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zoom RSS 旅 666 高平寺 (栃木県栃木市岩舟町)

<<   作成日時 : 2017/06/04 18:04   >>

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2016年 6月7日

高平寺 (栃木県栃木市岩舟町)

 大慈寺と村檜神社を訪ねた後、みかも山霊園 高平寺(こうへいじ)へ行ってみた。この寺は慈覚大師円仁が9歳まで養育された寺だとされる。
 栃木県栃木市岩舟町下津原にある高平寺は開基は不詳だが、昔は末寺18ヶ寺を従えて、1600年(元和1年)天台宗から真言宗に改宗したという。
 栃木市岩舟町は平成26年に栃木市に合併されるまでは、下都賀郡岩舟町であった。
 真言宗の寺になったせいか、円仁のことを喧伝している様子はなかった。
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 面相智水の池が本堂の左奥にあった。「面相智水の古井戸」は円仁ゆかりの井戸らしい。
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 高平寺の北約500mの所の三毳山(みかもやま)の山麓に、高平寺別院の誕生寺があり、そこが円仁の生誕地だと云われているので行ってみた。三毳山は古くは三鴨山と書いたらしい。
 行ってみると「岩舟観光マップ」も掲示されていて駐車場もトイレもあるのだが、入口の案内などが不十分で、わずか500mなのに辿り着くまでに2度ほど場所を訊いた。
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 壬生寺や大慈寺と同様、ここもライシャワーさんが訪れている。
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現地説明板より
『 慈覚大師誕生の地
 平安時代随一の学僧であり、日本天台宗興隆の一大貢献者である慈覚大師は名を円仁といい延暦13年(794)の秋ここで誕生された。
 生家壬生氏は崇神天皇の第一皇子豊城入彦命の子孫といわれるこの地の名族であった。堂前の古い井戸は大師誕生当時のもので、この井戸水で産湯を使われたと伝えられている。昔は、この井戸の水は、諸願成就息災延命の利益があると伝えられていた。
 今この附近の地名は、手洗窪であるが、昔は盥窪といわれていた所である。
 ここより南約1.5kmの山麓に高平寺があり、この寺の文書では、大師が大慈寺に弟子として入る前、9歳までこの寺に留まり養育されたといわれ、今も「大師行の井」「面相智水」等の旧跡あり、寺宝として大師自筆の童形絵僧が所蔵されてる。また、ここより北約3kmの所に大師母公の居住されたと伝えられる実相院跡がある。
 昭和47年4月  岩舟町教育委員会  』
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碑文より
『 感謝の碑
 この地は慈覚大師がお生まれになった所です。その業績を称えるために私たちの先人は、この地に御堂、宝塔、そして慈覚大師誕生霊蹟碑を建立されました。
 それ以前から毎年5月1日を誕生日と定め、盛大な誕生会が催され、出店も出て老若男女がにぎわいのなか、信仰を通して心やすらぐ一日を過ごしました。しかし、第二次大戦という日本史上最大な不幸な出来事の後、その行事も衰退し、忘却の中に消えようとしていました。細々と高平寺の総代がその灯を消すことなく守ってきました。
 昭和の末期、平和と繁栄を取り戻した時、人々はふと立ち止まって思いました。そして気がつきました。豊かな心が欠落しているのではないかと。それはこの町でも同じでした。
 郷土の生んだ世界史的偉人慈覚大師を、そしてその偉業を再確認しよう。これは豊かな心を取り戻そう、そして後世にも伝えようという思いの表れでした。それは平成2年11月23日、慈覚大師顕彰会の設立となり結実しました。
 ここに慈覚大師の略歴を記しておきます。
 延暦13年(794)この地で生まれる。9歳まで高平寺で養育される。
 大同3年(808)比叡山に登り最澄の弟子となる
 承和3年(836)第17次遣唐使として入唐
 仁寿4年(854)延暦寺座主となる
 貞観6年(864)71歳比叡山にて死去する

 慈覚大師誕生地に関する文献を紹介しますと次の通りです
三代実録  延喜元年
慈覚大師伝 天慶2年
日本往生記 寛和年中
慈覚大師誕生伝説地盥窪考 服部清道 叡山学報第17輯 昭和14年3月1日
慈覚大師の真の誕生地について 田島髀メ@日本仏教学協会報大11年、昭和14年5月15日
慈覚大師誕生地考 田島髀メ@密教論□第16 17合併号 昭和14年6月15日
岩舟町と慈覚大師円仁 福井康順 岩舟町教育委員会 昭和47年 4月1日

 本会は大師誕生千二百年を期に次の事を主目的としました。
 郷土が生んだ世界史的偉人慈覚大師を永久に顕彰し、地域住民の郷土愛の喚起に寄与すること、慈覚大師の像を建立すること。  』


 円仁の誕生が都賀郡のどこであったかに言及した最古の書物は、順徳天皇(1197〜1242)の撰による「八雲御抄」だとされる。 それには「みかほの関」(三鴫の関)を「慈覚大師の誕生するところなり」とある。

 通説では、円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)の関家、 大慈寺の大檀那であった駅長、壬生首麻呂(おびとまろ)の家に至りみれば異香薫して男児が誕生した。 首麻呂の次男春雄(はるお)、後の慈覚大師円仁誕生。」となっている。
 また「私聚百因縁集」という書物では、慈覚大師が関守の子であるとされているそうだ。
 三毳山は三鴨山でも安蘇山でもあったのだろうか。ここから見える三毳山の写真を撮った。
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 平成に入ってからは「熊倉系図」が再認識され、慈覚大師の父君の東山道三鴨駅家(みかものうまや)の駅長という地位や、壬生首麻呂(みぶのおびとまろ)との氏名まで判明している。
 円仁の俗姓である壬生氏一族は、崇神天皇の皇子、豊城入彦命の後裔を称する一族と言い伝えられ、 平安初期まで都賀郡を勢力下に置く豪族だったとされる。
 円仁生誕地とされる盥窪は「三鴨の駅家」のあった下津原で東山道の要所にある。東山道はこのあとおよそ20Kmごとに駅家が置かれ、「国府」(栃木市惣社)脇を通り急に北上し「衣川(今の宇都宮市石井町)」、「新田」、「磐上」、「黒川(那須)」とつながる。
 壬生一族は東山道の三鴨駅から国府の間に勢力を張っていたらしい。円仁は学識が高かっただけでなく、出身の壬生氏の後援を受けて関東や東北へ天台宗の教線を延ばすことができ、それが天台座主の要職へも繋がったようだ。


 円仁は、歴史的文献では「都賀郡」に生まれたとされる。都賀郡での誕生地としては、「壬生町説」と「岩舟町説」との二説がある。
 今日、大慈寺へ行こうと車を走らせていて、偶然「壬生寺」の前を通ったので立ち寄ったが、この壬生町の壬生寺が円仁誕生地の一つとされている。

 壬生町が円仁の誕生地であるという説の根拠は、「円仁の俗姓が壬生だったから」が根底にあるようだが、円仁が生まれた延暦13年(794)の頃は現在の壬生町は上ノ原(かののはら)、野州荒間地(やしゅうあらまち)などと呼ばれていたようだ。(はっきりした延暦13年頃の地名は分からないが、室町時代までは上ノ原とか野州荒間地などと呼ばれていて、壬生ではなかったことは確かだという)
 この地が壬生と呼ばれるようになったのは寛正3年(1462)10月太政官大使(書記官)小槻晨照(おづきあきてる)庶子として生まれ、のちに壬生を名告った壬生筑後後守胤業(たねなり) がここに土着し壬生城を築いてからとされる。
 「壬生町説」の流布は16世紀以降で、壬生城主の壬生氏は日光山輪王寺(天台宗)の檀那であったことも影響あるようだ。また、岩舟町にある高平寺が江戸初期に天台宗から真言宗へ改宗したことの影響もあるのかもしれない。
 円仁の出身の壬生氏と壬生町の町名の元となった壬生氏とは別系統であるということから「壬生町説」の根拠は弱い。文献や学術的には「岩舟町説」でほぼ間違いないようだ。
 
 高平寺別院の誕生寺にある慈覚大師顕彰会が建てた「感謝の碑」の碑文が、慈覚大師誕生地に関する文献まで紹介して、生誕地であることを強調している意味が何となく分かった気がする。

 岩舟町観光協会のホームページに「慈覚大師 円仁の誕生地としての岩舟」があり、参考になったのでリンクを張っておく。


 三毳山よりも、東側に見える岩船山の方がその山容が目を引く。
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江戸時代から始まった岩舟石の採掘で、現在のような山の形へ変わったという。
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