ハッシー27のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 旅 665 大慈寺 と 村檜神社(2)

<<   作成日時 : 2017/06/01 20:03   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

2016年 6月7日
大慈寺 と 村檜神社(2)

 ここにやって来たのは、円仁の修行した寺を見ることもあるが、それ以上に隣にある村檜神社に興味があったからである。
 村檜神社(むらひじんじゃ)は栃木市岩舟町小野寺にある式内社で旧郷社である。下野国の三の宮だとされる。因みに下野国の一の宮は宇都宮市の二荒山神社と日光二荒山神社であるが、二の宮はどの神社か知らない。

 下野国の式内社は12社(名神大社1・小社11)あり、都賀郡 3社(大神社、大前神社、村檜神社)、河内郡 1社(二荒山神社)、芳賀郡 2社(大前神社、荒樫神社)、那須郡 3社(健武山神社、温泉神社、三和神社)、寒川郡 2社(阿房神社、胸形神社)であるから、その中に二の宮があるのだろうが、一の宮制度そのものが公式なものではないので、二の宮、三の宮を求めることはそれほど意味があることではないのかも知れない。
 示した神社の合計は11社であるが名神大社1社を宇都宮市の二荒山神社と日光二荒山神社が争っているし、大神社の論社が大神神社と太平山神社の2社ある。式内社は12社12座(名神大社1・小社11)あるとしながら、記載で確認できるのは11社しかないようだ。もう一つを高椅神社(小山市高椅)とする史料もあるようだ。

画像

現地説明板より
『 岩舟町指定文化財(天然記念物)
 村檜神社社叢  昭和47年4月1日指定
 646年(大化2年)に熊野大神と日枝大神をむかえて祀られた村檜神社の祭神は誉田別命です。
 延喜式内社の一つに数えられ、本殿は三間社春日造、屋根は檜皮葺で1553年(天分22年)に建てられたものです。
 1908年(明治41年)に、国の重要文化財として指定されました。
 神社の境内は広大で、参道両側の杉などの社叢は樹齢1000年にも及ぶと思われます。
 平成13年3月  岩舟町教育委員会 』

 説明板では“天分22年”となっていたが、“天文22年”の誤りである。岩舟町教育委員会の名で出している説明文なので、老婆心ながら早急に訂正した方がいいだろう。

 社伝によると、第36代孝徳天皇の御宇、大化2年(646)9月29日、熊野大神・日枝大神を勧請して創建されたという。
 平城天皇の御宇、大同2年(807)、皆川村の小野口に鎮座していた八幡宮を合祀した。また、清和天皇の御代(858〜876)、皆川村字八幡沢に八幡大神を勧請したが、この地が不浄のため、光孝天皇の御代(884〜887)に勅して当地に合祀し、陰暦8月15日を以て大祭日と定めたとされる。
 つまり、元々は熊野・山王を主祭神としていたようだが、二度にわたり八幡宮を合祀し、主祭神を誉田別命に替えたようだ。もっとも八幡大神も奈良時代以前は誉田別命ではなかったようだが……。

 村檜神社の現在の祭神は、誉田別命 熊野大神 大山咋命の3柱である。この熊野大神が、熊野三山のどの神なのかはっきりしていないが、おそらくスサノオであろう。
 また、現在の日吉大社は西本宮(大己貴神)と東本宮(大山咋神)からなるが、西本宮の祭神・大己貴神については、近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため三輪山の大神神社の神が勧請されたとされるので、元々祀られていたのは東本宮の大山咋神である。古く勧請された日枝神社の多くは大山咋神を祀る。

 隣にある天台宗の大慈寺の鎮守として山王権現が勧請されたのではないようだ。大慈寺の創建が737年で、村檜神社の創建が646年とされることからもそのことは分かる。
 しかし、後から合祀された誉田別命の方が上位になっていることに、中央の神まつりの介入が見え隠れする。日吉大社でも現在は西本宮の大己貴神の方が東本宮の大山咋神よりも上位に置かれている。 日吉大社は2012年の九州への旅の帰りに訪れているが、もう一度訪れて調べてみる必要を感じている。

 私が結婚式を挙げた赤坂の日枝神社も主祭神は大山咋神である。この赤坂日枝神社の創建の年代は不詳であるとされるが、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるともされる。そうであれば、天台宗の寺が鎮守として山王を勧請したものであるから、祭神は大己貴神であってもよいはずだが、やはり鎌倉時代頃までは日枝大神といえば大山咋神のことで、大己貴神は相手にされていなかったようだ。

 2008年6月13日に、「赤坂日枝神社内巫女強姦事件」があった。これは社内で巫女が神職に強姦された事件である。神幸祭の慰労会で権禰宜が巫女に約2時間飲酒を強要した挙げ句、その後に社務所地下二階にある男子禁制の女子参篭室(女子更衣室)に侵入して、彼女を脅して強姦した。
 この事件の影響でイメージダウンした日枝神社は結婚式が減ったのではないだろうか。サービスに努めるため2009年より七五三の御祈祷をした参拝者に女子には巫女姿のリカちゃん人形を、男子にはオリジナルチョロQを記念品として渡すようになったというが、イメージの回復はできたのであろうか。
 
 1995年(平成7年)3月20日(月)に地下鉄サリン事件が起きた。私はその前の土曜日か日曜日に結婚式の衣裳合わせで日枝神社に行くため地下鉄に乗っていた。めったに東京へ出かけることがないのに、地下鉄サリン事件とニアミスであった。
 また、2012年12月2日に「笹子トンネル天井板落下事故」が起きたが、私はその数日前に笹子トンネルの上り線を通過していた。
 自分ではどうしようもない運命があるようで、こんな時こそ“神頼み”をしたくなるものだ。
画像

現地説明板より
『 村檜神社
 大化2年(646年)に建立され、誉田別命、熊野大神、大山咋命が祭られています。延喜5年(927年)に制定された延喜式(法律の施行細則)の中の神名帳に記載されている延喜式内社で、下野国の三之宮として長い歴史があります。
 本殿は、室町時代に建立された三間社春日造という珍しい様式で、屋根は桧の皮を重ね竹釘を用いている桧皮葺(ひわだぶき)です。明治41年国の重要文化財の指定を受けています。
 環境庁・栃木県  』

 延喜5年は905年で927年ではない。927年は延長5年である。延喜式神名帳は延喜5年頃から記載が始められ927年(延長5年)に完成しているので、927年を延喜年間だと勘違いしている説明文をよく目にする。
画像

画像

画像

 石段を上がったところに長屋門のような神門がある。
画像

画像

画像



 拝殿はなく、垣の中に本殿があり垣の正面の門で参拝することになる。
画像

画像

画像

 国の重要文化財として指定されている本殿は三間社春日造、屋根は檜皮葺で天文22年(1553年)に建てられたという。破風を正面に向け向拝を付け、両脇に流れる檜皮葺の勾配は優雅である。平成17年度から18年度にかけて屋根の葺き替えを行い、往時の姿を取り戻したという。
画像

画像

 本殿には確かに3柱祀られているようだ。中央が誉田別命ということになるのだろう。村檜神社は通称「村檜八幡」と呼ばれているそうだ。
本殿の西南側の柱には、埋め込みの工法で左甚五郎作と云われる「瓜」が刻まれているというが、中に入れないのでよく分からない。瓜と云えばスサノオを連想する。

 諏訪岳南東麓に鎮座する村檜神社には、関東一といわれた大檜があったが、大正末年に枯れてしまったそうだ。当時は高さ80m、直径5m、樹齢2000年以上だったという。社名の村檜神社の「檜」はこの大檜からきているのであろう。
 この大檜ほどではないが、境内には杉の巨木が多い。
画像

 神社などで、御神木などの巨木の写真を撮ることが多いが、一人旅なので人と一緒に巨木の写真を撮ることができない。 比較することができないので巨木の大きさが伝わらない。この杉の木は私の撮ったこれまでの御神木の中で大きい方ではないが、人と一緒に撮った写真がネットにあったのでお借りして掲載しておく。
画像




 ここで神社本庁から買った「平成 祭データ」から引用する。この「平成 祭データ」は製作・著作は神社本庁になっているが、研修中のある神社の神職が作ったようで、ソフトは「ファイルメーカー」を使っている。少し高かったが、買うときに「結構、誤字脱字が多いですが、いいですか」と訊かれたのを思い出す。私の古いパソコンにはファイルメーカーが入っていたので編集できたのだが、買ったときに使っていたパソコンには既にファイルメーカーは入っていなかったので直接編集はできないが、データを直しながら使っている。

『 創祀は孝徳天皇の御宇大化2年(646年)と伝えられ、熊野大神、大山咋命二柱を祀り、 佐野庄小野寺10郷(小野寺、上岡、下岡、三谷、新里、古江、下津原、駒場、鷲巣、畳岡)の総鎮守として崇敬され、 のち平城天皇の御宇大同2年(807年)に皆川村小野口に鎮齋せる八幡宮を当社に合祀、主祭神と仰ぐ。
 醍醐天皇の御宇延喜年間には勅命により、国内神社を調査せし時にその撰に入り、全国2861社の延喜式内社に列せられる。
 藤原秀郷公、唐沢山に築城の際当神社が鬼門に当ることから守護神として、厚く崇敬し、天慶2年(939年)平将門叛せし時、藤原秀郷公これを亡ぼし村桧神社の御神徳の賜ものであると奉幣且つ弓矢を奉納、又永代70貫文を奉り特に尊信した。(下野国誌。)
 現在の社殿(本殿)は室町後期の建物で三間社春日造屋根は桧皮葺にして国の重要文化財の指定を受けて居り、造営に付いては小野寺領主、唐沢城主、足利義持等があたったと伝えられている。なお崇敬極めて厚く、下野国式内三之宮として今もなお崇敬せられている。 』


 境内社はいくつもあったようだが、本殿に向かって左側奥の西宮神社にまとめられているようだ。この西宮神社は小野寺七福神の「恵比寿神」になっているので、恵比寿神を祀っているのであろう。
 兵庫県西宮市にある西宮神社は「えびす大神(西宮大神・蛭児命)」を祀るが、恵比寿神には蛭児命系と事代主命系があることに注意する必要がありそうだ。
画像

画像

画像

 西宮神社の右手からは奥へ続く道があった。諏訪岳へ続く道であろうか。
画像

画像



 『式内社調査報告』では、昔は村檜神社の境内社は11社だったが、8社を西宮神社へ合祀したとされる。合祀されていない神社は、住吉神社、織姫神社、厳島神社の3社らしい。
 住吉神社は石段の途中の左手の小さな祠に祀られている。織姫神社は火災で焼失し、厳島神社は台風で失い、再建されていないという。

 再建されていない神社は、何れも女神を祀る神社である。再建されないのは意図的なのだろうか?
 実は村檜神社の御神徳は、子授け子育て、学業成就、五穀豊穣だとされ、古くから地元ではこの御神徳を以て信仰されてきたという。
 この御神徳のなかで、「子授け子育て」と「五穀豊穣」は女神に負うところが大きい。にもかかわらず女神を祀る神社の再建が成っていない。
 私は、この神社の根元にはこの地方で祀られてきた地母神がいるのではないかと考える。それは水の女神でもあったかもしれない。

 ここで気になるのが、小野寺という地名からも分かるように小野氏の存在である。
 滋賀県大津市小野にある小野神社の祭神は、天足彦国押人命と米餅搗大使主命だが、天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)は、『日本書紀』では第5代孝昭天皇皇子で、第6代孝安天皇の同母兄、第7代孝霊天皇の外祖父で、和珥氏(和邇氏/丸邇氏)・春日氏・小野氏ら諸氏族の祖とされる。
 また『古事記』では、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造ら諸氏族の祖としている。

 天足彦国押人命の同母弟である第6代孝安天皇の名は大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)である。この頃は末子相続であるから弟が大王の位を継いだのであろう。


 赤坂日枝神社は大山咋神を主祭神とし、相殿に国常立神、伊弉冉神、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。この足仲彦尊とは仲哀天皇のことで、日本武尊の子で誉田別命(応神天皇)の父とされるが……。
 応神天皇の母は神功皇后(息長帯比売命)だろうが、父が仲哀天皇であったかは怪しい。また、『古事記』でも『日本書記』でも仲哀天皇は52歳で亡くなったことになっているが、日本武尊(景行天皇43年死去)から逆算すると、仲哀天皇は父・日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり矛盾するので、仲哀天皇が日本武尊の子であることも怪しい。
 父の日本武尊も正妃の神功皇后も実在性が乏しい人物であることから、仲哀天皇自身の存在も疑問視されている。
 私は天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)と足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)の名前が似ていることが気になる。「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀(足仲彦尊)の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明天皇(田村皇子・息長足日広額天皇)、35代皇極天皇(宝皇女・天豊財重日足姫天皇)の両天皇が共通して持つ。
 そして、舒明天皇と皇極天皇(重祚して斉明天皇)は天智天皇の父母にあたり、奈良朝の天武天皇の系統が称徳天皇で途絶えたのに替わり、平安朝を開いた桓武天皇が天智天皇の曾孫であることを考える時、天智天皇 − 施基親王(志貴皇子)− 光仁天皇 − 桓武天皇 と繋がる系図が一応現天皇家に繋がることは興味深いことである。 つまり、現天皇家は形の上では天智天皇の末裔ということになる。
 天皇家を“万世一系”と思っている人はいないが、男系で隔たりがある場合は前王家の皇女を必ず正后にして関係を維持する努力を怠らなかったのは事実のようだ。

 また、仲哀天皇の正妃とされる神功皇后は『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后(おおたらしひめのみことこうごう)と記される。
 ここに景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である武内宿禰が絡んでくるから、伝説はさらに複雑になる。
 『古事記』では、第8代孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたのが建内宿禰(武内宿禰)であるとし、孝元天皇皇孫にあてている。武内宿禰は、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
 武内宿禰の終焉の地は鳥取県鳥取市国府町とされ、そこにある宇倍神社に祀られている。

 「タラシヒコ」「タラシヒメ」を名告る人物は、何れも金属系渡来氏族を代表する人物像で朝鮮半島との関係性が濃厚だ。朝鮮半島との海峡を往還した海人族の末裔でもあった可能性が高い。
 特に聖母(しょうも)とも呼ばれる伝説の神功皇后は、父は第9代開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛とされ、自身も三韓征伐を指揮して海峡を渡っている。
 開化天皇から神功皇后へ繋がる父方の系図は、開化天皇 − 彦坐王 − 山代之大筒木真若王 − 迦邇米雷王 − 息長宿禰王 − 神功皇后 となり、息長氏は金属系渡来氏族の末裔とされる。また、神功皇后は母系でも天日矛の末裔であることから、正に金属系渡来氏族を地でいっている。 新羅王子天日矛は兵庫県豊岡市出石町宮内にある出石神社で祀られている。
 また、彦坐王の子に丹波道主命がいることも息長氏と日本海勢力との繋がりを感じる。 丹波道主命は『日本書紀』では「丹波道主命」「丹波道主王」、『古事記』では「丹波比古多多須美知能宇斯王」と表記され、第9代開化天皇の孫で、第12代景行天皇の外祖父とされる。四道将軍の1人で、丹波に派遣されたという。 四道将軍とは大彦命、武渟川別命、吉備津彦命、丹波道主命の4人を指す。


 神功皇后は九州へ出兵するとき敦賀から向かったとされ、気比神宮常宮神社に濃厚に神功皇后の事蹟が残る。 神功皇后の実在性は疑われるが、その子の応神天皇の存在は肯定的なのはなぜだろう。
 また、『日本書紀』にはこの神功皇后が邪馬台国の卑弥呼の時代の人のような記述があるのが気になるところだ。
 天日矛や神功皇后、武内宿禰の事蹟が日本海側に多く残り、そこで祀られていることを考える時、神功皇后は日本海勢力に支えられ、九州遠征、三韓征伐を通して北九州の豪族や瀬戸内海の豪族をも糾合してヤマトに凱旋したのかもしれない。

 そして神功皇后の子である応神天皇の御宇に、弓月君(秦氏の先祖)や阿知使主(あちのおみ、倭の漢直の祖)など多くの渡来人が海峡を渡って来日していることが注目される。
 15代応神天皇自身も九州で生まれヤマトに遷っている。そもそも初代の神武天皇は九州からヤマトへ東遷したとされるのだから、記紀では天皇家の故郷が九州であることを隠さない。初期の天皇家を支持したのは北九州や山陰・山陽地方の豪族たちであったのかもしれない。


 長野で育ち神奈川に住んでいる私は、関西の地理に暗い。しかし、2012年頃から西日本へも出かけるようになり、琵琶湖から日本海は思っていたより近いことを実感している。最近も山陰を通って北九州へ出かけたが、東名・名神を通り米原から日本海側へ抜けた。

 古代の流通が水運に頼っていたことを考える時、琵琶湖は日本海側からヤマトに通じる大道だったのだろう。

 湖北はまだ旅していないが、湖東・湖西・湖南の一部は旅をして興味深い地域であることを実感した。
 比叡山延暦寺は湖西にあるが、湖西には、日吉大社、小野神社、白髭神社が鎮座し、古くはお互いに何らかの関係を持っていたようである。そして小野氏は金属氏族であると同時に水の女神を祀っていた節がある。

 ここで注目されるのが、大慈寺の守護神として祀られていた小野寺稲荷大明神のことである。この女神は、「特に子授け、子供の身体安全、学業成就など子供に関するお願いにお力をお授けになられます。」と書かれていた。
 村檜神社で消された女神を、小野寺稲荷大明神として大慈寺で祀っていたのではないだろうか。祀ると云うよりも供養していたのかもしれない。

 朝廷は自らの神まつりの支障になる神を消す祭祀方針を貫いてきた。天台座主も3世の円仁からは太政官が官符をもって任命する公的な役職となった。円仁は朝廷の祭祀方針に沿って、都合の悪い神々を神仏習合の名のもとに仏の陰に隠し消す運動をやってきたが、その霊性までは消さないでむしろ守ったのかもしれない。それは文武天皇から鎮護国家の法師に任じられた泰澄も同じだったかもしれない。白山信仰の中には水の女神の幻影が色濃く残る。


 「栃木県神社誌」によると、村檜神社では10月17日の例祭と元旦祭には依田流太々神楽が奉納されるという。村檜神社太々神楽講社が結成されたのは安永2(1773)年九月、時の大宮司 寺内式部大夫昌俊が始めたもので、以前より奉納されていたものを講社に組織化し、代々、社家が奉納してきたが、現在は氏子に伝授されている。この神楽は無言にして神楽歌等一切なく、笛・太鼓・鼓に調子を合わせて舞うのが特徴であるという。現在の宮司さんも寺内さんである。

 依田流太々神楽といえば、栃木市都賀町家中に鎮座する鷲宮神社の依田流太々神楽は市指定無形民俗文化財である。
 鷲宮神社に伝わる神楽は伊勢神楽の流れを汲む依田流太々神楽といい、神社焼失・洪水等により歴史は定かではないが、鎌倉時代幼い頼家がとりせき(百日咳)を患った際母親である二位尼君(政子)が鶏肉と卵を断って鷲宮神社の御神前に祈願をしたところ無事病気が回復したとされ、その御礼にと正月初酉の日、佐々木四郎高綱を使いとし御神馬と舞を奉納したと伝えられている。
 これも政子と頼家の母子の逸話が依田流太々神楽の舞に残ることを示していて、女神の存在を感じさせる。因みに鷲宮神社の祭神は、天日鷲命、大己貴命、豊受姫命、火産霊命である。

 鷲宮神社への政子の使いとなった佐々木四郎高綱は、源平合戦で活躍した佐佐木源氏の一員で、宇治川の戦いにおける梶原景季との先陣争いで知られる。佐々木高綱は母親を通じて源頼朝、源義経、源義仲らと従兄弟にあたる。子孫は出雲佐々木氏(隠岐流)の一門として出雲国内に分封されたという。末裔に乃木希典がいる。
 佐々木四郎高綱など佐々木氏が祀る神社が、沙沙貴神社である。この沙沙貴神社では、少彦名命・大彦命・仁徳天皇・宇多天皇・敦実親王を祀る。
 私は沙沙貴神社のブログで神功皇后が少彦名命を祀っていたことに触れた。日本海側と琵琶湖周辺と旧河内周辺(応神や仁徳の古墳があるとされる地域)は渡来系氏族との繋がりを抜きにしては語れない地域である。

 頼家がとりせき(百日咳)を患った際、母親である二位尼君(政子)が鶏肉と卵を断って鷲宮神社の御神前に祈願をしたところ無事病気が回復したとされるが、政子の育った伊豆半島の杉桙別命神社(河津来宮神社)には、「鳥精進、酒精進」の行事があり、氏子は毎年12月18日より23日まで禁酒し、鳥肉・卵を食べないという。これを破ると火の災いがあるという。この神社周辺にも隠された女神の存在が濃厚であった。



 日本の神まつりは古くは男神と女神をセットで祀ることが多かった。その男女神は夫婦や姉弟(兄妹)、母子であったのだろう。
 村檜神社の消された女神のことはともかく、現在祀られている誉田別命、熊野大神、大山咋命の3柱も意味があるセットであったのだろう。
 熊野大神がスサノオだとすれば、スサノオも鉄の男であり新羅へ渡っている。
 村檜神社に熊野大神と大山咋命が祀られていて、そこに誉田別命(応神天皇)が合祀されたのは、あながち無意味なことではなく、この3柱が金属に関係した神であり、渡来系氏族の祀る神という共通性があったからなのかもしれない。
 また、熊野権現、山王権現、八幡大神は何れも神仏習合の強い神であったことも注目される。 


 村檜神社の近くを東北自動車道が通るが、東北自動車道をくぐった反対側に、慈覚大師独鈷水御堂があるというので行ってみたが、車を降りて少し歩かなければならない場所で、駐車場もないので諦めて帰った。しかし、そこのいくらかの水田がある山間部のバス停に「羽田」の名を見付けた。この羽田はおそらく秦氏に繋がる地名ではないだろうか。この地も早くから渡来人が入植した地なのであろう。もちろん円仁も壬生氏出身であるから渡来系の人であったのだろう。
画像


 「慈覚大師独鈷水御堂」については、場所の雰囲気が分かる写真があったので、ネットから写真をお借りして載せておく。
画像

画像

画像

画像

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
旅 665 大慈寺 と 村檜神社(2) ハッシー27のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる