮町高田であった。町名は二宮尊徳にちなむ。二宮尊徳は下野国芳賀郡桜町で報徳仕法を行った。

 土屋文明は、この総門に次のような歌を残している。
「 ただ一つ残る古へは草葺く門 つつましやかにここに興りし 」


現地説明板より
『 国指定史跡 専修寺 境内
 親鸞は承元元年(1207)法難にあって越後国に流されたが、5年で罪を許されたものの、しばらくは越後にとどまり、のち関東へ移った。親鸞の関東滞在中のことは、あまり明らかではないが、下野高田の専修寺は真岡城主大内氏の懇請によって一宇が造られたのに始まると言い伝えられいる。
 親鸞と専修寺の関係を直接示す史料はないが、親鸞と下野の門徒との関係は、その消息によって知ることができる。専修寺は真仏さらに顕智によって受け継がれ、関東地方における初期の真宗教団の中心となった。その後、寛正6年(1465)真慧は伊勢一身田に専修寺をつくって本山とした。
 なお、ここより東 約3km、八溝山地の西麓に国指定史跡 三谷草庵がある。親鸞が稲田(現笠間市)から最初下野に入った時、真岡城主大内氏から草庵として提供されたものといわれる。 』
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専修寺の栞より
『 親鸞聖人と専修寺
 親鸞聖人は、42歳ごろから約20年間、関東各地を行脚して専修念仏を広められました。わが下野国高田の地へ来られたのは、聖人53歳のときであったと申します。そしてこの地に多くの門弟が育ち、それらの人々の懇望によって、ここに一堂を建立し、長野の善光寺から一光三尊仏をお迎えして、本尊とせられました。これが専修寺の草創です。
 当寺を中心とした門弟は「高田門徒」と呼ばれ、真宗最大の教団でしたが、戦国時代に兵火によって焼失するなどの事があって衰退し、教団の中心は伊勢国一身田へ移ってしまいました。江戸時代になってようやく復興したのが現在見る姿で、高田派ではここを「本寺」と呼んで尊んでいます。国からは「親鸞聖人の宗教遺跡」として、史跡に指定されると共に、諸堂も国の重要文化財に指定されています。 』
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現地説明板より
『 重要文化財 建造物 楼門 
 総門と如来堂との軸線上に建っているこの楼門は、元禄年間(1688〜1703)の建築である。
 「高田山」の扁額は前天台座主一品公猷親王の筆である。
 昭和56年12月 真岡市教育委員会  』
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現地説明板より
『 重要文化財 建造物 如来堂
昭和56年6月5日国指定
 如来堂は寺伝によれば、創建時からの建物となる。今の御堂は元禄14年(1701)の再建といわれていたが、平成11年の調査で延享元年(1744)に再建されたものと明らかになった。
 屋上には菊の紋章が掲げられており、向拝の上の大きな千鳥破風があり、周囲に縁高欄を回すなど精巧を極めている。
 また礎石には巨大な自然石が用いられ、建立時のものと伝えられている。
 このお堂は善光寺伝来の秘仏、一光三尊仏を安置するためのお堂であり、17年に一度ご開帳されるが、平素は御前立の三尊像のみが拝される。
 桁行 五間   梁間 五間  入母屋造銅板葺
 平成21年5月 真岡市教育委員会  』

 屋上の菊の御紋は、聖人がお堂の完成間近になった嘉禄2年(1226)正月15日、門弟である真仏房(18歳)を名代として上洛させ、後堀河天皇に勅願寺として「専修阿弥陀寺」の勅号をいただき菊の御紋をつける事を許された。現在は「阿弥陀」をはずして「専修寺」と呼ばれている。「専修寺」の名の由来は浄土系宗派の特徴である専修念仏に基づくとされる。

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 如来堂の正面の欄間の中央に彫られているのは馬に乗った聖徳太子だという。また、その右は梵天、左は帝釈天だそうだ。
 更に右欄間には多聞天、持国天、左欄間には増長天、広目天が彫られ、四天王が本尊を守っているという。
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 善光寺の本尊は絶対秘仏で誰も見たことがないので、無いのと同じである。その意味では17年に一度ご開帳される一光三尊仏が今では善光寺仏であると言ってもいいのかもしれない。本尊は普段は如来堂の奥の金庫内に安置されているそうだ。
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 善光寺には親鸞像がある。親鸞は1211年39歳の時、越後から東国への旅の途中善光寺へ参詣した。その時、花松を差し上げたという。親鸞は太子と阿弥陀如来の崇拝者として有名だ。親鸞が止宿した堂照坊は、中衆の上の諏訪武井の社人だ。 堂照坊には逗留中に抜けた親鸞の歯も保管されているという。


 如来堂建立の翌年には、朝廷から「専修阿弥陀寺」という勅願寺の綸旨を受け、親鸞の教化活動は遊行から本寺中心に変わり、建立後約7年間この寺で過ごしたとしている。このように、本寺は東国における初期の浄土真宗の教団活動上重要な役割を果たした寺である。

 専修寺の庫裡には親鸞や浄土真宗関係の書籍や専修寺関連の本が売っていた。その中で『真宗念佛のふるさと 本寺 高田山専修寺』という安い小冊子を買った。
 その中から、「聖人創建の御堂 高田建立」と「聖人感得の本尊」「三国伝来・天拝一光三尊像佛」を載せる。

『 聖人創建の御堂 高田建立
 元仁2年(1225)、親鸞聖人53歳の正月8日のことでした。だだ一人、稲田の草庵(茨城県笠間市)を出立された聖人は、どういうお心であったのでしょうか、下野国(栃木県)芳賀郡大内庄の柳島という所に来られました。日はすでに暮れて、人家もなく、宿をとる所とてありません。止むなく聖人は一枚の平石の上にうずくまって、念仏して夜を明かされました。
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 明け方の明星が出ようとする頃、突然、一人の童子が現れて、
 白鷺の池のみぎりには、一夜の柳枝青し
 般舟の磐の南には、佛生国の種生いぬ
と歌って北方へ去ろうとするので、「あなたはどういうお方ですか。ここにはどうしてお出ででしょう?」と問いかけると、
 「私は明星天子、あなたに寺院建立の聖地を教えようとして来たのです。この柳島は、昔、お釈迦さまが来られて説法なさった聖地。それ以来、衆生済度の地となることが待たれていたのです。師よ、早くここに寺院を建てて、これをお植えなさい」と、手に持った柳の枝と白い包みを示し、
 「この枝は中国白鷺池の柳、包みは印度正覚山の菩提樹の種子」と聖人に手渡したかと見えるや、忽ちその姿は消え去りました。
 聖人は、「あの童子の言葉は疑うべくもない。しかし、この泥深い水田にどうして伽藍が建てられよう」と思案しつつ、とりあえず柳を水田の岸にさし、種子を石の南にまいて、またその石の上でお休みになりました。
 夜が明けて周囲を見ると、水田はいつの間にか高堅な台地となり、柳も菩提樹も高々と葉を茂らせていたのです。それから、この地を高田と呼ぶことになりました。
 この奇瑞を見た人は、聖人の高徳のあらわれと心服し、特に真岡城主大内国時や、眞壁・小栗・相馬の各城主が聖人に帰依して土木工事を起こし、この年の春、堂塔造立に着工したのでした。 』

 元仁2年(1225)と嘉禄元年(1225)は同じ年のようだ。元仁2年4月20日(1225年5月28日)に嘉禄に改元した。
 それにしても正月8日に野宿するのは、ただ事ではない。また、明星天子といえば勝道上人が日光で弟子たちに「深沙大王」と「明星天子」の両神への信仰を説いたことが思いおこされる。親鸞が下野国へ来た時、真岡城主大内氏から草庵として提供された三谷草庵は、仏生寺 (勝道上人生誕地)から2kmほどしか離れていない。


『 聖人感得の本尊
 聖人の高田専修寺造営にあたって、真岡城主大内国時は、高田から東3kmの閑静な山里に草庵を建て、聖人御逗留の便をはかりましたので、約1年の間ここにお住まいになりました。これが三谷(みや)村の御草庵であります。
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(三谷草庵は高田山専修寺の境内と共に昭和42年(1967)に国指定史跡に指定されている)

 さて、基礎工事も進捗した4月14日の夜のこと、聖人は霊夢を感得されました。
 「師の願い既に満足せり。速やかに信濃国善光寺に来るべし。我が身を分けて師に与うべし。」との、如来のお告げをお聞きになったのです。踊躍歓喜された聖人は、翌朝、性信、順信の二人の弟子を供として信濃へ旅立たれ、19日早朝、善光寺にお着きになりました。
 その頃、善光寺では、15人の寺僧が本堂に集まって、昨夜見た夢について話し合っていました。ご本尊の善光寺如来が、
「明日わが弟子善信法師来るべし。わが身を分けて与うる所なり。汝等、この三尊をかの善信にわたすべし。」 と言われるのを、15人の誰もが聞いて、不思議がっていたのです。ちょうどその時、聖人らがお着きになったので、寺僧たちは驚嘆して一光三尊佛を献上しました。聖人は歓喜の涙にむせびつつ、袈裟に包み、笈に納めて自らこれを背負い、26日に高田に帰られました。
 聖人御感得の霊佛を得て、如来堂の造営はいよいよはかどり、翌嘉禄2年(1226)4月、ついに完工、真佛上人は京都へ上って後堀河天皇より勅願寺の綸旨を受け、「専修阿弥陀寺」の勅号を賜ったのでした。
 こうして高田山専修寺が創建されたのです。世にこれを「高田建立」と称します。 』

 真岡城主大内国時がパトロンになり、善光寺式一光三尊仏を祀る如来堂を造ったのが専修寺の始まりのようだ。
 専修寺には親鸞が善光寺から一光三尊佛を運んだときの笈まで保管されているそうだ。
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 真岡城主の大内国時が寺を建立することの条件として親鸞に求めたのは、善光寺式一光三尊仏を善光寺から勧請することだったのではないか。その意味では専修寺は善光寺の分院であったのだろう。
 善光寺を名乗る寺院は全国各地に200以上あるという。私は長野市で生まれ育ったが、三浦郡葉山町に数年間住んだことがある。葉山にも新善光寺があり、こんな所にも善光寺があるんだと感心したものだ。
 なぜ全国各地にこれほどまでに善光寺と呼ばれるお寺が多いのかと言うと、鎌倉時代に善光寺聖が全国に善光寺信仰を広めたからである。
 善光寺聖の「聖」とは、正規の寺院を離れて、諸国を遊歴する僧侶のことを言う。善光寺聖と言われる半僧半俗の遊行僧が、信州から遠く離れた地域にまで善光寺如来の分身を背負って出かけ、信仰を広げて回った結果であるが、この善光寺聖は大坂の四天王寺聖とも深く繋がっていたという。

 四天王寺は聖徳太子建立七大寺の一つとされている。四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。
 四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。
『 用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。
 その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。 』
 以上が『日本書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは「四天王寺」と「法隆寺」のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。

 善光寺聖は鎌倉時代に最も大きく活躍し、江戸時代になると、信州善光寺から前立本尊が出張する出開帳に変わることになる。善光寺聖の活躍で、信州善光寺は全国に広く知れ渡り、各地に善光寺という名称のお寺を残していったと考えられている。現在でも200以上の善光寺が各地に残っているが、多くの寺の本尊は、善光寺聖が運んだ善光寺如来となっている。

 親鸞は後に浄土真宗の開祖として有名になるが、鎌倉時代においては有能な一善光寺聖だったのではないか。
 如来堂(善光寺式一光三尊仏を祀るお堂)建立の翌年には、朝廷から「専修阿弥陀寺」という勅願寺の綸旨を受けたとされるが、それらも教団が大きくなってからのことで、全ては後付ではあるまいか。
 この如来堂を得たことから、親鸞は寺持ちになれ、親鸞の教化活動は遊行から本寺中心に変わり、本寺は東国における初期の浄土真宗の教団活動上重要な役割を果たすことになったと考えられる。

『 三国伝来・天拝一光三尊像佛
 高田の如来堂に安置する御本尊は、親鸞聖人が自ら善光寺より迎えられ、7年間親しくお給仕された、他に類のない尊像であります。
 中央に阿弥陀如来、脇侍として向かって右に観音、左に勢至の二菩薩が、一つの光背の中にお立ちになっているので、この形式を一光三尊佛と申します。
 この善光寺如来は、かつてお釈迦様が月蓋長者の懇請によって閻浮檀金(白金)でお造りになったものと言われ、それが印度から中国へ、中国から韓国へと渡り、欽明天皇の時(538)百済の聖明王から朝廷に献上された、三国伝来のわが国最初の仏像であると伝えられています。
 当時、仏教の受容に反対した物部の守屋大臣が、この仏像をつぶそうとして、7日7夜ふいごで吹き、3日3夜鉄板上で打ち砕こうとしたが砕けず、万策つきて難波の堀の中へ捨てたと言います。堀の中にあること18年、推古天皇の時代に信濃国の本田善光という人が拾い上げ、自宅にお運びして臼の上に置いて礼拝したところ、多くの人々が帰依するようになり、やがて勅命により長野に善光寺が建てられ、本尊として安置されることとなったのであります。
 今この善光寺の御本尊は永遠の秘仏とされ、誰もそのお姿を拝むことができませんが、幸いに聖人がお貰い受けになった一体分身の一光三尊佛は、江戸中期から17年に一度の御開帳を仰ぐ例となり、全国に出開帳も行われるようになりました。
 そのご縁によって皇室の帰依をも集め、桜町天皇以後33年ごとに天皇が親拝されるならわしとなりました。近年では明治13年に明治天皇が、昭和26年には昭和天皇が、それぞれ親拝されました。よって、世に天拝一光三尊佛と称されています。
 第二次世界大戦中には、この三尊佛にも御難がありました。白金で鋳造されている故をもって、軍部が供出を迫ってきたのです。命にかえても死守するとの高田門徒の構えに対し、他派からも「高田派が協力せねば我々も迷惑する」と圧力がかかりました。昭和19年の9月、軍部は遂に金庫職人を連れて踏み込み、強引に扉を開けようとしましたが道具はことごとく壊れ開かず、軍部も漸く断念したのでした。
 平素はお前立の模刻像を拝するのみですが、御開帳の勝縁をのがすことなく、この一天無二の尊像を拝されるよう念願いたします。 』

 桜町、後桜町、後桃町、光格、仁孝、明治、昭和の7代の天皇が参拝しているので、「天拝一光三尊仏」というらしい。
 桜町天皇の在位は1735年〜1747年である。寛正6年(1465)に第10世の真慧が、伊勢一身田に専修寺をつくり本山とした。そのとき多くの寺宝を伊勢一身田の専修寺に移したとされ、現在でも本山には多くの重文がある。もし、白金の本尊があったのなら、その時に移さないわけがない。高田の専修寺が復興したのは江戸幕府が開かれ、関東が栄えだした江戸時代になってからのことだ。
 一光三尊仏は室町時代の作だとされるが、おそらくこの本尊は江戸時代の初期に作られたのではないだろうか。

 物部守屋の名前が出てきたが、物部氏は廃仏派で、崇仏派の蘇我氏と争って滅ぼされたとされるが、守屋と馬子の争いの本質は単なる政権争いだったようだ。どちらかというと外交政策で衝突したようだ。物部氏は自らも寺院を建立している。
 当寺の近くに物部という地名があり、物部小学校や物部中学校があるのが気になる。


 境内には立派な鐘楼と鼓楼があった。
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現地説明板より
『 鐘楼
 嘉永2年(1849)伊勢四日市願誓寺の住職が3年間で建立し梵鐘はそれよりも古く延宝8年(1680)田中丹波守 藤原重正の作で何れも江戸時代の門徒の寄進である。当地方では大きな秀作とされている。
 高田山専修寺  』

 伊勢四日市願誓寺の住職の武内義道は建築・彫刻の名手で、この鐘楼は彼の代表作だという。


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現地説明板より
『 鼓楼
 物見を思わせるような高い袴腰つけた建物は鼓楼です。弘化3年(1846)の建立で、太鼓は天保13年(1842)名古屋市の来迎寺の門徒 平野小市郎の寄進である。
  高田山専修寺  』

 二間四面袴腰付きの入母屋造で、楼上には直径1mの太鼓があり、重要な行事の開始を告げる。


 太子堂があった。
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現地説明板より
『 太子堂
 このお堂は当地より300m南にありましたのを江戸時代に移築したお堂です。南無太子2歳像(県指定)を安置していましたが、現在木像は本寺の御殿に安置されています。
 高田山専修寺  』

 親鸞の聖徳太子への尊崇はよく知られている。この太子堂も聖人の建立と伝えられている。300mほど南の建立地には字太子堂という地名が残っている。
 この太子堂の本尊であった南無太子2歳像は、14世紀の製作と考えられている。昭和46年、栃木県の重要文化財に指定された。
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 厩戸皇子という蘇我系の皇族はいたようだが、聖徳太子の実在を示したもののほとんどが否定されてる現在、私は聖徳太子に仮託されたのは蘇我馬子の業績ではないかと考えている。仏教導入に果たした蘇我氏の功績は大きい。もし、仏教界が蘇我氏の恩を忘れたのであれば、それこそ仁義に悖る。仁義は儒教的概念なのだから構わないのかもしれないが……。

 県重文の南無太子像は鎌倉期の作とされ、聖徳太子2歳の姿をあらわした像とされるが、表情が凛凛しすぎて可愛らしいとは言い難い。
 私は善光寺の院坊の一つである常智院にあった「まどろみ太子」が、可愛らしくて好きである。
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 太子だって子どもの頃はいたいけな少年で、母に甘えたり、疲れて居眠りをしたことであろう。いつのまにか日本仏教の祖のように祭り上げられ、その両肩には仏教の命運を背負うことになって、いつでも毅然としている姿を期待されてきた。そろそろ解放してあげてもよいのではないか。

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