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zoom RSS 旅 667 桜町陣屋跡 と 桜町二宮神社

<<   作成日時 : 2017/06/07 10:40   >>

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2016年 6月7日

桜町陣屋跡 と 桜町二宮神社

 栃木県真岡市物井にある桜町陣屋跡は、二宮尊徳が桜町領の復興事業(桜町仕法)を行った役所跡で、国指定史跡となっている。
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現地説明板より
『 桜町陣屋は、二宮尊徳(金次郎)が活躍した場として知られています。文政6年(1823)、二宮尊徳は小田原藩主大久保忠真の命により、疲弊した桜町領を復興するために、相模国栢山村(神奈川県小田原市)からやってきました。尊徳は、この地で報徳仕法と呼ばれる独自の農村経営法と思想哲学を編み出し、26年もの間、ここを拠点に、桜町をはじめ近隣の村々の復興につくしました。
 桜町陣屋は、元禄12年(1699)、小田原の大久保家を本家とする旗本の宇津家が、野州桜町4千石を治めるために設けた役所です。
 尊徳がいたころの陣屋は、周囲を土塁で囲まれた中に、主屋をはじめ、長屋や書物蔵などが建っていたと、記録にあります。主屋は増築を繰り返しつつ、現在まで伝わっています。また、「報徳田」と呼ばれる水田や畑もありました。
 整備事業は、発掘成果と当時の記録を基に、尊徳の時代の陣屋の姿を復元しました。主屋のほか土塁や水路、水田などを修復、復元し、発掘調査で確認できた付属建物の位置を表示しています。
 真岡市教育委員会  』
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現地説明板より
『 国指定史跡 桜町陣屋跡 
 元禄12年(1699年)に旗本の宇津家(小田原藩の分家)が桜町三ヶ村(現在の二宮町物井、横田、真岡市東沼)を治めるためにもうけた役所跡です。
 二宮尊徳は文政6年(1823年)に小田原藩大久保忠真の命でこの桜町陣屋に赴任し、以後26年間ここに住み、桜町三ヶ村をはじめとする600あまりの幕府・藩の領地や村々の復興に尽くしました。
 環境省・栃木県  』

 桜町三ヶ村(物井、横田、東沼)は、西の五行川と東の小貝川に挟まれた地域にある。
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現地説明板より
『 報徳田と建物跡
 尊徳が活躍していた頃、陣屋内には「報徳田」と呼ばれる水田がありました。陣屋の日記には「御陣屋内田植え」「御陣屋内報徳田一番田の草取り」などと記されています。
 発掘調査では、主屋の西側に、明治9年(1876)の地籍図の地番境にそった形で、田圃の周囲の段差や畦道の跡が見つかりました。尊徳の時代の絵図が見つかっていないため、現在わかる一番古い姿として、この発掘成果によって水田を復元しました。
 水田の東寄りに、矩形に地固めしたところが見つかり、付属建物の跡と考えられています。陣屋の記録には「御役所裏板蔵」・「裏米倉、屋根葺き替え」などとあります。 』
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現地説明板より
『 この建物は、二宮尊徳が桜町領復興の拠点として、居住したものです。文政6年(1823)の尊徳着任時に建設されました。
 建物は、数度の改築や修復を経ています。一時期、現在の建物より西側に建物が伸びていたことも、発掘調査などから分かりました。
 平成9年から12年の建物解体修復工事では、これまで地元の人々が大切にしてきた経過を尊重し、尊徳が居住した天保10年(1839)当時の姿に復元しました。この年に屋根の茅を葺き替えていますが、その記録と現在の規模が一致するためです。
 真岡市教育委員会  』
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現地説明板より
『 足洗池
 尊徳は毎日朝早く起きて、村の中を巡回(廻村)しました。会う人に声をかけ、農家に立ち寄り、ときには営農指導や生活指導をしました。日が暮れて陣屋に上がる際に、尊徳が足を洗った池と言われています。 』
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  陣屋の東側の桜町二宮神社との間には、今も桜町用水が流れているが、北と西側にも堀と土塁があったそうだ。
 尊徳は桜町陣屋の外堀を用水堀(新堀川)として改修したという。


現地説明板より
『 桜町陣屋の尊徳
1823年(文政6年) 
 3月28日、二宮金次郎は小田原城主の命令を受け、桜町三か村(物井・横田・東沼)を建て直すため、妻子と共に桜町陣屋に入る。名主役格 37歳。
 朝早く起き、夜おそくまで働くこと、粗衣、粗食に耐えること、荒地の開墾を指導し、村民に報徳の教えを広める。
1829年(文政12年)
 成田山に21日間こもって桜町建て直しを願い断食する。
 天保3年から7年まで飢饉が続き、全国でも餓死する者が多数でた。金次郎は飢饉に備えて、普段から一人あたりヒエ5俵を蓄えさせておいたため、領地内からは一人も餓死する者がなかった。
1836年(天保7年))
 金次郎、桜町仕法を完成する。
 この年、烏山の人々870人を飢えから救う。このとき桜町から送られた米は、1243俵、ヒエ234俵、種モミ171俵といわれる。
1837年(天保8年)
 下館地方が大飢饉に襲われる。そこで下館藩主は桜町陣屋に使いを出し、金次郎に仕法を頼む。しかし、金次郎は既に茂木、鳥山、茨城県青木村、谷田部村及び小田原藩の仕法を進めていたのでことわる。
1838年(天保9年)
 下館藩主自らの手紙による頼みとあって、金次郎は下館の仕法をはじめ、その後30年も続けられた。これによって借金8875両を返すことができた。
1842年(天保13年)
 金次郎、幕府から「ご普請役格」に任命される。
1843年(天保14年)
 7月、真岡及び陸奥小名濱の代官に属し、真岡陣屋の駐在となる。この頃より名前を尊徳と定める。
1847年(弘化4年)
 5月、真岡東郷陣屋に移る。金次郎、桑ノ川の第一次開発をする。常陸国棹ヶ島、花田村の仕法に着手する。
1852年(嘉永5年)
 桑ノ川の第二次開発をする。4町歩(4ヘクタール)の耕地開発。
1853年(嘉永6年)
 真岡代官附を免ぜられ、日光奉行手附拝命、日光神領の復興を命ぜられる。6月赴任し、八十有余村を巡回する。
1856年(安政3年)
 金次郎、今市で亡くなる。(10月20日 巳の刻)
1885年(明治18年)
 3月、桜町陣屋跡の前に二宮尊徳の「報徳訓」の碑を建てる。
1905年(明治38年)
 桜町二宮神社を創建し、11月17日を祭日とする。
 書 一円融合会 長谷川直人  』
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現地説明板より
『 伝・八幡宮跡
 平成15年(2003)の発掘調査で、小さな建物の礎石が見つかりました。周辺からは17世紀後半から18世紀前半の灯明皿や香炉、仏飯器が出土しており、宗教的な建物の跡と考えられます。
 八幡宮と稲荷宮があったことが、江戸時代の記録にみえ、明治時代の古写真には、主屋の北東に、鳥居と2つの社が写っています。
 明治38年(1905)の50年祭の時に、この2社を合祀し、報徳二宮神社が創建されました。さらに、昭和10年(1935)には、桜町二宮神社として隣接する敷地に遷宮され、現在にいたります。みつかった礎石は、明治38年に合祀された報徳二宮神社のものと考えられます。 』


 桜町陣屋跡の横には桜町二宮神社があった。
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現地説明板より
『 桜町二宮神社
 二宮尊徳没後50年の明治38年(1905年)に、二宮尊徳の遺徳を偲び、霊を祀って隣の桜町陣屋内に創建されました。
 昭和11年(1936年)の二宮尊徳没後80年に現在の位置に移り、社殿も新たになりました。
 毎年、二宮尊徳の命日である11月17日(旧暦の10月20日)に祭礼が執り行われます。
 なお、当神社の南の蓮城院には、二宮尊徳のお墓があります。
 環境省・栃木県  』
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 桜町二宮神社の鳥居の左側には「二宮尊徳資料館」があり、入館料は無料なので入った。
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 館内の展示は撮影禁止だったが、入口の展示だけ写真を撮らせてもらい、資料も買った。
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館内入り口掲示より
『 二宮尊徳は天明7年(1787)相模国足柄上郡栢山村(小田原市)の農家に生まれ、通称金次郎という。幼いときに両親を亡くし、伯父の家に引き取られた金次郎は、日夜一生懸命に働き、暇を惜しんでは勉学に励み、弱冠24歳の時、独力で一家を再興した。
 また、小田原藩家老・服部家の立て直しにも成功するなどして、高い才能を藩主・大久保忠真公に認められ、文政5年(1822)野州桜町(現・真岡市 物井・横田・東沼)復興の命を受け、翌6年(1823)一家そろって桜町陣屋に赴任してきた。
 当時の桜町は、4000石といわれていたが、実質は1000石にも満たないほど田畑は荒れ果てて、農民の心も疲れきっていた。尊徳は早朝から一軒一軒訪ね歩き、勤勉を勧め、農具を与えるなどしてさかんに表彰を行い、農民たちの心に出精心を引き起こそうと努めた。また、自ら先頭に立ち、用水路や堰や橋などの改修を行った。
 最初は暗礁に乗りあげていた仕法も次第に実を結び、実収が1000俵にも満たなかった桜町は、3000俵を越える豊かな村に生まれ変わった。
 尊徳が自ら体得し、編み出した「至誠」「勤勉」「分度」「推譲」の4つの教えは、天保の大飢饉にも生かされ、多くの人々を救済した。37歳から26年間働き盛りを過ごした桜町時代は、尊徳にとって最も充実した時期で、報徳仕法の実践とともに、その名は全国に知れわたった。 』

 買った資料には、「至誠」「勤勉」「分度」「推譲」の4つの他に、「積小為大」「一円融合」の教えも書かれていた。
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 金次郎は、正式には金治郎と書いたという。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、有職読みで「そんとく」と読まれることが多い。
 金治郎は百姓の出で、後に士分に取り立てられたので、初めから名字帯刀が許されたわけではないだろう。二宮と名告ったのは尊徳を名告る頃からではないだろうか。
 二宮と名告ったのは、古くは酒匂川と関係があったのではないかと考える相模国の二宮「川匂神社」に由来すると考えていたが、案外桜町陣屋に八幡宮と稲荷宮の2つの宮があったことに由来するのかもしれない。

 相模国には、金治郎の親戚で名主の二宮七左衛門がいるということから、桜町に来る前から二宮を名告っていた可能性はあるのだが、正式に二宮尊徳を名告るのは御普請役格として幕府に登用された後の57歳からだと言われるので、私の説もあるかもしれない。

 金治郎は文政4年(1821年)、小田原藩主大久保家の分家・宇津家の旗本知行所であった下野国芳賀郡桜町が荒廃しているということで、その再興救済を藩主より命じられた。
 文政6年(1823年)、金治郎は田畑や家財をすべて売り払い、「一家を廃して万家を興すなり」という不退転の決意で桜町の復興のために一家そろって桜町にやって来た。その後26年間を桜町で過ごすことになったので、桜町は金治郎にとって第二の故郷であり2つの宮があった陣屋や桜町への思い入れはかなりのものがあったのではないだろうか。
 桜町陣屋へ着任したとき金次郎は名主役柄・高5石二人扶持の待遇、移動料米50俵・仕度料米200俵50金を給されたと伝わる。

 金治郎が小田原藩で認められたのは、24歳で独力で一家を再興し、その後、家老の服部家の家政の建て直しを依頼され成功したことである。その力量を見込まれ、小田原藩主に分家・宇津家の再建を命じられた。

 再建はすんなりいった訳ではない。役人や村民の抵抗にあって難航していたが、徐々に成果を挙げた。金治郎は身長が6尺(約180センチ強)を超えて、体重は94kgあったと言われているが、自ら率先垂範して村民を引っぱったという。
 金治郎は宇津家の収入と支出を見直し“分度”を作成した。殿様奥方の小遣を半分、用人の給与を約四分の一、等々厳しい制約を策定し、殿様は承諾し実践して宇津家の立て直しに成功した。
 後に隣の青木村に再生を頼まれたが当主の青木家が“分度”を守らなかったため、なかなか効果が上がらなかったという。

 身の丈にあった生活をすることは重要である。歳入以上に歳出が多ければ赤字になることは当たり前である。そんなことは子供でも分かることだが、実践するのは難しいようだ。現在の日本の国家財政も歳出が歳入を上回り、その差額を国債という借金で穴埋めしている。家庭や企業では赤字が続けば破産や倒産となるが、国家は雪だるま式に借金が増えているにもかかわらずつぶれることはない。大名が大名貸から借金を踏み倒し棒引きするように、国家もいつかは理不尽なことを行うのだろうか。
 国家財政は借金を抱えているにもかかわらず、首相が外遊する度に国際援助と称し多額の資金を提供している。それらは国民の血税であり、国内でまだまだ支援を必要としている地域はなおざりにされている観がある。
 抵抗勢力と戦いながら財政再建を成し遂げるような現在の二宮尊徳は現れないのであろう。

 分度は村にも課せられたので、村人らに反感を持たれた。1829年(文政12年)、金治郎は桜町から姿を消し突然行方不明になった。その時に村人は金治郎の存在の大きさに気がついたという。
 実は金治郎は成田山に21日間こもって桜町建て直しを願い断食修行していたという。修行を終えて戻ると村人らの反感もなくなっていたという。

 桜町でのエピソードには次のようなものがある。
 金治郎がナスを食べたところ、まだ夏の前なのに秋のナスの味がしたことから、その年は冷夏になることを予測し、村人たちに指示して冷害に強いヒエを大量に植えさせたという。予測した通りその年は冷夏となり、天保の大飢饉が発生したが、桜町ではヒエの蓄えが十分にあったおかげで餓死者が出なかったという。
 実際には冷害の数年前からヒエの作付を準備させていたことが分かっている。金治郎は飢饉に備えて、普段から一人あたりヒエ5俵を蓄えさせておいたという。先見の明があったことが分かる。

 桜町での実績が評価され、金治郎は天保13年(1842年)幕府に召し抱えられ、翌年、幕府直轄領(天領)下総大生郷村の仕法を命じられ、弘化元年(1844年)には日光山領の仕法を命じられる。
 翌年、下野真岡の代官山内氏の属吏となって、真岡に移住。日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していたが、3度目の病を発し、安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて69歳で没した。


 二宮尊徳資料館は、合併前の2000年に二宮町の施設としてにオープンした。二宮町の名前は二宮尊徳に由来する。昭和29年に芳賀郡長沼村、久下田町及び物部村が統合したとき、栃木県知事の意見を入れて、二宮尊徳の功績をたたえて二宮町となったという。
 二宮町は2009年(平成21年)に真岡市に編入合併され、無くなった。この地域から桜町の名や、二宮町の名は消えたが、桜町陣屋跡にある「桜町二宮神社」の名に永遠に残り、そこには二宮尊徳が祀られている。

 栃木県と言えば「とちおとめ」や「とちひめ」の名でイチゴが有名だが、旧二宮町は市町村別の生産量日本一を誇っていたそうだ。この地でイチゴ栽培が始まったのは1950年代で、桜町陣屋跡近くには「二宮いちご発祥の地」の碑も建っているそうだ。
 この地域でイチゴを生産する農家は連携がとれ結束力が強いと関係者が言うが、深層に二宮尊徳の教えが今も生かされているのかもしれない。

 イチゴは赤いから、乙女や姫のイメージなのだろうか。私はそれだけではないような気がする。この地域の深層には二宮尊徳の教えより深い深層に水の女神が眠っているように感じる。
 二宮の地に人が住み始めたのは縄文時代で、土器や石斧などが出土する。古墳時代の豪族の墳墓も各地にみられ、当時大和朝廷の支配下におかれ、物部地区は物部氏の領地であったことがうかがえる。
 平安時代後期、平将門の乱で将門を討った藤原秀郷が下野守に任じられ、その一族が下野国において勢力を拡大した。秀郷の子孫の小山政光の次男宗政が1184年(寿永3年)長沼地区に長沼城を築き長沼姓を名乗る。
 戦国時代には下館城主水谷蟠竜斎が、久下田地区と隣接する筑西市樋口に久下田城を築城し、木綿織を奨励するなど、後の久下田町の基礎を築く。

 私は、桜町という地名が気になる。さらにすぐ隣の茨城県桜川市の名が気になる。2005年(平成17年)、西茨城郡岩瀬町、真壁郡真壁町・大和村が合併して、桜川市が誕生した(新設合併)。市名は市内に発し市域を縦断して霞ヶ浦へ注ぐ河川・桜川に由来する。

 桜町三ヶ村(物井、横田、東沼)は、五行川と小貝川に挟まれた地域である。この桜町や桜川の「桜」は、川と関係する女神を暗示する。近いうちに桜川周辺を旅してみたい。

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