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zoom RSS 旅 671 三國神社(1)

<<   作成日時 : 2017/06/15 07:26   >>

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2016年 8月17日

三國神社(1)

 三國神社(みくにじんじゃ)は、福井県坂井市三国町山王にある神社で、旧社格は県社。式内社「越前国坂井郡 三國神社」の後裔社とされているが、実際には祭祀の継続性はないものと見られている。
 大山咋命(山王権現)と継体天皇を祀り、地元では「おさんのさん(お山王さん)」と呼ばれ、例祭の三国祭(5月19日〜21日)は福井県指定の無形民族文化財に指定されており、北陸三大祭の一つとされている。
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 鳥居の横にあるケヤキは高さ20m以上、目通り幹囲5.8mを超え、樹齢は300年以上だという。

現地説明板より
『 三国神社
 この神社は古代においては延喜式にその名を見られる式内社であった。戦国期に、白山千手寺の正智院が大山祇命を奉祀したところ厚い信仰を受け、近世になり、境内を広げ、大造営を行い、山王宮と称し発展した。
 明治期に入り、継体天皇を合祀し古名の三国神社と復称した。毎年5月20日に行われる祭礼三国祭は北陸三大祭りの1つとされ、4m大の人形をのせた山車が曳かれ多くの人で賑わう。
福井県 三国町  』

 この説明板は日や風雨にさらされ、既に下の方が消えていたが、ネットで探すとこの説明板の写真があったので、それに基づいて記した。
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現地説明板より
『 鳥居
 明和4年(1767)建立、安政2年(1855)に再建。明治45年に銅板を巻く工事を施工。
 鳥居奥の石段は嘉永元年(1848)に築造。これに用いた笏谷石は、汐見橋の古板石を使い、港内各地から寄進されたものである。 』
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  立派な随神門があった。この随神門は福井県指定文化財だという。
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 楼門の高さは約12.4m、正面約8.2m、側面約4.6mで、左右の随身像は明治2年、松ケ下町の寄進で作者は当湊の志摩竜斉だとされる。
 楼門上の『光華閣』の三字額は慶応4年(1868)第17代福井藩主、松平茂昭の寄進によるものである。

現地説明板より
『 三國神社随神門
 福井県内最大の三間一戸の本格的な楼門である。6年がかりで、明治3年(1870)に完成。棟梁は森町大工安右衛門である。
 棟高約13m。和様を基調としながら扇垂木など禅宗様を加味している。屋根は嶺北では珍しい槍皮葺きであったが、平成16年銅板葺きに改められた。
 楼門の三字額は第17代福井藩主松平茂昭公の寄進による。
 三国の町衆が総力を挙げて実現しただけに、三国湊の賑わいを偲ばせる偉容を感じさせる。 』

 説明文に“槍皮葺き”とあったが、「檜皮葺き」の間違いであろう。

 全国には60余棟の国宝あるいは重要文化財の楼門があるそうだ。その半分が中世、半分が近世の建築で、三國神社随身門より梁間、桁行ともに規模の大きなものは13棟を数えるだけだという。また、当初から桧皮葺きのものは2棟しかなく、いずれも室町時代のものだという。三國神社随身門も桧皮葺きのままで保存維持されていたら、将来重要文化財に指定される可能性が十分あったのではなかろうか。
 三国湊がもっとも繁栄を極めた江戸時代末期に、三国の町衆が総力をあげて近在には見られない立派なものを意気込んで実現した様子が十分にうかがえる楼門である。
 近世の日本海側の繁栄は北前船に始まり、北前船に終わったと言えるようだ。


 随神門の前の石段には随神像ならぬ金属でできた像が座っていて、「冷たい男」という題が付けられていた。
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 これは県内の高校の美術部か何かの作品らしく、境内には他にもいくつかの作品が置かれていた。もう一つ「束縛される自由」という作品を紹介しておく。
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現地説明板より
『 三國神社
 戦国時代に千手寺正智院の鎮守神として山王大権現(大山咋命)が祀られ、三国湊の発展とともに、従来の千手観音に代わって惣氏神とされ、信仰が厚くなった。
 天保年間に6代目内田惣右衛門が飢饉の救済事業として境内の拡張整備を行い、三国湊の総鎮守に相応しい堂々たる景観となった。
 明治4年桜谷神社と改称。この頃に継体天皇を祀る水門社(みとしゃ)を合祀、明治18年には三國神社と改め、現在に至る。
 旧4月申の日(現5月20日)の祭礼は、江戸中期に武者人形を載せた山車を曳き回して賑わい、その町衆の熱気が今も引き継がれ、北陸を代表する大祭となっている。 』

 本来の主祭神は大山咋命(山王権現)で脇祭神が継体天皇とされるようだ。
 延長5年(927)千手観音を祭神とし小社を建立、天文9年(1540)頃、兵庫川より流れてきた、大山咋命を祭神とし山王宮を建立、いつしか山王信仰が篤くなったという。
 明治3年(1870)桜谷神社と改称し、明治5年に水門宮の祭神継体天皇を合祀、明治18年に三国神社と改称し現在に及んでいる。
 天保2年(1831)飢饉の様相になったので窮民救済のため社殿改築及び境内整備の工事が三国湊の豪商内田惣右衛門らの主唱で始められ、天保10年に上棟式、遷宮式が行われた。これが現存する本殿及び拝殿だとされる。

 寺院などが、飢饉の救済事業として境内整備などの事業を起こすことは各地で見られる。それだけ大きな寺社には蓄えがあったのであろう。タダで金銭を施すことは、乞食同様となるので、経済的に余裕がある寺社が救済事業として行ったもので、必ずしも寺社にとって必要なものではなかったのかもしれない。寺社にとっても檀家や氏子を救済する必要があった。
 実家の近くにある大雲寺に蓮の花を観にいったことがあるが、その寺の石垣も天保年間に造られたもので、農民救済事業であったという。

 現在地に鎮座する三國神社の創建は、延長5年(927)千手観音を祭神とし小社を建立したことに始まるとされる。「延喜式神名帳」は、延長5年(927)に完成しているので、千手観音を祭神として建てた小社が、延喜式に載る坂井郡の三國神社ではないことは明らかである。


 唐破風付き入母屋造りの拝殿の後ろには透かし塀内に本殿が建立されている。拝殿は神饌殿と渡り廊下で繋がれていた。
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 拝殿や本殿などの棟梁は寺町大工・八十島四郎兵衛で、彫刻は志摩乗時と島雪斎の手によるものである。


 境内社はいくつもあった。
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 八幡神社の祭神は、応神天皇で「桜谷地主神」として古くから祀られていたという。
 当社のある森町区はかつて鍛冶職が多く居住し、応神天皇を守護神として崇敬していたという。継体天皇は応神天皇5世の子孫とされる。
 虹梁上に立派な彫刻が施されていた。この彫刻は龍に乗る武内宿禰が幼少の応神天皇を抱き上げている彫刻だという。
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 拝殿・本殿の向かって左手奥には、木立神社が鎮座していた。
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碑文より
『 木立神社由緒記
 この神社は、福井藩主松平春嶽公と併せて、日清、日露戦争以後今次の太平洋戦争において、わが郷土三国町から出陣され、祖国の防衛と郷土の安寧を祈りながら惜しくも戦場で散華された千百四十余柱の御英霊の偉勲を永久に語り伝えられる事を念じ鎮魂の祈りをこめて合祀してあります。
 平成5年5月吉日 三国町遺族連合会  』

 よく太平洋戦争などの慰霊碑で、「散華」という言葉を目にするが、元もと散華(さんげ)という言葉は「仏に、供養するために花を散布すること」という仏教用語であり、誤って、華(はな)と散ると解され、「戦死する」ことを指すようになったものだ。
 職業軍人ではない徴兵された多くの兵士は、お国のために“華と散る”ことなど望むことはなかったのであろう。母を想い、故郷を想い、非命の死を死んでいったのであり、その英霊は尊いものであることは間違いないことであるが、美化することは好ましいことではないように考える。心ならず亡くなっていった多くの魂の真の叫びは、「二度と自分のような若者を出してはならぬ」という祈りにも似た声ではないだろうか。私たちはその魂の声を正しく聞き取る必要がある。
 「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」ではないが、私は年齢的に戦争に引っ張り出されることはないだろうが、将来若者が戦争で死ぬようなことはあってはならない。
 平和を守るためには、不断の意識的関心の維持が大切で、国際社会の中での日本政府の行為を厳しく見つめ続けることが大事になる。人間の本能には利を求めて争う装置が内包されていて、そのままでは戦う状況が生まれやすい。それをセーブするのが学習によっての智である。何もしないで維持できる平和などない。むしろ平和であることが普通ではないのだ。そのことは現在の世界状勢をみればすぐ分かることでもある。

 本来、木立神社は、松平慶永(春嶽)を祀っていた。松平慶永存命中に、生祠として造営された珍しい神社だという。明治24年に建立され、三国の住人島雪斎が彫刻した慶永(春嶽)の寿像を氏子が祀った。
 生きながら神として祀られた慶永(春嶽)の気持ちはどのようなものだったのだろう。
 逆修塚という生前墓があるが、これは死を覚悟して生前に自分の墓を造るものだとされる。慶永(春嶽)もかつては運命を懸けて幕末の動乱期に臨んだ時期があった。側近の橋本左内は安政の大獄で斬首されている。腹心の横井小楠も慶永を助け明治新政府の参与となったが暗殺された。

 松平慶永は田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男で松平斉善の養子となる。将軍・徳川家慶の従弟である。中根雪江や由利公正、橋本左内らの補佐を受け、翻訳機関洋学所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。また、熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕政改革にあたった。
 島津斉彬(薩摩藩主)、山内豊信(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称された。
 慶永(春嶽)は後世において、「世間では四賢侯などと言われているが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公お一人であり、自分はもちろんのこと、水戸烈公、山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」と語ったといわれる。その通りであろう。島津斉彬の遺志を継いだ西郷隆盛らの手で明治維新は敢行された。
 しかし、島津斉彬ひとりが真の賢侯であると認識できた慶永(春嶽)も、小賢侯であったのだろう。生前に氏子によって祀られたのは、民にも尊敬されていたのであろう。


 元山王宮跡地として岩が祀られていた。
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現地説明板より
『 元山王宮跡地
 天文9年、470年前此の地に流れついた大山咋命(山王権現)を正智院に安置、永禄7年、446年前此の地に山王宮を建立した。天保10年に現在地に新しい社殿を建立遷座をした。
 古文書に旧地大岩をすえ鳥居を建てるとある。
 元の社殿は現在絵馬堂として移築して残っている。神社境内の中で一番古い建物である。
 旧社殿は現楼門を前にした位置に建っていたと言われている。 』

 大山咋命(山王権現)は濃厚な磐座信仰と共にあったようだ。大山咋命の総本社は日吉大社の東本宮とされる。
 『日本書記』では継体天皇(男大迹王)について、父親の彦主人王が「近江国高嶋郷三尾野の別業(なりどころ)」にいた時に、越前三国出身の振姫を妻に迎え生まれたと記されている。そして男大迹王が幼いうちに彦主人王が亡くなり、振姫は故郷の越前国高向(たかむく)(現在の福井県坂井市丸岡町高椋)に戻り、男大迹王を育てたと記している。
 福井県坂井市は、2006年(平成18年)3月に坂井郡の三国町・丸岡町・春江町・坂井町が合併して発足した。継体天皇が即位前に住んでいたといわれる丸岡町内の女形谷(おながたに)の地名はこの即位により「御名が谷」と呼ばれるようになったものが変化したとされている。

 「近江国高嶋郷三尾野の別業」とは現在の滋賀県高島市辺りであり、湖西で日吉神社にも近い。

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