ハッシー27のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 旅 674 篠村八幡宮

<<   作成日時 : 2017/06/18 12:00  

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

2016年 8月18日

 昨日は、福井県から移動して京都府亀岡市の道の駅「ガレリアかめがおか」に泊まった。
ガレリアとは「高いガラス屋根を架けた通り抜けの商店街」という意味があるらしい。
 国道9号線沿いにある道の駅「ガレリアかめがおか」は、生涯学習施設が併設されていて、午後9時頃まで開いている。ここへ着いたのは昨夜8時頃だったが、観光パンフレットや観光マップなどを手に入れることができ役にたった。

 朝食は昨夜通り過ぎた場所に24時間営業のファミレス「ジョイフル」があったので、そこまで戻って食べた。
 午前中の訪問のメインは、丹波国の一宮「出雲大神宮」であるが、その前にいくつかの寺社を廻った。


篠村八幡宮

 篠村八幡宮は、京都府亀岡市篠町篠八幡裏4にある神社で、旧社格は村社。足利高氏(後の尊氏)の倒幕挙兵地として知られる。
 旧社格が村社に留まったのは、足利尊氏が後醍醐天皇との関係において逆賊とされた時期があったことによるのではないか。社格は維新政府から与えられるものであった。
画像

画像

現地説明板より
『 篠村八幡宮 由緒
一、主祭神 誉田別命(応神天皇)、仲哀天皇、神功皇后
一、摂末社 乾疫神社、稲荷神社、祖霊社、祓戸社、小宮社四社
一、例大祭 9月15日放生会、10月25日秋季例大祭、1月19日乾疫神社例大祭
一、由緒
 由緒書きや本殿棟札によれば、延久3年(1071)後三条天皇の勅願によって、奥州鎮守府将軍・河内守源頼義が、河内国(大阪府羽曳野市)応神天皇陵に鎮座する誉田八幡宮から御祭神を勧請し創建されたと伝えられる。
 延久4年(1072)5月13日付の源頼義の社領寄進状も現存する。藤原氏によって開かれた篠村の荘園ではあったが何時の頃からか源氏が相伝する所となり、頼義が河内国守となった縁で自身の荘園内の当八幡宮の原初の祠に誉田八幡宮の御分霊を勧請したものであろう。
 源頼義から10代末裔の足利尊氏は、元弘3年(1333)4月29日、当社に戦勝祈願の願文を奉じ10日間滞在した後、首尾よく六波羅探題を滅ぼして建武中興のきっかけを掴んだ。
 また、後醍醐天皇と決別後の建武3年(1336)1月30日、一旦占領した京都攻防戦で敗れ、2月1日まで当社で敗残の味方の兵を集めるとともに社領を寄進、再起を祈願して九州へ逃れた。敗走後1ヶ月で九州全土を平定、5月の湊川の合戦で決定的な勝利を得て室町幕府開幕のきっかけを掴んだ。
 尊氏にとって2度の重大な岐路で当社祈願を込めて大願が成就していることから、尊氏自身貞和5年(1349)8月10日に当社にお礼に参拝している。
 尊氏を始め歴代将軍家から多くの荘園の寄進を受け、室町時代を通じて当社は大いに栄え、盛時には社域は東西両村に及んだ。
 後、応仁の乱や明智光秀の丹波平定の戦火によって社殿や社領の多くを損失した。
 寛永年間(1624〜1643)亀山城主・菅沼定芳によって本殿改修がなされ、以来、源姓亀山城主の直轄神社として歴代藩主による庇護を受けた。
 足利尊氏旗挙げの『願文』や『御判御教書』(寄進状)が伝わる。境内には、玉串に添えて奉納の鏑矢を納めた『矢塚』、本営の所在を示す源氏の白旗を掲げた『旗立楊』が残る。
 昭和61年、境内全域が『足利尊氏旗挙げの地』として亀岡市の史跡に指定された。 』
画像

 八幡社などで、たまに見ることがあるが、拝殿と本殿が離れている。神社の古い形の一つであるようだ。拝殿は舞殿のようでもあり賽銭箱は設置されていない。従って拝殿で参拝する人はなく、本殿前に進み参拝する。本殿前には賽銭箱が設置されている。
画像

画像

画像




 『矢塚』があった。
画像

現地説明板より
『 矢塚 (亀岡市史跡)
 元弘3年(1333)4月27日、篠村八幡宮に陣を張った足利高氏は29日に戦勝祈願の「願文」を神前で読み上げた。
 高氏が自ら願文に添えて一本の鏑矢(昔の合戦開始の合図として、双方が最初に敵側に射込むうなり音を発する矢)を奉納したところ、弟の直義を始め吉良・石塔・仁木・細川・今河・荒川・高・上杉 以下の武将たちが我も我もと上矢を一本ずつ奉献して必勝を祈願し、社壇には矢が塚のようにうづ高く積み上げられた(「太平記」)。
 この矢を埋納した場所が「矢塚」で、椎の幼木が植えられた。樹齢660年程を経て周囲の椎木程に育った木は、昭和9年の室戸台風で倒れ、現在の椎は2代目。足利尊氏の勝ち戦にあやかるべく、地元の太平洋戦争出征者は椎の倒木から作った肌身守を持参して無事を祈願した。55柱の霊(昭和52年、靖国神社からの御分霊を右手の祖霊社に合祀)を失ったものの、戦勝の八幡神の御加護を得て出征者数に比して戦没者は少なかった。
 矢塚の石碑は、元禄15年(1702)8月15日に奉納されたものである。 』

 明治維新後、足利尊氏は天皇に弓を引いた者として逆賊と称された時期があるが、江戸時代の元禄15年(1702)頃は、そのような扱いを受けていたのではないようだ。
 楠木正成を祀る湊川神社(旧社格は別格官幣社)は、明治政府の手で明治5年(1872)に建てられている。
 また、篠村の太平洋戦争出征者(皇軍の兵)が「矢塚」に生えていた椎の木で肌身守を作ったということは、八幡神(応神天皇)よりも足利尊氏の加護を期待したのであろう。
 明治政府の皇国プロパガンダも昭和時代には薄れてきて、足利尊氏に対して逆賊としてのイメージがそれほど無かったのかもしれない。

 説明文に、「55柱の霊を失ったものの、戦勝の八幡神の御加護を得て出征者数に比して戦没者は少なかった。」とあるが、それは配属された部隊がどこへ出兵したかによる。東北を旅していたとき、福島県で「東北の部隊は常に厳しい戦線に出兵させられた」という話を聞いたことがある。


 祖霊社があった。
画像

太平洋戦争の55柱の英霊を合祀している。
 太平洋戦争に出征の氏子区民は全て、当時の村社であった八幡宮で出征式を行い、尊氏の戦勝にあやかるべく、『矢塚』の倒木の椎の木で作った肌身守りを持参したという。当社では、出征者数に比して戦没者数は極めて僅かな割合であったことを強調するが、それが神徳であるとすれば、その神とは応神天皇なのか足利尊氏なのか疑問である。当社に祀られるのは誉田別命(応神天皇)で、足利尊氏は祀られていない。
 全国に極めて多くの八幡社が祀られている。この篠村八幡宮を特徴付けるのは、足利尊氏が旗挙げした神社であることだ。足利尊氏は当社では祀られていないが、出征者はやはり尊氏の戦勝にあやかろうとしたのであろう。

 祖霊社には歴代神職の御霊が祀られているが、当社は神職家が世襲してきたわけではない。
 室町時代末期から江戸時代初期にかけて当社は庇護を失って衰微したものの、江戸時代には、源氏を称した亀山藩主・松平氏の直轄神社として庇護された。神官の任免も松平氏が行っており、江戸時代以前の神職者氏名は定かではない。明治以降も神主が何人も替わっている。このように八幡宮に代々の神職家がなかったために、社宝が散逸してしまったという。
 文化財は、京都府指定有形文化財として、「足利高氏願文 1巻(附 足利尊氏御判御教書 1巻)(古文書)」が平成18年3月17日に指定された。これは亀岡市文化財から京都府文化財に格上げされたものだ。
 ほかの記録にある社宝が散逸していることから、唯一残った『足利高氏願文』も、昭和30年代に東大史料編纂所の今枝愛真氏が投げかけた願文の真贋論争にさらされた。
 上島有氏などの科学的な論証により現在では尊氏直筆の本物と証左され、京都府指定有形文化財となった
 現存する宝物は、尊氏の『願文』、『御判御教書』、源頼義の『寄進状』、室町・戦国期の脇差し3振で、いずれも亀岡市文化資料館に寄託している。

 足利尊氏寄贈の鎧・兜は、現在メトロポリタン美術館所蔵となっている。
 この大鎧および筋兜は、足利尊氏が篠村八幡宮に奉納したとの伝来を有し、同八幡宮の近所の医師・松井家が所有していたが、明治末期に、京都四条の古美術商・時代屋から売りに出されたところ、アメリカの生物学者で日本甲冑の愛好家でもあったバシュフォード・ディーンに購入され、日本を離れることとなった。現在はメトロポリタン美術館に所蔵されている。大鎧・筋兜ともに鎌倉時代末期から南北朝時代初期の作品とされる。
 その他記録にあるものとしては、尊氏寄贈の太刀一腰(明治29年以後散逸)、朝廷奉納・松平忠山公寄贈の三十六歌仙絵巻(明治29年以後散逸)などがある。

 神職家が世襲していない篠村八幡宮は、社宝を守れなかった。しかし、最高の社宝である『足利高氏願文』が残されたことは幸いであった。さすがにこの社宝がなければ足利尊氏所縁の神社を名告る資格がない。
 祖霊社に祀られている、社宝を守れなかった歴代神職は、果たして祀られる資格があるのだろうかと批判的になるが、至宝である『足利高氏願文』が残ったのだから辛うじて良というところか。

 篠村八幡宮は江戸時代を通じて亀山城主の直轄神社で、いわゆる氏子を持たない神社であった。明治になって氏子区域を有するようになった。
 祖霊社には歴代神職の御霊が祀られていたが、この社と地元との結びつきは弱かったのは当然である。従って祖霊社に昭和52年に靖国神社から勧請した地元から出征の太平洋戦争の55柱の英霊を合祀していることは、祖霊社の存続意義を確かなものにする目的があったのではないか。
 よく氏神を祀る神社には、境内社として日清日露以降の英霊を祀る護国社が建ち、英霊を讃える碑が建っていることが多いが、当社では太平洋戦争の英霊55柱を祀っている。
 これは、篠村八幡宮が江戸時代まで亀山城主の直轄神社で氏子を持たない神社であったため、まだ明治時代は地元民には敷居が高い馴染みのない神社だったのではあるまいか。ようやく昭和に入って地元の神社として氏子たち(ほとんど当時は百姓)が定着したと考えられる。この農民である氏子にとって馴染みがあったのは、武人として祀られる誉田別命(応神天皇)ではなく、境内社の乾疫神社に祀られる災疫から逃れることを祈願する疫神であった可能性が高い。
 八幡神として当社が地元民に崇拝されるようになったのは、徴兵により出征するようになってからなのかもしれない。そして、出征式の際、尊氏の戦勝にあやかるべく、『矢塚』の倒木の椎の木で作った肌身守りを持参したという。

 ところで、当社は足利尊氏の遺構がいくつもあるにも関わらず尊氏が祀られていない。明治になり尊氏が逆賊の汚名を着せられるまで、江戸時代の源氏を称する歴代亀山城主が篠村八幡宮を直轄神社として祀っていたのは、武門の統領としての足利尊氏を抜きにしては考えられない。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏、江戸幕府を開いた徳川家康は武家にとっては特別な存在であった。頼朝以来征夷大将軍を拝命して幕府を開けるのは源氏と決まっていたので、家康などは源氏を仮称したほどである。
 明治以降逆賊の汚名を着せられた尊氏は、表だって堂堂と祀られることが憚られた。それは当社が社格を賜ることにも影響することであっただろう。
 それではどこに尊氏は祀られたのであろう。私はこの祖霊社に祀られていたのではないかと考える。
 祖霊社には古来歴代神職の御霊だけを祀っていた。江戸時代に亀山城主から任命された神職は足利氏(源氏)と縁がある者であった可能性は十分考えられる。そして篠村八幡宮に表だって尊氏を祀ることができなくなったとき、尊氏は祖霊社に祀られることになったのではないか。
 祖霊社が歴代神職の御霊だけを祀っていたとされたので、地元での尊崇を失いかけていたのであろう。その解決策(祖霊社改修策)として昭和52年にわざわざ靖国神社から地元出征の太平洋戦争の55柱の英霊を勧請して合祀したのではないか。戦後30年以上経ってからの英霊の合祀は不自然である。例祭日は8月の第3または第4日曜日であった。
 平成18年、戦没者慰霊祭を篠町戦没者慰霊祭(安詳小学校)に統合した。



 境内社の乾疫神社があった。境内摂末社の中でも、この神社は特別な存在であるようだ。
画像

画像

現地説明板より
『 乾疫神社 (いぬいやくじんじゃ)
一、御祭神 建速須佐之男神、大己貴神、少彦名神
一、祭礼日 1月19日 午前9時〜午後5時の毎定時
一、由緒
 奈良時代以来の御霊信仰(病気の流行・飢饉・火災等の自然災害を悪霊・怨霊のせいであるとし、疫神を祭って霊を鎮めることにより災疫から逃れることができるとする信仰)に基づき、延喜年間(901〜929)以前から畿内10ヶ所で勅願の臨時疫神祭が行われていた(「延喜式」)。
 京都紫野の今宮神社は、臨時疫神祭場に正暦5年(994)に勅願創建された神社であり、当社は丹波方面から山陰街道を通って平安京に入ろうとする悪霊・怨霊を鎮めるために丹波・山城の国境に勅願創建された疫神社で、石清水八幡宮疫盡堂とともに同時期の創建とされる。
 当地に八幡宮の御神霊が勧請される以前の原初の神社でもある。
 例祭日には日本最古の疫神社の一つである当社の御神威を求めて地元のみならず遠方からも多数の厄除け祈願者の来訪があり、毎年厄年の老若から奉納される紅白鈴の緒の多さは他に例を見ない。 』

 奈良時代以来の御霊信仰に基づき、「乾(= 北西)」の方角の丹波国・山城国の国境に勅願で創建された疫神社とされる。
 「延喜式」によれば、平安京の4隅と、山城と他国との主要6街道の国境に計10社祀ったが、現存しているの3社(今宮神社、石清水八幡宮疫盡堂、当社)だという。

 貞享3年(1686)の『雍州府誌』にも、五畿内十処中、山城と近江・丹波・摂津・河内・大和・伊賀との国境に六処の疫神社があることが記されている。
 当社境内の東境を南北に通る小路が太古から江戸時代初期・元和年間までの山陰街道・古大道であることから当社の疫神社が山城と丹波国境に勅願創建された疫神社であった可能性は極めて高い。
 私は、乾疫神社は当地よりもっと東の「老ノ坂峠」に祀られていたのではないかと考える。そこが山城と丹波の国境である。今は老ノ坂峠は老ノ坂トンネルで簡単に通過できる。

 延久3年(1071)後三条天皇の勅願によって源頼義が当地へ誉田八幡宮の分霊を勧請したとき乾疫神社も当地に遷されたのではないだろうか。と言うより乾疫神社が老ノ坂峠にあったからこそ、源頼義は石清水八幡宮に倣って篠村に誉田八幡宮を勧請したのであろう。源頼義の長男・八幡太郎義家は石清水八幡宮で元服している。
 この源頼義、義家の代で河内源氏が武家源氏の主流となることが確定したといってもよい。

 ここで話は源頼光に転じる。それは「老ノ坂」を調べていて、源頼光の「丹波国大江山での鬼退治」に出くわしたからである。
 源頼光は満仲の長子で清和源氏の3代目である。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、河内源氏の源頼信がいる。
 源頼光(948〜1021)は丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる。説話では、母の一族の嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭にした頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)や藤原保昌などの強者の家臣がいたと言われ頼光が実際に郎党を従えていたことを反映しているとも考えられている。

 酒呑童子討伐の舞台となった丹波国大江山は由良川の北に聳える大江山(千丈ヶ嶽832m)とされ、旧加佐郡大江町の北端に位置する。大江町は2006年(平成18年)に天田郡三和町、夜久野町とともに福知山市に編入されて消滅したが、大江山の酒呑童子伝説を生かして「鬼の里」をアピールするユニークな町づくりを行っていた。

 私は2012年に皇大神社や豊受大神社を訪れるために大江山山麓を走ったことがあるが、そのとき京都と源頼光の酒呑童子討伐伝説のある大江山がかなり遠いことに違和感を覚えた。

 今回、「老ノ坂」を調べていて、大江山は“老ノ坂峠”であることが分かった。老ノ坂は亀岡市と京都市の境にあり、今は老ノ坂トンネルがある。老ノ坂を下った西京区に大枝という地名があるが、老ノ坂は“大枝ノ坂”がつまったものと言われ、歴史的には頼光の大江山伝説の大江山はこの付近が正しいとされる。この地が大江山ならば頼光伝説に違和感はない。また、頼光伝説では“丹波国大江山”とされるが、713年(銅和6年)に丹波国北部は丹波国から独立して丹後国になっており、旧大江町北端にある大江山は“丹後国大江山”となる。分離独立して200年以上も経つので間違えられることはないであろう。

 それではなぜ旧大江町北端にある大江山が頼光伝説の大江山とされたのであろう。それは、皇大神社・豊受大神社で触れたが、用明天皇の第3皇子である麻呂子親王が三上ヶ嶽(現在の大江山)に棲んでいた「鬼(英胡・軽足・土熊の3鬼が率いる鬼の大群)」を退治したという伝承があったからであろう。

 今回、麻呂子親王を調べてみたら丹後の古社に麻呂子親王が創建したものがあり、古い寺の開基が麻呂子親王であるものがいくつかあった。主なものを挙げておく。一宮(いっきゅう)神社(福知山市)、多弥寺(たねじ、舞鶴市)、成願寺(宮津市)、円頓寺(京丹後市)、大虫神社(与謝郡与謝野町)、施薬院(蕪村寺、与謝郡与謝野町)など。なお大江山は“与謝の大山”とも呼ばれた。平成の大合併で町名が変わった処が多いが、それぞれ古い歴史がある地域にこれらの寺社は建っている。

 正史では用明天皇の子は、田目皇子・厩戸皇子(聖徳太子)・当麻皇子(麻呂子皇子)・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子・酢香手姫皇女 とされる。

 推古天皇10年(602年)2月、任那を滅ぼした新羅に対する新羅征討計画の際、来目皇子を征新羅大将軍として軍二万五千を授けられ、4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営したが、6月に病を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせぬまま、翌年(603年)2月4日、筑紫にて薨去。周防の娑婆(遺称地は山口県防府市桑山)に殯し、土師猪手がこれを管掌した。
 603年4月に当麻皇子(麻呂子皇子)が征新羅将軍となった。難波から船で出発したが、播磨国明石で妻である舎人皇女が薨去したことから、皇女を明石に葬った後引き返したという。
 正史では当麻皇子(麻呂子皇子)の丹波での活躍が記されていないが、征新羅将軍の肩書きから、新羅に滅ばされた任那の遺民の面倒をみたことが予想される。任那(伽耶)の遺民は丹波(後の丹後)に移住したようだ。大虫神社や施薬院(蕪村寺)がある与謝郡与謝野町は旧与謝郡加悦町(かやちょう)である。加悦町は2006年3月に、隣接の与謝郡岩滝町、野田川町と新設合併し、与謝郡与謝野町となった。

 2017年5月24日に元衆院議員の与謝野馨さんが亡くなったが、与謝野馨さんは歌人の与謝野鉄幹と晶子の孫にあたる。与謝野鉄幹の父である与謝野礼厳(西本願寺の僧)は加悦町(現在の与謝野町字温江)の出身である。また与謝蕪村(1716〜1784)の母も与謝郡の出身だという。


 かなり脱線したので、話を篠村八幡宮に戻そう。

 現地説明板の説明文に、「藤原氏によって開かれた篠村の荘園ではあったが何時の頃からか源氏が相伝する所となり……」とあったが、大江山(大枝山)の源頼光の手柄により篠村の荘園が源氏に与えられたのかもしれない。その源氏の荘園を河内源氏の頼義が引き継いだのであろう。



 さて、疫神といえばスサノオをイメージするが、乾疫神社には建速須佐之男神、大己貴神、少彦名神が祀られている。山陰街道の要衝であるから出雲神が祀られているのは違和感はない。

 佐々木氏の氏神を祀る沙沙貴神社には『全国佐々木会』の本部もあるというが、『全国足利氏ゆかりの会』というものもあり、第15回総会が平成12年11月10日に亀岡市で開催されたのだという。もちろん足利尊氏所縁の篠村八幡宮が亀岡市にあるからである。そこで総会出席者一行を迎えるため、かなりお金をかけて境内整備が行われたという。

 この平成12年の大改修に際して乾疫神社の御神霊を仮遷座した処、樟日命(しょうびのみこと)と伊邪那岐命の神籬が併せ祀られていることが判明したそうだ。
 伊邪那岐命は有名神であるが、樟日命は神々の系譜不詳である。
 このことをどう考えるかは史料もないので想像するしかない。飛躍した想像では足利尊氏に対抗して楠木正成を樟日命として祀ったと考えると面白いが、あまりにも穿った想像で現実的ではない。(樟はクスノキとも読む)
 伊邪那岐命と対応するのは伊邪那美命であり、伊邪那美命が樟日命であることは十分考えられることだが、私は樟日命の“日”からアマテラスを連想する。
 そして現在の乾疫神社の祭神は、建速須佐之男神、大己貴神、少彦名神の3柱とされるが、本来は、建速須佐之男神(スサノオ)、樟日命(アマテラス)、伊邪那岐命だったのではないだろうか。スサノオとアマテラスは伊邪那岐命の禊ぎにより生まれた神とされる。そして疫神社は天皇の住む都を守るために祀られた。それならば天皇家の祖神であり一族でもあるアマテラス、スサノオ、伊邪那岐を祀るのが相応しいように感じる。これは単なる想像で根拠はない。
 亀岡市には丹波国の一宮「出雲大神宮」があり、その祭神は大国主命(大己貴神)と三穂津姫命である。この地域ではどこにでも大己貴神と少彦名神が入り込む素地があるとも考えられる。
 因みに京都市北区紫野にある今宮神社の祭神は大己貴命、事代主命、奇稲田姫命である。しかし、その鎮座地には794年(延暦13年)の平安遷都以前から疫神スサノオを祀る社(現在摂社疫神社)があったとされる。
 祭神の大己貴命、事代主命、奇稲田姫命の組合せも不自然である。大己貴命と事代主命は父子とされるが、奇稲田姫命はスサノオの妃である。
 神話の世界のトリックスターをスサノオから大己貴命に替えようとする作為があったように感じてならない。


 説明文の最後に、「毎年厄年の老若から奉納される紅白鈴の緒の多さは他に例を見ない。」とあるが、確かに境内のどの社にも比較的新しい紅白の鈴の緒が付いている。
 明治時代までは、1月19日の乾疫神社の例大祭には、露天商が軒を接して拝殿から大鳥居に至るまで参道沿いに立錐していたとの記録が残っているそうだ。
 今でも1反の紅白反物を9枚に切り分け、奉献者氏名・生年月日を記入して、乾疫神社を始め境内9社の鈴の緒に添える反物は毎年100反を超え、全国の他の神社に例を見ない慣習だとされる。しかし神離れの流れには逆らえず近年は100反を割り込み80反前後になってしまったとも聞く。


 境内の北側に出ると、『旗立楊』(はたたてやなぎ)があった。
画像

画像

現地説明板より
『 旗立楊 (亀岡市史跡)
 元弘3年(1333)4月27日に篠村八幡宮一帯に陣を張った足利高氏は、29日にかけて軍勢催促状を髻に結び□□□を近国はもとより、全国の有力な武将に派遣して参軍を求めた。
 4月29日に社前で戦勝祈願の「願文」を奉納して旗あげを行って以後、旧山陰街道(横の小道)に面して一際高く聳え立つ楊の木に、足利家の家紋である「二引両」印の入った源氏の大白旗を掲げて高氏のもとに駆け付けてくる武将達に高氏の本営の所在を明らかにした(「梅松論」)。この源氏の大白旗を掲げた楊の木が旗立楊である。
 5月7日までの間に、久下時重を始め長澤・志宇知・山内・葦田・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部氏等が馳せ参じて高氏の軍勢は二万三千騎となり、5月7日を期して京都に攻め入り、首尾良く六波羅探題を滅亡させた(「太平記」)。
 柳とは樹種が異なる。楊の寿命は百年程度しかないが、挿し木により容易に活着する。この楊は昭和の初期に挿し木したもので、足利高氏の時代より6・7代を経て引き継がれてきたものである。 』
 
 ヤナギは漢字で「柳」または「楊」と書く。両者の違いは柳は枝が垂れ下がるもの、楊は枝が立ち上がるもので、シダレヤナギやウンリュウヤナギが柳、ネコヤナギ、イヌコリヤナギなどが楊ということになる。このことは万葉集も同じで、柳と楊を明確に区別して歌が詠まれている。
 時代が下って俳諧の時代になると、ヤナギをすべて「柳」に統一して「楊」の字はつかっていない。したがって、ネコヤナギも猫楊ではなく猫柳と書かれている。
 猫柳 高嶺は雪を あらたにす  (山口誓子)
 ときをりの 水のささやき 猫柳 (中村汀女)
 
 そういえば、西行や芭蕉が訪れたとされる「遊行柳」(ゆぎょうやなぎ)も「柳」ではなくて「楊」であった。

 万葉集では、柳と楊を明確に区別して歌が詠まれている。
 「 楊こそ伐れば生えすれ世の人の恋に死なむを如何にせよとそ 」
 これは、「 楊は伐ってもまた生えるが、一度死ぬと再び生き返ることができない人間である私が、いま恋の苦しみに死のうとしているのを、あなたはどうせよというのですか 」と片思いの苦しさを相手の責任であるかのように嘆いている歌だという。

 このように万葉集に歌われるヤナギの再生力はかなり強靭で、昔から護岸工事などの土木工事に利用され、植栽され川岸の侵食防止に利用されてきた。
 挿し木で容易に増えることから、治山などの土留工、伏工ではヤナギの木杭や止め釘を用い、緑化を進める基礎とすることがあるそうだ。
 北陸地方に次のような俚謡が伝わる。
「 杉と男の子は育ちが悪い、やなぎと女の子は投げても育つ。 」
昔から男の子は弱いが、女の子は強いことが知られていた。

 ヤナギが土木工事に使われたことは、古代では水田の用水路の工事などにも意図的に使われたのであろう。

 旗立楊の横を通る道は、太古から江戸時代中期までの旧山陰街道(古大道)だという。
江戸時代初期の元和年間(1615〜1624)に旧国道9号線(現府道・王子〜並河線)ができるまでは、この道は京都と山陰地方を結ぶ旧山陰街道で、足利尊氏も明智光秀もこの道を通った。尊氏が打倒北条を掲げて六波羅を目指してから約250年後、今度は明智光秀が打倒信長を目指し峠を越えて京都へ向かった。

 平成10年に6m幅に拡幅して「ふるさと歴史街道」とする計画が浮上し、平成13年5月に開通したという。
 今は完全な裏通りのため拡幅したとはいえ、交通量は少ない。何れにしても現在は京都市に入るためには、国道9号線(山陰道)で「老いの坂トンネル」を抜けて、老いの坂を下るしかない。昔は「老いの坂トンネル」の所が峠だったのだろう。
 保津川(下流では桂川)はここより少し北側を流れ京都の嵐山へ下る。


 境内摂末社は、乾疫神社、祖霊社の他に、稲荷神社、祓戸社、小宮社四社がある。
 小宮社四社は近在の祠4社を明治以降に遷したものとされるが、遷す以前に既に何社か合祀されていたようで、4社で秋葉神社・愛宕神社・住吉神社・春日神社・日吉神社・皇大神宮・豊受大神・天満宮を祀る。

 祓戸社は、手水舍の近くにある。手水舍の水は現在井戸水を使っているそうだ。祓戸社は“お祓い”の神として、瀬織津比売神、速秋津比売神、気吹戸主神、速佐須良比売神が祀られている。もちろんこれら4柱の神は、本来は“お祓い”の神ではない。
 本殿の主祭神に詣でる前に、身を清めお祓いしてから参拝するのが相応しいのであるが、祓戸社が鎮座する神社は比較的少ない。それは、この4柱が本来祓戸社に収まるような神ではないことをあらわしているようにも感じる。



 当社は延久3年(1071)後三条天皇の勅願によって、源頼義が河内国の誉田八幡宮から御祭神を勧請し創建されたと伝えられる。このとき、祭神の勧請に卜部兼延が関わったようだ。
 室町時代には室町幕府に庇護されて栄華を極め、境内域は王子村・山本村に及び、神宮寺を持ち、境内の社殿も30余を有していたという。神宮寺を管掌していたのは醍醐三宝院門跡だったようだ。


 室町幕府を開いたのは足利氏であるが、そのきっかけを作ったのは結果的には後醍醐天皇であった。
 後醍醐天皇は倒幕計画が発覚し、捕まった。承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。
 承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇も佐渡に流された順徳上皇もその地で没したが、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。
 これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略した。
 その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させた。
 上野の新田義貞が挙兵したのは、尊氏が六波羅探題を攻め滅ぼした次の日の5月8日であった。先に鎌倉を脱出していた尊氏の嫡子千寿王(後の義詮)は義貞軍と合流、これにより倒幕軍は一気に膨れ上がり、5月21日には鎌倉に攻め入り、翌22日、激戦の末ついに鎌倉を落とす。北条一族は高時をはじめ全員自害し、ここに鎌倉幕府は滅亡した。

 尊氏は4月16日に京都へ着いたが、入京直後から北条討伐の準備を進め、その機を窺っていたと考えられる。すでに京に着いた翌日には、使者を伯耆の後醍醐天皇に派遣したとされ、22日には、ひそかに関東の同族に北条討伐の軍勢催促をし挙兵を促している。新田義貞にもこの催促は当然届いていたと推測される。
 源氏本宗家が滅びた後、鎌倉幕府は執権北条氏に握られた。しかし、幕府にあって足利氏は源氏を代表する名門であった。


 なぜ、尊氏は篠村八幡宮で旗あげしたのであろう。地理的条件もあるだろうが、篠村八幡宮の勧請には源頼義が関わっていて、篠村は源氏の地領があり、また母の里が近くにある(綾部市上杉)と言うことで、協力が得られる条件があったのだろう。
 因みに鎌倉の鶴岡八幡宮の元社である由比若宮(元八幡)も源頼義の勧請である。

後醍醐天皇の諱は尊治(たかはる)で、高氏はその一字を拝領して尊氏と改名するほど、二人の仲は親密であったが、やがて決裂した。
 後醍醐天皇が目指したものは王政復古の“建武の中興”であったが、それは天皇を中心とする中央集権政治であった。律令制の復活と言ってもよい。基本的には土地の私有を認めない。
 既に将軍とのご恩と奉公の御家人関係を結び、長い間土地を所有していた武士にとっては相容れないものであり、一所懸命の武士との対立は必至であった。
 武家の代表としての足利尊氏は、後醍醐天皇から離反することしか道が残されていなかった。
 建武3年(1336)1月30日、北畠顕家軍との京都攻防戦に敗れた尊氏は2月1日にかけて篠村八幡宮で敗残兵をまとめ、神戸から九州へ逃れた。しかし、早くも4月には上洛の途につき、5月25日の湊川の合戦に勝利して室町幕府の礎を築いた。
 九州へ下る尊氏は各地の武士に、足利方に付けば土地を安堵するという書簡を出していた。この時点で既に勝負はついていた。武士たちは後醍醐天皇ではなく、尊氏を選んだ。

 それでは後醍醐天皇は負けたのだろうか。後醍醐は大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。その後の南北朝の時代が、後の天皇制に影響を与えた。

 源頼朝が鎌倉に幕府を開き、その後、承久の乱で天皇方が執権北条氏に敗北して以来、天皇は“治天の君”ではなくなり、その後、後醍醐天皇を挟み、江戸幕府が大政奉還するまで、天皇が天下を治めることはなかった。唯一後醍醐天皇だけが死ぬまで天下を治めることにこだわり、遺言にも残した。
 天皇が政から離れて750年以上(後醍醐からは500年以上)経った幕末に、江戸幕府を倒すために薩長が天皇を担ぎ出したのも、後醍醐天皇の存在があったからこそである。
 形の上では北朝の血を引く明治天皇が、南朝が正統だと言った背景はここにある。そして、楠木正成や新田義貞が天皇の功臣として顕彰され、逆に足利尊氏は逆賊の汚名を着せられた。『全国足利氏ゆかりの会』のみなさんの曾祖父の時代の足利さんは肩身の狭い思いをしていたのかもしれない。

 京都市北区に等持院があり、そこの霊光殿には足利将軍15代の木造が安置してある。幕末に浪士がこのうち尊氏・義詮・義満の三木造の首の部をきり、三条河原にさらした。また、高山彦九郎は足利尊氏塔(宝篋印塔)を足利氏の罪状を数えて鞭打ったと言われる。
 高山彦九郎は江戸時代後期の尊皇思想家で、林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」と呼ばれる。
 尊皇思想による足利一族の受難は理不尽である。
 尊氏は夢窓国師のすすめもあり後醍醐天皇の菩提を弔うために天竜寺を建てている。夢窓国師は政治的手腕も抜群で、尊氏・直義兄弟にすすめて南北朝対立時代の死者の霊を弔うために国ごとに安国寺・利生塔を建てさせている。

 武士の世を終わらせるために天皇を担ぎ出し、逆臣として足利氏を貶め、功臣として楠木正成らを顕彰した明治政府のやりかたは、本来の天皇制まで壊すものであった。歴代天皇の中でも特異な存在である後醍醐天皇の事績が利用された。

 戊辰戦争で佐幕派の武士を倒したのは官軍の武士であったが、武士の世は終わらなければならなかった。


 明治維新後、政府は徴兵制度を導入し武士の特権を奪っていった。日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになったのは山県有朋であった。奇兵隊に参加した山県有朋は下級武士の出であったから、武士階級に反感があったともいう。
 山県有朋は明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では参軍して官軍の事実上の総指揮を執った。西南戦争は不平士族の反乱でもある
 錬度や士気で優る薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗して鎮圧したとされるが、田原坂・吉次峠の戦いでは、薩軍のゲリラ的な切り込みに手を焼き、警視抜刀隊の投入に踏み切らざるを得なかった。平民出身の官軍は日本刀での切り込みに恐怖したという。
 山県は士族出身の警察官を兵力として使いたくはなかったが、剣術に秀でた警察官を選抜して抜刀隊を編成して投入せざるを得なかった。抜刀隊の中には会津出身者もいて、命を惜しまず突入する者も多かったと伝わる。

 西郷隆盛は私学校の若者の説得に失敗した後、決起を促す周辺の者に対し「これもまた天命、おいの命をおまんらに預ける」と言ったと伝わる。
 西郷は最期まで若者たちと運命を共にした。城山で西郷が死ぬときも、「晋どん、もうここらでよか」と言って介錯を受けたと伝わる。
( 関連記事 『旅172 桜島と埋没鳥居・城山公園周辺』 )

 西郷のためなら命を惜しまない薩軍の士気の高さに、山県は軍隊は装備と物量だけでは勝てないことを思い知った。
 陸軍卿である山県は、軍隊にも薩軍の西郷のような精神的支柱が必要だと考えた。そしてその支柱に天皇を選んだ。その後、明治天皇の軍服の写真が増えたという。天皇は国軍を統轄しその精神的支柱になることが求められた。
 そのためには天皇をカリスマにしなければならない。こうして天皇は“生き神様”になることを宿命づけられた。

 敗戦後、天皇は“人間宣言”して“象徴天皇”となったとされるが、天皇という称号そのものが“神の御子”を表すのであれば、いつまた“生き神様”に祭り上げられるかわからないが、神離れが進む現状においては、その心配は杞憂であるのだろう……。 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
旅 674 篠村八幡宮 ハッシー27のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる