ハッシー27のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 旅 679 稗田野神社

<<   作成日時 : 2017/07/08 14:48   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

2016年 8月18日

稗田野神社(ひえだのじんじゃ)

 稗田野神社は亀岡市薭田野町佐伯垣内亦1にある式内社で、旧郷社である。
画像

 大鳥居は南面していて、鳥居の内は境内であろうが鳥居の下は生活道路になっていて結構交通量がある。駐車場は鳥居を入って左側にあった。
 この大鳥居の高さは約13mで、京都府下では平安神宮に次ぐ大きさだという。昭和45年に建立された。

 社殿は東を向いていて、そちら側にも鳥居があったので、本来の表参道はそちらだったのだろう。
画像

 すぐ近くには大石酒造の酒蔵がある。この酒蔵はおよそ300年の歴史をもつ老舗蔵だそうだ。この酒蔵と当社との関係は分からないが、祭神の1柱に保食命がいるので、何らかの関係があるのかもしれない。御神酒があるように昔から神社と酒は切っても切れない関係があるのだから……。

現地説明板より
『 延喜式内 薭田野神社(京都府亀岡市薭田野町佐伯)
 このお社は和銅2年(709)丹波国守大神朝臣狛麻呂により佐伯郷の産土神として創建された。平安時代には延喜式(927)にも登載され全国の神社の中でも由緒正しい古い社に属する。
 祭神は保食命(うけもちのみこと)大山祇命(おおやまずみのみこと)野椎命(のづちのみこと)の三柱で五穀豊穣の守護神。鎮守の森中央の土盛は弥生時代以来の祭祀跡と伝わる。
 御本殿南側塀内の京式八角石燈籠は鎌倉時代の作で国の重要美術品に指定されている。
 8月14日に行う夏祭りは「丹波佐伯の燈籠祭」と呼ばれ五穀豊穣と男女和合を祈願する祭。平安朝以来の大祭・奇祭として今に伝わっている。貞観元年(859)に御所より当神社に奉納された「五基の神燈籠」は当時の一年間の稲作の様子が五場面に表わされており、毎年地元で再現し祭の中心となる。「燈籠祭」と呼ばれる所以でもある。
 日本書記に記されたとおり保食命の体内から発生した五穀の実生苗を毎年発芽させて神輿にのせるなど全国に例の無い貴重な五穀豊穣祈願の祭で、平成21年には国の「重要無形民俗文化財」に指定されている。勇壮な燈籠追いや太鼓掛け、燈籠吊りなどの神事と共に、奉納される人形浄瑠璃は日本一小さい串人形を台の上で操る台語りの形式を持っている。
 尚、当神社は平安時代中期より真言宗の寺院を併設した神宮寺として栄え、鎌倉時代以降は稗田八幡宮と称し疫病退散・健康長寿の霊験あらたかな社として信仰を集めた。明治の神仏分離令(1868)により寺院を廃し元の「薭田野神社」とした。
 古来女性の守り神としても知られ、最近では悪病退散・癌封治の社としても全国的に信仰を集めている。(保食命は別名が豊受大神で当社は伊勢の外宮と同じ御祭神となる) 』

 境内には「稗田八幡宮」の標柱もあった。
画像

 現地説明板に、「鎌倉時代以降は稗田八幡宮と称し……」とあるように、明治にまでは八幡宮だったという。
 鎌倉時代の正元2年(1260)、神宮寺が建てられたが、この寺は男山八幡橋本坊の末寺であったことから八幡の別宮と考えられ、当社は稗田八幡宮と称された。
 『太平記』などによると、室町時代に足利尊氏が当社で何度か兵を結集したという。足利尊氏は篠村八幡宮で旗挙げしたが、亀岡は足利尊氏にとっても有縁の地であったようだ。


 境内には「独鈷抛山千手寺」(とこなげさんせんじゅじ)の標柱もあった。
画像

 稗田野神社の北、鹿谷(ろくや)の麓から坂を2kmほど登ったところに千手寺がある。今は臨済宗妙心寺派の寺であるが、かつては真言宗の寺であったようだ。
 山号の独鈷抛山は、空海が唐からの帰途、明州の海上から本国に向かって投げた独鈷が、春日明神の神託でここにあると分かったという伝承に基づくそうだ。
 応永10年(1403)、鎌倉建長寺の蘭渓道驍フ弟子の止案和尚が中興し、内藤氏の陣屋となって明智軍に焼かれ、後に再興された。昭和42年には全面改築が行われたという。
 現地説明板に、「当神社は平安時代中期より真言宗の寺院を併設した神宮寺として栄え……」とあるが、この“真言宗の寺院”とは千手寺のことだろうか?

 そういえば、佐渡の蓮華峰寺(真言宗智山派)にも空海が独鈷を投げた伝承があったのを思い出した。伝承によれば、恵果より空海に伝法の印として伝えられた三杵を奪い返そうと唐の僧侶たちが海岸まで追いかけてきた時、空海は東方に向かい「密教有縁の所に生きて我を待つべし」と三杵を投げ上げたという。このうち五鈷杵は能登見附島に、三鈷杵は高野山に、独鈷杵が佐渡の小比叡山に飛来したとされる。


画像

画像

 この本殿は平成4年に再建されたものだ。 平成2年に江戸時代中期の社殿(京都府登録文化財)を全焼、平成4年に室町時代の簡素な様式に平成の趣を加えた様式の社殿に設計して再建した。


 本殿の玉垣内の南側に京式八角石燈籠があった。鎌倉時代の作で国の重要美術品に指定されている。
画像

 境内摂社は、春日神社、えびす神社、稲荷神社などがあった。
画像



 他にも「石の環くぐり」「和銅禊の池」「癌封治瘤の木」「必勝願掛け石」「魂石」などのコンテンツがあったが、いずれも参拝者増加を狙ってのものであろう。

 現地説明板に、「鎮守の森中央の土盛は弥生時代以来の祭祀跡と伝わる。」とあるが、この土盛のある場所はかっては禁足地だったようだ。この弥生時代以来の祭祀跡と伝わる土盛があったことが、当社の創建に繋がったのであろう。
画像



 当社にあった由緒書きには、次のようにあった。(一部転記)
『 一、神社の起こり(禁足地)
 三千年程前に此の地に住み着いた祖先の人達が現在の社殿の裏にある土盛の処で、食物の神、野山の神を祭り、原生林を切り拓き田畑を造り、収穫した穀物を供え作物の豊作と子孫の繁栄を祈り続けてきました。
二、薭田野神社
 大和朝廷の基礎が出来上がった和銅2年(709)丹波国守大神朝臣狛麿が朝廷の指示によって土盛の前に社殿を造営し佐伯郷(宮前町猪倉、薭田野町全域、吉田、並河、宇津根)の産土神として祭り、国の安泰と五穀豊穣を祈りました。
三、祭神
@保食命(うけもちのみこと) 伊勢外宮と同じ神様、衣食住の守り神。
A大山祇命(おおやまずみのみこと) 山の守護神、延命長寿、美人の守護神。
B野椎命(のづちのみこと) 野の神様、田畑の作物の守り神。  
 三柱の御祭神中二柱迄が女神で一柱の男神も日本最長寿の岩長姫、日本最美人の木花咲耶姫の父神で婦人の守り神です。  』


 薭田野神社の創建が和銅2年(709)丹波国守大神朝臣狛麿によるとされ、この大神朝臣狛麿が和銅元年(708)に小幡神社を創建していることが注目される。


 710年には平城京への遷都が行われ、712年には『古事記』720年には『日本書記』が成立したとされる。朝廷は正史(記紀)の成立に合わせて、その前後から正史の内容のアリバイ作りを各地で活発化させている。私は大神氏はその神話の部分のアリバイ作りに大いに貢献した氏族ではないかと睨んでいる。


 第31代用明天皇の子には、田目皇子、聖徳太子(厩戸王)、当麻皇子、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子、酢香手姫皇女がいる。 聖徳太子(厩戸王)以外はあまり知られていない。

 用明天皇の第一皇子の田目皇子は、多米王、豊浦皇子とも呼ばれ、母は蘇我石寸名(蘇我稲目の娘)または意富芸多志比売とされる。田目皇子は、用明天皇の死後、継母の穴穂部間人皇女(聖徳太子の母)と結婚したという。穴穂部間人皇女は佐富女王を産んだ。田目皇子の子には男子一人(一説では高向王)と佐富女王がいる。
 この高向王は宝女王(皇極天皇)と結婚して漢皇子を生んでいる。後に宝女王は第34代舒明天皇と結婚して中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)を生んだとされる。

 宝女王(皇極天皇、重祚して斉明天皇)の父親は茅渟王で、茅渟王の父は押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第1皇子)である。従っては宝女王は敏達天皇の曾孫になる。茅渟王と田村皇子(舒明天皇)は兄弟だから宝女王は高向王(用明天皇の孫)の次ぎに叔父である舒明天皇と結婚したことになる。
 ここで面白いのは押坂彦人大兄皇子は舒明天皇(田村皇子)を通して中大兄皇子(天智天皇)の祖父に当たり、皇極天皇(宝女王)と通して中大兄皇子(天智天皇)の曾祖父に当たるということだ。つまり天智天皇は父方からも母方からも色濃く押坂彦人大兄皇子の血を受け継いでいることになる。今の天皇家の直系が天智天皇であることを考える時、この押坂彦人大兄皇子という人は天皇家の祖と言っても過言ではない。
 というより中臣鎌足(藤原鎌足)とコンビを組んだ中大兄皇子(天智天皇)の正統性を示すために中大兄皇子の父も母も天皇にすることが、記紀の中で図られたのではないか。
 押坂彦人大兄皇子は、麻呂古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子、皇祖大兄とも呼ばれていた。この呼び名の中に麻呂古皇子があることが注目される。

 この押坂彦人大兄皇子は天皇家の系図の中だけで重要なポジションに立っているだけで、有名ではない。しかしこのようなポジションに立っている人物が歴史上で埋もれているはずはない。押坂彦人大兄皇子の歴史上の別名はあるのではないか。

 第29代欽明天皇(父は継体天皇)には皇后の石姫皇女(宣化天皇皇女)の他に蘇我稲目のふたりの娘(堅塩媛、小姉君)など多くの妃がいて、その子には、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、、崇峻天皇、穴穂部皇子、穴穂部間人皇女、石上皇子、倉皇子、山代王、泥杼王、茨城皇子、葛城皇子、春日山田皇女、麻呂古王ほか多くの子女がいた。敏達天皇、用明天皇、推古天皇、、崇峻天皇と4人もの天皇が出ていることが注目される。

 私は第30代敏達天皇の後、用明天皇ではなくて、敏達天皇の第一皇子である押坂彦人大兄皇子が天皇になったとしてもおかしくないと考える。末子相続の時代は、仁徳天皇の時代に終わっている。母の出自の問題もあるが長子が嗣ぐ時代であった。
 正史では敏達天皇の後、兄弟である用明天皇、推古天皇、、崇峻天皇と3代の蘇我系の天皇を挟み、敏達天皇の孫の田村皇子(父は押坂彦人大兄皇子)が第34代舒明天皇として即位している。
 流れとしては欽明天皇 → 敏達天皇 → 押坂彦人大兄皇子 → 舒明天皇 の流れが自然である。崇峻天皇などは蘇我馬子に殺されている。馬子が崇峻天皇を殺したことへの非難はほとんどなく、却って政権が安定したようだ。蘇我稲目の長子とされる馬子の政治力はかなり大きく、聖徳太子(厩戸王)の事績のほとんどは馬子の功績だと考えられる。飛鳥寺を建立して仏教を本格導入したのも馬子である。後世、馬子の功績のほとんどは聖徳太子という虚構の器の中に封印された。私は聖徳太子(厩戸王)は馬子の協力者の一人にすぎなかったのではないかと考えている。
 そして敏達天皇の第一子であり舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子が、歴史に参加していたのであれば、蘇我馬子として参加していたのではないかと推測する。

 馬子は古代からの大豪族物部氏の本宗家である物部守屋を倒した。そのとき馬子の側に立った皇族や豪族が多かった。新興勢力の蘇我氏になぜ多くの皇族や豪族が協力したのであろう。それは蘇我馬子が押坂彦人大兄皇子だったからではないだろうか。そして押坂彦人大兄皇子の最大の支援氏族が蘇我氏だったということではあるまいか。
 私は押坂彦人大兄皇子(馬子)は天皇に即位していたと考える。607年に隋の皇帝煬帝に「日出處天子致書日沒處天子無恙」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや)の国書を送った倭王とは押坂彦人大兄皇子(馬子)だったと考える。

 それ以前の600年に遣隋使を送っている。『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。これを『日本書紀』が記載しないのは意図的である。
 「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」
 [開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。]

 俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、大王とされる。『新唐書』では、用明天皇が多利思比孤であるとしているが、多利思比孤は押坂彦人大兄皇子(馬子)であろう。用明天皇は587年に崩御している。。
 押坂彦人大兄皇子の母である広姫は息長氏の出身である。息長氏にはタラシを名に含む人が多い。

 用明天皇の在位は585年〜 587年で2年足らずで短い。
用明天皇の第一皇子の田目皇子のことは既に述べたが、第三皇子には当麻皇子がいる。当麻皇子(たいまのみこ)は麻呂子皇子とも言い、丹波・丹後に多くの伝承を残している。押坂彦人大兄皇子も麻呂古皇子と呼ばれていたことが注目される。
 この当麻皇子(麻呂古皇子)の母は葛城広子(葛城磐村の女)または葛木伊比古郎女(葛木当麻倉首比里古の女)とされ、妃は舎人皇女(欽明天皇の皇女)である。
 子には当麻豊浜がいるが、姓(カバネ)は公、冠位は小紫である。 事績は不明であるが、天武天皇10年(681年)2月30日に小紫位で死んだことだけが知られる。小紫(死後贈位でない)は高位であり、天武朝の人物の生前冠位の中でもっとも高い。
 つまり天武天皇と近い人だったと推測される。大海人皇子(天武天皇)は宝女王(皇極天皇)と舒明天皇の子とされるが、宝女王が舒明天皇と再婚する前に結婚していた高向王との間にできた漢皇子ではないかという説が根強い。

 高向王の父は用明天皇の第一皇子の田目皇子(豊浦皇子)とされる。もし大海人皇子(天武天皇)が高向王の子だとすると、欽明天皇 → 用明天皇 → 田目皇子 → 高向王 → 大海人皇子(天武天皇)と続く系図が出現する。
 これを、欽明天皇 → 敏達天皇 → 押坂彦人大兄皇子(馬子) → 舒明天皇 → 中大兄皇子(天智天皇)と比べると面白い。
 両系図は欽明天皇を祖として、宝女王(皇極天皇)を媒介として繋がる。そして宝女王(皇極天皇)の父は茅渟王(押坂彦人大兄皇子の皇子)であることから、押坂彦人大兄皇子(馬子)にも繋がる。茅渟王の母は漢王の妹・大俣王(おおまたのみこ)とされるので、宝女王の子は漢皇子と称したのであろう。

 複雑の様に見えるが、敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子(麻呂古皇子)と用明天皇の子である田目皇子(豊浦皇子)は同じ人物でその実態は「蘇我馬子」であり、この馬子の孫娘である宝女王が高向王と舒明天皇と結婚することにより、形の上で敏達朝と用明朝が融合したことになる。
 前に示したとおり欽明天皇の子にも麻呂古王がいるし、敏達天皇の子にも麻呂古王(押坂彦人大兄皇子)がいるし、用明天皇の子にも麻呂子皇子(当麻皇子)がいる。

 政治権力の流れとしては、欽明天皇 → 敏達天皇 → 押坂彦人大兄皇子(蘇我馬子)・用明・崇峻・推古(敏達天皇の皇后) → 舒明天皇 → 宝女王(舒明天皇の妃)・孝徳(宝女王の弟) → 天智天皇 → 天武天皇 と繋がる。

 天智天皇は正統な血統として長子である大友皇子に皇位を継がそうとした。それが正当であったが故に、大海人皇子が皇位を継ぐためには革命が必要であり、それが壬申の乱となった。


 こうしてみてくると、飛鳥から奈良にかけて皇族の間では近親婚に近い婚姻が多く、これは日本的伝統とはかけ離れる。日本人は縄文系と弥生系の混血といわれるように、近親間の結婚を嫌い、遠い血を求める傾向が大きい民族である。日本人の姓が世界的にも特別に多いのは、本姓から独立して新しい土地に移動し、そこで新たな血縁をつくってきたからだとされる。
 日本の姓の多さ(10万〜30万)に比べ、中国などは姓が少ない(約2千)。もっと少ないのは朝鮮で、金さん、朴さん、李さんなど約225でカバーできてしまうと言う。それは歴史の一時期(他民族に征服された時代が長い)、半島では狭い区域に一族がまとまり、近親婚を繰り返し、他の一族との交流を絶っていた(制限された)時期の名残だといわれる。特に名門と言われる一族は利権を守るために近親婚が中心で純血にこだわり、他の血を入れることを拒んだことがあったという。血が濃くなり弊害もあったようだ。
 飛鳥から奈良にかけての天皇家を含めた中央豪族の間にも、このような傾向があったようで、そのころの朝廷は渡来人の影響もあり想像以上に朝鮮半島的傾向が強かったようだ。高松塚古墳の壁画の飛鳥美人たちもそのような環境で暮らしていたのだろうか。 
画像



 初めて歴史書をつくろうとしたのは、遣隋使を派遣した押坂彦人大兄皇子(馬子)であろう。それを本格的に推進したのは天智・天武であったと考えられるが、天智が本流であったのに比べ天武は傍流であったため歴史書を少々改竄する必要があった。

 天武の第一皇子は高市皇子(長屋王の父)であったが、皇后の鸕野讃良皇女(後の持統天皇)が我が子である草壁皇子に皇位を継がせるために一工夫する必要があった。この持統天皇の要請に応えて記紀を書き進めたのは藤原不比等率いる帰化人たちである。不比等(中臣鎌足の子)は持統天皇のために改竄するだけでなく、藤原氏にとっても都合がいいように書いた。不比等によって改竄された蘇我氏の功績は他の皇族や藤原氏などに仮託された。蘇我氏の出自がはっきりしないのはそのためであろう。また、その後の貴族社会を牛耳る藤原氏も中臣鎌足以前のことが不明なのは、藤原氏そのものの出自に隠さなければならないものがあるからだろう。共存共栄を許さない藤原氏の氏族としての性質は、それまでの日本の豪族の中では特異であり異質である。


 ここまで長々と記してきたのは、当社の境内右側の和銅禊の池の奥に「稗田阿禮社(ひえだのあれいしゃ)」があるからである。この境内社は2009年(平成21年)に創建されたもので新しい。稗田阿礼は『古事記』の成立に深く関わった人物とされる。
画像

現地石碑より
『 稗田阿禮
 「古事記」の編纂に重要な役割をはたした稗田阿禮が「丹波国佐伯郷原野で生まれ育った」という伝説がこの地に伝わっている。また村役場の古い記録にも阿禮の伝承がみえる。
 天武天皇より舎人に任用されていた阿禮は帝紀・旧辞の漢訳がまだ難しく口伝を誦習し、語り部として後の修史事業の生き字引となる。
 天明天皇朝に至り阿禮の口伝を太安万侶が筆録し太古の伝承を記した最古の歴史書「古事記」が和銅5年(712年)に完成した。古事記には「姓は稗田 名は阿禮、人となりはきわめて聡明であった」と書かれている。
 奈良県の売太神社・兵庫県の稗田神社には「稗田阿礼命」(天鈿女命の後裔)として御祭神に奉斎されている。
 京都府の薭田野神社では三柱の御祭神御鎮座1300年を機会に、この地と所縁が定かとは言いきれないが佐伯郷に残る伝説を大切に考え、氏子の人達の総意のもとに文学・学問・芸能の守り神として新たに境内にお社を造営し摂社として、「稗田阿禮」を奉斎する。平成21年11月1日を創祀の日とする。
 薭田野神社宮司 桂數毘詰藤原 重臣 謹書  』

 碑文の、「この地と所縁が定かとは言いきれないが……」の謙虚さに好感が持てた。

 碑文にもあるように、稗田阿礼の関係旧跡としては、賣太神社(奈良県大和郡山市稗田町)があり、稗田阿禮命(稗田阿礼)を主斎神とする。付近が猿女君稗田一族の居住地だったため、阿礼の出身地とされている。
 また、稗田神社(兵庫県揖保郡太子町)でも阿礼比売命(稗田阿礼)を祭神としている。
 更に、飛騨せせらぎ街道の道中に「稗田阿礼生誕の地」との看板が立てられているそうだ。
 ここに新たに稗田阿礼の伝承地が増えたわけだが、稗田阿礼を猿女君稗田一族の者としたり、阿礼比売命として女性として扱っているわけではないことが、私には望ましいことのように思えた。

 成立の経緯を記す序(太安万侶が書いた)によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものである。
 一般的に「誦習」は「暗誦」することと考えられているが、荻原浅男さんは「古記録を見ながら古語で節をつけ、繰り返し朗読する意に解すべきであろう」という。既に文字がつかわれていた時代に暗誦する必要はないであろう。
 文字を持たないアイヌでは、巫女がトランス状態になって長いアイヌの歴史を口伝として語ると言うが、8世紀の大和でそのようなことは現実的ではない。従って猿女君稗田一族の巫女が口伝を語るという解釈は適当とは思われない。
 それよりも天武天皇や舒明天皇、押坂彦人大兄皇子(蘇我馬子)との関係において考えた方がいいように推測する。

「薭田野」の社号や地名については、「稗」は五穀の神である保食神に因んだとするが、薭田氏(薭田野阿禮)を祀るとする説もあったようだ。
 五穀とは紀では稲・麦・粟・稗・豆とされ、当社の社名の稗も五穀の一つである。
薭田野の近くには曽我部という地名もあり、蘇我氏が連想される。

 古事記の序文には天武天皇が、
「撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉」
(訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。)
 と語ったとされ、28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に太安万侶により古事記が編纂されたとされる。
 序文は太安万侶による漢文であるが、本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。
 歌謡はすべて一字一音表記とされており、本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣の研究対象となっている。
 『古事記』は太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたもので、『日本書紀』のように公的な歴史書としては扱われてこなかったようだ。読み手も女帝である元明天皇を対象として考えていたので、上代特殊仮名で書かれているようだ。一説では宮中に保管され、一般の目に触れるようになったのは室町時代以降だともされる。
 従って、『古事記』に権威を与えているのは、序文の天武天皇が編纂するよう命じたということだけだという。つまり、天武天皇の威光を持って『古事記』の権威が保障されているのである。決して太安万侶や稗田阿礼を以て権威とはなりえない。

 笹川尚紀さんは、舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝記』と『旧辞』を改訂・編纂を行わせ、後に子である天武天皇に引き継がれてそれが『古事記』の元になったと推測している。
  しかし、『古事記』は第34代舒明天皇の前の初の女帝である第33代推古天皇までで終わっているので、持統天皇や元明天皇を意識して書かれているのかもしれない。
 私は初の女帝である第33代推古天皇まで書くことによって、その後の皇極天皇(重祚して斉明天皇)や持統天皇、元明天皇などの女帝の即位を保障したのではないかと考える。極論すれば推古天皇も皇極天皇(重祚して斉明天皇)も即位していなかったのではないだろうか。

 伊勢の女神アマテラスの着想は天武天皇らしい。天武は道教に明るく、中国の歴史書なども読んでいた可能性が高い。当然「魏志倭人伝」の女王卑弥呼のことも知っていただろう。天武は出自の問題もあり天智以上に自分の母である宝女王(舒明天皇の妃)を天皇にすることが必要であったと考える。その前例として推古天皇(敏達天皇の妃)を即位させることが必要であった。そのことは持統天皇(天武天皇の妃)にとっても都合がよかった。持統天皇の父は天智天皇で母は蘇我氏とされる。
 持統天皇(天武天皇の妃)は自分の即位を正当化し、より強固にするために神話の皇祖神を女神のアマテラスとし、伊勢にしっかり祀る必要があった。
 こうして伊勢も出雲も記紀の神話のステージとして伊勢神宮、出雲大社(杵築大社)の社殿がしっかり築かれた。伊勢神宮や出雲大社が整うのは7世紀の終わりから8世紀の初めにかけてである。この薭田野神社や小幡神社の創建と前後した頃であり、それほど古いことではない。


 8月のお盆の頃に斎行される「丹波佐伯の燈籠祭」は、五穀豊穣と男女和合を祈願する祭で、平安朝以来の大祭・奇祭として今に伝わっている。平成21年には国の「重要無形民俗文化財」に指定された。
 平安時代5月と言うのに大雪が降り全国的に冷害の年があり、貞観元年(859)5月20日、勅使による稲の成育祈願が行われた。その後、後堀河天皇の寛喜元年(1229)、勅使廣幡大納言により稲の豊作を祈る五基の御所燈籠が下賜されたのが燈籠祭の起源とされる。

 私が当社を訪れたのはお盆が終わった8月18日で、祭りが行われたすぐ後だが、既に稗田野神社は静けさを取り戻していて、数日前の祭りの余韻はどこにもなかった。

 稗田野神社は佐伯郷に属し、犬飼川の支流の山内川の右岸にあり、境内の北側で山内川と菰川が合流している。佐伯灯籠祭は旧佐伯郷に属する稗田野神社、御霊神社、河阿神社、若宮神社の4社合同で行う盆行事である

 稗田野神社の祭神は3柱中2柱が女神であることからも分かるが、女性の守護神としても崇敬され「お百度すれば婦人病にかからない」とか「当社に詣でた婦人を娶ると男は一生幸せである」などといわれ、女性上位の珍しい神社でもある。
 かつて「宇治の県(あがた)は男が通う 男寝て待て女が通う 丹波佐伯郷の燈籠まつり」と呼ばれた“女の夜這いの祭り”であったという。女性が元気なのは、活気があっていいことである。

 佐伯灯籠は灯籠のようには見えないが、台の下に火を灯せて灯籠としての機能もある。
 1台の台燈籠と5基の神灯籠に小さな人形を乗せ氏子域を巡幸する。
 5基の神灯籠では種蒔から収穫までの季節が人形で表現され、祭神の保食神に感謝の意を表す。
 台灯籠と呼ばれる移動式の小さな舞台では、各氏子域で背丈30cmほどの人形を操る浄瑠璃が演じられる。
 稗田野神社の宮司は毎年五穀の種子を苗代に播き五穀の苗を発芽させ、夏の例祭ではこの苗が祭神「保食命」の分霊として祭りの主役になる。

 佐伯灯籠は室町から江戸時代初期には既に有名なお祭りであり、江戸中期には今の原型が確立されたという。
 当初は組み台に紙を貼り、飾り房をたらし、中に田植え、倉納めなど5基の紙人形を飾った。後にこれに倣い2m四方の台灯籠(舞台になる)の上に精巧な紙製の背景がのせられ、台張りの下に3人、脇に2人がうずくまり人形を操る。
 昔の祭りは8月14・15の両日であった。神輿渡御、雄壮な太鼓がかりの神事もあるが、呼び物は佐伯灯籠で、郷内をねり歩いて興行し、最後は神社で夜遅くまで20演目を上映した。(今は4つに限定)
 人形は文化年間(19世紀初頭)のものも残っているそうだ。上演は、戦後は12時で打ち切りとなり、芝居は戦後一時中断し、昭和30年に復活したという。
 娯楽の少ない時代は、人形浄瑠璃も芝居も大盛況だったのだろう。祭りは時として男女の出会いの場でもあり、無礼講の一面もある。そんな中で“女の夜這い”があるなどといういうことは若者にとっては愉快な祭りであったのだろう。





休題
 2012年の4月から5月にかけて九州を旅したが、これが本格的な車中泊の旅の始まりでもあった。帰ってきてからの梅雨の時期に北九州で大雨があり、日田や山国川周辺で洪水になった。ニュースで流れる映像を見て、遠い場所で起こった他人事のように感じられなかった。人でも土地でも出合ってみて初めて親近感がわくものである。

 今年(2017年)の5月8日から22日に、北九州と対馬・壱岐・隠岐の離島の旅に出た。この旅をまとめるのはだいぶ先になりそうだが、とりあえず『旅662「一宮巡り」の一つの山を越えて(1)』 と 『旅663「一宮巡り」の一つの山を越えて(2)』 にルートだけだがまとめた。

 この旅で中津から山国川を遡り、日田を抜けて筑後川を下る旅もした。朝倉市では恵蘇八幡宮、朝倉橘広庭宮跡、大己貴神社(朝倉郡筑前町)などを廻った。朝倉橘広庭宮は斉明天皇が白村江の戦い(663年)のために就いた宮で、斉明天皇はここで亡くなっている。
 その日田や朝倉市が台風と停滞する梅雨前線の影響による大雨で洪水に見舞われた。この災害により7月7日の時点で死者が13人で行方不明者もまだいるという。
画像

画像


 袖触れ合うも多生の縁というが、この旅で話した神職や住職の顔が浮かぶ。また、道を訊ねたときに親切に教えてくれた人も多かった。旅では機会があればその土地の人となるべく話をするようにしている。時にはレアな情報を戴くこともある。

 朝倉町では脇の参道の真ん中に筍が生えていて、このままでは竹が大きく生長してしまい通るのに大変になると考え、3〜4本抜いた。もったいないので車に積んで、途中の麺類屋で食事をするとき上げたら、おにぎりを一つサービスしてくれた。

 旅とは、人との出逢い、土地との出合い、その土地に流れる時間(歴史)との出会いでもある。旅で訪れた場所が災害に見舞われるのは、そこに住む人のことも含め心配で心が痛む。死者を悼む(いたむ)とは、送る人々の心が痛む(傷む)ことなのかもしれない。


 日本は温帯モンスーン地帯に含まれるので降水量が多く、それが水稲栽培を可能にしている一つの要因ではあるが、水害の危険とも隣り合わせである。
 水は生きていくのに欠かせない。豊かな水は人々に恵をもたらすが、一旦牙をむけば大災害を引き起こし人々の命も生活も奪う。自然の神を祀る古代から、水神は最も丁重に祀られてきた神だ。滝や河川に祀られる水の女神に瀬織津姫がいる。

 天災の被害は知恵によって軽減できるだろうが、天災そのものを防ぐことはできない。人間の驕りから神(自然)を蔑ろにするようなことがあれば、その驕慢な態度は災いを招く一因になり得る。
 もうじき夏祭りの季節になるが、被災した地域ではそれどころではないだろう。この災害が元で地域を去る人たちもいるかもしれない。早く災害から復興して、祭りが斎行できることを祈るばかりだ。祭りが滞りなく行われることは、その地域の泰平を表すようでもあり、祭りはコミュニティーを維持するための中核行事でもあるのだろう。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
旅 679 稗田野神社 ハッシー27のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる