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zoom RSS 旅 661 壬生寺(下都賀郡壬生町)

<<   作成日時 : 2017/05/06 19:36   >>

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2016年 6月17日
壬生寺(下都賀郡壬生町)

 高田山 専修寺から慈覚大師円仁が9歳から15歳まで修行したと言われる大慈寺へ行くことにした。
 戒壇がある下野薬師寺があったということは、下野国は仏教の先進地であったのだろう。
 8世紀の後半(奈良時代の終わり頃)、二人の高僧が現れた。一人は勝道上人で男体山の山頂を極め、日光を開き山岳仏教の魁けとなった。今日、専修寺を訪れる前に勝道上人の生誕地に建つ仏生寺を訪れた。
 もう一人は慈覚大師円仁で、法を求めて唐に渡り、帰国後最澄のあと天台宗の座主となり日本天台宗の基礎を築いた。


 専修寺から大慈寺へ向かう途中で壬生寺の前の通った。寄る予定ではなかったが、壬生寺は円仁の生誕地であるという伝承があるので、一旦通り過ぎたが引き返して寄ることにした。
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 紫雲山 壬生寺(しうんざん みぶじ)は、栃木県下都賀郡壬生町にある天台宗の寺院で本尊は不動明王。円仁(慈覚大師)誕生の地として伝えられる。

 壬生町は、鳥居氏3万石の城下町である。鳥居氏(壬生氏)の本貫は江州(滋賀県)雄琴村であったようで、壬生駅の北には雄琴から祖神を分霊した雄琴神社が建っている。恐らく壬生氏は渡来人の末裔であろう。

 境内には大きなイチョウがあったが、刈り込まれていてかわいそうな姿であった。
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現地説明板より
『 栃木県指定 天然記念物「壬生寺のイチョウ」
所有者 壬生寺  昭和54年8月28日指定
● 樹高  24.5m
● 目通周囲 5.1m
● 枝張り 東西22.9m 南北22.0m
● 推定樹齢 350年
 この木は、幹が円筒状であり、地上約5mまでは枝がないが、この付近から枝を四方に伸ばし、さらに地上10mあたりで太枝を分かち、そのうち1本は、北へ斜めに伸びて主幹となっている。
 この寺は、慈覚大師の生まれた寺といわれており、広い境内の南側に立つこの木は、周囲に障害物となるものがないため、のびのびと枝を出し、雄大であり、樹勢は旺盛で、県内でも有数の巨木である。
 栃木県教育委員会・壬生町教育委員会  』

 栃木県指定の天然記念物なのだから、枝を刈り込むに当たり許可を得たのだろうが、栃木県教育委員会・壬生町教育委員会の名で出された“枝張り”まで書かれたこの説明板が空しい。

 壬生寺は保育園を経営しているようで境内には保育園の建物が建っていた。境内は園児の遊び場でもあるのだろう。
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現地説明板より
『 壬生町指定有形文化財 壬生寺 大師堂
平成3年1月1日 指定
 大師堂は、天台宗の基礎を築いた平安時代の高僧、慈覚大師を祀っています。
 このお堂は、貞享3年(1686)日光山輪王寺の願いにより壬生城主三浦壱岐守直次によって建立されました。現在、建立時の棟札が当寺に保管されています。
 屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、内部の格天井には菊花紋が色違いに描かれています。また寸法は正面三間、側面二間、向拝一間となっています。
 大師堂は彫刻類の飾りは一切なく簡素ですが、格調の高い建物であるとともに、江戸中期に建造された町内に残る唯一の建造物です。
 平成4年1月  壬生町教育委員会  』
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現地説明板より
『 紫雲山 壬生寺の由来
 壬生寺は、慈覚大師円仁の御生誕地(794年)として信仰されて来ました。
 大師堂は、江戸時代貞享3年(1686)日光山輪王寺門跡天真親王が壬生城主三浦壱岐守に命じ再興し、側に小山市飯塚の台林寺を移し別当とした。
 その後、大正2年(1913)大師1050年御遠忌に、壬生町信徒が慈覚大師報恩会を組織し、町民協力し東京上野寛永寺内の天台宗学問所(旧勧学寮)を移築して本堂とする。
 大正5年新たに壬生寺を創立し現在に至る。尚、境内には慈覚大師産湯の井戸がある。本堂には大師が唐より持ち帰り植えた樹齢千年の白檀の木で作られた大師像が安置されている。
 壬生町観光協会  』

 円仁がここで生まれたのか、慈覚大師産湯の井戸が本当なのか真偽のほどは不明といったところが穏当であろう。
 円仁が生まれた所は、都賀郡というだけで、はっきりした場所は分かっていない。江戸時代の初期の記録によると、現在の壬生寺周辺は「お里」と呼ばれており、円仁の生まれた所と言い伝えられている。
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現地説明板より
『 壬生寺六地蔵さま
 お地蔵さまは正式には地蔵菩薩といいます。頭を丸めたお坊さんの姿で、手に錫杖と智慧の宝珠を持ちどこにでも現れて、私たちを救け導き、私たちの苦しみを代わって受け、幸せを与えて下さる佛さまです。
 六地蔵さまは、「六道能化のお地蔵さま」と呼ばれ、この娑婆世界の苦しみである六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)から私達を救って下さいます。
 特に壬生寺六地蔵さまは、子育て、学業成就、身代わり厄除の地蔵さまとして信仰されてきました。  合掌
 御真言 おん。かかか。びさまえい。そわか。 とお称え下さい。
 慈覚大師誕生地 紫雲山 壬生寺住職  』
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 「 米国ライシャワー 駐日大使参拝記念 」という小さな碑が立っていた。
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 昭和39年(1964)に、ライシャワー米駐日大使が当寺を訪れている。碑の側らの木はかなり大きいので、その時植えた記念樹ではないかもしれない。しかし、既に52年経つので生長したのだろうか?

 東洋史研究者で親日家のライシャワーさん(1910〜1990)は円仁の研究家でもあった。特に円仁の在唐中の日記『入唐求法巡礼行記』を、玄奨三蔵の『大唐西域記』やマルコポーロの『「東方見聞録』に比すべき旅行記として評価していた。1939年(昭和14年)に博士号を授与されたのも、『入唐求法巡礼行記』の研究であった。
 ライシャワーさんは父が宣教師だったので東京で生まれた。また、先妻が亡くなった後、1956年(昭和31年)日本人の松方ハルさんと再婚したので、駐日大使(在任1961〜1966)としての人気は高かった。
ライシャワーさんは日本語の会話能力は高かったにもかかわらず、駐日アメリカ大使として表に出る際には日本語をつかわず、必ず通訳の西山千を通じて話していた。ただ、ライシャワーさんに限らず、大使や閣僚などの公人は外国語を公の場では口にせず通訳を介するのが通常だという。


 鐘楼の前に「 一隅を照らすこれ即ち国宝なり 」と刻まれた石碑が建っていた。
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 碑の裏面には、「 慈覚大師円仁御誕生千二百年記念 」とあった。
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 平成2年に慈覚大師御生誕一千二百年 及び 大師堂建立三百年を記念し、再び報恩会を組織して、鐘楼建設、大師堂、本堂等の改修を行ったのだという。

 壬生寺のホームページから『境内案内』のリンクを貼っておく。刈り込まれていない大イチョウの写真も掲載されている。


 地元の誉れである円仁について悪く言うつもりはないが、円仁とその一派は神仏習合を加速させたことは間違いない。しかも仏と神は同等とは扱われず、仏を神の上に置いた。円仁が朝廷から与えられた使命は、朝廷の祭祀方針に合わない神を仏の陰に隠して、その存在を消したり弱めたりすることだった節がある。それは仏教を弘める上に置いても都合がいいことだったのかもしれない。まだまだ平安時代初期の政(まつりごと)は祭政一致の要素を色濃く残していたのであろう。
 その流れはその後も延延と続き、ついに日本で祀られる神は朝廷が許す記紀の神話に役割を持って登場する神々だけになってしまった。漢文で書かれた『日本書紀』も万葉仮名で書かれた『古事記』も、当時は読める人はほんの僅かな人数であったろう。その神話に書かれた神々がそれぞれの地方で祀られていたわけではない。武士の世になった中世においても漢文を読める武士は僅かだったとされる。

 仏教は本来渡来系氏族が信仰したものであった。仏教も現在生きのびている神道(中臣系神道)も、渡来人のフィルターで漉された神が中心であるという意味に於いては、何ら変わらないものなのかもしれない。神道の中で大きなウエイトを占める八幡信仰も稲荷信仰も本来渡来人の神々であった。更にそれを徹底させたのは明治維新の国家神道であった。

 徳川幕府による幕藩体制は、各国(各藩)の自治をかなり認めた。また、経済的にも各藩は自立した採算制であった。宗教に於いてもキリスト教や不受不施派(日蓮宗の一派)は邪宗門とされ取り締まりの対象になったが、概ね信仰の自由は保障された。つまり民間信仰は根強く続いていた。
 しかし、明治の神仏分離と国家神道は、権現化された不明な祭神の居場所を許さなかった。神祇検め(あらため)により、不明な神は排除され祭神が替えられた神社が多い。記紀などの神話で役割を負わされて市民権を得ている神々以外は、人心を惑わし社会を毒する邪宗として排除された。神社の統合整理の陰で消えていった神々がどれほど多かったことか。明治維新は神々の維新でもあった。

 稲荷神社の裏の洞窟の中で隠れキリシタンが、聖母マリアによく似た観音像を密かに祀っている例を見たことがあるが、九州では稲荷を“INRI”と横文字で書いてマリア観音像祀っていた例があると聞いたことがある。“INRI”は「ユダヤ人の王、ナザレのキリスト」の頭文字と見られている。

 
 円仁開基の寺院が全国で五百余寺にのぼるとされるが、それらは全て円仁が開いたわけではなく、多くは円仁の弟子たちが開いたものであろう。
 私の東北への旅も進んでいないが、今まで訪れた古刹で円仁開基と伝わるものに、山寺立石寺と松島の瑞厳寺がある。また、関係した神社に金峰神社(小滝)がある。
 蝦夷地への入口である下野国出身の円仁ならではのアプローチがあるように感じた。


追記
 栃木市岩舟町(旧下都賀郡岩舟町)にある高平寺別院の誕生寺も円仁の生誕地とされ、文献や学術的には誕生寺の方が有力とされる。




休題
 ゴールデン・ウイークが終わろうとしている。三浦半島は比較的天気がよく爽やかな日が続いた。陽気がよくなると旅に出たくなる……というより車中泊の旅は、春と秋がメインとなる。
 旅ブログは昨年のまとめを大分残している。夏に山陽の一部を一週間旅した。秋には四国を二週間あまり廻った。それらのまとめが済んでいないのに、ゴールデン・ウイークが終わったら西に旅する計画を立て下調べを始めたので、またまたブログの更新が遅くなっている。自分のための旅の記録だからタイムリーさは要求されない。
 ゴールデン・ウイーク中にスタッドレスタイヤをノーマルタイヤに履き替えた。今シーズンはスタッドレスタイヤの出番はなかった。オイル交換もして旅の準備をした。

 今回の壬生寺の説明文で壬生城主三浦壱岐守直次なる者が出てきたが、官途名の壱岐守を外せば三浦直次となる。官途名は実質的にはほとんど関係ないが、三浦という姓と壱岐守という官途名が何だか気になった。
 単なる偶然なのだろうが、三浦半島に住む私が、これから壱岐や対馬に行こうとしていることを考える時、何だかこの旅で大きな収穫が得られるようで期待が膨らむ。

 全国の“一の宮巡り”を始めてから4年ほど経つ。私は子どもの頃から飽きっぽく最後まで物事をやり遂げたことがあまりない。健康に自信がなくなってきた今、まだ体力があるうちに、先に一の宮巡りを終わらせたいと考えている。昨年秋の四国への旅では四国の一の宮は全て廻った。旅のまとめは後からでもできる。

 一の宮巡りで一番ネックになるのは島の一の宮に行くことだ。四国は既に瀬戸大橋などで繋がっているので問題はないが、その他は大変である。佐渡の一の宮は既に行ったが、対馬、壱岐、隠岐の一の宮が残っている。この三島の一の宮巡りが終われば、一の宮巡りの山を越えることになるだろう。
 今回は、対馬と壱岐を中心に計画を立て、余裕があれば帰りに隠岐へも渡りたい。

 一の宮巡りを始めなければ、対馬にも壱岐にも生涯行くことはないであろう。今回の渡航も最初で最後になるだろう。重要な所は見過ごすまいとガイドブックや郷土史家の本を数冊買って読みつつ計画を立てた。
 対馬や隠岐にはコンビニや道の駅がほとんどないようだ。車中泊ができない環境かもしれない。いずれにしても山を越える(一の宮巡りの山)ことは大変なことであることを覚悟しなければならないだろう。期待と不安が綯い交ぜになった旅立ちになりそうだ。

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