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zoom RSS 旅 676 穴太寺

<<   作成日時 : 2017/07/03 02:04   >>

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2016年 8月18日
穴太寺

 穴太寺は、京都府亀岡市曽我部町穴太東辻にある天台宗の寺院で、一般には「あなおじ」と呼ばれるが、「あなおおじ」「あのうじ」「あなおうじ」と読まれることもあり、「穴穂寺」「穴生寺」とも表記された。
 山号は菩提山と称し、本尊は薬師如来である。西国三十三所第21番札所で、札所本尊は聖観世音菩薩となっている。
 西国三十三所は観音霊場であるから、札所本尊はすべて観音菩薩である。その寺院の本尊がそのまま三十三所の信仰対象となっている場合もあるが、寺の本尊ではなく子院の本尊が札所本尊であることが意外と多い。
 4番施福寺では札所本尊は千手観音であるが、寺本尊は弥勒菩薩である。ここ21番穴太寺でも札所本尊は聖観音であるが、寺本尊は薬師如来である。
 このようなことを考えると、西国三十三所札所が自然に生まれた観音信仰をつなぎ合わせたものではなく、かなり意図的に作られたものであることが分かる。
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 仁王門は江戸時代中期再建で京都府登録文化財である。
 仁王門の前はT字路(三叉路)になっていて時間帯によっては交通量が多いのではないだろうか。

現地説明板より
『 西国21番 穴太寺(亀岡市曽我部町穴太)
宗派 天台宗 本尊 聖観音菩薩
 穴太寺は菩提山と号し西国三十三所観音霊場の21番札所として広く知られています。古くは「穴穂寺」「穴生寺」「菩提寺」などと呼ばれていました。
 宝徳2年(1450)に書かれた「穴太寺観音縁起」によると、文武天皇の慶雲年中(704〜708)大伴古麻呂大臣が薬師如来を本尊として開創したと伝えています。当時早くから世に知られるようになったのは、聖観音像にまつわる「身代わり観音」の霊験譚によります。
 「本朝法華験記」(1040〜1044)「扶桑略記」(平安時代後期)「今昔物語」(平安時代後期)などによれば応和2年(962)丹波桑田郡の宇治宮成が京都から仏師感世を招き金色の観音像を造立したと伝えます。また、「穴太寺観音縁起」は観音像の造立を完寛弘7年(1010)のことと伝えています。
 鎌倉時代後期には三十三所観音霊場の一つとしてあげられ(公衡公記)一遍上人も当寺に参詣して逗留しました。(一遍上人絵伝) また室町時代には山門西塔院の末寺となり室町将軍家足利氏の庇護を受けました。天正年間(1573〜1592)に兵火にかかり伽藍は荒廃しました。その後の再興は17世紀中期中興初代行廣が住職に就いてからです。
 「寺社御改書上帳」、享保13年(1728)本堂(観音堂)を焼失しましたが、「穴太寺拝領行運記」享保16年(1731)には本堂の再建が始まり同20年(1735)に棟上げが行われ、元文2年(1737)全てが完成しました。
 当寺の涅槃像は全国的にも6例しかない貴重な仏像で、市の文化財に指定されています。檜材を用いた寄木造りで鎌倉時代の作です。この像は撫で仏として自分の体の悪いところと同じ場所を撫でてお願いすると、霊験があるといわれています。
 当寺の庭園は京都府の名勝指定を受け、本堂、多宝塔は京都府の文化財の指定を受けています。鎮守堂・仁王門・鐘楼・念仏堂・方丈及び庫裡方丈表門は京都府の登録文化財として、また亀岡市の指定を受けています。

御詠歌
 かかる世に 生まれあふ身のあな憂やと 思はでたのめ十声一声

拝観 
 内陣参拝 冥加料  庭園拝観 有料    』  
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 仁王門を入ると左側に多宝塔があった。
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 この多宝塔も京都府指定文化財指定で、1804年再建だとされる。
多宝塔の隣には神社らしき建物があった。鎮守堂だろうか?
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 本堂も京都府指定文化財で、1735年再建だという。当寺は江戸時代に焼失しているので、古い建物はない。
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 さすがに西国三十三所観音霊場ということで、千社札が多い。
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 寺伝によると当寺は705年(慶雲2年)に文武天皇の勅願によって大伴古麻呂(大伴旅人の甥)により創建されたというが、その時の本尊の薬師如来は秘仏であり開帳されたことはないという。当寺は何度も焼失しているので、おそらくこの本尊も焼失しているのであろう。西国三十三所観音霊場巡りを終えて結願の後、お礼参りとして訪れる寺の一つに信濃善光寺がある。 信濃善光寺の本尊も絶対秘仏であるが、秘仏として公開されない仏は、“ないのも同然”である。
 
 札所本尊の聖観音菩薩(身代わり観音)も秘仏であるが、三十三年ごとに開帳されていたので現存していたようである。
 この像高110cmの木造聖観音立像は、重要文化財の指定を受けている。重要文化財の指定を受けるとき、鎌倉時代の作とされたので、感世の作ではないようだ。
 この聖観音菩薩も1968年11月に盗難に遭い、未発見である。その代わりとして、現在は、昭和の名工として知られる佐川定慶の作の像を秘仏として祀っている。

 現地説明板の説明文には、次のようにある。
「 「寺社御改書上帳」、享保13年(1728)本堂(観音堂)を焼失しましたが、「穴太寺拝領行運記」享保16年(1731)には本堂の再建が始まり同20年(1735)に棟上げが行われ、元文2年(1737)全てが完成しました。 」

 本堂は10年足らずで再建されている。なぜそんなに早く再建できたのであろう。それは当寺が西国三十三所観音霊場であったからだろう。

 西国三十三所観音霊場は、古くは大和国の長谷寺の開基である徳道上人が定め、その後、花山院が正式に定めたとされるが史実ではないようだ。
 しかし、西国三十三所観音霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れていることは確かである。
 「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。

 三十三所巡礼の起源については、24番中山寺の縁起である『中山寺来由記』、結願の33番華厳寺の縁起である『谷汲山根元由来記』などに大略次のように記されている。

 養老2年(718年)、大和国の長谷寺の開基である徳道上人が62歳のとき、病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。
 そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めた。そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていった。

 徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山院(968〜1008)が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。
 そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)。
 仏眼上人が笈摺・納め札などの巡礼方式を定め、花山院が各寺院の御詠歌を作ったといい、現在の三十三所巡礼がここに定められたという。

 しかしながら、札所寺院のうち、20番善峯寺は花山法皇没後の長元2年(1029)創建である。また、花山院とともに札所を巡ったとされる仏眼上人は、石川寺(叡福寺)の聖徳太子廟の前に忽然と現れたとされる伝説的な僧で、実在が疑問視されている。以上のことから、三十三所巡礼の始祖を徳道上人、中興を花山院とする伝承は史実ではない。

 叡福寺(石川寺)は聖徳太子廟があることで有名であるが、厩戸王(聖徳太子)の仏教的事蹟はほとんど否定されている現在、叡福寺の聖徳太子廟も聖徳太子の神話の一部になりつつある。叡福寺を訪れた時に詳しくまとめたいと考えている。

 いずれにしても院政期の観音信仰の隆盛を前提として、11世紀ごろには西国三十三所観音霊場は成立していたことは確かである。
 西国の霊場であるにも関わらず、戦乱の世が去った江戸時代には全国からの巡礼者が訪れた。また、江戸時代においても札所である本願所によって募られていた庶民の奉加と散銭は、寺社の造営に依然として欠かせないものであった。
 勧進活動に替わるものとしての本尊開帳も享保年間(1716〜1735)には、幕府により、寺社焼失のような例外を除いて33年に1度のみとする規制が加えられた。これが現在33年に一度の御開帳に繋がっている。
 寺社の側では増加する庶民巡礼から奉加・散銭を得るべく、寺院全体を三十三所の巡礼寺院として宣伝した。
 穴太寺の本堂が10年足らずで再建された事情はこのようなことにあるようだ。


 穴太寺の札所本尊である聖観音像は「身代わり観音」の伝説で知られ、この伝説が『今昔物語集』に取り上げられていることから、平安時代末期には観音霊場として当寺が知られていたことが分かる。
 『今昔物語集』所収の説話によると、昔、丹波国桑田郡の郡司をしていた男は、都の仏師に依頼して聖観音像を造り、仏師には褒美として自分の大切にしていた名馬を与えた。 しかし、与えた名馬が惜しくなった男は、家来に命じて仏師を弓矢で射て殺してしまった。ところが、後で確認すると仏師は健在で、観音像の胸に矢が刺さっていた。改心した男は仏道を信じるようになったという。
 同様の説話は『扶桑略記』にもあるが、ここでは男の名が「宇治宮成」、仏師の名が「感世」とされている。
 この説話は全国に数多い「身代わり観音話」の元になったものとされる。

 境内には、この宇治宮成の墓があったが、伝説の遺物として取って付けたような墓で、大切にされているようには感じられない。また、1968年に盗まれた重文の木造聖観音立像は鎌倉時代の作であったという。
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 穴太寺の本堂には本尊であるが公開されない秘仏の薬師如来と盗まれた札所本尊の聖観世音菩薩の代わりに作られた新たな聖観世音菩薩(33年に一度ご開帳)の他に、涅槃像が安置されている。現地説明板の説明文には以下のようにあった。
『 当寺の涅槃像は全国的にも6例しかない貴重な仏像で、市の文化財に指定されています。檜材を用いた寄木造りで鎌倉時代の作です。この像は撫で仏として自分の体の悪いところと同じ場所を撫でてお願いすると、霊験があるといわれています。 』

 この涅槃像は明治29年(1896)に本堂の屋根裏で発見されたという。涅槃像を堂内に祀ると当時の住職と孫娘の病気が平癒したことにより、諸病厄除けの「なで仏」として多くの人に撫でられてきたという。
 “明治29年(1896)に本堂の屋根裏で発見されたという”というのは如何にも不自然である。西国三十三所観音霊場だけでなく新しい当寺の呼び物として涅槃像を導入したのであろう。
 この涅槃像は十数年前までは写真撮影が可能であったが、現在では本堂内に移され撮影禁止になっているそうだ。
 この等身大の釈迦如来大涅槃像は布団に入った寝仏で、本堂の拝観料300円(庭園とセットで500円)を払うと、布団をめくって撫でることができるそうだ。

 また、「厨子王丸肌守御本尊」(拝観は特別拝観の時のみ)が祀られているようだ。
 この本尊は、安寿と厨子王丸の悲話の伝説に由来するらしい。二人が山椒太夫に捕らえられ、過酷な責めを受けた時、その苦しみを代わりに受けてくださった仏様といわれている。 安寿が厨子王丸を逃がし都へ上る途中、厨子王丸をかくまった寺の一つが穴太寺だったといわれ、後に厨子王丸はこの肌守御本尊を穴太寺に奉納し供養したと伝えられている。
 由良川の河口には山椒太夫伝説がある。口丹波には丹波・丹後の伝説が集まってくるようだ。


 私は現在全国の一の宮巡りをしているが、西国三十三所観音霊場巡りまでしようとは思っていない。この穴太寺も、訪れようと思っていた神社の近くにあったので立ち寄ったにすぎない。
 それでも知らず知らずに29番松尾寺、13番石山寺を訪ねている。西国三十三所観音霊場には有名な寺が多いのでこれからもいくつか訪ねるであろう。


 私が寺より神社を中心に廻っているのは、仏教に対しての不信感があるからだ。確かに有名な僧侶が出て、人々の生活に貢献してきた仏教ではあるが、歴史的にはその発生の根本に嘘が在るように感じている。それでも仏教は日本の発展に重要な役割を果たした宗教であるから日本人の精神文化に与えた影響を過小評価するものではない。だからこそ嘘を正し、正々堂々と人々の心に安寧をもたらす宗教として再生して欲しい。葬式仏教と揶揄されるのは本来の仏教にとっては不本意なものであろう。

 仏教は布教に際して死後の世界に天国と地獄を創造した。善行の“正の強化”(行動心理学用語)としての天国はいいとしても、“負の強化”としての地獄はいただけない。
 因果応報の名のもとに地獄に落ちるという恐怖を布教の一つの柱にしたことは容認できない。閻魔大王に裁かせる死者の霊魂などあろうはずがない。確かに正の強化よりも負の強化の方が布教には有効であったのだろう。観音信仰も地獄の思想の上に咲いた徒花であったのかもしれない。

 多くの臨死体験がある人の語る世界は、天国の入口のような光の世界が語られるが、地獄のような暗闇を語ったものはないという。また、ある奇特な学者の研究では、人間が死ぬ瞬間には何グラムか軽くなるそうだ。俄には信じられないが霊魂には質量があるそうだ。
 また、全世界に自分の前世を語る子供がいることも確かだ。私は輪廻転生をすべて信じている訳ではないが、BodyとSoleの違いはあると感じる。BodyはSoleの入れ物であろう。遺伝子で言えば体がVehicleとされるのと同様である。従って死後の世界があるとすれば、それは霊魂の一時的安息の地としての天国はあっても地獄はないと思いたい。

 日本人は古来から“死ねばみな仏”といって敵も味方も懇ろに弔ったという。おそらく縄文から続く命への畏敬であろう。
 古神道にも祟り神はいた。しかしそれは大自然の脅威に対する畏敬であり、奈良時代以降に流行する怨霊信仰とは違う。怨霊信仰はどちらかといえば神仏習合の産物であったように感じる。
 三種の神器の中でも、特に“勾玉”は古くからの祭器である。勾玉の形は胎児を表すとも霊魂を表すとも云われるが、古代から命と共に霊魂の存在は信じられていたようだ。

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