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zoom RSS 旅 662 「一宮巡り」の一つの山を越えて(1)

<<   作成日時 : 2017/05/27 12:13   >>

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「一宮巡り」の一つの山を越えて(1)

 2週間ほど北九州、対馬、壱岐、隠岐への旅に出た。訪れた場所の詳細なまとめは少し遅れるようになるが、大筋だけは記録しておく。

 ゴールデンウィークが終わった5月8日(月)に、北九州への旅に出た。午前10時頃に出発して、今日は移動だけに時間をつかった。
 午後 8時頃に鳥取県の岩美町に着いて、そこの道の駅で泊まった。村上水産が経営する居酒屋があったので、そこで飲んだ。地元でしか食べられない猛者エビを食べた。
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 また、生け簀には「お嬢サバ」と名付けられたサバが泳いでいた。
 店員の話ではJR西日本と鳥取県とここ岩美町で協定を結んで、平成30年春には「鳥取生まれの箱入り娘 お嬢サバ」のネーミングで出荷する予定だという。
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 一般的にサバは海中のいけすで養殖されるようだが、鳥取県では濾過した地下海水を使って陸上の水槽で完全養殖の稚魚を育てる技術の研究が進んでいたという。
 この「お嬢サバ」は、サバ最大の弱点である寄生虫の心配がなく、身はもちろん、なんと普通ならば絶対に食べられない「肝」や「白子」まで生で食べられるのだという。佐渡出身の友人が寄生虫のアニサキスで苦しんだことを聞いたことがある。

 「鳥取生まれの箱入り娘 お嬢サバ」というユニークな名前には、寄生虫が付かないよう完全養殖の稚魚を陸上で育てる過程を反映しているのだという。
 大切に育てたという意味を込めて「箱入り娘」から連想される「お嬢様」にちなんで、JR西日本が「お嬢サバ」と名付けた。確かに箱入り娘のお嬢さんには、悪い虫がつかない。

 鳥取県栽培漁業センターは地下海水を使って陸上養殖することにより、寄生虫が付きにくく新鮮なまま生で食べられる高付加価値の真サバの研究をしてきた。それに便乗したのがJR西日本で、昨年あたりから数ヶ月先まで予約が詰まっているという高級観光列車の食堂で饗されていたようだ。この高付加価値の真サバが採算のめどが立ったので、平成30年春から本格的に出荷されるようだ。既に先行でサバ専門店に「お嬢サバ」が出ており、評判は上々だという。
 店員に「お嬢サバ」を勧められたが、旅の初日からの贅沢は避け、猛者エビだけで我慢して「お嬢サバ」は写真だけ撮った。
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 また、イカも泳いでいた。イカはストレスがたまれば赤くなるそうだ。
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 5月9日(火)は、青谷上寺地遺跡と妻木晩田遺跡を見学した。午後、雨が降ってきたので、他の見学はやめて長駆博多まで移動した。
 対馬へのフェリーは予約していなかったので、空きがなく、明日の夜の便を取った。久留米へ移動して、道の駅で泊まった。


5月10日(水)
 朝食をファミレスのジョイフルで食べたが、切り身の焼きサバの小さな骨が喉に引っかかったようで違和感があった。前にもそんなことがあり、違和感が続いたので耳鼻咽喉科へ行って取ってもらったことがあるが、えずいてしまい半分しか取れなかった。
 医者は、「多分大丈夫です。すごく気になるようならまた来てください。」と言った。しばらく違和感が続き不快であったが、やがて違和感が無くなった。今度も違和感が続くようなら嫌だなと思ったが、前回よりは違和感そのものが小さいので気にしないように心がけた。
 これから対馬で豊玉姫を祀る神社にも行くことになるが、山幸彦が海幸彦から借りてなくした釣り針が鯛の喉に刺さっていたことを思い出して、少し前途に不安を感じた。

 水天宮、千栗八幡宮、與止日女神社などを廻り、福岡へ戻って住吉神社へ寄った。フェリー乗り場の近くの「波葉の湯」というで温泉に入り時間をつぶし、深夜の0:05発のフェリーで対馬に渡った。
 旅に出るとき必ず何か忘れ物をする。今回は温泉で使うタオルとバスタオルを忘れた。「波葉の湯」ではお金を出して借りた。その後、対馬でタオルを買った。

 フェリーには多くの貨物トラックが積み込まれた。乗用車は私の車のほか自衛隊の車を合わせても4〜5台であった。
 壱岐は自給自足できるようだが、対馬は自給自足できず内地からの物流に頼っているようだ。これは「魏志倭人伝」の時代から変わらないようだ。「魏志倭人伝」には對海國(対馬)について「 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴 」と書かれている。対馬は山地が多く、平らな場所がわずかで半農半漁の生活でも農作物は不足して交易に頼るよりしかたがなかったようだ。
 「万葉集」に追悼の歌が載る志賀の白水郎(海人)の荒雄も「対馬に糧を送る船」に乗り遭難した。
 神亀年間(724〜729)、荒雄は宗像郡に住む年老いた宗形部の津麿に頼まれ、津麿の代わりに船長として出港して遭難した。どうも海が荒れる季節であったようだ。太宰府が対馬に送る防人の軍糧を運ぶ船だったのではなかろうか。
 荒尾は安曇氏、津麿は宗像氏であったのだろう。同じ海人族の安曇氏と宗像氏には何らかの繋がりがあったのだろう。

 ドライバー室のベッドで仮眠しようとしたが、なかなか寝ることはできなかった。玄界灘はフェリーも揺れるのかと思ったが意外に揺れを感じなかった。それでも壱岐を過ぎて対馬に向かう海路では少し揺れを感じた。壱岐の芦辺港には2:15に着いた。対馬の厳原港には4:45に着いた。車を上陸させてから、船内に戻って7時まで仮眠した。もちろん、厳原に着いた時に下船できるのだが、早朝のため7時までは船内で休むことができるのだ。今日は寝不足で辛いかもしれないと思ったが、この2時間余の時間に少し寝ることができたことは幸いであった。


5月11日(木)
 7時に下船して、今日は上対馬を回った。今日の対馬は動けば汗ばむぐらいだが、風は強い。
 和多都美神社は韓国からの観光客も観光バスで来ていて、観光スポットになっているようだ。ただ、韓国からの観光客は参拝をしたり賽銭を入れたりはしない。
 一宮の海神神社は訪れる人もなく、寂しい感じを受けた。本殿改修資金の奉納者名簿の中に、対馬に渡る前に買った『海神と天神 対馬の風土と神々』の著者である永留久恵さんの名があったことで、自分が今対馬にいることを実感した。
 永留久恵さんは海神神社の社家で地方史家である。対馬の小・中学校の教員、校長を歴任した人だという。
 対馬に来る前に、ネットで対馬や壱岐の歴史に関する本を数冊買った。その時、司馬遼太郎の街道をゆくシリーズの「壱岐・対馬の道」も安かったので買った。その本にも永留久恵さんは登場していた。

夕方、400円で厳原八幡宮の駐車場にとめて、駐車場の係りの人にいい居酒屋がないか訊くと、「対玄」を紹介されたので、そこに行って飲んだ。BSテレビでは錦織の試合をやっていた。
 焼き物でアスパラの肉巻きを注文したが、アスパラが細かった。壱岐ではいいアスパラができると聞いていたが、このアスパラは対馬のもので、なるべく地元のものを使うようにしていると言っていた。
 生ビール2杯の後、地酒を飲もうと思ったが、明日のことを考えてレモンサワーにした。生ビールを1杯にして地酒を飲むべきだったと少し後悔した。
 翌日、対玄の前を通ったので写真を撮った。
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5月12日(金)
 今日は下対馬を回り、夕方のフェリーで壱岐に渡る予定だった。
朝早く1社参拝した後、雨が降りだし、雨にたたられた1日となったが、不思議に参拝中は止んだり小降りになった。土砂降りの1社を除き、それほど支障なく廻れた。
 時間に余裕があったが、15時を5時に間違えて、フェリーに乗り遅れた。一度思い込むと勘違いしたままになってしまう。明日の8時50分のフェリーを予約して、昨夜と同じ厳原八幡宮の駐車場にとめて夕食を食べに出た。思いがけず対馬で2泊することになった。
 昨夜は居酒屋「対玄」で飲んだが、今日は食堂で慎ましく「ろくべい」を食べた。ろくべいは対馬の郷土料理で、それほど美味しいとは思わなかったが、手がかかっているのだという。細かく砕いたサツマイモを発酵させ水にさらすなど、複雑な手順を経てでんぷん質と繊維だけを取り出した「せん」は対馬に古くから伝わる保存食で、千回も人の手をかけるから、そのような名が付いたとも言われる。ろくべいは「せん」から作った黒っぽい短めの麺に熱いすまし汁をかけたものだ。麺が短いのですくって食べるようにレンゲがつけられていた。
 このような保存食からも昔の対馬の食糧事情が分かるように感じた。
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5月13日(土)
 昨日、朝7時に開店するモスバーガを見つけておいたので、朝の散歩の後に寄って朝食を食べた。コーヒーを2杯飲んで、これから渡る壱岐での計画を立てた。
 昨夜はファミレスで旅のまとめをしようと、カーナビで探すと一軒あったので行ってみるとつぶれていた。対馬にはファミレスはないようだ。
 対馬にはコンビニも厳原に一軒あるだけだという。
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 このファミリーマートには駐車場がないのかと思ったら、橋を渡った対岸にあった。多くの人は店の前に停車して買い物をしている。

 対馬は韓国に近いこともあり、韓国の観光客が多いようだ。町にもハングルの文字があふれ、韓国からの観光客が島の経済の一部を支えているようだ。
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 約1ヶ月半前の3月30日には東横インがオープンして、厳原の新しいランドマークになっていた。
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 古くからのランドマークである立亀岩は落石防止のため網がかけられ惨めな姿だ。
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 厳原の西側にそびえる山が有明山である。 (写真はクリックすると拡大します)
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 写真では左奥の山である。
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 港の方から見れば手前の山よりかなり高いことが分かる。右に見える東横インが厳原では一番高い建物になったようだ。

 私はこの有明山に注目している。九州の筑後川が流れ込む海が有明海なので、“有明”という地名が多いように考えられるが、意外に少ない。
 東京と北海道に有明という地名があるが、これは新しい。その他では長野と九州にあるだけだという。特に山は安曇野の有明山の他は長野県千曲市の有明山将軍塚古墳(森将軍塚古墳)がある有明山と対馬にあるこの有明山だけだという。安曇野の有明山の麓には有明山神社がある。

 8時50分のフェリーで対馬を発った。船から見る有明山は存在感があった。信仰の山の一つである。
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 対馬・壱岐の道は、海人族の往来する道でもあった。
 北九州の志賀島から「漢委奴国王」と刻まれた金印が出土している。中国の「後漢書」によると57年に、後漢の「光武帝」が、弥生時代に福岡地方の小国であったとされる「奴国」の王に、この金印を与えたとされている。
 57年と言えば、「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)に卑弥呼が死去したと書かれる約200年前である。卑弥呼は「親魏倭王」の金印を授かっているとされる。
 「魏志倭人伝」の邪馬台国の道程でも、対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国まではほぼ特定できている。
 志賀島に安曇族が祀る志賀海神社があることから考えると、奴国の中心勢力は海人族であった可能性が高い。

 天気が良かったこともあり、甲板で島影が見えなくなるまで見ていた。
 「一宮巡り」を始めなければ、対馬に来ることはなかったかもしれない。対馬を離れるとき、もう二度と来ることはないと考えたが、島が遠ざかるのを見ていると、もう一度来てみたいと思った。しかし、フェリーの料金が高すぎるのがネックだ。
 離島振興策で島民の運賃はだいぶ安いようだが、運賃が安くならないと内地からの観光客のリピーターは望めないだろう。
 沖縄の人は本州などを本土と呼ぶが、対馬の人は北海道の人と同様に本州や九州を内地と呼ぶ。
 運賃が価格にのせられるためか対馬の物価は高いと言う。島民の足は車だが、ガソリン代も内地よりも30〜40円高いと聞いた。私はガソリンスタンドが少ないのではないかと考え、フェリーに乗る前に博多で満タンにしておいたので、対馬では給油しなかった。
 南北約82km、東西約18kmの対馬では満タンにしておけば何とかなるだろうと考えたが、その通りだった。トンネルは多かったが、私が走った道では急な坂道はそれほどなかった。


 壱岐の芦辺港に11時5分に着いた。今日は神社を中心に廻り、明日は古墳や遺跡を中心に廻る予定だ。
 聖母宮、月読神社、住吉神社、天手長男神社などを廻った。勝本では河合曽良の墓にも参った。
 東北を旅したとき、「奥の細道」で芭蕉の訪れた場所をいくつか廻った。同行者曽良ともだいぶ親しくなった。その曽良の終焉の地が壱岐であった。
 宿泊は少弐公園で車中泊である。芦辺のイオンで弁当とつまみとノンアルコールビールを買って夕食にした。


5月14日(日)
 朝起きて、磯まで散歩した。
 私は上のトイレのある駐車場で泊まったが、下のキャンプ場で泊まっているライダーがいた。
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 古墳を4つほど廻り、原の辻遺跡や壱岐市立「一支国博物館」などに行った。一支国博物館は有料展示室以外は無料で入館できる。一支国博物館で昼食として「防人うどん」を食べた。
 飲食コーナーのおばさんは、「もう、おにぎりも終わってしまい、うどんぐらいしかない。」と無愛想に言った。「防人うどん」というネーミングに特別なうどんなのか訊くと、ただのきつねうどんだと言う。この飲食コーナーを壱岐島おこし応援隊『チーム防人』女性部がボランティアでやっているので、「防人うどん」なのだという。
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 おばさんは、「土日ぐらいしか人が来ない。」と言っていたが、今日は日曜日である。人はまばらだ。おばさんによると、もうじき観光バスが到着するので飲み物が出るかもしれないという。
 棚には「あふれる笑顔で旅のおてつだい 長崎県おもてなし運動」の楯があり、「ながさき・おもてなし表彰 会長賞 壱岐島おこし応援隊『チーム防人』殿 平成27年9月4日 贈 長崎県総おもてなし運動推進会議 」とあった。
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 「あふれる笑顔で旅のおてつだい」とおばさんの無愛想のギャップにすこし笑えたが、これはおばさんのキャラクターであり、こびない態度に好感をもった。これからもボランティアとして頑張ってほしいものだ。
 一支国博物館で図書を買った。司馬遼太郎の街道をゆくシリーズの「壱岐・対馬の道」も売っていた。店員は館長が子どもの頃、司馬遼太郎が壱岐に来たと言っていた。司馬遼太郎が壱岐や対馬に来たのは40年も前のことになる。
 司馬遼太郎が壱岐を訪れた頃にも原の辻遺跡の発掘調査はされていたが、大規模な発掘調査は平成に入ってからで、原の辻遺跡が国の特別史跡に指定されのは2000年(平成12年)のことである。この黒川紀章設計の一支国博物館の開館も2010年(平成22年)である。
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 現在でも司馬遼太郎が訪れた頃でも史実は変わらないのだろうが、新しい発見があり歴史は変わっていく。
 原の辻遺跡は弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落を中心とする遺跡で、その規模の大きさから「魏志倭人伝」に登場する「一大国」の国都とされている。一般的に「一大国」は一支国の誤記とされるが、誤記ではないとする説も存在する。
 現在、壱岐と書かれるが、古書には「壹岐」と書かれていて、その略字が「一支」だとされる。

 郷ノ浦まで走り、国津意加美神社に参拝した。町は祭で賑やかだったが、少し離れた高台にある国津意加美神社は静かであった。
 郷ノ浦港で乗船手続きをしてから、2800円の生ウニ丼を食べ、生ビールも飲んだ。町中よりも少し安い生ウニ丼だったので、ウニの量が若干少なく感じたが、それでも満足した。
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 午後5時45分の郷ノ浦発のフェリーで博多に戻った。(午後8時10分着) 高速道路で大分に向かった。夕食はSAで済ませ、宿泊は途中のパーキングエリアとなった。

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