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zoom RSS 旅 660 高田山 専修寺(2)

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2016年 6月7日
高田山 専修寺(2)

 涅槃堂があった。
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現地説明板より
『 釈迦如来涅槃像 県指定有形文化財 
昭和39年4月10日指定
 釈迦如来は凡そ三千年前印度の国で80歳にして成仏頭を北にして西を向いてお亡くなりになった。
 その御影で元禄年間の名作である。
 高田山専修寺  』
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専修寺の栞より
『 第18回一光三尊仏御開扉にあたり、記念事業として新涅槃堂が建立されました。寄棟造りの優雅な形をした五間四方の涅槃堂で、平成12年1月の完工です。
 中に安置されている釈迦涅槃像は、元禄15年・16年の墨書があり、江戸湯島 九兵衛の作、木造金箔塗りの見事な作品で、栃木県の重要文化財に指定されています。中に多数の個人の氏名や法名が書かれており、寄付者は当時の庄屋らしき有力者の氏名が3人書かれています。木造3mに及ぶ大涅槃像は日本一とも言われる大作で、他所では拝見できるものではないと思われます。 』

専修寺にあったプリントより
『 涅槃像の説明
 高田山専修寺境内は、国指定史跡にされており、境内には総門、楼門、本堂である如来堂、親鸞聖人の御影を安置してある御影堂が国の重要文化財に指定を受けています。
 ここは、栃木県文化財に指定されている「涅槃像」について説明します。
 江戸 湯島 九兵衛が元禄15年と16年(1702〜1703)、2ヶ年かけて制作されました。約300年前のことです。背丈3mございます。平成11年に、この涅槃像の傷みが激しく、県の予算をいただき修復工事をいたしました。その工事をされた方は、仏師であります日本仏像研究所の本間先生であります。1年間かけて修復完成され、本間先生自ら涅槃像を納品されたとき、「木造で作られた涅槃像では、日本一です。」とのお墨付きをいただきました。
 お釈迦様がインドでこの世を去られたとき、北枕で西方浄土を向いて亡くなられたお姿を「涅槃」と言います。みなさんのご先祖さんがこの世を去ったとき、日本国中どこでも「北枕」にするのも、お釈迦様を見習って行われたものなのです。  』

 体内の墨書によって作者などは分かるが、当寺への伝来は不明だとされる。

  善光寺の周辺では、釈迦堂(世尊院)に重文の銅造釈迦涅槃像がある。全長1.66m、重さ487kg 鎌倉時代末期のものだ。釈迦涅槃図は多いが、彫刻で等身大のものは全国で五指を数えるに過ぎず、銅造であるものはこの像だけだという。


 境内で一番大きな建物は御影堂である。
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現地説明板より
『 重要文化財 建造物 御影堂
昭和56年6月5日指定
 親鸞聖人を祀る建造物で、現在の御堂は寛保3年(1743)の再建とされている。中央の大きな御厨子に御開山とされる親鸞聖人の木造を安置する。76歳の御影で刻苦精励のもたらした独特な風格をよく伝えている。
 聖人像の右奥に専修寺第二代真仏上人、左奥に第三代顕智上人を安置する。この二つの尊像はそれぞれ文明11年(1479)、延慶3年(1310)に彫像されたと考えられている。親鸞聖人像とともに県指定文化財であったが、平成18年国重要文化財となった。
 屋根は茅葺であったが、現在は銅板葺となっている。
 桁行 9間  梁間 8間 寄棟造
 高田山専修寺  』

 御影堂は、間口42.73m、奥行33.50m、725畳敷きであり、重要文化財の木造建築中5番目の大きさとされる。栃木県下では日光の三仏堂に次ぐものである。
 御影堂は外見は装飾を抑えた地味なお堂だが、中は装飾が豪華である。
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専修寺にあったプリントより
『 御影堂の説明  本寺 高田山専修寺
 この御影堂は、当初開山堂として、第二世真仏上人によって建立されました。大永6年(1526)に焼失し、再建されたのは寛保2年(1742)であります。(修理の際発見された墨書では再建は寛保3年とされる)
 創建当時、屋根は茅葺きでしたが、明治36年の台風で屋根材が飛び散ってしまいました。そこで瓦葺きに変更し、そして昭和大修復工事には茅葺き風の銅板葺きに変更になったのです。昭和56年に国の重要文化財の指定を受け、昭和60年より4年間かけて約4億円の工費で修復されたお堂です。
 皆様方の正面に安置されています座像は、専修寺を開山した親鸞聖人76歳の等身のお姿であり、県重要文化財指定を受けています。
 向かって右奥にあるのは、第二世の真仏上人座像であります。真仏上人は桜川市筑波山の裏手にある梶尾の生まれで、俗名梶尾弥三郎と言われておりました。梶尾城の城主の長男に生まれましたが、17歳の時、城は弟に任せ、親鸞聖人に剃髪して戴き出家しました。嘉禄2年2月に聖人の名代として、当時の天皇である後堀河天皇に戴いた寺号が、専修阿弥陀寺であり、それが現在の専修寺です。
 向かって左奥にあるのは、第三世の顕智上人座像であります。顕智上人は越後生まれで、17歳の時、高田の地に来て親鸞聖人の門弟になられた方で、第二世の真仏上人が50歳で亡くなった後を受け継いで第三世になられ門弟や檀信徒達に厚く信頼された方でした。
 親鸞聖人が90歳でこの世を去られた時、葬儀には導師を勤められました。顕智上人は京都から高田に帰る際、親鸞聖人の歯16粒を持ち帰られ、本寺の御廟にそのうち9粒を埋葬したのです。
 第二世と第三世両上人の座像は平成18年6月に国の重要文化財の指定を受けています。
 また、皆さんの頭の上にある「見真」という額ですが、これは明治9年明治天皇より親鸞聖人にいただいた称号です。 』
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 親鸞聖人の等身大と言われる座像だけ県重要文化財で、真仏上人座像と顕智上人座像が国重要文化財なのは、その出来映えによるのだろうか? それともはっきりした記録が残っているかいないかの違いであろうか。
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 像高84cmで等身大とされる。聖人ご自刻の76歳の像だとされる。記録によると、この像は寛永15年(1638)に、伊勢一身田から当地へ移されたという。
 寛正6年(1465)に真慧によって伊勢一身田に専修寺がつくられたとき高田の寺宝は全て移されたのであろう。
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  真仏上人は親鸞聖人の後継者として、聖人帰洛後の関東教団をリードした高弟。像高75.5cm。
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 顕智上人は親鸞聖人の直弟の一人。真仏上人が早世されたためそのあとを継ぐ。聖人入滅の際の葬送執行で知られる。像高77cm。

 御影堂は如来堂より40年ほど後の再建で、現今の真宗十派の本山のように如来堂・御影堂が並立していないことといい、この両堂の安置形式といい、根本教団の面影をしのべるという。
 前庭の柳と菩提樹は、聖人が明星天子から授けられたものを祖とし、もとは如来堂の前に植えられていたという。上求菩提(菩提樹)下化衆生(柳)を示すものとして高田派の紋章ともなり、高田の象徴となっているそうだ。

 『真宗念佛のふるさと 本寺 高田山専修寺』より、「聖人御自刻等身の御影」と「真仏・顕智両上人坐像」を載せる。

『 聖人御自刻等身の御影
 60歳の頃、親鸞聖人は関東を後にして京都へお帰りになりましたが、その後、念仏の教えを乱す者があり、門弟は大いに動揺しました。
 そこで宝治2年(1248)秋、真仏上人は門弟たちを連れて上洛、聖人に再び関東に下向されるよう懇請しました。
 聖人は深く悲嘆されましたが、すでに76歳になっておられたこととて、とても下向の見込みは立たぬと、身代わりとして自ら等身大の御影を刻まれ、「浄土和讃」「浄土高僧和讃」と共に真仏上人にお与えになったのです。
 現在、御影堂の正面に中尊として安置される「等身の御影」がそれで、昭和37年、栃木県の文化財に指定されました。
 聖人の木造としては、一身田の本山宝庫に伝持する「大谷最初の御影」が最も著名で、また最も優秀なものですが残念ながら小像であるのに比して、等身像ですから正に生ける聖人に遇い奉る感動を覚えます。 』

『 真仏・顕智両上人坐像
 御影堂の向かって右の脇壇には、第二代真仏上人の坐像が安置されています。いかにも聡明そうな風貌と、武士らしい堂々たる恰幅は、聖人帰洛後の関東教団の中心人物であったことを頷かせます。門侶交名牒を見ても、真仏上人系統の門弟が圧倒的に多いのは、これを証明するものです。
 今も、埼玉県の蓮田に「真佛報恩塔」と呼ばれる、4mにも及ぶ巨大な石碑が立っていますが、これは上人の五十四年忌に、弟子の唯願が150貫文の金銭(一貫文は米一石に相当)を集めて、上人への報恩のために建立したものです。これをもってしても、上人の教化力がいかに偉大であったかが知れます。
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 御影堂の左脇壇に安置されているのは、第三世顕智上人の木像です。上人は真仏上人より17歳年下でありましたが、共に親鸞聖人の信任あつく、真仏没後の教団の進展に尽くされました。
 殊に、親鸞聖人の御入滅に際してはその葬送の指揮をとられ、大谷本廟を造営し、その護持にも心魂を砕かれました。この大谷本廟が今日の本願寺となって発展したのですから、上人は真宗教団全体の大恩人であり、高田が真宗の根本であるという意味がはっきり致しましょう。
 この坐像は彫刻としても極めて高い評価を得ており、聖人亡きあと、門弟の最長老として教団を統率された風格をよくしのばせ、真仏上人像と共に国の重要文化財となっています。
 延慶3年(1310)7月4日、85歳の顕智上人は高田の如来堂から姿を消され、ただ払子のみが残されていました。それ以来、上人の祥月命日(現在は8月1日・2日)には、徹夜して上人を尋ね求める風習が残り、「高田待ち」とも「顕智待ち」とも称して本寺最大の行事となっています。 』


現地説明板より
『 史跡 専修寺
 嘉禄2年(1226)に真宗の始祖である親鸞聖人が、長野の善光寺から一光三尊像を迎えて本尊としたのがはじまりと伝えられています。
 境内には江戸時代に再建された建物群があるほか、親鸞聖人をはじめとする歴代上人の墓石がある御廟所があります。
 環境省・栃木県  』
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 少し歩いて御廟所まで行ってみた。
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 この祖廟は顕智上人が大谷の墳墓と同型に築いたもので、「親鸞伝絵」に描かれた聖人の墓所とそっくりで、昔日の大谷御廟を偲ぶよすがとなっているそうだ。

 親鸞の廟堂である「大谷廟堂」を覚如が寺格化したのが「本願寺」だが、本願寺も一旦は衰退する。しかし、15世紀半ばごろに蓮如によって本願寺教団として次第に勢力を拡大していく。

現地説明板より
『 史跡 専修寺境内 親鸞聖人御廟
昭和42年7月6日 国指定
 親鸞は専修寺建立後、貞永年間(1232年頃)京都に帰り、弘長2年(1262)90歳をもって遷化された。
 葬儀は三代顕智によって営まれたが、その際遺歯9粒を携行して専修寺に帰り、ここに埋葬されたもので鎌倉時代中期の面影を残す廟所である。  』
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 『真宗念佛のふるさと 本寺 高田山専修寺』より、「御真骨伝持の祖廟」を載せる。
『 御真骨伝持の祖廟
 親鸞聖人の御廟所は全国に数多くありますが、聖人の御真骨を捧持しているのはひとり高田御廟だけです。
 「高田正統伝」の記述によりますと、聖人の御骨を大谷の墓所に納める時、顕智上人は16粒の御歯骨を桐の筒におさめて高田まで捧持され、その中の9粒を御廟に納め、7粒は御自身がお持ちになったとあります。
 近年になって、本山の宝庫からこれを明確に裏づける史料として、顕智上人御自筆で「鸞聖人の御骨」と記された包み紙と、容器に納められた御遺骨(歯骨とは思われない)が発見されました。
 大谷本廟がしばしば破却されて、元の所在が不明である現在、この本寺の祖廟こそは、聖人の御真骨を納めた唯一無二の本廟であります。 』


 善光寺の本尊、一光三尊仏(絶対秘仏)は今となってはあるのか無いのか分からない。(おそらく無い) また、大谷御廟も元の所在が不明だという。この栃木県の片隅だからこそ、本物に近いものが残されたのであろう。
 高田の専修寺は、本流が伊勢一身田に移って衰退した。復興したのは江戸時代に入ってからである。

 庫裡で小冊子を買うとき、住職らしき人に、「どうして専修寺は伊勢に移ってしまったのですか?」と訊くと、
「ここよりも伊勢に有力な後援者がいるようになって、そちらに移ったようだ。」と答えた。
 専修寺の本山は三重県津市一身田町にあり、栃木県真岡市高田にある本寺の住職も本山専修寺の住職が兼ねているようなので、この人は住職ではないようだ。

 大きな寺はどこでも中世には武装化していたようで、専修寺も境内の外側には空掘りの跡と思われる遺構が点在し、戦国時代には兵火によって多くの建物が焼失したという。
 焼失したことにより、高田派教団は沈滞化の傾向にあったが、それを再び飛躍させたのが、東海・北陸方面に教化を広めた十代の真慧(しんね)であった。
 この真慧が伊勢の一身田に専修寺を移したのである。
 真宗高田派専修寺およびその末寺では他の真宗教団と異なり、「歎異抄」を否定しているわけではないが聖典として用いていない。
 これは専修寺には親鸞聖人の真筆文書が多数伝来しており、弟子の聞き書きである「歎異抄」をあえて用いる必要性が薄いとの考えによるものである。専修寺は現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵しており、これは東西本願寺よりも多い数である。


 山や磐などを御神体とする神社と違い、人に教えを説く仏教の寺は有力な後援者が招く所や多くの信者を集めやすく発展が期待できる場所に移ることはよくある。曹洞宗の大本山「總持寺」は、石川県輪島市門前町門前から神奈川県横浜市鶴見区鶴見へ移転した。

 江戸時代に、高田の専修寺が復興をとげたのは、親鸞の旧跡が尊重されたからであろう。その意味では、如来堂や三谷草庵、祖廟だけでなく、親鸞聖人の伝説の場所である「般舟石」(おこしかけ)や高田専修寺建立中の聖人の御自用泉であったといわれる「姥が池」が聖地として重要なのであろう。宗教家が偉大になるためにも伝説が必要だ。
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 姥が池は当寺から北へ400mほどのところにある小さな池で、鹿島明神の献上したと伝えられる片葉の芦が今も繁茂しているという。 池の名が「姥が池」で姥神との関係が気になる。 水の女神・瀬織津姫が姥神に貶められていることを各地で見てきた。
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 私は2015年の9月、新潟県上越市板倉区米増にある親鸞の妻である恵信尼の墓を訪れた。その時に親鸞のことを少し書いたが、ここでは親鸞の『教行信証』について少し触れる。

 仏教は「教え」を説く。各宗祖は難しい本を残しているが、親鸞も主著『顕浄土真実教行証文類』(略名 『教行信証』)を残している。

 親鸞は、その主著『教行信証』の跋文(後序)の一節で、次のように述べた。
『 ひそかに以(おもん)みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。しかるに諸寺の釈門、教に昏(くら)くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁(わきま)うることなし。ここをもって興福寺の学徒、太上天皇諱尊成(たかなり)、今上天皇諱為仁(ためひと)の聖暦、承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
 主上臣下、法に背き義に違(い)し、忿(いかり)を成し怨み結ぶ。
 これに因って、真宗興隆の大祖源空法師(法然上人)並びに門徒数輩、罪科を考へず、猥(みだ)りがわしく死罪に坐(つみ)す。或いは僧儀を改めて姓名を賜ふて遠流に処す。予は其の一なり。
 しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」(とく)の字を以て姓とす。 』

 ここで太上天皇諱尊成とは後鳥羽上皇、今上天皇諱為仁とは土御門天皇のことで、親鸞は、法然の弟子の処刑と、師である法然や自分の流罪について上皇と天皇を諱まであげて名指しで糾弾している。歴史上このようにストレートに上皇・天皇を批判した例はない。
 因みに後序のこの部分は、太平洋戦争中に政府から拝読が禁止され、墨を塗ることを命ぜられた部分である。

 親鸞がこの文を書いたのは、土御門天皇を今上天皇と書いているのであるから、流罪中の(1207〜1212頃)である。
 『教行信証』の自筆本(板東本)は基本が60歳前後の筆跡であるが、80歳代に至るまで執拗に添削が繰り返されている。
 そして、この30歳代に書かれた権力者の理不尽に対する批判の文言が一切変更されていないことが重要である。私はここに親鸞の確信と矜持を見る。

 親鸞にとって宗教上の聖典は「大無量寿経」だとされる。2世紀頃インドで成立したという。その聖典中の第十八願は次のようである。
「 設(も)し我、仏を得たらむに、十方の衆生心を至し、信楽(しんぎょう)して我が国に生ぜんと浴(おも)ふて乃至(ないし)十念せむ。若(も)し生ぜずば正覚を取らじ、と。唯五逆誹謗正方を除く、と。 」 (教行信証・信巻 引用)

 訳すと概ね次のようになる。
「 法蔵という人は次のような深い願いを抱いた。もし私が最高のさとりに到達して、最高の目的である“仏になる”ことが可能となったとしても、全世界の人々がその心を最高の境地に高め、宗教的な目標としての“信じて楽しむ”理想の姿を極め、わが至高の仏の国土に生まれようと思い、それに憧れの思いを十回繰り返す。それでも、この至高の仏の国土に彼等が生まれえないならば、私がそれらの人々に先んじて“さとり”を開こうとは決して思わない、と。ただ、“五逆”の人々と“誹謗正法”の人々は例外としてこれを除く、と。」

 つまり、「世界の人々が幸せになれなければ、私一人が幸せになるつもりはない」と言っているのだ。しかし、「唯五逆誹謗正方を除く」とあるように、その世界の人々の中に“五逆”の人々と“誹謗正法”の人々は除かれるという例外規定が記される。当時のインドのヒンズー教の中で迫害された状況では、例外規定を設けざるを得なかったようだ。
 これは、宮沢賢治の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という思想と同じ要素があり、美しい。
 この賢治の「幸福」を「平和」に置き換えてもいいだろう。どちらも理想だ。

 理想は空しいという人がいる。しかし、理想を唱える人がいなくなったとき、理想そのものが死ぬ。理想が無くなった世界は希望も優しさも明るさもないモノクロームの世界になるように感じる。バラ色ではないにしても、この世界に天然色を与え輝かせてくれているのは理想ではないだろうか。

 法蔵は仏教の最終目標である自己が「さとりを開く」「仏になる」ことよりも「人々を幸せにすること」「人々を救うこと」を上位に置き、軽々と旧来の仏教思想を越えてみせた。つまり「仏になる」ことを拒否したのである。
 この法蔵は“菩薩”と呼ばれる。菩薩とは仏になるために修行をしている者を指すが、「衆生を救うために永遠に仏になることを拒否した人」の呼び名でもある。
 その法蔵の願いが成就したとき、いわば「永遠の彼方の所願成就の姿」の呼び名をとして、「阿弥陀仏」がある。

 しかし、後世、高僧は純理論的に思想そのものの問題として、この文の最後の「例外規定」に向き合うことになる。
 中国(唐)の善導(613〜681)は、
「 仏願力を以て、五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。誹謗・闡堤(せんだい)、回心(えしん)すれば皆往く 」
と述べ、第十八願の例外規定の撤廃を主張した。その際、回心(心をひるがえし仏法に帰依すること)を必要条件にした。闡堤は無信心の人のことをいう。

 親鸞の師である法然は善導の方針に従った。そして更に徹底して、この除外例をカットして第十八願を引用した。法然は除外例をなくし、誰でも救われる道を開いた。(『撰択本願念仏集』)そこが法然の限りない優しさで、我が家が浄土宗であることにホッとするところでもある。

 しかし、親鸞の場合、師である法然のように無造作に除外例をなくさず、逆にこの除外規定にこだわった。生涯を通してこだわり通した。『教行信証』では上皇(後鳥羽)と天皇(土御門)を諱まであげて名指しで糾弾して、生涯取り消すことはなかった。
 このこだわりが、やがて善導や師である法然さえも超えることに繋がる。
 その五逆誹謗正方を犯した後鳥羽上皇や土御門天皇を憎み許さなかった親鸞は、その人たちを相手にしないことにして、師の教えを布教し深化させようとした。しかし、親鸞はついに、あの人たちを救いとること無くして法蔵菩薩の最終の悲願に辿り着くことはないことを悟る。これはキリストの「汝の敵を愛せ」に通じる“愛の思想”である。

 聖心会シスターで日本近代文学研究者の鈴木秀子と芥川賞作家で臨済宗の僧侶の玄侑宗久さんとの対談を本にした中で、玄侑宗久さんは、「どんな宗教でも、深く掘り進むと同じ水脈に通じる」と書いていたことを思い出した。玄侑宗久さんは、福島県田村郡三春町にある福聚寺の住職でもある。

 その後、親鸞は最終の思想に到達する。死の4年前、86歳(1258年)の暮れ、12月14日のことであった。関東から来た門弟や孫門弟の前で「自然法爾」(じねんほうに)について語った。この思想自体は、善導や法然に由来し、親鸞のオリジナルではないが、それに付け加えた最後の一言が、彼の到達した思想を如実に表す。
 「みだ仏は、自然のやうをしらせれうなり」 “れう”は料理や材料の「料」で、道具・手段のことである。つまり、みだ仏(阿弥陀仏)は手段だと言うのだ。阿弥陀仏は“自然のやう”を知らせるための手段だというのである。
 90歳を前にした親鸞は、本尊として絶対視されてきた阿弥陀仏さえ、つまるところ所詮「手段」だ、「最高の道具」に過ぎないと言い切っている。親鸞が高田の専修寺で布教の中心に据えた善光寺式一光三尊仏(中尊が阿弥陀如来)さえも単なる道具だと言い切ったことの凄さをあらためて感じる。
 仏像を美術品の一つのように見る現在である。コロンブスの卵同様、一見、それは今でこそ誰でも言えることかもしれないが、親鸞がそう言い切るまでは、誰もそう言い切った人はいない。
 親鸞は阿弥陀仏を借りて、「いかなる絶対者も人類が生み出した、人類のための道具である」と言い切ったのである。それは天皇の存在さえも誰かが為政者として君臨するための手段にすぎないと言っているようで、後の「天皇機関説」に繋がる思想にも似ている。

 親鸞以前の僧侶は戒律により縛られ、高僧になるほど妻帯する者はいなかった。それは子孫に法灯を繋がなかったということだ。しかし、親鸞は公然と妻を持ち、子をもうけた。
 浄土真宗は世襲され、一つの権力になっていく。覚如、蓮如、顕如らはそのDNAを継ぐ者たちである。天皇も世襲されるが、宗派も世襲されれば、その主宰者は法皇のような存在として拝まれる。
 親鸞は敵をも許し救いとろうとした宗教家だ。しかし、その親鸞の浄土真宗(一向宗)は戦った。「汝の敵を愛せよ」と言ったキリストのキリスト教も戦っている。
 科学技術や知識は引き継がれて人類の財産になっている。しかし、親鸞やキリストの愛の思想は引き継がれているとはいえない。所詮、人間は自分の足で歩いた道しか心の糧にならないということだろうか。

 人は生まれてゼロからスタートする。境遇によってはマイナスからのスタートを余儀なくされる人もいるかもしれない。親鸞は老境に至って悟りの真髄に到達した。親鸞でさえ最終の思想に到達するまで80年余りの年月を費やしたのだから、我々凡人は、何かが解り始めた頃に死が訪れるのだろう。
 人はこの世に生をうけ、人生を生き80年ぐらいで死んでいく。人類の一人一人の人生の繰り返しが歴史であるのなら、歴史はくり返されるのであろう。あれほど後悔した戦争も繰り返される。

 戦争を繰り返すのは、生き残った者たちの子孫である。若くして戦死した人は子孫を残せなかった。前線に若い兵士を送り、後方で指揮官として生き残った者たちは、後悔も反省も足りなかったのかもしれない。
 生きたかったのに戦死した若者の魂の声に、生き残った人たちがどれだけ耳を傾けてきたのだろうか。彼らは言う。「悲惨な戦争はまっぴらだ。」「俺の人生を返してくれ。」

 先の太平洋戦争では、跡取りまで亡くして「家」そのものが存続できなくなったケースも多いと聞く。幸運にも現在生きて「家」を継いでいるに人々(天皇家も含む)は、英霊と呼ばれる彼らの「真の声」を真摯に聞かなければならない。また、悲惨な体験をした人たちは、忘れ去りたい辛い史実を語り継がなければならない。それが残された者たちの使命でもある。きれい事では済まされない。

 歴史はくり返すというが、それは人が歴史から学ばないからであろう。歴史とは単なる過去の事実の積み重ねではない。その時代を生きた人々の、喜び・苦しみ・悲しみ・希望・挫折・後悔・怨念など真の声を汲み取ることなのであろう。中には理想を追い求めた人もいたであろう。

 キリストや親鸞や宮沢賢治の理想は、実現不可能で空しいものなのかもしれない。しかし、私は理想を追い求める人がこれからも現れ続けることを信じたい。なぜならば、それが人類の「光」なのだから。



 先頃、イギリスがEUを離脱した。そしてフランスなどがEU離脱の可能性がある。ドイツだけは理想を掲げ頑張っている。
 かつて第一次世界大戦、第二次世界大戦でドイツはイギリスやフランスを相手に戦争をした。どの国も自国の利益だけを考え帝国主義に走った。
 戦後、ドイツは東西に分裂させられたが、困難と格差を乗り越えて民族の統一を果たした。特に西ドイツは大きな代償を払う覚悟をした。同じ敗戦国の国民として、私はベルリンの壁の崩壊の時の興奮を忘れない。
 ドイツは過去の歴史から学び、ヨーロッパ統合の高い理念と理想に向かい努力しているように見える。EUはヨーロッパ統合への壮大な実験場である。

 その理想から一番早く離脱したのはイギリスである。かつて大英帝国と呼ばれたイギリスは過去からの遺産や利権を守り、目先の自国民の利益だけを考えているように見える。まだジョン・ロックの社会契約論から一歩も出ていないイギリスの実態が垣間見られる。

 日本の皇室とイギリスの王室は共に伝統を持ち友好関係にある。
 イギリスの王室は、ノルマン朝に始まると言っていい。1066年、フランス王国の諸侯であったノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム)がアングロサクソン人王の支配下にあったイングランド王国を征服し、ウィリアム1世として国王に即位したことで成立した。ギヨームは本国フランスにおいては、あくまでノルマンディー公としてパリのフランス王室の家臣であった。
 つまり、イギリス王室はフランス王室の家臣が建てた王室で、王室での公用語はずっとフランス語であった。フランス王室が滅亡したのでイギリス王室だけが残っているが、イギリス王室はフランス貴族と同じ穴の狢と言っていい。
 日本の皇室も多分に渡来人の血が入っているので、同じようなものなのだが……。

 イギリスとフランスの関係は深く、お互いに意識し合っている。イギリスがEUを離脱したことから、フランスはそういう選択肢があることを意識し始めている。
 もし、ここでフランスがEUを抜けてしまえば、ヨーロッパ統合への壮大な実験は挫折し、また自国のことだけを優先させる流れが始まり、元のヨーロッパに戻ってしまうだろう。

 ヨーロッパでさえ一つになることは難しい。まして世界が一つになることなど夢のようだ。
 目の色や肌の色や言葉が違っても人類の本質は変わらない。現在のホモ・サピエンスは10万年ほど前にアフリカで誕生して、世界中に広がっていったようである。つまり、現在の人類はアフリカに起源を持つ単一種ということになる。
 いったい人類はその終着点をどこに置こうとしているのだろう。それが、分裂ではなく統合の方向であってくれることを願うのは私だけではあるまい。

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