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zoom RSS 旅 664 大慈寺 と 村檜神社(1)

<<   作成日時 : 2017/06/01 17:11   >>

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2016年 6月7日

大慈寺 と 村檜神社(1)

 大慈寺(だいじじ)は、栃木県栃木市岩舟町小野寺にある天台宗の寺院である。山号は小野寺山、院号は転法輪院。
 天平9年(737年)、行基の開基を伝える。最澄(伝教大師)による六所宝塔の建立の地、円仁(慈覚大師)の修行の寺として有名で、天台宗の準別格寺に指定されている。
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 栃木県下都賀郡壬生町の壬生寺には「 米国ライシャワー 駐日大使参拝記念 」という小さな碑が立っていたが、この大慈寺にもライシャワーさんが訪れているようで記念碑があった。
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現地説明板より
『 ライシャワーさんと大慈寺
 元駐日大使ライシャワーさん夫婦一行知事には、昭和39年3月3日、ご参拝のため当大慈寺においでになりました。
 大師信仰復興のきっかけとなりました。
 大師をたたえる碑は、その後お寄せになったものです。
 壱百拾六世当寺現住誌  』
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 この本堂は新しいが、平成26年5月に再建されたものだという。


現地碑文より
『 小野寺山転法輪院大慈寺 沿革
 当寺の開祖は奈良朝の名僧行基菩薩である。二祖は道忠、三祖は廣智、称して開山三菩薩という。二祖は大唐より苦心渡来した鑑真大和上の最高弟、三祖はその門に出ている、弘法大師空海とも道交あり。しかし、後年、弟子の円澄・円仁・安慧等と共に伝教大師最澄に師事している。
 伝教大師は、平安朝初、比叡山延暦寺を創立した日本天台宗の開祖である。夙に道忠と厚く親交、乃ち弘仁6年秋、当寺に来訪し、多宝佛塔壹基を造営法華経二千部を書写安置し新宗天台の宣布に努めた。これ即ち大師本願の六御宝塔の一で現に境内に在る相輪橖(享保年間に修築)はその遺構である。因みに三祖と共に最澄に転師した円澄は後に天台座主の第二代、円仁は第三代、安慧は第四代の栄職に登っている。
 なお、円仁は慈覚大師の勅諡を拝受した佛教史上著名の高僧でわが郷土の誇りであるが、かの在唐十年にも及ぶ記録・入唐求法巡礼行記によって更に世界的偉人と仰がれている。
 昭和58年11月29日 
 勧学大僧正 日光山沙門 勲二等文学博士 □井康順 撰文拝書  』

 天台座主は天長元年(824年)に義真が初めて天台座主を称した。2世円澄までは延暦寺内の私称であったが、3世の円仁からは太政官が官符をもって任命する公的な役職となり、明治4年(1871年)まで続いた。
 1世の義真(ぎしん、781〜833)は最澄の弟子となり、804年(延暦23年)中国語の通訳(訳語)として最澄とともに唐へ渡った。俗性は丸子連または丸子部で、相模国の出身とされる。
 2世の円澄は広智の弟子で、俗姓は壬生氏で武蔵国埼玉郡の出身とされる。3世円仁の出自も壬生氏で下野国の生まれでとされる。4世安慧は俗姓は大狛氏で河内国大県郡の出身とされる。何れも渡来系氏族の出身であろう。
 因みに第5世の円珍(智証大師)は空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたり、天台寺門宗の宗祖となる。
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大師像の後ろにある碑文から
『 慈覚大師圓仁(794〜864)
 9歳から15歳まで大慈寺の広智の元、仏教を学ぶ。
 大慈寺第4代住職。
 第3代天台座主。史上初の大師号を受ける。
「立像の特徴」
 9年の唐国求法の途中、皇帝武宗による仏教弾圧に出くわす。その時、袈裟を巻いて首にかけ、身分を隠しながら信仰を貫いた様子を表す。現在の輪袈裟の元といわれる。(大慈寺第百十七代住職談)
 碑文
 天地悠久の真理を求めて、世の仏法を説いた平安時代の高僧、圓仁上人。
 私は今、西暦2004年10月 慈覚大師誕生千二百拾年を経て、最も縁の深い思い出の積もる、修行の寺大慈寺の境内に、求法、巡礼、の御姿として甦らせることが出来ました。
 誇りであります。感動であります。
 圓仁上人の心が世界の人々に受け継がれこの地球が永遠に平和な星でありますように、強く希望する次第です。
 寄贈
 建立者 須藤 豊
 栃木市大塚町501−3 
 平成16年10月吉日   』

 円仁は838年(承和5年)に入唐し、847年(承和14年)に帰国した。(9年6ヶ月)円仁が入唐した時代は、唐は儒教中心であり仏教が弾圧されて廃仏毀釈が行われていたという。帰国に際して、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される。しかし、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶ったという。帰国には新羅人(統一新羅)の助けがあったという。
 円仁は兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
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現地説明板より
『 御霊水
 千二百年以上前からある井戸です。
 慈覚大師円仁が出家し剃髪するとき使用し自ら汲み上げて御本尊に捧げた水です。
 現在でもこの水の霊験譚には事欠きません。ご自由にお使い下さい。 』

 縦井戸を掘る技術がない時代は、湧き水が出る場所に住まねばならなかった。この一帯は井戸を掘る技術がない時代でも生活水には困らなかっただろう。
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 薬師堂の前には小野小町の説明板があった。当寺がある場所は栃木市岩舟町小野寺であるが、小野氏と関係があるようだ。
『 小野小町と大慈寺
 平安時代に生きた六歌仙の一人小野小町が、大慈寺御本尊の薬師如来に病気平癒の祈願をしたと伝えられています。
 最初、小町が病気治しの祈願をしたが治らず、和歌のやりとりをした後ようやく回復し、それ以降ここに住みつきました。
 小町の最期は、諏訪が岳の北東に位置する断崖絶壁に登り、眼前に薬師如来の瑠璃光浄土の世界を見て、そこに身を投げました。
(「身投げ堂」藤波ロックガーデンの場所)
 村人はその小野小町の遺体を、大慈寺の薬師如来の真東、村檜神社前という村内の重要な場所に丁重に葬りました。(東百メートル)
 大慈寺は小野氏と関係があり、小野寺とも呼ばれること、大慈寺で修行した慈覚大師円仁と同じ遣唐船に、小野篁が乗船していたことなどから、小町は小野寺に本当にいたのかもしれません。
 小野小町の黒髪がやがて小野寺のイグサとなり、そのイグサを用いた畳の家では、必ず子宝に恵まれると言われました。
 大慈寺では、小町ゆかりの子授け(女性の恋愛)守りもお分けしております。 』

 小野篁は、円仁と同じ遣唐使船に乗っていない。
 承和5年(838年)の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、遣唐副使の篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。
 これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法がまかり通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)。
 のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった。そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐への流罪に処した。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという。
 承和7年(840年)罪を赦されて平安京に帰り、参議左大弁従三位まで上っている。小野篁は小町の祖父とされる。

 大慈寺は小野氏はともかく、小野寺家の祖小野寺禅師太郎の父義寛との関わりはあり、小野寺氏との関係が深い寺院だったことは確かだったという。

 私が訪れた場所で小野小町の伝承が色濃く残っていたのは、秋田県湯沢市小野地区である。ここには小町堂などがあった。
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現地説明板より
『 岩舟町指定文化財(建造物)
 慈覚大師堂  平成4年4月10日指定
 棟札、勧化帳などの資料によると、慈覚大師堂は1845年(弘化2年)の大火で焼失しましたが、日光山輪王寺門跡の御免勧化によって、下野と上野の二ヶ国を行脚勧化して、1853年(嘉永6年)に再建されました。
 格天井の絵画・彫刻・組み方ともに当代を代表する建造物で、特に格天井の絵はすばらしく、狩野派の絵師によるものと思われます。
 また、堂内には慈覚大師ご自刻の大師像が安置されています。
 平成13年3月 岩舟町教育委員会  』


 少し上がった所に県指定の文化財「相輪橖」があった。
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現地説明板より
『 相輪橖
 弘仁年間の伝教大師様の銘文がきざまれています。
 大師はここを天台教学のセンターとされました。東国文化の発祥の地です。多くの大慈寺の高僧が天台座主となり新しい時代を拓かれました。 』

 817年(弘仁8年)に、最澄が弟子たちとともに東国を巡錫した際に、大慈寺にて大乗戒の授与を行い、東国への天台布教の足場としたという。この巡錫には円仁も同行したのであろう。
 また、法華経による国家鎮護のため、最澄が日本国内の6箇所に建立を計画した六所宝塔の1つが建立された。現存するものは享保10年(1725年)に当寺第96世の智周法師により再建されたもので、鋳造青銅製、高さ約5.5mである。正面には、日光山輪王寺門跡公寛一品親王の御筆で「南無妙法蓮華経」の7文字が刻まれている。

 最澄が建てた6つの相輪橖の場所は以下だとされる。
・安総宝塔 近江国 比叡山 東塔 法華総持院東塔
・安中宝塔 山城国 比叡山 西塔 比叡山相輪塔
・安東宝塔 上野国 緑野寺(浄法寺)
・安北宝塔 下野国 大慈寺(のち日光山)
・安西宝塔 筑前国 竈門山
・安南宝塔 豊前国 弥勒寺(宇佐神宮)(筥崎宮)

 これを見ると、比叡山に2つ、関東に2つ、北九州に2つで、西戒壇(太宰府の観世音寺)、中央戒壇(奈良の東大寺)、東戒壇(栃木の下野薬師寺)の「天下三戒壇」の場所を意識しているようにも見える。

 相輪塔は、最澄が国家安泰・仏法興隆・国民安楽を祈念するため日本全国の6ヶ所に建立したとされるが、当時のもので現在するものはないという。「安西宝塔 筑前国 竈門山」の寺は廃寺になっていて、ここにあった相輪塔は再建され、太宰府天満宮にあるようだ。2012年に太宰府天満宮を訪れた時に目にした。そこの説明文には、“我が国に八基あり、……”とあり、6基とはしていないが、伝教大師最澄により伝えられたものであることが書かれていた。太宰府天満宮は観世音寺の近くである。


 大慈寺が一番栄えた時には、広い敷地に七堂伽藍を備え修行僧が何千人もいたといわれている。
 鎌倉時代には時宗開祖である一遍上人が当寺を訪れ雨宿りをしたという伝承もあり「一遍上人絵伝」の中で「下野小野寺の雨宿り」として描かれている下野小野寺とは大慈寺の事とされる。
 しかし、天正年間(1573〜1593)の兵火(諏訪ヶ岳の戦)により焼失してしまい、再建後の弘化2年(1846)にも不審火により全焼してしまった。

 大慈寺の創建の正確な時期は不明であるが、隣接する村檜神社境内からは奈良時代にさかのぼる古瓦が出土しており、この地に古代から寺院が存在し、東国における天台系仏教の拠点となっていたことは確かである。栃木県内では下野薬師寺下野国分寺と並ぶ古い歴史をもっていると考えてよい。

 相輪橖の側に開山堂があり行基が祀られていた。
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現地説明板より
『 開山堂
 御開山行基菩薩様を祀ってあります。天平9年開創ですので昭和62年に1250年を迎えました。 』

 開山堂の近くには小野寺稲荷大明神があった。
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現地説明板より
『 「小野寺稲荷大明神」縁起
・当地に鎮座まします小野寺稲荷大明神様は、古くより大慈寺の守護神として祀られて参りました。
・平成26年5月に、大慈寺の本堂が再建されたのにあたりまして、大明神様も同様に平成26年6月に祠を新たにお祀りされることになりました。
・大明神様は、女神様でいらっしゃいます。お使いには白狐様がおいでになられます。
・大明神様は、大慈寺の守護神であると同時に、お参りされ信仰される方の御守護もなされます。
・特に子授け、子供の身体安全、学業成就など子供に関するお願いにお力をお授けになられます。さらに一般人の交通安全のためにもお力をお貸しくださいます。(及び火難除け)
・このように大変霊験あらたかな神であられますが、不敬を特に嫌われます。お参りされる場合には、失礼のないようにお願いいたします。
・心を込めたご祈願、お供え物、そしてお礼参りと、すべてに落ち度のないようにお願いいたします。そうすれば、必ずご利益をお授けくださいます。
 お唱えの言葉「南無 小野寺稲荷大明神」  』

 一般的には天台寺院の鎮守は山王権現であるが、ここでは稲荷大明神である。おそらく隣の村檜神社が先にあり、その別当寺、神宮寺として大慈寺(小野寺)が創建されたのだろうから、この小野寺稲荷大明神は村檜神社と関係するのかもしれない。

 この小野寺稲荷大明神から上の奥の院に山道が開かれている。奥の院の岩場は円仁が坐禅修行をした場所だとされる。さらに道は諏訪岳山頂に向かって続いているという。
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 既に岩が見えている。奥の院は磐座があるのだろう。
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現地説明板より
『 天平9年(737)に行基菩薩により建立された大慈寺は慈覚大師が学んだ由緒ある寺であり、相輪塔(県指定文化財)をはじめとする数々の文化財を有している。
 この寺と首都圏自然歩道を結ぶ大慈寺遊歩道(全長750m)は両側を木々で囲まれ、自然にあふれた散策路である。また途中にある名勝地奥の院からの眺めはすばらしく、この遊歩道の名所となっている。  』

 奥の院まで420mと表示されていたが、まだ廻りたい場所があるので奥の院までは行かなかった。

 
 境内に戻ると一画に墓石がまとめられているのを目にした。この寺も墓地確保のために無縁墓の整理をしているようだ。どこの地方でも事情は同じようである。日本も人口減少に転じ、これからはますます無縁墓も増えるのであろう。
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 東北で円仁グループ(円仁の弟子たち)がやってきた神々への仕打ちを見てきた私は、天台宗が朝廷の意向を受けてやってきたことを看過することはできないが、円仁個人については悪い印象はない。
 我が家は浄土宗で、浄土宗の開祖法然の人柄は穏やかだったということで好感をもっているが、その法然が私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったということを聞いて、円仁も人格者だったのだろうと考える。

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