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<<   作成日時 : 2017/07/03 04:12   >>

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2016年 8月18日
小幡神社

 穴太寺の少し北西の犬飼川を渡った所に小幡神社があった。亀岡市曽我部町穴太宮垣内1にある式内社で旧村社である。小幡神社は古くは穴穂社と云ったので、穴太寺(穴穂寺)は小幡神社の別当寺であったのかもしれない。
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現地説明板より
『 小幡神社
 当社は、崇神天皇の命により派遣された四道将軍のひとり、丹波地域を治めた丹波道主命が、皇祖開化天皇を主神として祀ったことに始まるといわれ、開化天皇の御子の彦坐王(ひこいますのみこと)とその御子小俣王の三代を奉斎しています。
 また社伝等によると、和銅元年(708)に、丹波国司大神朝臣狛麻呂(おおみわあそんこままろ)が霊域に社殿を建立され、延長5年(927)に編纂された『延喜式』「神名帳」にも記載された古社です。
 社蔵の棟札によると文和元年(1442)には管領細川政元の本殿造営とその後明応元年(1492)を始めとする修造、屋根葺替えが行われています。
 現在の社殿は、天和3年(1683)に造立された一間社流造、檜皮葺の建物です。亀岡市内で妻に二重虹梁大瓶束を用いた早い事例であり、京都府の登録文化財となっています。また、社宝として全国に三幅といわれる円山応挙の絵馬の一つが保存されています。 』
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 「平成祭データ」には次のようにあった。
『 祭神1. 
 開化天皇。和風の諡(おくりな)は『古事記』に若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおひひのみこと)と記し、『日本書紀』に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)と記す。
 孝元天皇の第二子と伝え、開化天皇の第二子を崇神天皇とする。
祭神2.
 彦坐王(ひこいますのみこ)。『古事記』に日子坐王と記し、『日本書紀』に彦坐王と記す。開化天皇の御子とする。
 『古事記』によれば、崇神天皇の代、丹波へ派遣されて、玖賀耳之御笠を誅伐したと伝える。
祭神3.
 小俣王(おまたのみこ)。彦坐王の御子で、『古事記』によれば、山代の荏名津比売(亦の名苅幡戸弁=かりはたとべ)を母とする。

 丹波の地域が丹波と丹後に分けられたのは、和銅6年(713)であり、それ以前の丹波は、丹後を含む地域であった。丹波の古伝承で見逃せないのは、『古事記』や『日本書紀』に記載する倭(やまと)王権とのかかわりである。
 『古事記』には若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が旦波(たには=丹波)の大県主由碁理(おおあがたぬしゆごり)の娘である竹野媛を娶って、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)を生むと記し、『日本書紀』では稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)が丹波の竹野媛を納(め)して彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を生むと記す。
 開化天皇の妃が丹波大県主の娘であったとする『古事記』の伝えは、「大県主」と称される県主が、河内の志畿(しき)大県主の説話(『古事記』雄略天皇の条)のほかにみえない点で注目すべきである。
 丹波の出自をめぐる皇妃伝承には、『古事記』や『日本書紀』に垂仁天皇の代のこととしてみえる丹波道主命(みちぬしのみこと)の娘を妃にした説話あるいは『日本書紀』の仁徳天皇16年の条に載(の)す仁徳天皇と丹波の桑田の玖賀媛(くがひめ)との悲恋説話などがある。
 『日本書紀』には、崇神天皇60年の条に丹波の氷香戸辺(ひかとべ)の小児(わかこ)に出雲大神の託宣があったとする伝えがあり、また垂仁天皇87年の条に、丹波の桑田の甕襲(みかそ)が勾玉(まがたま)を貢上したとする伝承がみえているが、とりわけ重要な所伝は、武烈天皇なきあとの皇嗣として擁立されんとしたのが、丹波の桑田にあった倭彦王(やまとひこのみこ)であったとする記載である。倭彦王は即位を避けて身をかくしたという(『日本書紀』継体天皇即位前紀)。
 弘計王(をけのみこ=顕宗天皇)・億計王(おけのみこ=仁賢天皇)もまた丹波に難を避けた皇子であり、「丹波の小子(わらこ)」とよばれたことが、『日本書紀』(顕宗天皇即位前紀)にみえている。
 延長5年(927)に奏進された『延喜式』にも収録されている丹波国の小幡神社は、延喜式内の古社であって、開化天皇を主神とする式内社は、全国いずれの地にもない。
 なぜ開化天皇を主神とし、相殿に彦坐王と小俣王を祭祀するのか、そのいわれは前述の倭王権と丹波とのかかわりに深く根ざしている。
 『日本書紀』には有名な「四道将軍」の派遣説話があり、崇神天皇の10年9月に、大彦命(おおひこのみこと)を北陸へ、武渟川別(たけぬかかわわけ)を東海へ、吉備津彦(きびつひこ)を西道へ、丹波道主命(みちぬしのみこと)を丹波へそれぞれ遣(つか)わしたという。
 『古事記』ではその内容に差異があって、大毘古命を高志(越)へ、建沼河別命を東方へ、日子坐命を旦波へ遣わしたとし、「四道」ではなく「三道」への派遣説話となっている。これは『古事記』の記述が、孝霊天皇の条に大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)らを吉備へ派遣したことを別に載せているためである。
 このように『古事記』と『日本書紀』とでは、そのなかみに異なるところがあるけれども、彦坐王(日子坐命)は開化天皇の御子であり、丹波道主命(『古事記』では丹波比古多多須美知宇斯王=たにはのひこたたすみちうしのみこ=と書く)もやはり開化天皇の御子であった。
 すなわち開化天皇と和邇氏(わにうじ)の遠祖意祁都比売(おけつひめ)(『日本書紀』では姥津媛=おけつひめ)との間に生まれたのが彦坐王であり、開化天皇と近江の三上祝(みかみのはふり)がまつる天之御影(あめのみかげ)神の娘息長水依比売(おきながのみずよりひめ)との間に生まれたのが丹波道主命であると伝承する。
 丹波の曽我部町穴太の里に、開化天皇・彦坐王・小俣王を奉斎する小幡神社が創祀されたいわれは、丹波が開化天皇・彦坐王・丹波道主命と密接なつながりを保有していたことに由来する。古伝承に丹波道主命がその父にあたる開化天皇を創祀したとするのも、こうした系譜伝承にもとずく。
 社伝によれば和銅元年(708)、丹波国司となった大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそんこままろ)が、その霊域に社殿を建立したという。その後丹波の神徳篤き氏神また産土神(うぶすなのかみ)として尊崇をあつめ、たびたび本殿の修補がなされてきたが、現本殿は享保9年(1724)に改修されたものである。
 古く穴穂宮とも称されたことは正長元年(1428)の古文書にうかがわれる。江戸時代には穴太は旗本の知行地となったが、宮党(みやのとう)が組織されて祭祀の伝統は氏子のなかに連綿とうけつがれてきた。
 小幡神社の創祀にゆかりのある霊域に高熊山があり、また神社の裏山には、俗称「堺塚」とよばれた竪穴式古墳が存在した。その調査報告は『考古学雑誌』(9巻の11号)に掲載されているが、直刀1、剣身1、槍身1、蓋杯2、勾玉3、臼玉5、刀子1などが出土し、東京博物館に収蔵されている。
 また宗教法人大本の出口王仁三郎師は、幼少のころから小幡神社を信仰し、明治31年(1898)、27才のおりの高熊山での修行は、小幡大神の神示による。
 円山応挙もあつく小幡大神をあがめ、応挙の父藤左衛門は応挙に命じて絵馬を描かしめ、享和3年(1803)には応挙の子 応瑞がこれに装飾して奉納した。社蔵の神馬図(板地着色)がそれであり、写実様式による絵馬は珍しくその特色がよくいかされている。応挙の絵馬は全国的にも稀で、貴重な傑作である。
 神名稚日本根子日子大日日尊の「ワカヤマト」は新しい「ヤマト」を象徴しており、その大いなる神霊の神徳は、氏子のみならず全国崇敬者におよぶ。
 昭和52年8月27日謹記  』

 現地説明板によると、当社は崇神天皇の命により派遣された四道将軍のひとりである丹波道主命が父である「開化天皇」を主神として祀ったことに始まるといわれ、開化天皇の御子の「彦坐王」とその御子「小俣王」の三代を奉斎しているという。

 『日本書紀』では、崇神天皇の10年9月に「四道将軍」の派遣説話があり、丹波へは丹波道主命が派遣されたとされるが、『古事記』では丹波に遣わされたのは彦坐王となっている。
 しかし、丹波道主命も彦坐王も開化天皇の皇子である。ただ母がちがい、彦坐王の母は和邇氏(わにうじ)の遠祖 意祁都比売(姥津媛、おけつひめ)で、丹波道主命の母が近江の三上祝(みかみのはふり)がまつる天之御影(あめのみかげ)の娘の息長水依比売(おきながのみずよりひめ)ということになっている。

 彦坐王の御子には小幡神社に祀られている小俣王の他に美知能宇斯王がいて、この美知能宇斯王が丹波道主命とする説がある。丹波地方の他の式内社由緒では、美知能宇斯王を丹波道主命と想定している
 美知能宇斯王が丹波道主命ならば、当社に祀ったのは祖父の開化天皇と父の彦坐王と兄弟の小俣王となりスッキリする。
 生きている時に神社に祀られることはないという。美知能宇斯王が祖父の開化天皇を祀ったのであれば理に適う。その後、彦坐王と小俣王が配祀されたのではないか。

 また、和銅元年(708)に、丹波国司大神朝臣狛麻呂が霊域に社殿を建立したとされるが、この霊域とは高熊山(丁塚山)らしい。高熊山には小幡神社の奥の院があったともいわれる。
 「平成祭データ」には、「宗教法人大本の出口王仁三郎師は、幼少のころから小幡神社を信仰し、明治31年(1898)、27才のおりの高熊山での修行は、小幡大神の神示による。」とある。王仁三郎はこの修行で霊界とのチャンネルを持つようになり、後に『霊界物語』を出すことにつながる。
 上田喜三郎(出口王仁三郎)が、出口なおと対面するのは、この修行のすぐ後であることも注目される。その後、出口なおと王仁三郎のコンビは心霊主義的な古神道である大本を組織していく。


 この「平成祭データ」の記事は誰が書いたのであろう。長年小幡神社の宮司をしてきた上田正昭さんであろうか。
 記事の中に亀岡出身の絵師である円山応挙(1733〜1795)の名があるのはともかく、宗教法人大本の出口王仁三郎(1871〜1948)の名が見えるのが気になる。

 出口王仁三郎の改名まえの名は上田喜三郎である。また、円山応挙の名は上田主水と云って、宮司の上田正昭さん同様に上田姓である。円山応挙も出口王仁三郎も小幡神社の氏子であったという。

 王仁三郎は大本の開祖・出口なおの五女の出口すみと結婚して出口姓になったが、喜三郎 → 鬼三郎 → 王仁三郎 と改名したようだ。
 鬼三郎については、出口なおが「御筆先(おふでさき)」(自動書記)で、「喜三郎」を「鬼三郎」と書いたからだという説がある。それを本人が「王仁三郎」に替えたらしい。
 出口なおは文盲であったが、日が暮れて、部屋が真っ暗になっても、書き続け、御筆先(自動書記)により没するまで20年間あまりで半紙20万枚を綴ったという。ほとんど平仮名で記されたものは、後に平仮名を漢字に置き換えて娘婿・出口王仁三郎が発表したのが「大本神諭」である。
 従って出口なおが、「喜三郎」を「鬼三郎」と書いたとは考えられない。出口なおは、「開く」を「ひら九」と書いたりしたので、簡単な漢字は書けたのであろうが、「きさぶろう」を「鬼さぶろう」と書くことは難しかったのではないだろうか。

 出口なおが上田喜三郎(王仁三郎)と初体面するのは1898年(明治31年)8月であるが、その対面は事前に幾度か啓示されていたとされる。
 二人の関係は出口なお(シャーマン、霊能者)と王仁三郎(プリースト、祭祀者、取次)というものであったとされるが、王仁三郎自身も霊能者としての才を有していたという。

 王仁三郎は霊能者としても有能であったのだろうが、オルガナイザーとしての才能に秀でていた。地方民間宗教にすぎなかった教団を国家規模の大宗教に育てたカリスマ的組織者であり、新宗教大本は土着の民間信仰の集大成であると同時に、救済の対象を「世界・全人類」に広げた世界宗教としての性格も持つに至った。
 また、王仁三郎の大本は分派が多いことでも知られる。浅野和三郎は心霊科学研究会(現在日本スピリチュアリスト協会)を結成したし、谷口雅春と生長の家、友清歓真と神道天行居、岡田茂吉と世界救世教(真光系諸教団)などが代表例である。

 1935年(昭和10年)、第二次大本事件で王仁三郎は治安維持法違反と不敬罪で逮捕され、施設も全て破壊され大本関連団体も解散や活動停止に追い込まれる。出版物も全て発行禁止処分となっている。
 1942年(昭和17年)8月に6年8ヶ月ぶりに71歳で保釈されると、亀岡の農場に戻って家族と共に暮らした。そこで陶芸を始め、陶芸にも才能を発揮しその作品は高く評価された。
 上田家の伝説では七代ごとに偉人が現れるとされていたが、上田喜三郎(王仁三郎)は画家の円山応挙から数えてちょうど七代目にあたる。それが事実かどうかよりも、自己劇画化に円山応挙を用いたことが王仁三郎の心情を語っているとされる。

 王仁三郎は多くの和歌も残している。円山応挙は「幽霊画」もよく描いたという。上田家はもともと芸術的才能とスピリチュアルな資質を持つ一族だったのかもしれない。
 王仁三郎は1948年(昭和23年)1月19日に逝去し、波瀾に満ちた76年の人生を閉じた。

 今でも大本(教)は、約17万の信者を持ち、これは神道十三派などの中で5番目の勢力だとされる。因みに上位4教団は、天理教119万、出雲大社教126万、金光教 43万、黒住教30万 とされる。教会数では天理教の約16600に次いで大本は約630で2位あることが注目される。大本の本部は京都府の綾部市と亀岡市(亀山城跡)にある。神道系の上位5教団の本部がいずれも奈良、京都、島根、岡山という西日本にあることが注目される。


 宮司の上田正昭(1928〜2016)は、古代史研究の第一人者で京都大名誉教授であった。2016年3月13日に88歳で逝去した。著書に「日本神話」「古代文化の探求」「古代からの視点」「日本の神話を考える」「上田正昭著作集」などがある。

 上田正昭さんは京都・西陣の織屋出身で、実家が支店を出した兵庫県城崎町(現豊岡市)で育った。旧制豊岡中学(豊岡高)、京都二中(鳥羽高)と進み、母親が小幡神社と関係があり、望まれて中学時代に上田家に養子に入った。中学時代に早稲田大学出身の担任の先生から津田左右吉(早稲田大学の教授でもあった)の発禁本『古事記及び日本書紀の研究』を借り、歴史に興味を持ったという。(当時、出口王仁三郎の著書も発禁本になっていた。)

 神主の資格を得るため國学院大へ進み、国文学者でもあり民俗学者でもある折口信夫の薫陶を受ける。
 王仁三郎も1906年(明治39年)に教団確立のために神主の資格をとるため「皇典講究所」(現:「國學院大學」)教育部本科2年に入学し、翌年3月卒業して建勲神社の主典となるが半年で退職している。

 上田正昭さんは学徒動員で入隊することはなかったようだが、、学徒動員で群馬県太田市に配属されたという。そこでの体験を次のように語っている。

「 女学校から来ていた17、18歳の女子挺身隊の軍事教練が役割。でも竹槍を持たせても、すぐ『休め』。『万葉集』の防人の歌などを講義した。見回りの将校が来た時だけ竹槍を持たせて…。
 ある時、彼女たちが特攻隊に差し出す血書をしたためた。驚いて『血の一滴はものすごく大事。国のためにならない。』と説いたが配属将校から、『なぜ美挙を止めたっ』と殴られた。無念の思いで『大いなる悲しみ』と名付けて日記に書いた。
 日本=神国は半信半疑だった。戦争に負けるだろうと思いつつも、天変地異で、もしかしたら、と期待をかけてもいた。  
 敗戦後、8月末には亀岡に戻った。
 まさに国破れて山河ありだった。農村なのに食糧難で、すいとんばかり。開け放した家で白米を食べる家族が見えた。それはうらやましかった。 」

 1942年(昭和17年)に保釈されて亀岡に戻った王仁三郎も、信者に戦争のことを訊かれ、反戦平和と日本の敗戦を予言している。和歌では「天地に神あることをつゆ知らぬ 醜のしれもの世を乱すなり」「荒れ果てし神の御苑に停ずみて 偲ぶは神国の前途なりけり」と権力者達を批判した。

 上田正昭さんは20歳で小幡神社の宮司になったという。
 1947年(昭和22年)京大文学部史学科入学。在学中に助教諭として、園部高の教壇に立った。京大在学中に宮司と高校助教諭の二足の草鞋を履いていたことになる。
 上田正昭さんは園部町(現南丹市)での講演(講義)で、「人間の幸せを奪い、自然と文化遺産を破壊する戦争は、最大で最悪の人権侵害である。」と語ったが、その講演を若き日の野中広務が聴いていたという。
 野中広務は京都府船井郡園部町町長などを務めた後、自民党の衆議院議員になり内閣官房長官や自由民主党幹事長などを歴任した。
 2009年、永年の宿敵であった共産党の機関紙『しんぶん赤旗』のインタビューで平和について語った。このインタビューについて朝日新聞(2009年7月31日)で問われ、「政治の最大の役割は戦争をしないこと。『戦争反対』であれば、どんなインタビューでも受けますよ。」と答えている。
 野中さんは2003年に政界を引退し2011年に自民党を離党しているが、どうした訳か2016年6月13日に90歳で復党した。野中さんが現在も京都府土地改良事業団体連合会の会長も務めているので、選挙などでの協力を期待してのもののようだが、野中さんは人生の最後にどのような役割を果たそうとしているのだろう。


 上田正昭さんは京大卒業後は高校教諭を経て1963年京大助教授、1971年に京大教養部教授に就いた。
 定年退官した後、1991年から6年間大阪女子大(現・大阪府立大)学長を務めたほかアジア史学会会長などを歴任。
 1997年、姫路文学館館長に就任、播磨学研究所名誉所長も務めた。1988年刊行の城崎町史も監修。 
 また、司馬遼太郎や金達寿の「日本の渡来文化の座談会シリーズ」の常連の一人であった。梅原猛との共著で『「日本」という国』を出している。
 私は上田正昭さんの著書を読んだことはないが、梅原猛さん(1925〜)の『地獄の思想』、『隠された十字架』などを読んでいる。梅原さんは上田さんより3歳年上で京大哲学科を卒業している。年齢も近いし、お互い太平洋戦争での辛い経験を持つ。

 1997年大阪文化賞、1998年福岡アジア文化賞、2000年南方熊楠賞、2003年勲二等瑞宝章。
 朝鮮半島や中国との関係を重視して日本古代史を分析。著書「帰化人」では渡来人が大きな役割を果たしたと訴えるとともに「戸籍がない段階に帰化人は存在しない」と指摘、ほとんどの教科書が「渡来人」と記述するようになった。
 私などは気楽に「渡来人」とか「帰化人」とかつかっているが、それらの言葉の定義を明確にしたのは上田正昭さんであったことを初めて知った。
 2009年には研究と日韓の交流促進を評価され韓国政府から修交勲章崇礼章を受けた。

 この申し分のない経歴を持つ上田正昭さんが初めに就いた仕事が、小幡神社の宮司で、それを亡くなるまで68年間続けた。他の仕事よりも宮司の仕事を最優先させ、祭りなどの祭祀には海外出張からでも飛んで帰ったという。

 上田正昭さんが宮司になったのは昭和22年(1947)だという。当然、氏子であった出口王仁三郎(1871〜1948)とも面識があり、王仁三郎を聖師と呼び『大本七十年史』の編纂にも関与している。

 上田正昭さんは中学時代には外交官になりたいと思っていたそうだが、図らずも神職になり歴史に興味をもった。とくに渡来人に興味を引かれたのは、亀岡という土地柄が影響したのであろう。実家が西陣の織屋ということは自身も渡来人の末裔であった可能性も高い。在日朝鮮人問題や部落民などの人権問題にも深くかかわってきた。

 薫陶を受けた折口信夫は歌人でもあったが、上田さんも歌人でもある。2001年の宮中歌会始で召人(めしゅうど)を務め、次の歌を詠んでいる。
「 山川も草木も人も共生の いのち輝け新しき世に 」

 その歌碑が境内に建っていた。
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 上田さんの思考は、「人と人との共生」、「人と動物との共生」に留まらず、「人と山川との共生」、「人と草木との共生」にまで及んでいる。
 当社は犬飼川西岸に突出した山地端に鎮座するが、この尾根上には穴太古墳群がある。この当社の近くを流れる犬飼川には、国の特別天然記念物に指定されているオオサンショウウオが生息していて、貴重な流域である。
 上田さんはこのオオサンショウウオが生息する「山川」の環境を守り、そこに生える「草木」を大切にしたいと考えたのであろう。

 自然と人間の共生は縄文からの日本人の知恵である。縄文人は全てのものの中に霊を感じ(アニミズム)、必要以上に動物を狩ることはしなかったし、木を伐った後は、新たに木を植えて環境を守ったという。全てを狩り尽くし、全てを伐り尽くしたとき、自分たちも生きていけないことを知っていた。
 それは現在でも同じなのかも知れない。自然環境を破壊することは取りも直さず、人間の健康被害につながるのであろう。美しい里山の風景は、守ることなしでは荒れ果ててしまうとも云われる。
 
 私はこの上田さんの歌碑を見たとき、上田さんは宮司であるが仏教のこともかなり学んだ学者だなと思った。

 空海の真言密教が短期間で日本に定着したのは、真言密教が大乗仏教の中で最も強い呪力を持つ仏教だからといわれる。日本には古代神道において呪術的祈祷が行われていたとされる。
 邪馬台国の卑弥呼(親魏倭王)も“鬼道”で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)が、これも古代神道の一形態であった可能性が高い。『魏志倭人伝』には、既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。これは、大本での出口なおと王仁三郎の関係に似ている。

 空海は密教の呪力により朝廷や貴族に祟る怨霊を鎮魂し、真言密教を国家鎮護の仏教とした。最澄の天台宗は必ずしも呪術的な仏教ではなかったが、最澄はこの呪術的な仏教を取り入れない限り真言宗にはかなわないと考え、空海の弟子になることも厭わず密教を学ぼうとした。空海は一旦は最澄を受け入れたが、最澄の経典を以て学ぼうとする姿勢を非難して、やがて二人は決裂した。
 最澄を師とする円仁や孫弟子の円珍は、師の思いを察して唐へ留学して密教を導入し、台密を完成させた。
 天台宗は密教を一つの柱としたが、最澄以来の他の教学の経典も学ぶことを忘れなかった。それが日本仏教の学術センターとなり、多くの宗派の開祖を生む結果となった。一遍以外の法然、親鸞、道元、日蓮などは皆、比叡山延暦寺で学んでいる。
 最澄は『法華経』を重視したようだが、後世その『法華経』を根本経典としたのが日蓮宗を開いた日蓮であった。
 日蓮は『観心本尊抄』のなかで「一念三千」という思想を手がかりに論を展開する。よく仏教で「三千世界」というが、その元になった思想である。この「一念三千」という思想は『法華経』の思想ではなく、『法華経』に基づいて天台教学を完成させた天台智(538〜597)が主著『摩訶止観』で述べた思想だという。

 私は仏教について半可通であるが、上田さんの歌碑について関係があると考えるので話を続ける。
 「一念三千」の思想は十界互具の思想を基にしている。大乗仏教では地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天 の6つの世界を俗世界と考える。六地蔵の“六”はこの6つの世界に由来する。すべての生きとし生けるものはこの6つの世界(六道)を流転していると説かれる。そしてその6つの世界の上に、声聞・縁覚・菩薩・如来の4つの悟りの世界があるとされる。
 この「6つの俗の世界」と「4つの悟りの世界」を合わせて十界という。そしてその十界がそれぞれまた十界を宿しているという。つまり修羅場にいる人の心にも、どこかに菩薩や如来が隠れているし、どんな聖人の心の中にも、どこかに地獄や餓鬼や畜生などの心が隠れていると説く。このようなことを聞くと何だかホッとするのは私だけではないであろう。
 更にその十界がまた、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟という10のあり方(十如是)を持っているという。ここまで来ると難しすぎるが、とにかく10×10×10で1000のあり方があることになり、それを千界如是というそうだ。
 しかし、天台智(てんだいちぎ)はそれでもまだ十分ではないと考えた。その千の世界が五蘊世間、衆生世間、国土世間の3つの世間(世界)を持つという。つまり1000×3で三千の世間があるという。
 瞬間の心(念)の中において三千の世間が含まれることになる。これが「一念三千」という思想だという。お坊さんたちは何という難しい勉強(哲学)をしているのだろう。
 
 日蓮は天台智が千界如是の説に三世間の説を加えたことを重視した。なぜなら国土世間というものが入ってくることにより、ただ有情だけが千の世界を持つのではなく、無情つまり動物や植物もまた千の世界を持つことになるからである。これは縄文人のすべてのものの中に霊魂がある(神が宿る)という考えに近い。
 日蓮は人間だけが救われ仏になれるのではなく、動物はおろか一木一草の植物すら仏になれるというのである。
 これは天台本覚論の「草木国土悉皆成仏」あるいは「山川草木悉皆仏性」という思想を日蓮がしっかり受け継いでいることを示す。日蓮はこのような天台智の「一念三千」の思想を高く評価しながら、それは「理」の一念三千にすぎないという。日蓮は更に「事」の一念三千というものを説く。天台智の説いた「一念三千」という思想が「南無妙法蓮華経」という言葉によって集約されているとすれば、天台智のように一念三千という思弁に耽るのみではなく、この「南無妙法蓮華経」というありがたい教えを人々に布教しなければならない。事の一念三千というのは、そういう強い実践的意志を含む思想だとされる。
 さらに日蓮の法華経論は続くが、このへんにしておこう。しかし、日蓮の仏性を人間だけでなく山川草木の中にも見て、この世は人間だけのものではないという法華経の思想は、その後の日蓮宗系の「創価学会」の創始者・牧口常三郎や「立正佼成会」の創始者・庭野日敬に影響を与えたことは確かだと考える。法華経の信者である宮沢賢治の童話にもその思想がみられる。また、広くは環境問題にも繋がる思想だと思う。
 
 ここでもう一度上田さんの歌碑の歌を見てみよう。
「 山川も草木も人も共生の いのち輝け新しき世に 」

 私はこの歌の中の“山川も草木も人も……”の部分に、「山川草木悉皆仏性」という思想が見受けられるのではないかと考える。


 また、それとは別に、私はこの上田正昭さんの歌碑を見たとき、師である折口信夫父子の墓を思い出した。
墓碑には次のように刻まれていた。
『 もっとも苦しき たたかいひに 最くるしみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋 ならびにその 父 信夫 の墓  』

 上田正昭さんの歌には、どこか宮中歌会始で召人(めしゅうど)を務めた喜びのようなものが感じられる。“いのち輝け新しき世に”には、その時の上田さんの“輝き”も感じられる。
 折口信夫と上田正昭は銃後で同じ戦争を体験したが、年齢故の戦後の態度が違ったように感じる。折口は戦争を引きずり、上田は終戦で抑圧された環境から抜け出せたことに開放感と新たな可能性を見出し勉強を始めた。
 折口が亡くなったのは昭和28年であり、その3年後の昭和31年の経済白書では「もはや戦後ではない」と云われるまで復興した。折口は養子である春洋にあの世で日本の復興を伝えることができることが唯一の慰めであったのかもしれない。


 犬飼川の両側の曽我部や稗田野は亀岡盆地内でも広範囲に条里制が敷かれたようで、古くから開発の進んだ土地である。
 亀岡は明治2年(1869)に、三重県亀山市と混同されないために、亀山から亀岡へと改称された。明治4年(1871)、廃藩置県で亀岡県となり、同年に京都府所属となる。
 亀岡市は、昭和30年(1955)に南桑田郡のうちの1町15村(亀岡町、東別院村、西別院村、曽我部村、吉川村、稗田野村、本梅村、畑野村、宮前村、大井村、千代川村、馬路村、旭村、千歳村、河原林村、保津村)が合併してが誕生した。(その後、合併・分離がある)
  曽我部町は、亀岡市発足以前は、南桑田郡曽我部村で、曽我部は蘇我氏にゆかりがあるのかもしれない。
 また、小幡神社の“小幡”は、八幡神社の“八幡”が秦氏と関係があるように、秦氏との関係が考えられる。京都西部や亀岡は、渡来系の秦氏の本拠地で、京都市嵐山の松尾大社をはじめ、亀岡も秦氏系神社が点在するようだ。
 あるいは祭神の1柱「小俣王」が訛って付いたのかもしれない。小俣王は『古事記』に「當麻の勾の君の祖」とある。いずれにしても開化天皇を主神とする式内社は全国いずれの地にもないということは特徴的である。

 『日本書紀』には、安閑2年(535)、大和政権が各地に直轄地として屯倉(みやけ)を設置したと記され、そのなかに丹波の蘇斯岐屯倉(そしきのみやけ)という記述がみられる。市内に残る三宅神社周辺は、古くは三宅村と呼ばれた。各地の屯倉の設置を進めたのは蘇我氏であり、この三宅村に蘇斯岐屯倉であったことが考えられる。何れにしても亀岡は朝廷との関係が深い土地であったようだ。


 現在は小幡神社と大本(教)の関係は表面的には明らかではないが、やはり気になる。
 明治25年(1892)に開祖・出口なおに、「艮の金神(うしとらのこんじん)」が神懸りしたことにより大本が発祥する。王仁三郎はこの神を国常立尊とした。
 大本では、なおを「女子の肉体に男子の霊が宿った変性男子」、王仁三郎を「男子の肉体に女子の霊が宿った変性女子」と定義し、なおには天照大神(火)・王仁三郎にはスサノオ(水)が宿って「火水の戦い」という宗教的な論争を展開した。
 大正8年(1919)、大本は亀山城址を買収して綾部と並ぶ教団の本拠地「天恩郷」に改修した。
 この時も綾部は祭祀本部、亀岡は宣教本部と定義した。ここにもなお(厳霊、日、火、天照大神)と王仁三郎(瑞霊、月、水、スサノオ)の二重構造と「型の反復」という大本の構図が見られる。
 私は大本がアマテラスを男神、スサノオを女神としたことに興味をそそられる。いままで廻ってきた神社の中にも、このような逆転をかすかに伝える古社があった。また、男女のペアの神まつりは古神道のプロトタイプでもある。

 丹波国司大神朝臣狛麻呂が霊域に社殿を建立したのが、和銅元年(708)とされる。穴太寺(穴穂寺)は、慶雲年中(704〜708)大伴古麻呂大臣が薬師如来を本尊として開創したと伝えられる。時期が同じ頃であることから、私は穴太寺(穴穂寺)が小幡神社(穴穂宮)の別当寺でもあったのではないかと想像する。

 穴太寺の本尊は薬師如来である。薬師如来と習合するのは一般的にはスサノオであることを考える時、王仁三郎にスサノオが宿ったとされることは意義があることだったのではないか。王仁三郎は短い間だが建勲神社の主典を務めている。建勲神社は織田信長を主祭神とするが、織田信長はスサノオの信奉者であった。

 王仁三郎は小幡大神の神示で当社に祀られている神はスサノオ(女神)であることを知っていたのではないだろうか。伊勢のアマテラスの男神説は有名であるが、アマテラスとセットで語られるスサノオは女神であった可能性がある。そうなると月読神の存在が気になるところだ。月読神の大元は壱岐や対馬にあるようだ。国家神道によるアマテラスを最高神とする一神教化の運動による八百万の神の受難は今も続いているようだ。
 キリスト教やイスラム教のような一神教は民族を統一するためには有効だが、他の神の存在を認めないので、勢い争いの元になりえる。
 日本も単一民族などと思い込まされ、アマテラスの一神教化を企てたとき、それが専制君主主義の侵略戦争に利用されたことを忘れてはならない。現在の日本の排他性はここに根ざすのかもしれない。
 八百万の神が豊かな自然の中に生きていた縄文時代以来の日本は、渡って来る人たち(客神)にも寛大な開かれた国であったのではないか。1万年以上続いた縄文時代のDNAは融合と調和のバランスを列島の古代人にもたらしていたのではなかろうか。

 王仁三郎の保釈後、関係の弁護士たちが国家に対する損害賠償請求の訴訟について打ち合わせると、王仁三郎は言下に「今度の事件は神様の摂理だ。わしはありがたいと思っている。今更過ぎ去ったことをかれこれ言い、当局の不当をならしてみて何になる。賠償を求めて敗戦後の国民の膏血を絞るようなことをしてはならぬ。」と述べた。この王仁三郎の発言により、国家に対して一切の賠償を求めないことになり、これを伝え聞いた人々が「ほんとうの宗教家ということが初めてわかった。」と感嘆したというエピソードがある。

 オーム真理教のような宗教を騙った犯罪組織教団は以ての外だが、憲法に信仰の自由と言論の自由が保障されているのだから、大本が受けたような弾圧があってはならない。
 大本を縛った治安維持法違反や不敬罪は今が無いが、いつ何時、言論や表現の自由などを奪いかねない法律ができるか分からない。すでにテロ防止の名の元に治安維持法のような法律が出来上がりつつあるのかも知れない。

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