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zoom RSS 旅 675 鍬山神社

<<   作成日時 : 2017/06/28 11:33   >>

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2016年 8月18日

鍬山神社(くわやまじんじゃ)

 鍬山神社は、京都府亀岡市上矢田町上垣内にある式内社で、旧社格は府社。通称として「矢田社」や「矢田宮」とも呼ばれる。
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 鳥居の右後方の山が面降山(天岡山)らしい。

現地説明板より
『 鍬山神社
 当社は、和銅2年(709)に創祀されたと伝えられる古いお社で、鍬山大明神または矢田社とも呼ばれていました。平安時代に著された「延喜式」 神名帳にも丹波国桑田郡19座の一つとして記載されています。
 社伝等によると、亀岡盆地が湖だった頃、大己貴命(大国主命)が 黒柄山に八人の神様を集め一艘の樫船に乗り一把の鍬で浮田(請田)の峡を切り開き、肥沃な農地にされたと伝えます。里人はこの神徳を称え天岡山の麓にお祀りしたのが始まりで、名前も開削に使った鍬が山積みになったことから鍬山大明神と呼ばれました。
 また、鍬山大明神の横に祀られている八幡宮社は、永万元年(1165)に誉田神が降臨され、以後祀られることとなりましたが、 両宮の社殿が現在地に建立されたのは慶長15年(1610)亀山城主 岡部長盛の時です。
 なお、当社で行われていた神事芸能の一つに、現在の能楽の源流の一つともなっている丹波猿楽があり、平安京はもとより摂津・河内など各地に出向いて活躍していましたが、天正4年(1576)明智光秀の丹波進攻の混乱により悉く廃れたと言われています。
 その後、歴代亀山城主が神領等を寄進するなど保護に努め、徐々に祭礼が復興しました。10月24・25日の秋の例祭は、11基の山鉾が出て祇園囃子を奏で、 口丹波の祇園祭としても親しまれています。この山鉾行事も藩主と町衆が一体となって守り伝えてきたものです。 』

 当社には鎌倉時代から猿楽の座があったらしく、室町時代に盛んで「丹波猿楽」とも「矢田猿楽」とも称し、楽頭職は代々愛王大夫の名を世襲していたという。説明文には「天正4年(1576)明智光秀の丹波進攻の混乱により悉く廃れたと言われています。」とあるが、それも廃れた原因の一つではあるが、観世座の台頭とともに廃れたようだ。

 鍬山神社は天岡山東麓に鎮座するが、天岡山は面降山(めんこうやま)とも呼ばれる。永万元年(1165)頃、社殿に嫗(老女)の舞楽面が降り、皇居に降った翁面と合わせて神宝として当社に祀ったと言われている。このことから天岡峯は面降山とも呼ばれるようになった。神面一対が神体として残されているそうだ。
 神社に芸能は付きものであるが、座を形成するのはほとんど渡来系の民であった。

 当社は古くから神輿祭・八日祭・庭燎神楽・競馬・相撲・猿楽等といった祭礼が行われていたと伝えられるが、天正4年(1576)に丹波へ侵攻した明智光秀によりそれらの祭礼は廃され、別当寺として大智院(現在は廃寺)が建立され、八つの神田も接収された。
 光秀は善政を行ったと言われるが、寺社には苛烈であったようで、光秀による丹波での寺社領没収はよく耳にする。丹波では明智光秀(織田信長の武将)に逆らう寺社勢力が多かったということであろうか。

 光秀により廃された祭礼も後に復活した。代々の藩主は鍬山神社を尊崇することで民政の安定をはかった。
 10月24・25日に行われる「亀岡祭」(以前は亀山祭)は“ミニ祇園祭”として知られる。古くは旧暦9月25日が神幸祭、30日が還幸祭であった。
 延宝9年・天和元年(1681)に亀山城主・松平忠晴から神輿が寄進され、「矢田社之祭法」が決められた。これに対して各町で山鉾を造った。
 新町・旅籠町の稲荷山、柳町の高砂山、本町の三輪山、西町の八幡山、塩屋町の蛭子山、紺屋町の武内山、矢田町・京町・上矢田町の難波山、呉服町の浦島山、北町の鍬山、三宅町の翁山、西堅町の羽衣山の11基の山鉾が巡行する。
 藩主と繋がりをもつ点などが京都の祇園祭と異なるが、口丹波では第一の祭りだとされる。
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 「浦島山」、「羽衣山」など丹後地方(713年以前は丹後は丹波に含まれた)の伝説が入っているのが面白い。





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 赤い鳥居と拝殿の間には川が流れている。
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 右側の池の中の小島には厳島社が祀られていた。
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 鍬山宮と八幡宮の本殿は同じ垣内に鎮座し、鍬山宮は向かって左、八幡宮は右に位置する。両宮は同一の形式・規模であり、造営時期も江戸時代の文化11年(1814)と同じである。両宮とも京都府登録文化財に登録されている。
 鍬山宮は寛正3年(1462)以来の棟札を現存しているそうだ。
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現地説明板より
『 鍬山神社 八幡宮(客神)
御祭神 誉田別尊(応神天皇)
 永万元年(1165年)5月8日天岡峰上に戒衣を着、弓矢を執る神人が天下られ、その託宣により本宮(鍬山宮)の相殿に祀られたと伝えられる。
 しかし、それ以後毎夜雷風が起こり、戦闘殺伐の声空中聞こえ、明け方境内に鳩と兎の死骸が多く、里人は両神の不仲によるものとそれぞれ二棟の本殿に分けて祀ったと伝えられる。
 現今の檜皮葺きの権現造の社殿は本宮鍬山宮と同じく文化11年の官営である。(京都府登録文化財)
 八幡大神の影向石(天下り岩)が、天岡山北赤子谷の上にあり、阿闍梨寛純師が建立。三上龍山が銘文を記している。
御神徳 武運長久の神 勝運の神  』
 
 説明文に、「それ以後毎夜雷風が起こり、戦闘殺伐の声空中聞こえ、明け方境内に鳩と兎の死骸が多く、……」とあるが、この二神は殺し合うほど不仲とは怖ろしいことである。
 神紋は鍬山宮が大国主命に因み“兎”で、八幡宮は通例通り“鳩”である。それぞれの本殿にも付いている。その兎と鳩が殺し合うというのだから尋常ではない。

 慶長14年(1609)に両宮が現在地に遷された後も、争いを防ぐために両宮の間に小池が設けられているという。鍬山宮と八幡宮の間にある小池を確認するのを忘れてしまったた。 
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現地説明板より
『 鍬山神社 鍬山宮(主神)
御祭神 大己貴命(大国主)
 伝説によると、神代の昔、丹波の国は、泥沼の水の底に沈み、里人の生活は厳しいものであった。
 大己貴神(大国主)、大山咋神以下八柱の神を黒柄嶽に神集いされて話し合い、樫田の地より樫船に乗り、一把の鍬を挙げ、保津請田あたりを切り拓き、湖水を干拓して肥沃な農地とした。
 里人は神徳を尊び、また、使った鍬が山積みしたことにより鍬山神社と名付け、此の地に祀られたと伝えられている。
 当社は、国初より鎮座し、延喜式内の旧官社である神代鎮座の霊場として、大宝の神籍に編入せられて、銅和2年(709年)社殿を建立と伝えられる。
 寛正年間の棟札が現存し、現在の桧皮葺きの権現造の社殿は、八幡宮と同じく文化11年の官営である。(京都府登録文化財)
御神徳 農業及び諸産業、商売繁盛、縁結び、学業、医療の神
 社伝によると、特に祈雨の加護があったと伝えられる。  』

 本殿の形式は一間社流造で、千鳥破風を有し、正面に一間の唐破風造の拝所を付属している。


 鍬山神社は、当初は面降山裏手、現社地から北西800mほどの医王谷にあったという。
 面降山には山頂にかけて小祠が点在しており、山頂には八幡宮が降臨したという影向石が残る。周辺には古墳も多く、多くの古代遺跡が残る。また三宅地区は屯倉が設けられたという伝承から国衙ないし郡衙があったという説もあり、面降山が一帯の祭政との関わりが指摘される。
 社伝では鍬山宮の創建は和銅2年(709)といい、奈良に遷都したのが710年であることを考えればかなり古い。
 社伝では四道将軍の一人の丹波道主命や継体天皇が幣を捧げたというが、俄には信じられない。口丹波の古社であることからの伝承であろう。

 当社の旧鎮座地の医王谷の名は、平安時代の名医、丹波康頼が住んで薬草をつくったから名付けられたという。康頼は丹波天田郡の人で坂上姓、矢田郷を領有し、当社に祈って医技を磨いたと伝えられ、後に針博士・医博士となり、丹波宿禰の姓をもらった。我が国最古の医者で永観2年(984)に日本最古の医学書である『医心方』三十巻を著した。世人は彼を医王と呼び、その住居地を医王谷と呼んだという伝承がある。旧藩主松平氏が薬草を栽培した処ともいう。
 坂上姓と言えば、坂上田村麻呂に代表される渡来系氏族である。当社と関わった者には渡来系の人が多かったのであろう。
 医王谷に住んでいた医王・丹波康頼は当社に社田として、楽田・油田・華田・八日田・相撲田・馬場田・雑用田・奉射田の八種の田を献上したことから、八田と呼ばれた。当社は現在京都府亀岡市の上矢田町に鎮座するが、「八田」は後に源頼政が当地を拝領するにあたって「矢田」に改めたという。

 927年成立の『延喜式神名帳』には「丹波国桑田郡 鍬山神社」と記載され、式内社に列している。永万元年(1165年)に八幡神が合祀されたのは、平安末期の八幡信仰の流行によるものなのだろうが、すんなりとはいかなかったようだ。

 この八幡神の合祀には源頼政が絡んでいるように思われる。美福門院の家人であった源頼政は、平治の乱(1160)では平清盛らと二条天皇方について勝利する。この平治の乱で河内源氏嫡流の源義朝(頼朝の父)は敗死する。

 摂津源氏の源頼政は晩年には従三位に叙せられ武士としては破格の高位につき公卿に列した。当然、河内源氏の領地で源頼政のものになったものもあったであろう。
 源頼政が八田の地を拝領して矢田と改めたのは、八幡神が合祀された永万元年(1165)頃だったのではないだろうか。
 河内源氏の源頼義が、亀岡市篠町にある篠村八幡宮を創建し社地を寄進したのは延久3年(1071)とされる。この河内源氏の領地も源頼政のものになったのかも知れない。
 源頼政は治承4年(1180)に平家打倒のために以仁王が挙兵したのに参加し、敗れて宇治平等院で自害した。


 その後、当社は次第に衰え、天正4年(1576)には丹波へ侵攻した明智光秀により社地も接収された。
 慶長14年(1609)、亀山城主の岡部長盛が現在地に新社殿を造営して遷し、社地も寄進した。寛永16年(1639)には藩主の菅沼定房から社領が寄進された。
 維新後は、明治6年(1873)に近代社格制度において郷社に列し、昭和3年に府社に昇格した。


 境内の左手奥から面降山(天岡山)へ上る道があるようだが、崖崩れがあり危険であるとの立て看板があったので上るのをやめた。
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 盆地にはいわゆる蹴裂伝説をもつものがあるが、この亀岡盆地もその一つだ。当社の社名の鍬山神社も開削に使った“鍬”から起こっている。
 私の育った長野県にも蹴裂伝説が多い。私が訪れた主な蹴裂伝説を持つ神社は、甲府盆地の佐久神社などがあるが、兵庫県豊岡市出石町にある出石神社の祭神・ 天日槍命 にも円山川河口の岩石を切り開き、豊岡盆地の水を流したという蹴裂伝説があった。天日槍命は鉄の男でもある。

 亀岡盆地内には亀岡市と南丹市園部・八木両地区があり、国道9号及び嵯峨野線沿いに人口・産業・商業が集中している。
 盆地からの水の流出口は京都市方面への保津峡のみである。そのため、保津峡の排水能力が限界に達すると保津峡口にある地域、特に地盤の低い南側の亀岡市街地は冠水(湛水洪水)しやすくなっていて、近年まで度重なる洪水に見舞われている。現在は上流に日吉ダムができたため、大きい洪水は起こっていない。

 亀岡盆地は太古は湖であったと言われ、それに基づく伝承が各地に残っている。
 地質学的には、鮮新世・更新世頃まで標高280mほどの湖であったことが確認されており、周辺の山体には一部平らになっている段丘地形も見られる。
 また、地形と地質から、その後も何度か湖や沼地であった時代が繰り返されたものと考えられている。現在においても、盆地は保津峡がひとたび塞がれば湖に戻る地形をなしている。ただし、当地にいつまで湖が残っていたかは定かではない。
 この湖に関して、大国主命が保津峡(古くは浮田峡)を開削、湖の水を抜き盆地を開拓したという伝承(蹴裂伝説)が、盆地周辺の神社数社で伝わっているが、それらの伝承は各社で多少異なっているという。
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 近世には第二の鍬山大明神が現れた。
丹波から京への産物の輸送は人馬頼りであったが、安土桃山時代から江戸時代初期の京都屈指の豪商である角倉了以が、保津川の舟運を用いることを計画した。それまで急流と巨岩の続く保津川ではわずかに木材の筏流しが行われていたに過ぎなかった。
 1606年(慶長11年)に、角倉了以は幕府から河川改修工事の許可と通航料徴収などの権利を得て工事に着手し、わずか5か月で完成させると高瀬舟が通えるようになった。
 この舟運も1899年(明治32年)の京都鉄道(のちの山陰本線)の開通などの陸上輸送の発達によって、1948年(昭和23年)頃までには姿を消したが、今は観光用の「保津川下り」が有名である。
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 果たして保津峡を開削したのは大国主(大己貴)であろうか。大己貴命の招集した八神の中で、私が知り得たのは大山咋だけであるが、大山咋は出雲神なのだろうか。他の神はどんな神なのであろう。
 また、この八神は出雲国における10月(神無月)の会合には出席せず、鍬山神社に会したという。
 開削には鉄器が必要であろう。鉄の男と言えばスサノオを連想する。
 亀岡祭は“ミニ祇園祭”として知られるという。京都の八坂神社(祇園社)の祇園祭は有名である。その八坂神社(祇園社)の主祭神はスサノオ(牛頭天王)である。スサノオには八王子がいたとされる。
 
 当社の祭神である大己貴命の招集したのは八神、丹波康頼が献上したのは八田で、“八”という数がつきまとう。
 鍬山宮の主祭神はスサノオだったのではないかと勘繰りたくなる。

 私が参拝したのは朝の7時半頃だったが、地元の人が何人も参拝に訪れていた。みんな八幡宮と鍬山宮を参拝して帰って行く。まるで祭神が誰なのかなどは気にかけていないようにも見える。おそらく地元の人にとっては鍬山神社の神は、当地を開拓してくれた鍬山大明神以外の何ものでもないのであろう。
 私のように訝しげに本殿の中を覗き込むような参拝は、不敬なのかもしれない。

 境内には多くの紅葉が植えられ、紅葉の名所でもあるという。紅葉を愛でるように、いつか旅の終わりには虚心坦懐に神を拝みたいものである。

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