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zoom RSS 旅 678 金剛寺

<<   作成日時 : 2017/07/03 04:38   >>

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2016年 8月18日

金剛寺

 小幡神社と目と鼻の先に金剛寺があった。
 正応2年(1289)に仏国国師により開山され、ご本尊は釈迦牟尼仏だという。
 福寿山金剛寺は、臨済宗天龍寺の末寺で円山応挙の絵を多く所蔵し、別名「応挙寺」と呼ばれる。
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現地説明板より
『 金剛寺(応挙寺)
 臨済宗天竜寺派。堂宇、楼門は約250年前のものである。西洋画法をとり入れ圓山派という写生画の一派を樹立した円山応挙は1733年(享保18年)5月1日に、この穴太の地に誕生、9歳の時に金剛寺に入門したが、和尚に画才を認められ京都に学んだ。
 その絵は正確な現実描写と日本的な平明と典雅を備えている点に特色がある。1788年(天明8年)に祖先および両親の追善菩提のために本堂に障壁画を描いた。山水図13幅、群仙図12幅、波涛図28幅、屏風一双いずれも国の重要文化財に指定され、現在は巻物に改装して保管されている。
 1795年(寛政7年)63歳で逝去した。 』

 円山応挙の作品をいくつか紹介する。
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諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めたのは円山応挙とも言われている。
 応挙が描いた幽霊の美人画を元にした落語「応挙の幽霊」があるそうだ。応挙を左甚五郎のような神格化された名人として扱っており、「応挙の幽霊の絵は他の絵師とは違う。とても美人だ。」「応挙の幽霊は掛け軸から出て来る。左甚五郎の彫った龍が夜な夜な水を飲みに行くのと同じだ。」と描写されている。
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 福寿山金剛寺は正応2年(1289)に仏国国師により開山され、天正6年(1578)玉堂和尚が再建した。
 円山応挙は村の百姓 藤左衛門の子として生まれ、幼名岩二郎という。僧侶となるために入ったのが金剛寺で、そこで盤山和尚に画才を認められ、京都の狩野派系の石田幽汀に入門し運筆と墨色の法を学んだという。やがて彼は西洋画法も採り入れ、これらを総合して円山派という写生画の一派を樹立した。

 「嚢中の錐」で、隠しようもなく天性の才能は現れるものだ。岩二郎がその才能を伸ばすことが出来たのは幸いだ。
 画僧の周文や雪舟は相国寺(臨済宗相国寺派大本山)の出身である。相国寺は五山文学の中心地であり絵画にも理解があった。岩二郎の父藤左衛門は子の才能を伸ばす道として京都五山の一つである臨済宗天龍寺の末寺である金剛寺に入門させたのかもしれない。この禅寺に入ることにより道が開けると考えたのではないだろうか。果たして父の思惑が当たったと言えるのではないか。

 藤左衛門も岩二郎も産土神である小幡大神を崇拝していたという。父の藤左衛門は応挙に命じて絵馬を描かせたという。応挙の死後ではあるが、享和3年(1803)には応挙の子 応瑞がこれに装飾して小幡神社へ奉納した。応挙の絵馬は全国でも三幅しかなく、珍しいものだとされる。
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 私が訪れた寺社で印象に残る絵馬は、山形県の若松寺観音堂の絵馬である。この絵馬は躍動感があった。寒河江の大江氏の家臣である武人画家・郷目貞繁が描いて奉納した絵馬である。神仏習合時代には寺に絵馬を奉納することも珍しくなかったようだ。元来観音信仰は神への信仰に近い。
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 江戸時代には穴太は旗本の知行地となったが、宮党(みやのとう)が組織されて祭祀の伝統は氏子のなかに連綿と受け継がれてきたという。氏子の結束が堅かったのは地縁だけでなく血縁も深かったのであろう。

 円山応挙(上田主水)はよく幽霊の絵を描いたという。おそらく幽界や霊界を見る霊感が強かったのであろう。また、出口王仁三郎(上田喜三郎)も霊感が強かったのであろう。


 金剛寺では鐘楼門の写真しか撮らなかった。この鐘楼門は明和8年(1771)に建立されたもので、「亀岡の自然100選」に選ばれているそうだ。この鯱をのせた一見竜宮城型の鐘楼門は『金剛窟』の額を掲げている。
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 この額には、「 為 日本国僊叟禅師 朝鮮朴徳源 」と署名がある。
 “日本国の僊叟禅師”の為に“朝鮮の朴徳源”が書いたということだ。
 金剛寺ではなく、「金剛窟」とあるのは、中国の禅僧が修行する地が“窟”と呼ばれているのに因んだ表現だという。なるほど金剛寺は境内が狭く“窟”という表現が似合っているかもしれない。

 朴徳源は朝鮮の書家一覧に名を列す大家だという。「 為 日本国僊叟禅師 朝鮮朴徳源 」と署名があることから、天龍寺末寺の金剛寺第七世の僊叟和尚(せんそうおしょう)が通信使の接待役に招集された時、通訳として随行していた朴徳源と親しくなり、直接一筆を要請したのではないかと考えられている。
 朝鮮通信使の宿泊所として京都五山があてられ、その宿泊所に文人が訪ねて交流することはよくあったようだ。

 鎖国政策をとった江戸幕府ではあるが、徳川将軍が他の国王と国書を交換し交流していたのが朝鮮国である。 これは対馬の宗氏が朝鮮と貿易するために欠かせないもので、幕府は朝鮮通信使の多くの事務的作業を宗氏に任せていたようだ。
 朝鮮通信使は、朝鮮国王より将軍に対し「信を通じる・友好の証し」として遣わされたとされるが、中に入った宗氏は朝鮮の顔を立てなければならないし、将軍家にも面目を施さなければならないので苦労したようだ。 
 朝鮮通信使は、慶長12年(1607)以来、文化8年(1811)まで12回にわたり来日するが、一行の人数は毎回300人から500人という大使節団で、李朝朝鮮政府が選び抜いた優秀な官僚たちと、随行員には美しく着飾った小童・楽隊・武官・医師・通訳などが加わっていたので沿道の庶民にとっては呼び物であったという。幕府も李朝朝鮮政府が朝貢に訪れたということを喧伝し、幕府の威光を庶民に示す機会であったようだ。
 一行の宿舎には、京都では大寺院があてられ、漢字・漢文を心得た禅僧が多数動員され接待と事務処理にあたったようだ。

 小幡神社の宮司で京都大学名誉教授の上田正昭さんは、
「 京都と朝鮮通信使の歴史をかえりみる時、忘れることのできないのは、京都五山とりわけ天龍寺・東福寺・相国寺とのつながりである。対馬の厳原にあった朝鮮との外交事務を管掌する以酊庵には、寛永年度から京都の碩学の僧が輪番僧として派遣されていたが、慶応2年(1866)の廃止まで、天龍寺から37人、東福寺から33人、建仁寺から32人、相国寺から24人(いずれも延べ人数)が赴任している。
 亀岡市曽我部町穴太の金剛寺の楼門に「金剛窟 朝鮮朴徳源」の扁額が掲げられているのは、第十一回(宝暦十四年)通信使のメンバーであった朴徳源の書で、「朝鮮国梅軒」の扁額のある峰山町の全性寺とともに、天龍寺派に属することが注目される。」と記している。

 この文から察するところ、このような扁額は何処にでもあるというものではなく珍しいもののようである。
 上田正昭さんが指摘した全性寺のある峰山町(みねやまちょう)は、京都府の北部、丹後半島の付け根に位置し、『天女の羽衣伝説』で知られる町である。2004年4月1日に周辺の5町と合併し京丹後市となった。
 この町の出身者としてはパチンコ店最大手のマルハン代表取締役社長の韓 裕(はん ゆう)さんがいる。韓裕さんは在日韓国人として生まれたが、現在は日本に帰化している。
 日本のパチンコ業界は在日朝鮮人が握っているということは有名である。

 日本は今、合法カジノを導入しようとしている。
 リオデジャネイロ五輪出場が確実視され、金メダル獲得の期待も高かった桃田賢斗は闇カジノに通ったということで出場停止処分を受け、先頃許されて復帰戦を飾り東京五輪へのスタートをきったが、桃田を処分した日本バトミントン協会は、どのように考えているのだろう。闇カジノは陰に「反社会的勢力」があり、その資金源になっていたことは確かだとされる。
 数年後にはカジノも合法化されるので、闇カジノは大した問題でない。それよりも桃田を早く復帰させ東京五輪でメダルを取らせることの方が大事だなどと考えているのであれば大間違いだ。また、一緒に会見を開いた桃田賢斗(当時21歳)と田児賢一(当時26歳)の処分の差が気になる。
 一部には田児は既にギャンブル依存症だが桃田はそれほどでもないという見解があるが、そんなことは誰が決めるのであろう。

 パチンコでもカジノでも賭け事には依存性がある。あまり語られることがないが、パチンコ依存症で家庭崩壊や育児ネグレクトが起こっているケースはかなり多い。
 パチンコは健全な娯楽なのかもしれないが、ギャンブル依存症と隣り合わせであることを忘れてはならない。増してギャンブル性が高いカジノにおいてギャンブル依存症を個人の意志の問題として看過してしまうことは、立法府、行政府の怠慢であろう。
 利権や利害が絡むであろう合法カジノ導入に対しては、運用方法、認可などについて慎重に検討を重ねる必要があり、決して急ぐべきものではないことを確認することが大事であろう。

 一見、朝鮮通信使や渡来人や帰化人の話題から大きく外れてしまったようだが、全く関係ないことではない。
 上田正昭さんは著書「帰化人」で、渡来人が大きな役割を果たしたと訴えるとともに「戸籍がない段階に帰化人は存在しない」と指摘した。
 韓裕さんは在日韓国人として生まれたが、現在は日本に帰化しているという。帰化した人は氏素性はどうであれ間違いなく日本人である。それを元在日であるなどとレッテルを貼ることは人権問題であろう。
 私の知人にも帰化した人がいる。しかし、在日朝鮮人で帰化できるにも関わらず、帰化しない人々がいる。つまり日本国籍を持っていないということだ。民族に誇りを持っているのであろうから、帰化することを強要するものではない。
 私が言いたいのは上田正昭さんが指摘した(定義した)「渡来人」と「帰化人」が現在でもある意味で存在するということである。

 日本国籍を持たない在日は、上田さんの定義によると現在の渡来人である。この人たちは日本社会において区別されている。その区別はやがて差別につながる。在日の不幸はそれだけではないようだ。在日の人たちは本国に帰っても“在日”として区別され蔑まれると聞いた。
 古代から海峡を往来した者たちは、日本人でも朝鮮人でも本国で区別・差別されてきたようだ。私は『浦島太郎伝説』や『羽衣伝説』にその名残が語られているのではないかと考えている。そして丹後(713年以前は丹波)にそれらの伝説が残ることが注目される。そしてその渡来人の流れは京都や奈良にまでダイレクトにつながり、現在に続く大和朝廷の成立に大きく関与したようなのである。

 飛鳥時代・奈良時代から平安初期にかけて、寺(仏教)に関与した人たちの多くは渡来人であろう。また、八幡神社や稲荷神社が渡来系の神社であることを考える時、日本の信仰世界に渡来人が大きく関わってきたことは否定できない。有力寺院に僧として子弟を送り込み、神社に神階を授けた朝廷(天皇家や貴族)は、渡来人あるいは海峡を往来した倭人と無関係には考えられない。

 私は倭国が完全に日本になったのは、663年に白村江の戦いで倭国が唐と新羅の連合軍に完敗して、完全に半島の利権を失ってからではないかと考えている。少なくとも中国の認識が倭国から日本国に変わったのは唐の時代で白村江の戦い以降であると考えられ、「ヤマトタケルのみこと」が、『古事記』では「倭建命」と書かれ、『日本書記』では「日本武尊」と書かれ、“倭”も“日本”も「ヤマト」と訓じられることからも、倭国が日本国になったのは天智・天武の時代からではないだろうか。そしてその先駆となる新王朝の成立には渡来系の氏族が大きく関与しているのだろう。奈良京への遷都も平安京への遷都も渡来系の氏族の財政的協力なしには成し得なかったようだ。

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