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zoom RSS 旅 670 春日神社 (長野県安曇野市豊科高家)

<<   作成日時 : 2017/06/11 13:09   >>

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2016年 8月17日

春日神社 (長野県安曇野市豊科高家)

 お盆に長野に帰った。最近はお盆以外は用事がなければ長野に帰らない。お盆が終わったので、長野から山陽方面を旅してから横須賀へ帰ることにした。
 大阪を抜けると渋滞がありそうなので、日本海側から回ることにした。
 まず、松本まで行き、糸魚川へ抜けることにした。途中で豊科の春日神社に寄った。春日神社は犀川がつくった河岸段丘上にあり、すぐ東を犀川が流れる。
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碑文より
『 春日神社
 社伝によれば大同4年(809)奈良春日大社から分霊し梓川の治水開拓神として南方東木戸の地に鎮座、のち現在地に遷座。祭神は天児屋根命・経津主命・武甕槌命・瀬織津姫命。 』

 現在の春日大社の祭神は、天児屋根命・経津主命・武甕槌命・比売神の4柱で、比売神は天児屋根命の妻とされる。
 当社の祭神と比べると、3柱は同じだが、当社は比売神が瀬織津姫とはっきり書いてあることが違う。勧請した大同4年(809)頃までは、比売神として祭神があやふやにされずに、春日大社で比売神を瀬織津姫として祀っていたのであろう。

 碑文には、“梓川の治水開拓神”として奈良春日大社から分霊したと書いてあるので、瀬織津姫をメインとして勧請したのであろう。
犀川の本流は少し上流では梓川と呼ばれる。松本市大字神林にある神林神社 では梓水神として瀬織津姫命を祀っている。

 信濃国には小野氏の足跡があるから、その同族である春日氏も進出していたことが考えられる。もしこの春日氏が勧請したのであれば、水や川の女神である瀬織津姫の神徳を重視して祀ったのであろう。藤原氏に奈良の春日大社を乗っ取られたとはいえ、小野氏や春日氏は氏神の1柱として瀬織津姫(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)を祀っていた。

 信濃国の春日氏については詳らかではないが、『諏訪御符礼之古書』には寛正3年(1463年)春日宮太郎丸、文明4年(1472年)春日伊豆守宗貞、長享2年(1488年)春日左衛門太夫貞重の名が残る。
 また、滋野氏の三家根津氏(祢津氏)の支族である春日氏がいる。この祢津氏系春日氏の他に望月氏系春日氏がいる。

 春日城は、伊那市と佐久市にあったが、伊那の春日城は、天文年間(1532〜1555)に平氏の末裔である粟田口民部重吉16代の後裔・伊那部重慶がこの地に来て築城したといわれているが、その前に祢津氏系春日氏が築城していたとも云われる。後に伊那部は春日氏を名告り武田氏の配下となる。
 佐久の春日城も祢津氏系春日氏が築城したと考えられ、永正13年(1515)、佐久郡望月地方の豪族望月氏に攻められ祢津氏系春日氏は滅ぼされ、その後は望月氏系春日氏の居城となった。
 滋野氏の一族がなぜ春日氏を名告ったのかは定かではないが、古代からの春日氏の威光が残っていた地域であった可能性が否定できない。

 私の姉は嫁いで春日姓になったが、春日姓は滋野氏の一族の末裔ではないかと考えている。この滋野氏は牧官の後裔で渡来系氏族であろう。滋野氏からは海野氏が出て、その傍流に真田氏がいる。真田信繁(真田幸村)は大坂冬の陣・夏の陣で活躍し、天下一の兵(つわもの)と云われた。

 信州人の気質としては、戦国時代頃の作とされる「人国記」によれば「当国の風俗は武士の風天下一なり。その風俗義理堅く、かりそめの雑談にも弱みをみせず、才覚ある国であるが、田舎臭い」と評されている。
 信濃国は縄文文化の宝庫と云われ、弥生文化の波及が遅れたが、急速に国づくりが進み前方後円墳も築かれた。急速に国づくりが進んだ背景には、多くの渡来人の入植があったことが考えられている。
 今日では、「進取にして勤勉であり、我慢強く、反骨精神に富むが、他面権力追随・中央志向型が多く、流行に敏感である」という評がある。
 心理学者によるクレッチマーの気質分類などでは、分裂型・躁鬱型の典型が多く、循環気質は少ないと云われる。
 私も長野県で生まれ、長野県で育ったので、大いにこの評に頷くところではある。

 日本人は、縄文人と弥生人の混血だとされるが、それが顕著な地方が信濃国だったのではないだろうか。進取とか才覚あるとか権力追随・中央志向型が多く流行に敏感であるというのは渡来人から引き継ぎ、義理堅く勤勉であり、我慢強く、反骨精神に富み田舎臭いというのは縄文人から引き継いだものだろう。

 私が信州人として信州人に感じるのは、二面性があるということだ。この二面性とはひとりの人の中に二面性あるという意味ではなく、信州人に2つの傾向があるという意味だ。(当然ひとりの人の中に二面性ある場合もあるが……) 縄文系の特徴が顕著な人と、弥生系の特徴が顕著な人の2つのタイプに分かれるということだ。この一様ではない県民性が長野県民の特徴であろう。また、2つの特徴が一人の中に同居していて、人格が理解しがたい人が多いのも特徴かもしれない。
 ただ一つ言えることは、ブレーンとしては高い能力を発揮するが、リーダーとしては今一歩という傾向があることだ。恐らくリーダーとしては大様さが欠けるのだろう。


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 当社の東側には畑や水田があり、その向こうに犀川が流れている。河岸段丘で犀川より高い場所にあるので、水田への水は上流から用水路で運んでいるのだろうか。

 当地は熊倉地区といい、この神社も以前は「熊倉神社」と呼ばれていたそうだが、 明治35年(1902)に春日大社からの分霊が事実として認められ、以降「春日神社」と呼称するようになったと言う。この時に瀬織津姫の名前が消されなかったのは幸いであった。

 当社の近くの犀川には、「熊倉の渡し跡」がある。
現在は安曇野と松本は犀川に架かる3つの橋で結ばれているが、江戸時代は熊倉の渡しを舟で渡ったという。
 この渡し場は、松本藩の成相組(20ヶ村)、長尾組(16ヶ村)、保高組(14ヶ村)、松川組(16ヶ村)、大町組(54ヶ村)などを結ぶ公道であり、手形を持った旅人の往来が多く、松本藩の重要な交通の要衝であった。
貞享3年(1686)の貞享騒動(加助騒動)で犠牲になった義民、多田加助も、この渡しを舟で渡り松本へ連行されたという。
 信濃の百姓一揆はその件数で全国10指内に数えられるが、その代表的なものとして代表越訴型の松本藩の“加助騒動”が有名である。惣百姓一揆としては18世紀中頃の上田藩の宝暦騒動などが挙げられる。その他、宝暦以降村役をめぐる隠れた百姓一揆“村方騒動”の見られない村は少ないという。


 私は、長野から松本までの犀川沿いに走る国道19号線を通るのが好きで、時間があるときには高速道路を使わずに、国道19号を走る。国道19号線沿いの犀川は流れが緩やかで、川底が白いのだろうか、水がエメラルドグリーンに見える。しかし、当社があるこの辺りの犀川の流れは少し急である。水量が増したときには流れは更に急になり舟で渡るのは危険になるだろう。
 もしかしたら、瀬織津姫は「熊倉の渡し」の守り神でもあったのかもしれない。


 境内社として若宮八幡社と御嶽社があった。境内の外のような所にあるため摂社や末社ではないかもしれない。
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碑文より
『 御嶽大権現
 木曾御嶽山は、昔から山岳信仰の対処として修験者が参拝。江戸時代中期、尾張の行者覚明が黒沢口・武蔵の行者普寛が大滝口からの登山道を開き、以来御嶽信仰は大衆化し、各地に御嶽講が組織された。 』

 大滝口は王滝口と書かれることが多い。
 御嶽社の祭神は、国常立尊、大己貴命、少彦名命である。

 長野県は「日本の屋根」と呼ばれる。本州の中央部に位置し、日本アルプスの連峰が聳え、浅間・八ヶ岳・戸隠などの火山や高原が発達し、この地を水源とし、県歌『信濃の国』に歌われるように、北に犀川・千曲川、南に木曽川・天竜川が流れる。
 地体構造からみると、県のほぼ中央の糸魚川−静岡構造線が日本列島を東西に分けている。東側はフォッサ・マグナ地域にあたり、第三紀の厚い海成層(グリーン・タフ)を主とする地域で、標高1500m以下の山地が多い。これらの山地を基盤に、富士火山帯や上信火山帯に属するさまざまな火山が高さと美を競い、温泉を伴う観光地や別荘地が多い。
  西側の日本アルプス地域は、中央構造線によって内帯(飛騨・木曾山脈)と外帯(赤石山脈)に分けられ、中・古生代の岩石からなる急峻な壮年山地である。ここには御岳・乗鞍などの火山もあるが、洪積世に発達をみた山岳氷河の跡が標高二千数百メートル以上の各地にカール(圏谷)やモレーン(堆石)として残され独特な山岳美を構成している。これらは県の観光資源でもある。

 フォッサ・マグナを横断して鹿島神宮のある茨城県南部まで続く中央構造線は、遠く熊本から阿蘇山を横切り大分から四国の瀬戸内海寄りを横断し、奈良、伊勢を通過し、三河湾から北上し諏訪で向きを変え、碓氷峠を抜けて利根川沿いに鹿島まで続く。中央構造線は“竜の道”と呼ばれ、鉱山資源との関係が指摘される。
 2016年4月に熊本地震が起こった。熊本地震は2016年(平成28年)4月14日21時26分以降に熊本県と大分県で相次いで発生している地震である。中央構造線上で起こっていることが気になる。

 フォッサ・マグナについては、『旅327 小泉大日堂』の「小泉のシナノイルカ」で、中央構造線については『旅255 泥宮』で少し触れた。


 御嶽山は東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 m(標高順で14位)の複合成層火山で、大きな裾野を広げる独立峰である。3000mを超える山としては日本で一番西に位置するという。尾張地方ではほとんどの場所からその大きな山容を望むことができる。
 碑文に、江戸時代中期、尾張の行者覚明が黒沢口の登山道を開いたと書かれているのも故無きことではない。

 御嶽山といえば、何と言っても記憶に新しいのは、2014年(平成26年)9月27日の噴火である。
 そして、9月27日の安曇野は穂高神社の本宮例大祭で御船神事で賑わう。 穂高神社は安曇氏が祖神を祀った神社だとされる。9月27日は663年の白村江の戦いで戦死した安曇連比羅夫命の命日とされる日だ。
 単なる偶然ではあるが、9月27日は私の誕生日だから記憶に残った。

 御嶽山は死火山と思われていた山だが、1979年(昭和54年)に有史以来の水蒸気爆発が起こった。
 そして2014年(平成26年)9月27日に突然噴火した。この日は土曜日で紅葉の季節でもあり多くの登山者がいた。
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 火口付近に居合わせた登山者ら58名が噴火に巻き込まれ死亡し、日本における戦後最悪の火山災害になった。(その後被害者は63人となった)
 現代はスマホなどで動画が撮れるので、その時の様子が公開され衝撃映像であった。
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 人は自分の力ではどうしようもないときに、“神頼み”する。神の山で被害にあった犠牲者とその家族はどんな思いであったのだろう。

御嶽山の頂上には、黒沢御嶽神社奥宮があり、そこには白川大神の像が据え付けられていたが、その像の首も噴火によって吹き飛ばされた。 (写真はクリックすると拡大する)
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 火山灰をかぶっていて、人の着ている服以外は色が無く、モノクロ写真の様に見える。
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 自然の驚異の前では、神と云えどもなすすべがないということか?


 ちょうど60年前の1954年(昭和29年)の9月27日も洞爺丸台風でも青函連絡船洞爺丸の遭難事故が起き、1,139名の犠牲者が出た。これは1912年の北大西洋における「タイタニック号」、1865年のミシシッピ川での「サルタナ号」の事故に次ぎ、戦争による爆撃を除けば世界海難史上3番目の犠牲者数であった。(正確には、洞爺丸が沈没したのは9月26日の22時45分頃)
 漫才師のWけんじの二人(東けんじ、宮城けんじ)は、東さんが深酒し洞爺丸に乗り遅れたために難を逃れた。人の運命は万事塞翁が馬で、何が幸いするか分からない。

 洞爺丸台風の進路は次のようなものだった。
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 台風は日本海に抜けてから速度を上げて北海道へ接近し、北海道に大きな被害をもたらした。台風と云うよりも現在で云う爆弾低気圧のような状況だったようだ。
 当然のことだが当時は気象衛星での観測写真などは存在しなかった時代で、台風予報はかなり遅れていた。
 この北海道に大きな被害をおよぼした1954年9月27日の洞爺丸台風の命名は後からのもので、気象庁は、1958年9月26日に東日本に上陸して伊豆半島狩野川流域に大水害を起こした台風第22号を、同年11月に「狩野川台風」と命名し、同時に1954年の台風第15号も、さかのぼって「洞爺丸台風」と命名した。

 台風の予測は気象観測の技術が格段に進歩したことから、かなり正確に判断できるようになったが、火山噴火の観測はまだまだ不十分で多くの課題を残す。
 日本は台風、地震、火山噴火といった自然災害から逃れられない国である。だからこそ古代から神まつりが盛んで、自然に対して畏敬の念を持って接し、諦観してきた。
 我々は歴史から学ぶものが多いはずだ。大自然への謙虚さを忘れ、過去からの警告や伝承をなおざりにし対策を怠ったとき、再び大災害が起こるのかもしれない。自然災害の被害の半分は人災でもあるといわれる所以でもある。

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