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zoom RSS 旅 669 大前神社(2)

<<   作成日時 : 2017/06/10 11:32   >>

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2016年 6月7日
大前神社(2)

姫神神社・荒樫神社があった。
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現地説明板より
『 姫神神社 荒樫神社
御祭神 神屋楯比賣神 事代主神
 御祭神の神屋楯比賣神(かむやたてひめのかみ)は、大国主神の妃神様です。そして事代主神は、大国主神と神屋楯比賣神のお子様です。
 姫神様は御名の通り神の屋形を守護する姫神で、美しく光輝き、長久の言霊を顕現し、心と面立ちを美しく磨く象徴の神様です。
 平安時代、延喜5年(905)から全国各地を代表する神社が撰上され、下野国は11社、芳賀郡は大前神社・荒樫神社の二座が「延喜式神名帳」に記された。
 宝永6年・天明3年・慶応2年の社記等には、大前神社神苑に鎮座と伝え、当社が比定されています。
 神屋楯比賣神御神徳 女性守護・健康美顔(面鏡石の神水で、頬や手足を洗うと良いと言われています)
事代主神御神徳 幸運長久・心願成就   』

 式内社に比定されている荒橿神社が栃木県芳賀郡茂木町小井戸にあり、国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊を祭神とするが、異論があり荒樫神社は大前神社の相殿に合祀されたという説もある。国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊の3柱は神世七代の神であり現実味に欠ける。

 説明文には「芳賀郡は大前神社・荒樫神社の二座が「延喜式神名帳」に記された。」と書いてあるが、大前神社がこんなに立派に祀られているのに、合祀されたと伝わる荒樫神社が本殿の後ろに姫神神社と共にこんなに小さな社に祀られていることに違和感を感じる。やはり、芳賀郡茂木町小井戸にある荒橿神社が式内社なのだろうか。

 姫神は神屋楯比賣神で神の屋形を守護する姫神だとされ、水の女神ではない。そして、当社では荒樫神社の祭神は事代主神とされているようだ。
 現在、大前神社の祭神は、大国主神と事代主神とされているが、「延喜式神名帳」には大前神社一座とあるので、始めから2柱祀られていたわけではない。果たして大前神社と荒樫神社に祀られていた神は、どんな神だったのだろう。本当に大国主神と事代主神だったのだろうか。

淡島神社があった。
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現地説明板より
『 淡島神社
御祭神 少名毘古那神 息長帯比賣(神功皇后) 例祭2月8日 4月3日
 大国主神と共に国造りをされた少名毘古那神は、神功皇后の窮地を救ったことから、女性の守護神と信仰されています。
 仁徳5年、天皇が淡島神社の遷宮を3月3日に行われ、雛の語源が神名に由来し、男雛・女雛の原型が少名毘古那神と神功皇后の神像であることから、雛祭り始まりの神社とされています。裁縫を伝えたことから、2月8日には、縫い針を供え、お祓いの儀を行います。
 御神徳 婦人病平癒・手芸上達  』


 明眼神社と云って石が祀られていた。
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現地説明板より
『 明眼神社
御祭神 事代主神 薬師如来  例祭 10月9日・10日
 本社は平安前期、神苑に当叡山千妙寺の別寺を建立し、後境内に神宮寺を構えた。
 江戸時代は、「大前権現・大明神」と称し、「荒樫大明神の本地仏」を薬師如来として参拝した。
 明治維新と同時に神仏分離し、「明眼神社」と改称し、今日「明眼さま」と尊ばれ、眼病やボケ封じなどの頭部疾患の守護神として信仰されている。
 御神徳 眼・鼻・耳・口の五感回復 ボケ封じ  』

 平安時代には、最澄が開基した天台宗の東国の拠点である茨城県関城町の東叡山に関わる大前山般若寺(東叡山千妙寺の末寺)が当社の別当寺を担っており、「大前山金剛院千妙寺」が別当宮寺として造営された。大前山般若寺は慈覚大師円仁が開山したと伝わる。
 円仁が最澄の弟子になる前に15歳まで修行していた寺は大慈寺であり、そのすぐ隣には村檜神社があった。
 村檜神社の現在の祭神は、誉田別命 熊野大神 大山咋命の3柱である。村檜神社も延喜式神名帳に載る式内社で、都賀郡 3社(大神社、大前神社、村檜神社)の1つだ。芳賀郡の式内社 2社は、大前神社と荒樫神社であるが、都賀郡にも式内社の大前神社がある。こちらは、栃木市藤岡町大前字磯城宮に鎮座し、祭神は於褒婀娜武知命で配神として神日本磐余彦火々出見命を祀る。於褒婀娜武知命は大己貴命のことで、大国主命(大己貴命)と同じである。異説で祭神を豊城命(豊城入彦命=崇神天皇の皇子)とする説がある。


 当社は神仏習合の基で、“薬師如来”を配し本地堂を営んでいたと記録に残る。
 説明文に“「荒樫大明神の本地仏」を薬師如来として参拝した。”とあることから察するに、荒樫大明神は薬師如来と習合する神であったようだ。一般的には薬師如来と習合する神はスサノオである。荒樫大明神とは事代主ではなくスサノオであった可能性が出て来た。当社では摂社の荒神社に須佐之男命が祀られている。

 天照大神が女神ではなく男神であるという説は前からある。円空などは天照大神を男神として彫っている。
 スサノオが女神であるという説はほとんど聞かないが、私は池宮神社のブログで次のように書いた。
「 古代においてスサノオ以外に天王と呼ばれる神がいたのではないかという予感が私にはある。
 祇園社が明治初年に八坂神社に変えられたとき、牛頭天王はスサノオに差し替えられたと言われるので、本来の天王はスサノオではないのかも知れない。
 馬頭観音と牛頭天王はどこかでセットだったのではないだろうか。何だか馬は男、牛は女のイメージがあるのだが……。 」

 瀬織津比当ス・事代主命・建御名方命を祀る池宮神社は、江戸時代は“池宮天王社”と呼ばれていた。この池宮神社にも天台宗の介入があった。



 大前神社の境内摂社の中でユニークなのは、足尾山神社である。
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現地説明板より
『 足尾山神社
御祭神 猿田彦大神 天宇受賣命  例祭 10月27日
 猿田彦大神は、天孫降臨に際し道を開かれた神様です。
 当社は大大神楽では、真っ赤な面立ちに大きく高い鼻と白く長い髯を蓄え、長い鉾を自在に操り邪気を祓い、天空を舞われる雄姿で登場します。全国の夏祭りや祭礼行列の先頭で導かれる姿は有名です。
 天宇受賣命は、天の岩屋戸隠れの際、踊りで神々の笑いを誘い、再び世界に日の光を戻された神様です。
 天孫降臨の折、待ち受けていた猿田彦大神に問い質すなど、たおやかで優美な女神だが、誰にも気後れしないと讃えられました。その後、猿田彦大神の妻になったとも伝えられています。
 猿田彦大神御神徳 交通安全・足腰健康
 天宇受賣命御神徳 芸事上達・夫婦和合   』
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 この足尾山神社は日本唯一の二輪車交通祈願の神社だという。奉納品もバイクに関係するものであった。
 バイク愛好家の崇敬者の提案により建立された末社で、県内外から多くのライダーが参拝に訪れるという。
 雑誌『ミスターバイク』に連載している『空ちゃんの旅』の主人公の「空ちゃん」は、真岡市出身の萌キャラだという。
 奉納されていたフィギアが「空ちゃん」だろうか。
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 ネットで調べてみたら全然違っていた。
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 大前神社では毎年「空ちゃん参集」なるものが行われ、多くのライダーが訪れると言う。私もバイクに乗る一人である。つい最近7万km以上乗ったホンダのCB400を250のスクーター(スカブ)に乗り換えた。もう峠を飛ばす年齢ではないので、静かに走ろうと思ったからだ。
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 当社の公式ホームページには以下のようにあった・
『  二輪車交通安全祈祷のご案内
 バイクや自転車を購入された際、または、遠距離ツーリングや自転車レースの前に、大前神社で二輪車交通安全のご祈祷を受けてみませんか?
 大前神社の境内には、全国の二輪車守護発祥の神社である、足尾山神社が鎮座しています。境内では年に一度全国のライダーが集う参集が催されており、一年間の交通安全を願い、バイクのお祓いを受けていただいております。
 バイクや自転車は、自らの身体の如く扱いながら気持ちの良い走りを楽しめる乗り物ですが、その分、事故の際の危険性も高い乗り物です。安全というかけがえのない礎を大切にしていただきたいと願っております。
 バイクや自転車は、そのまま境内へお進みください。
 総合案内所までお進みいただきますと、職員が停車位置をご案内いたします。
(ロードバイク用の自転車スタンドもご用意しております。)
 祈祷料は5千円、7千円、1万円、2万円以上からお選びいただけます。 』

 誰が仕掛けたか、神社も商売上手になったものだ。


現地説明板より
『 延喜式内 大前神社
御祭神
 大己貴大神(大国主大神)
 事代主大神
 天照大御神
 八百万大神
例祭
 春祈年祭 3月28日
 秋大祭 11月9日・10日
 新嘗祭 11月27日
 お神楽奉奏
格式  延喜式内社 明治期〜県社
若宮
 日本一えびす様
 大前恵比寿神社

 五行川を御手洗川とする当社は、芳賀地方の惣社として奈良時代神護景雲元年(767)麗しい大前の杜のこの地に、再建され鎮座します。福の神様の大己貴大神、別名大国主大神さまと御子神事代主大神さまのご神業は、母神神屋楯比賣神さまと姫神たちの助力を得て、艱難を乗り越え国土の開拓を成就された事は有名です。そして御子神の事代主大神さまに託し、無事国譲りを果たされました。
 ご神徳は福の神様として宏大で、開運招福の神威高く、家内安全・厄災方除・五穀豊穣・商売繁盛・健康長寿・縁結びのご利益を頂けます。
 延暦17年(797)国司祭神社に選ばれ、次いで、延喜式の格式を得ました。
 平将門公や勝道上人を始め、東国武将の誉れ高き芳賀氏から稲葉氏・大久保氏などの各真岡城主の尊崇篤く、ご朱印地等が奉納されています。
 現存する御社殿は天和3年(1683)と元禄から宝永年間の造営です。
 本殿は桜井瀬左衛門・藤田孫平治棟梁の下、天下の名工島村哲円ら彫刻師の日本彫刻史上に残る秀麗な御本殿彫刻は、龍神を始め仙人像など多岐に亘ります。
 なかでも、当社神使の鯉の姿は、清流に泳ぎ、竜門を登り龍に変化したもので鯉仙人と共に必見です。
 二宮尊徳翁は、当社神宮寺に籠もられ、御手洗川の大前堰からの分水となる穴川流域を、文政5年より復興事業を進め完遂されました。
 明治19年(1886)には、桜町二宮神社が創建され、国土再生の守護神となられました。翁先生起業の地である穴川用水口を望む神社神地にも前社殿を遷移し、大前二宮神社として鎮座しています。
 ご神宝は、ご祭神所縁の大国神像と恵比寿神像を始め、太刀と真岡城主芳賀高継公奉納の平家物語や大般若経・銅燈籠等の栃木県文化財などが現存します。
 最新の日本一えびす様の大前恵比寿神社は殊の外有名です。
 平成25年10月2日、伊勢神宮では第62回式年遷宮新宮遷御の儀が厳粛に斎行され、当社では第60回神宮造営材を拝領し、皇太神宮と摂社末社の造替整備を進め、御社殿廻の整備を完遂致しました。遷宮記念の神域環境整備による「大前神力苑」が整い、幸せ参りが叶います。
 春には、昭和期に篤志家2名から奉納された寒紅梅が香りたち、夏には鳥や蝉の鳴き声が真岡市夏祭り・荒神祭を称え、秋にはお神楽や大日堂獅子舞が秋祭りの風情を醸し、正月節分には沢山の信心家の皆様が熱心に祈念される姿を言祝(ことほ)ぎます。
 一年を通して、月に一度のお宝骨董市が開かれ、日本文化のお宝発見が楽しめます。
 毎月1日と15日には、午前6時から拝殿昇殿の上、月次祭にご参加できます。 』


 ここで「平成祭データ」から引用する。
『 由緒沿革概要書
 社伝によれば、当大前神社は、芳賀郡と若色郷(若績郷)古聖(こひじり)、鏡田等地名の発祥地にして、社名祭神の霊跡に起源し、(社家別当代官の交代により、古代の創立の事、文蹟に詳かでないが)古くから大内庄三十三郷の総社として、宏大な社領の中に壮厳なる社殿を営み、大利根の支流、鬼怒川、五行川、小貝川、3川の間湖沼に点在する田畑丘陵に恵まれ、農林漁労豊富な中心地に位置し、周辺非常なる繁栄の中に、北は氏家、南は常陸真壁郡一帯にまで崇敬圏が及び、延喜の制下野国11社の内に撰定せられた式内名社である。
 神護景雲元年社殿を再建す。常陸国真壁郡坂東の東叡山黒子千妙寺の末寺として現存する大前山般若寺縁起にも「当山は大前山金剛院と称し、創立は清和天皇の貞観4年慈覚大師の開基にして、古聖に建立千妙寺と号せり。野州芳賀郡鎮守大前神社別当也云々」とある通り、古くから神仏習合し、薬師如来を配し本地堂を営み、明治初年廃仏毀釈まで神仏混淆す。
 即ち代々の神職祠官祝詞を奏し玉串を奉り、別当は大般若経を転読し護摩を焚き、天長地久国家安穏、晴雨順次、五穀豊穰家内安全を祈願す。
 爾来、豪族城主代官と、地元氏子民の力を合せ、代々その都度改築修理再建を重ねて今日に至る。
 降って、平将門殊に崇敬厚く、為に天慶2年関東に下りて戦を起すや、合戦勝利の祈願を真岡大崎大明神にかけて、其の勘行を五行川の水辺に為せりと云う。
 ついで65代花山天皇寛和元年(985)、清原滝口蔵人吉澄(天武天皇皇子舎人親王8代の後胤)の子 大監物 清原高重 天皇の勅勘を蒙り、芳賀郡に配流され、社領内の大内京泉に居館し当社を尊崇せられた。
 高重6世の子孫 高澄は、若色の郷(当神社の東隣の地)に居城し、康平6年(1063)、勅免に依り上京を許され、滝口蔵人に復職し、芳賀氏を称し始祖となり、当社を尊崇せられること益々厚きを加えた。
 芳賀高澄7代の孫、高親に至り、当社の南に御前城を築き従来より引続き22代芳賀十郎清原高定に至るまで、当社の社領守護職を兼ね、豪族城主として代々厚く尊信された。
 殊に現存する社宝の中で、14代左兵衛尉芳賀禅下入道 清原高名は、観応2年北朝足利氏の武将として戦功あり、南北和議に際し、当社に平和祈願の為に太刀一振を寄進す。
 天正16年23代清原高継は、真岡の東台地(現在の城山真岡小学校敷地)に芳賀城を築くに先だち、当社別当大前山般若寺能海に写筆させた平家物語大前神社本12巻を同年8月寄進し、平和祈願の為奉納す。
 更に高継は、これより先、天正元年11月17日兵火により社殿炎上し悉く烏有に帰したのを嘆き、仮殿のままなりし当社本殿並に本地堂改築の大事を氏子と共に進め、文禄2年正月完成した。
 慶長の始め24代芳賀高武が山形に去り、芳賀城主欠所と同時に、境内と鏡田、芳賀沼、古聖を除く社領の大半を没収せられ、式微となったが、徳川家康公は、当社の由緒を重んぜられ、慶長九甲辰年所領丈量の際、伊奈備前守忠次をして当社に黒印8石を寄進せられ、寛永4年、稲葉佐渡守正成初代城主として越後国糸魚川より入城するや、篤く当社を崇敬せられ、未完の工事を受継ぎ大補修せられたとも云われる。
 稲葉正成正勝父子二代に亘りて、真岡在城の折は、殊に当社を尊崇し、神饌料(鏡田芳賀沼外)8石7斗3升7合を寄進せられ、慶安元年9月17日、三代将軍家光公日光社参に当り、朱印高8石を下され、次いで寛文10年11月17日領主稲葉美濃守正則(当時相州小田原在城、小田原侍従と称す)より、先規の神饌料、除地状を下附され、従前より式微となったが、漸く維持を完うし、拝殿の再建工事を進め、氏子民と力を合せ、元禄の始め未完ではあったが現在の如く完成を見た。
 尚、屋根葺替の外、重なる修繕は、宝永2年(本殿彫刻完成)、享保(本殿拝殿鳥居)、宝暦(拝殿)、享和2年(拝殿)、天保10年(本殿)、慶応2年(本殿)、明治23年(本殿)、大正3年(拝殿)、昭和24年本殿の修理屋根替の工事を致し、更に昭和55年より昭和の大修理を目論見氏子崇教者の寄進と栃木県真岡市の補助を合せて昭和61年4月9日、本殿遷座祭、翌10日、竣工奉祝祭を斎行、本殿、拝殿、祝詞殿、神輿殿、両部鳥居、瑞垣、参道等一新して現在に至る。
 二宮尊徳、小田原城主大久保忠真の家老宇津家の所領桜町4000石復興の為、物部桜町に派遣せられるや、復興事業遂行の為、穴川上流大前堰に至り、真岡代官山内総左ェ門に乞い、当大前神社領、東郷陣屋手附を命ぜられ、天保14年57歳より嘉永3年64歳まで報徳仕法完成の歳月を大前神社別当神宮寺に仮寓し、陣屋に勤務し或は諸地方の仕法に着手助言を行う。
 在住の朝夕当社に参拝し、難工事の大前堰と穴川の改修を完了す。
 明治6年郷社、同10年8月県社に昇格、明治25年8月内務省より、古社寺保存資金下附、昭和9年11月恩賜幣帛料下賜せらる。
 昭和21年宗教法人令により登記する。宗教法人法施行により継承登記し現在に至る。 』

 当社には中世以降、芳賀氏が大きくかかわったようだ。
芳賀氏は、当社の東に若色城を築き、芳賀高澄7代の孫・芳賀高親は当社の南に御前城を築き、当社の社領守護職を兼ねた。
 鎌倉時代以降、室町時代22代当主・芳賀十郎清原高定の代まで、代々篤く当社を崇敬したとされる。
 天正5年(1577)芳賀高定の養子となった23代清原高継(芳賀高継)は、天正16年(1589)真岡の東台地(現在の城山真岡小学校敷地)に芳賀城を築く。芳賀氏の元は清原氏なので、芳賀と名告ったり清原と名告ったりするようだ。
 芳賀高継は天正元年(1573)に兵火によって焼失した本殿の再建もしている。
 宇都宮を拠点とした宇都宮氏に従った武士の中でも、坂東武者(東国武士)として特に精鋭として知られた武士団に「紀清両党」がある。芳賀氏はを益子氏と共に「紀清両党」を構成した一族であり、「紀」は益子氏の本姓である紀氏から、「清」は芳賀氏の本姓である清原氏から取られた。

 芳賀氏が根付いた式内社・大前神社、荒樫神社の二座があった芳賀郡とは、どのような地域なのだろうか。芳賀地方とその周辺をまとめてみた。
 芳賀は栃木県東南部、真岡市をはじめ一市五町からなる。(合併で変遷あり)
 奈良時代には14郷が数えられた。西は鬼怒川に面し、東は八溝山地で常陸国(茨城県)と隣接している。東北部には那珂川が東流し、中央を小貝川・五行川が南流し、両岸に水田地帯をつくっている。
 西から真岡・祖母井・市羽の台地が南北に連なり、関街道・辰街道がおかれた。真岡市京泉には芳賀郡衙跡・鶏塚古墳などが散在している。近くの五行川右岸には大前神社がある。
 中世には清原高澄が真岡に来て芳賀氏を名告り、紀氏からの益子氏とともに紀清両党と呼ばれ各地で抗争、のち芳賀氏は舞岡(真岡)城、益子氏は高舘城を築いた。
 北部には宇都宮系の茂木(もてぎ)城、那須系の千本城が、南部には仙台伊達氏の発祥地中村城、水谷氏の久下田城が堅塁を誇った。
 高田には親鸞上人による専修寺、益子氏の西明寺、宇都宮氏歴代の墓所、地蔵院が開かれた。
 近世になると幕府直轄領・旗本領・藩領が混在統治され、真岡陣屋や小田原藩分家旗本宇津家の桜町陣屋が置かれた。後期には農村は疲弊し、復興のために真岡に竹垣代官、桜町に二宮尊徳が登場する。農民の素朴な信仰は犬切不動、延生(のぶ)地蔵尊を盛んにした。
 明治以後、農業中心の芳賀は低迷したが、戦後、益子焼、真岡工業団地の造成、イチゴ栽培など新たな産業が立ち上がり、東部産地のみどりへの回帰とも融合し魅力ある地域に変貌しつつある。



 最後に、平成元年(1989)に若宮社として造営された「大前恵比寿神社」を参拝しようと思ったが、中に入るには拝観料がいるというので外から拝むことにした。
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 この恵比寿像は高さが17mあり台座を含めると20mにもなり日本一の恵比寿像だとされる。一般的に恵比寿さんが持っている物は、釣り竿と鯛であるが、この恵比寿像が持っているのは鯛ではなくて黄金の鯉である。当社の神の使いが鯉であるからという。この黄金の鯉の大きさは5mあるという。

 前の池にも鯉が元気に泳いでいた。
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現地説明板より
『 大前神社の神使「鯉」の話
 当社の神様のお使いは「鯉」です。神職は鯉を食してはいけない決まりです。
 本殿や拝殿には鯉の彫刻や絵が残され、日本一のえびす様も鯛ではなく鯉を抱いています。そんな「鯉」にまつわる下野民話をご紹介します。
大前神社の御供の鯉
 昔からな、ここ真岡ではよ。3つの川、小貝川、五行川、鬼怒川のな、水の恵を受けて人々は暮らしていたんだと。
 さて、この五行川の川下に下館藩の侍が住んでいたんだと。ある日な、うれしそうにでっかい紙包み提げて帰ってきたんだと。いつもは「男子厨房に入らず」なんて言ってたのによ、台所で何やら始めたんだと。するとな、すぐによ、でっかい声でおかみさん呼ばるんだと。「どうしたのさ」見ると亭主はな、まな板の前で包丁を持って震えているんだと。あきれながら見るとよ、まな板の上でさばかれていたコイの血が、糸を引くように流れているんだと。おかみさんも「ひえっ」と言ったきりたちすくんだんと。まな板の血はな、「大前大権現」と書いたように見えたんだと。
 「まさか五行川で捕ってきたじゃあるまいね」亭主が言うにはな、魚屋の前を通ったら、おけの中に見事なコイがいたんだと。「ウナギより精がつきやすで」威勢のよい声に釣られてな、買ってきたんだと。それから二人は神主さんに訳を話してよ、供養してもらうことにしたんだと。
 それからというものコイは、神様のお使いと言われるようになってな。今では、神社の脇を流れる五行川にコイを放ってお参りして、願い事をする人がいっぺえいるんだと。そしたら、五行川のコイはよ「御供の鯉」と呼ばれてな、どんどん増えていったんだと。大雨が降ってもよ、一匹も逃げ出さねえんだとさ。おしまい。

 この民話は当社の隣を流れる五行川で捕れた鯉を食べようとした侍の話です。鯉から流れた血が「大前大権現」という字に見え、怖くなった侍は神社で訳を話して祈祷をしてもらったそうです。五行川の鯉は食べてはならないことを知らなかったのでしょう。この出来事をきっかけに、お参りする時は生きた鯉と共に神社に参拝し、御神酒を飲ませた鯉を五行川に放流すると願いが叶うと言われるようになりました。多くの参拝者がそうしたので、お陰で五行川にはたくさんの鯉が住むようになったのです。
 鯉は大変生命力が強い魚で、鯉の滝登りと言ったり、端午の節句に鯉のぼりを上げるように立身出世の象徴でもあります。当社には三匹の鯉模様の絵馬があります。
 神様、お使いの鯉、願い主を表し、鯉が皆様の願いを神様に届けてくれるよう奉製した当社唯一の絵馬です。 』
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 日本一えびす像の大谷石造りの台座の中には社殿が鎮座している。平成元年12月9日の夜、本社である大前神社より事代主神(えびす様)の御神霊を分ける分詞祭を斎行して遷したということである。
 大前神社が大己貴命を祀っていて、そこへ荒樫神社に祀られていた事代主命を合祀したのであれば、再び事代主命を若宮社として独立させたことになるが、大前神社の祭神が大己貴命で、荒樫神社の祭神が事代主命であったのか判然としない。

 分かっていることは、江戸時代までは神仏習合が強く、薬師如来と習合する神を祀っていたこと。
 明治初年の神仏分離で、「大前大権現」から「大前神社」と改称したこと。
 明治6年(1873)、郷社に列したあと、わずか4年後の明治10年(1877)には県社に昇格したこと。この頃に祭神が、大國主大神(だいこく様)と事代主大神(えびす様)の二柱になったと言われていること。
 早い時期に郷社から県社に昇格したのは地元の運動もあったのだろうが、何よりも新政府の祭祀方針に従ったということがあったのだろう。
 氏子崇敬者からは中古より「大前さま」「大前大権現」と呼ばれ、今日も古老は「権現さま」、多くは「大前さま」の名で親しまれている。

 
 大前神社の公式ホームページには次のようにある。
『 平成15年くらいでしたが、以前大前神社に参拝に来られた方が宝くじで高額当選をしたそうです。栃木への観光のついでに参拝に来られた方でしたが、わざわざ御礼の手紙を送って頂きました。
 ちょうどその頃、宝くじ販売店を経営されている広島県の方からも、参拝をした後、ご自分の売り場から高額当選が出たということで御礼がありました。
 それから徐々に宝くじ当選にご利益があると雑誌やテレビにも紹介されるようになりました。
 参拝者の中では「開運金運幸運守」という御守りが人気で、ジャンボ宝くじ販売期間中には多くの方がお受けになられています。今では、本社大前神社と大前恵比寿神社にも、年に数人の方が「高額当選しました。ありがとうございます」という絵馬を奉納されています。 』

 これは、どちらかというと大国主命(ダイコク様)よりも事代主神(エビス様)の方のご利益であったようだ。

 今でも正月などに七福神巡りが盛んだが、この七福神の中にダイコク様とエビス様が入っている。七福神は大黒天、毘沙門天、弁財天、布袋尊、寿老人、福禄寿、恵比寿である。
 このうち大黒天、毘沙門天、弁財天はインドの神であり、布袋尊は仏教の中国僧であり、寿老人、福禄寿は道教の神であるとされる。ただ一人、恵比寿さんだけが日本の神なのだ。
 私は恵比寿について考えをもっているが、別の機会に述べることにする。


 さて、芳賀郡の式内社である大前神社と荒樫神社の祭神はどんな神であったのだろう。荒樫神社が大前神社に合祀されているようなので、この2社は元もと何らかの関係があったのかもしれない。日本の神まつりは、男神と女神をセットで祀ることが多い。
 私はこの2社のうちの1社は女神を祀っていたのではないかと考える。大前神社は五行川の脇に鎮座している。これは明らかに五行川の水神を祀ったものであろう。そして水神と言えば女神である可能性が高い。それ以上のことは今の段階では言えない。

 大前神社の本殿や拝殿には龍や鯉の彫刻が多いという。社殿を火災から守るために龍などの水に関わる神獣を彫刻することがあるが、それにしても大前神社では龍、鯉、波など水に関係する彫刻が多い。
 社殿の基礎部分には亀腹様式を採り、瑞垣内は川原玉石を敷き詰め水の中に御殿を浮かべる情景をデザインしているともいわれる。
 また祭神の一人、恵比寿さんは釣りが好きで釣り竿をもつことからも分かるように海や川と縁が深い神である。
 また、神使の鯉にちなんで、心願が成就すると元気な鯉を神前に奉納し、祓いを受け御神酒を注ぎ、五行川に放流する風習が伝えられている。今でも5月5日には鯉の放流が行われるそうだ。

 これだけ揃えば、当社は水神を祀っていることは確かであろう。
 五行川では鮭の放流も鯉の放流も行われているが、古代からこの地域の繁栄を約束する川であったのだろう。

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旅 669 大前神社(2) ハッシー27のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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