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zoom RSS 旅 672 三國神社(2)

<<   作成日時 : 2017/06/15 07:50   >>

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2016年 8月17日
三國神社(2)

 他に境内摂末社には、厩戸神社と事代主神社、稲荷神社、富理姫宮、住吉神社があるようだが、全部は確認できなかった。
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 社務所には、「桜谷神社」の額があった。
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 「三國神社」の名は延喜式神名帳にはじめて登場する。(越前國坂井郡 三國神社)
 当地は後に継体天皇となる男大迹王が治めた地で、継体天皇の没後に朝廷によって継体天皇を祀る神社として創建されたのが始まりとする伝承があるが、それを示す史料は存在しない。
 延喜式神名帳に記される三國神社は、中世までには廃絶したものと見られる。つまり、三國神社としての祭祀の継続性はない。

 現在の三國神社は、天文9年(1540年)、竹田川 の支流の兵庫川(高柳村からとも)を流れてきたとされる御神体を湊の住人の板津清兵衛が拾い、当地の正智院に納めたのに始まる。
 天文13年(1544年)、正智院の院主・澄性が境内に小社を建立した。永禄7年(1564年)、澄性の弟子の澄元が現在地の桜谷を開き、山王宮を建立した。

 明治3年(1870年)、式内・三國神社の後裔であるとして山王宮は「三國神社」への改称を藩に願い出たが却下され、地名をとって「桜谷神社」に改称した。
 明治5年(1872年)、近くの興ケ丘にあった継体天皇を祀る水門宮を合祀し、脇祭神とした。明治18年(1885年)、三國神社への改称が許可され、現社名となった。
 つまり、継体天皇を祀る水門宮を合祀してはじめて三國神社への改称が許可されたのであって、改称も合祀してから13年も後になってからのことだ。
 明治40年には三国町上西の秋葉神社も合祀し、雷神を配祀したとされる。

 現在、三國神社に祀られている神は、大山咋命、継体天皇、雷神とされるが、異説もある。
 『大日本史』では椀子王(第26代継体天皇の皇子、三国真人の祖)、『越前國名勝志』では彦太忍信命(第8代孝元天皇の皇子で三国国造の祖)、『神祇志料』では意富富仔王(第15代応神天皇の皇子で三国君の祖、継体天皇の曾祖父)、さらに彦太忍信命と若長足尼命とする説もある。

 何れにしても江戸時代までは真言宗性海寺末正智院を別当とする「日吉山王社」であったことは間違いない。
 三国湊で三國神社の祭祀を司った氏族は没落したか、どこかへ移住した可能性がある。その後、琵琶湖の西岸にいた氏族(三尾氏一族?)がこの地に進出して、山王権現を祀ったのであろう。
 今でも旧坂井郡芦原町(現・あわら市)に北潟湖があるように、坂井郡一帯は沼地や湿地帯が多くあったと考えられる。
 この沼地や湿地帯を水田に開拓した氏族がヤマト朝廷に有力な代表者を送ったことは充分考えられる。天皇家が朝廷の中で確固たる地位を固めるのは7世紀後半であり、それまでは有力な中央豪族に推戴された調停者であった。
 継体天皇を擁立したのも、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人らとされる。

 継体天皇は欽明天皇に続く流れを作った天皇で、実在した大王(天皇)と考えられているが、未だに多くの謎がある。私はその謎は蘇我氏の謎にも繋がるのではないかと考えている。

 継体天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ、三島藍野陵)に治定されている。公式形式は前方後円で、考古学名は「太田茶臼山古墳」(前方後円墳、墳丘長227m)とされる。
 しかし、考古学者は「太田茶臼山古墳」ではなく大阪府高槻市郡家新町にある「今城塚古墳」を継体天皇の三島藍野陵に比定している。太田茶臼山古墳と今城塚古墳は1.5kmという至近距離にある。
 
 太田茶臼山古墳は茨木市と高槻市の境界近くの台地上に所在し、古墳本体の規模は全長227mで北摂地域最大の巨大前方後円墳である。
 太田茶臼山古墳は宮内庁により管理されているので、考古学者たちが発掘調査することはできない。宮内庁による修陵工事前の発掘調査で出土した埴輪は、5世紀前半のもので、6世紀はじめ(531年?)に亡くなたとされる継体天皇の陵とするには古すぎることが明らかになっている。

 一方、今城塚古墳は太田茶臼山古墳の1.5km東の淀川北岸にある巨大前方後円墳で全長186mで、二重の濠が巡らされている。濠を含めた長さは約350mに及ぶ。今城塚古墳には一般市民も立ち入ることができる。
 平成9年から始まった発掘調査では、6世紀前半の埴輪のほか墳丘上から熊本県宇土半島産の阿蘇溶結凝灰岩などで造られた3つの家形石棺の破片が出土した。おそらく盗掘されたのであろう。更に平成13・14年度の調査では、国内最大規模とされる埴輪祭祀場の全容が明らかになった。それは古墳の北側のくびれ部分にある造出に対応する内堤に設けられたもので、大量の人物・動物・家形埴輪などの形象埴輪が、円筒・柵形埴輪で区画された5つのブロックに整然と配置されていた。

 文献的には『延喜式』に、「三嶋藍野陵 磐余玉穂宮御宇継体天皇。在摂津国嶋上郡。兆域東西三町。南北三町。守戸五烟。」とあり、平安時代には継体天皇陵は“摂津国嶋上郡”にあったと認識されていたことが分かる。ところが太田茶臼山古墳は複数の史料に“摂津国嶋下郡”に所在したとあり、“摂津国嶋上郡”にあるのは今城塚古墳なのである。

 今城塚古墳では平成19年1月に後円部中央の北側で、横穴式石室の基礎とみられる石組み遺構が発見された。石組み遺構は、盛り土の中に造られる初期の横穴式石室特有のもので、巨石を支える基礎工事を示すものとされている。それは元の位置ではなく、1596年の伏見大地震で、北側約4m下部へ滑落したことが明らかになった。こうした調査により今城塚古墳が6世紀前半では国内最大の抜きん出た規模をもつことが明らかになり、考古学者の間ではこの古墳が継体天皇の陵であることはほぼ確実になった。
 今城塚古墳は2011年(平成23年)4月1日に高槻市教育委員会により史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等は埴輪がレプリカにて復元された。隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている。

 ここまで明らかになっても宮内庁による治定の変更は行われていない。そのために高槻市教育委員会は史跡公園として整備できたのだが……。
 一般的に宮内庁による天皇陵の治定は確実ではないと指摘されている。太田茶臼山古墳が継体天皇陵とされるのも、それが単に北摂地域最大の巨大前方後円墳であるからであろう。宮内庁が管理する古墳が考古学者により発掘調査することが許されれば、古墳時代の日本の様子がかなり明らかになるのだろうが、天皇制に阻まれている。天皇家にとって陵墓をあばかれることは、歴代天皇への不敬だけではなく、天皇制そのものの根幹に関わる問題なのかもしれない。

 なぜ、この摂津という地域に2基の大王クラスの前方後円墳が相次いで造られたのであろう。しかも、その1つは継体天皇の陵だとされる。2つの古墳は無関係ではなく両古墳に立てられた埴輪は、共に隣接する新池埴輪窯跡群で焼成され、同じ造営主体によるものと考えられる。
 天皇陵とされる巨大前方後円墳の大半は大和、河内、和泉に集中していて、摂津に天皇陵が造営されること自体異例なことだといわれる。

 もし、今城塚古墳が継体天皇陵ならば、それよりも大きい太田茶臼山古墳は誰を埋葬した古墳なのであろう。
 太田茶臼山古墳と同時期の古墳で抜きん出ているのは古市古墳群の大仙陵古墳(仁徳天皇陵とされる)の全長486mだが、規模的には太田茶臼山古墳に眠る首長はこの大王に準ずる地位にあった可能性が指摘される。

 系図的には16代仁徳天皇(応神天皇の子)の兄弟である若野毛二俣王が継体天皇の祖先とされ、若野毛二俣王の娘の忍坂大中津比売命は19代允恭天皇(仁徳天皇の子)に嫁ぎ、20代安康天皇と21代雄略天皇を産んでいる。
 継体天皇の父の彦主人王はこの若野毛二俣王の孫とも曾孫ともされる。彦主人王は雄略天皇の時代にも有力首長の一人であった可能性がある。

 『日本書紀』では、彦主人王が近江国高嶋郷三尾野の別業(なりどころ)にいた時に、越前三国出身の振姫を妻に迎え継体天皇が生まれたと記す。
 ここで注目されるのは近江国高嶋郷三尾野は“別業”であり、彦主人王の本幹地ではないということである。何を言いたいかというと彦主人王の本拠地は別にあり、それが摂津三嶋ではなかったかということである。

 継体天皇は大和の磐余玉穂宮で亡くなり、摂津国嶋上郡の三嶋藍野陵に葬られたとされる。当時の習慣では異郷で亡くなった人も、故郷に埋葬されるのが通常行われており、天皇に嫁いだ妃が、故郷の吉備や日向に葬られた例がある。
 継体天皇の母の振姫の故郷は越前三国であるが、父の彦主人王の本幹地は摂津三嶋だったのではないだろうか。だから継体天皇は摂津に葬られたのではないか。

 『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。
 そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。
 翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした。
 この即位した河内国樟葉宮とは、現在の大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社(かたのてんじんしゃ)の境内とされる。ここは今城塚古墳とは淀川を挟んではいるものの、それほど遠い場所ではない。

 もし、今城塚古墳が継体天皇の墓であるのなら、造営主体が同じとされる太田茶臼山古墳は継体天皇の父あるいは祖父などの墓ではないだろうか。
 “もし”が続くが、もし、太田茶臼山古墳が彦主人王の墓であれば、太田茶臼山古墳の規模からみて彦主人王は、畿内の大和朝廷政権の有力者としてそれなりの待遇を得ていたのではないだろうか。
 継体天皇は応神天皇5世の孫とされるが、それは天皇家をむりやり万世一系とすることから記されるもので、父の彦主人王の代から傍流ではあるが有力な王族の一員として認められた存在だった可能性がある。5世紀の段階で応神天皇5世の孫というほとんど天皇家の他人が、越前の三国から出てきて大王になることは現実的ではない。

 継体天皇は第25代武烈天皇の姉の手白香郎女(手白香皇女)を正妃に迎え即位したと考えられる。また、継体天皇が即位20年にして、ようやく大和の磐余玉穂宮に入ったとする『日本書紀』の所伝は、継体天皇が正式に即位する前に混乱があり、反対勢力との長い調整が必要だったことを示すのではないか。

 倭の王「武」と比定される第21代雄略天皇が亡くなった後、王家傍系の顕宗・仁賢・武烈と王族傍系の継体の双方を推す豪族たちの対立があり、最後に和解が成立し継体天皇に落ち着いたというのが史実に近いのではないだろうか。
 王家傍系の顕宗・仁賢・武烈が大王の位に就いたかは確実性に乏しく、継体天皇と尾張連草香の女・目子媛との間に生まれた安閑、宣化も即位したかは定かではない。ただし、正妃である手白香皇女との間に生まれた欽明天皇は即位したようだ。
 何れにしても7世紀以前の天皇は豪族たちに推戴された大王で、絶対的な権力は有していなかったと見られている。


 三國神社の鎮座する三国は、日本海航路の要衝としてかっては「三津七湊」に数えられたほど繁栄した土地である。
 三津とは、
安濃津……伊勢国安濃郡(三重県津市)
博多津……筑前国那珂郡(福岡県福岡市)
堺津 ……摂津国住吉郡・和泉国大鳥郡(大阪府堺市)
 ※堺津のかわりに坊津 薩摩国川辺郡(鹿児島県南さつま市)を入れることがある。

 七湊とは、
三国湊…… 越前国坂井郡(福井県坂井市)、九頭竜川河口
本吉湊(美川港)……加賀国石川郡・能美郡(石川県白山市)、手取川河口
輪島湊……能登国鳳至郡(石川県輪島市)、河原田川河口
岩瀬湊……越中国上新川郡(富山県富山市)、神通川河口
今町湊(直江津)……越後国中頸城郡(新潟県上越市)、関川河口
土崎湊(秋田湊)……出羽国秋田郡(秋田県秋田市)、雄物川河口
十三湊……陸奥国(津軽、青森県五所川原市)、岩木川河口
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 七湊は日本海交易の拠点として栄え、近世には北前船の寄港地ともされた。

 今でこそ日本海側を裏日本と呼ぶが、古代においては日本海を挟み大陸と対面する日本海側は表日本であった。
 越前においては、三国と敦賀はそれぞれ国造も置かれ、日本海航路の要港でもあった。敦賀には気比神宮が鎮座する。



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 三國神社の参道を下ると竹田川に出るが、竹田川には少し上流で兵庫川が合流している。そして竹田川は当社の少し下流で九頭龍川に合流し日本海へ注ぐ。

 三國神社はかつては桜谷神社と呼ばれたが、現在も隣りに桜谷公園がある。桜谷公園は三国町内でも桜の名所として有名で、4月初旬には公園一面に桜が咲き乱れ、お花見に家族連れが訪れるという。公園の一隅には継体天皇の母・振媛を祀った「富理姫宮」があるという。
 振媛を祀る神社は「富理姫宮」と書かれる。「富理姫宮」の“富”は富士山の“富”を連想させる。 富士山の女神は桜の女神・木花咲耶姫である。
 「富理姫宮」の“理”は白山比盗_である菊理媛神の“理”を連想させる。
 振姫が振ったものは何であろうか。桜谷に祀られる振媛は、古くは桜の女神で、九頭龍川の女神としても祀られていたのであろう。
 振媛は“三国の瀬織津姫”でもあったように感じてきたので不思議である。


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現地説明板より
『 今に伝わる湊町三国の栄華
 北陸を代表する春の曳山祭り「三国祭」で、山車屋台に大きな人形がのるという今日の形の山車(やま)を出すようになったのは、約260年前からと伝えられています。
 山車(やま)の高さは、明治中期には10m以上もあり、近郷の村々からも勇壮な武者人形の頭が見えたと言われます。現在の高さは、6.5mですが、日本海に育まれた湊町、三国の栄華と人々の気概は今も変わらず受け継がれています。 』



 武者人形の始めは三韓征伐に向かった神功皇后の像だったという伝承があるようだ。
 港の方へ行ってみた。
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九頭龍川の河口が港になっているようだ。
街の方へ入ると、カニ料理を出す食堂があった。
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 日本海、越前三国を代表する冬の味覚の王者としても名高い“越前がに”は11月に解禁され“越前がに”のシーズンともなれば、県外からも多くのグルメファンがこの土地を訪れる。
 地元では雌をズワイ、雄をセイコと呼んでいる。漁期は雌が11月〜1月、雄は11月〜3月だという。

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