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zoom RSS 旅 680 東北への旅

<<   作成日時 : 2017/08/08 13:57   >>

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2017年 8月7日
東北への旅

 私にとって西へ行くよりも東へ行く方が、気分的に楽である。車で旅をするので渋滞が少ない東北は移動距離が長くても時間的には早く移動できストレスを感じない。

 2011年から年に数回の車中泊の旅を始めたが、東北は今まで福島、山形、宮城、秋田の一部を旅したが、岩手と青森は旅をしていない。
 青森に至っては人生で一度もその地を踏んだことはない。沖縄も行ったことがない。もっとも北海道も飛行機で飛び、そこからバスでスキー場へ移動して、そのスポットだけを歩き回っただけであるし、長崎も今年の5月に離島である対馬と壱岐へ行ったにすぎない。

 行ったことはないにしても、青森(五所川原市)と長崎(長崎市)は大学時代の友人がいる場所で、その意味では親密感がないわけではない。
 長崎の友人とは卒業後数年間年賀状のやりとりをしたが、遠いこともあり疎遠になってしまい今はつきあいはない。
 学生時代は毎日のように顔を合わせた仲だが、青森の友人も長崎の友人も卒業以来会っていないので、今会っても二人とも分からないだろう。

 7月の中旬に甥の結婚式で長野に帰った。それをきっかけに青森の三内丸山遺跡などを巡る東北の旅を計画した。代表的な遺跡として、弥生の遺跡では吉野ヶ里遺跡 、 縄文の遺跡では三内丸山遺跡を見ておく必要があると感じていた。
 毎年お盆で長野に帰った後、旅をして帰るが、8月の車中泊は暑くて寝苦しいのがネックである。そこで今回は北へ行くことを計画した。みんな考えることは同じようで、道の駅では多くのキャンピングカーなどに出会った。

 青森県をメインに廻ったが、帰りに秋田と山形の一部にも寄った。青森県では下北半島の北端の大間にも行き、津軽半島の先端の龍飛崎にも行った。
 下北半島の北端の「本州最北端の碑」の場所では、北九州ナンバーのキャンピングカーが駐まっていた。

 ブログは去年の夏の山陽方面への旅をまとめている途中だが、その後の秋に「四国への旅」、今年の5月に「対馬、壱岐、隠岐への旅」をしたので、この東北への旅のまとめは1年遅れになりそうである。
 歴史をテーマにした特にタイムリーさを求めるブログではないので、順番通りに書いていきたい。
 だが、少し興奮冷めやらぬうちに、下北半島の北端と津軽半島先端の龍飛崎についてだけはまとめておこうと考えた。 
 


2017年7月21日
大間崎

 下北半島の北端の大間に「本州最北端の碑」があり、「こゝ本州最北端の地」と刻まれていた。
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 弁天島の向こうには北海道がうっすらと見えた。天気が良ければもっとはっきり見えるだろう。
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 石川啄木の歌碑があった。
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 石川啄木は岩手県出身で26歳で肺結核のため死去している。
 有名な、
 「 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 」
 は、歌集「一握の砂」の巻頭の歌である。

 旅先で歌碑や句碑に出会うたびに、有名なものや気に入ったものについては調べてみる。
 詩歌に疎い私は、「 東海の……」とあるこの啄木の歌は、東海地方のどこかの磯浜で作られたものかなというくらいの認識であった。
 しかし、どうやらこの歌の原風景は大間崎で、東海の小島は沖の灯台の島「弁天島」であるとされているらしい。
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 大間は「まぐろの一本釣の町」として有名だ。 大きさにもよるだろうが1ヶ月に3体ほど釣り上げれば十分暮らしていけるのだという。それだけ難しいということでもある。
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 “大間まぐろ”はグルメのブランドとして人気が高く、度々テレビなどで放送される。大間の地名は本州と北海道の間に横たわる津軽海峡を“大間”と呼んだものかも知れない。

 私が大間のことを詳しく知ったのは、十数年前小学校3年生の子供たちと「全国の祭り」について調べているときであった。子供たちは地元の神社の祭りをまとめた後、各自図書やインターネットで全国の祭りを調べてまとめる課題に取り組んだ。実はこのことが私が寺社に興味をもつきっかけになり、祭神や寺社勢力と歴史との関係に着目するようにもなった。古代においては“政(まつりごと)”は、“祭りごと”でもあった。

 子供たちは各地の神社などの有名なお祭りを調べてまとめたが、ひとりインターネットで「大間のまぐろ祭」を調べた子がいた。これは歴史のある祭りではなく観光的な祭りであり、課題から外れるものであったが、私も「大間のまぐろ祭」を調べてみた。
 子供にとって祭のイメージはそれぞれで、せっかく苦労してまとめたものを却下もできず、指導して多少手を加えて発表させた。
 このとき大間の高級マグロを食べたいとは思わなかったが、大間には行ってみたいと考えた。
 貧乏人の旅なので大間のマグロは食べなかったが、大間の地に立って北海道を見られたことは、遙々やってきたという多少の感激を伴い旅の余慶を味わえた。


 津軽海峡はかつて、津軽・下北両半島のビバ材、豊かな海産物などを運ぶ北前船、あるいは江戸へ向かう東廻り航路の発達により、さまざまな船が行き交う海であった。
 海峡は約20kmほどであるが、海流が速く陸生動物の行き来が困難なため、北海道と本州以南の動物相が異なっている。
 例えば本州の熊はツキノワグマであるが、北海道の熊はヒグマである。ホンドテンとクロテン、ホンドキツネとキタキツネも違うという。
 そのことに注目したのが、イギリス人のトーマス・ブラキストン(1832〜1891)である。
 ブラキストンは1861年(文久元年)に貿易商人として来日した。1864年(元治元年)、大間崎弁天島で座礁したアスモール号事件で南部藩の役人が通訳として連れてきたのがブラキストンであった。函館に住み、事業を行うかたわら北海道と本州の動物研究にも意欲的に取り組んだ。その結果、1883年(明治16年)に、津軽海峡の動物分布境界線を提唱し、後に「ブラキストン線」と名づけられた。

 弁天島は周囲2.7kmの小さな島で、北方と南方の生物が混在し、植物について生物分布の境界線のブラキストン線が当てはまらないという。島の名前は守り神の弁天様に由来し、かつては鳥居島とも呼ばれていた。


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 エゾスカシユリ(ユリ科)は元来、北海道及び朝鮮半島北部に分布する球根植物あるが、昭和40年代後半までは弁天島一面に自生していて、球根は食材としても利用されていたという。
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 弁天島に群生しているエゾイシゲ(ホンダワラ科)は通常、北欧の海や北海道に分布している。満潮時に海中の岩の上部に根を付けて、干潮時には垂れ下がる珍しい海藻だという。

 ウミネコ(カモメ科)の営巣場所は弁天島全体にわたり、特にヨモギ群落に多く見られる。海水面に集まるウミネコの群れは“とりやま”と呼ばれ、漁師にとって漁場の目印になるという。


 大間崎では敷き詰めた石の上にコンブを広げて乾かしていた。
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 近くに弁天神社があったので参拝した。
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 地元の人に弁天さんはここには居ないかも知れないと言われた。ここの弁天さまは大切にされ氏子の家を巡回するという。弁天さまが廻ってきた家では弁天さまの像を床の間に飾り接待をするのだそうだ。写真を見たが、きれいな着物を着て大切にされているようだった。


2017年7月22日
龍飛崎

 朝起きた時には空は厚い雲に覆われていた。しかし、夜明けとともに徐々に明るくなった。ミニストップで朝食を済ませ津軽半島へ向かう予定だったが、朝食を食べている途中に見る見る空が暗くなり稲光が見えるようになった。まるで龍神が雲の上で怒っているようだ。明け方よりも暗くなり街灯も点灯している。

 予定通り津軽半島へ向かったが、途中で土砂降りになった。よく「バケツをひっくり返したような雨」という表現がつかわれるが、そんな感じである。このままでは土砂崩れが起こり通行止めになるのではないかと心配しながら走っていると、やがて小降りになってきて一安心した。
 義経寺に着いて参拝する頃には雨が上がっていた。やはり私は晴れ男である。いくつか見学しながら龍飛崎へ向かった。

 龍飛崎の太宰文学碑広場に着いたので、太宰治の文学碑を見た。
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碑文より
『 ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く盡きるのである。  「津軽」より 』

 太宰をして“鶏小屋に似た不思議な世界”と言わしめた所はいったいどんな風景が待っているのであろう。

 太宰治(1909〜1948)は、青森県北津軽郡金木村(五所川原市金木町)に生まれた。39歳で「人間失格」「グッド・バイ」の作品を残して自ら人生を閉じた。多くの文豪と呼ばれた作家が消えていく中、彼の作品は未だに新たな読者を獲得している。
 
 この石碑に記されている「津軽」は1944年(昭和19年)の5月12日から6月5日にかけて取材旅行をした後に、12月発表した作品である。


 太宰文学碑広場から見上げた丘の上にはホテルのような建物が見えた。
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 太宰文学碑広場には、「道路竣成記念史碑」があった。
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 この記念史碑は昭和4年に建てられ、昭和52年に修復されたという。

碑文より
『 碑修復の記
 往時、三厩・竜飛間は道らしい道がなく、全く海浜を通行していたにすぎなかった。特に宇鉄から竜飛までは崖浜をよじ登り、岩から岩へ、浪間を縫いながら危険を冒して歩行していた。
 宇鉄漁業組合長であった牧野逸蔵先生(4代・7代本村々長、県議会議員二期)は、「文化はまず道路から」の旗印に竜飛道開さくに着手、大正12年から鮑潜水器事業収益金の総てを投入、総工費十数万円をかけ、昭和4年、十三の洞門が連なる全線完通の偉業をなしとげた。文明の光を運んだこの道を俗に鮑道路ともいう。
 完成時、この岬に同氏の筆になる記念塔が建てられたが、半世紀の風雪で腐食甚だしいので、いまこの碑を原形のまま修復し、先人の功績を永く後世に伝えようとするものである。
 昭和52年8月 三厩村長 木村重雄  』 


 牧野逸蔵さんの胸像も建っていた。
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 旧宇鉄村は大正以前よりアワビが豊富に獲れ、「アワビの村」と呼ばれていたという。古くは貝をヤスで突き刺す漁法だったが、明治20年代頃からは潜水夫が潜って貝を獲る「潜水器漁法」を取り入れていた。この漁法により貝に傷をつけることがなくなったため、アワビはとても高値で売れるようになり、当時はアワビの収益金だけで村の行政費の2〜3年分はあったと言われた。
 1922年(大正11年)望まれて宇鉄漁業組合長になった牧野逸蔵は、採鮑事業の収益金をすべて道路工事にあて、5年の歳月と総工費14万円をかけて約12kmの道路及び13の洞門の難工事を完成させた。
 その「アワビ道路」は、今はそのままの形ではないが国道339号に移行されている。その国道339号線を車で通過して、私は今ここに立っている。ここまで順調に走ってくれた愛車(龍馬セカンド)の写真を撮った。
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 太宰も「アワビ道路」を通ったのであろうが、幕末に吉田松陰がここを訪れたときには、この道はなかったので山の中の算用師峠を越えて龍飛崎に至ったようだ。丘の上に吉田松陰の記念碑があるようだが探さなかった。

 牧野逸蔵は宇鉄漁業組合長であったが、この旧宇鉄村は“津軽アイヌ最後の地”と言われる村でもある。津軽半島には近世まで相当数のアイヌが居住していたという。1669年(寛文9年)の「シャクシャインの反乱」には、宇鉄アイヌ四郎三郎らが通訳として随行したと記録に残る。
 津軽藩は積極的にアイヌと和人(シャモ)との同化策をとった。1756年(宝暦6年)9月、領内巡視の勘定奉行 乳井貢がアイヌを戸数人別長に記し、和人の籍に入れたので、乳井はアイヌたちに神仏のように拝まれたという。
 龍飛崎から続く海岸段丘にある宇鉄の一帯は縄文遺跡としても知られ、出土品は縄文全期にわたるという。東北にはなかなか読めない地名があり、その多くはアイヌ語由来だとされる。
 津軽アイヌは和人(シャモ)の神を受け入れて、和人に同化していったのだろうか。しかし、その信仰の深層にはアイヌの神まつりが生きているのではなかろうか。
 北の縄文人の末裔がアイヌと考えてもよいのではないか。DNAの分析でもアイヌのものは旧モンゴロイド系であることが分かっている。


 更に龍飛崎の行き止まりまで車を走らせた。
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 車で行けるのはここまでである。

 近くに弁天堂があった。
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 下北半島の先端にも津軽半島の先端にも弁財天が祀られていた。この龍飛崎に祀られている弁財天は“たっぴ姫”なのであろうか? 青森の旅を続けると何かが見えてくるようでワクワクする。

 龍飛港の先端まで行ってみた。
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 鳥のことは詳しくないが、おそらくこの鳥はウミネコだろう。

 丘の中腹に赤い鳥居が見えたので行ってみた。
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 中は見られなかったが、御輿か何か入っているのだろうか。振り返れば鳥居の先には弁天堂が見えた。
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 漁船が傾いたまま係留されていた。満潮になれば航行できるようになるという。
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 丘の上に車で上がった。先に一番先端の灯台の側まで行った。
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 龍飛灯台は昭和7年に設置された。アワビ道路ができたから資材が運べたのであろうか。
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 風が強いのだろう風力発電のプロペラが目立つ。ヘリコプターの音がうるさいので空を見上げると、工事用の資材を運搬していた。
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 龍飛崎に立つと左側が日本海、右側が津軽海峡となる。晴れていれば対岸の北海道渡島半島がよく見えると言うが、霞んでしか見ることができなかった。それでも朝の土砂降りに比べれば、こうして傘もささずに観光できることを感謝しなければいけない。
 
 少し戻って、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の歌が聞ける現代の名所に行った。
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 赤いボタンを押せば歌が聞ける。
「津軽海峡冬景色」の2番の歌詞が龍飛岬を有名にした。この歌に誘われて龍飛崎を訪れる人も多いと聞く。





 石川さゆりの代表曲としては、他に「天城越え」がある。歌詞に伊豆の“浄蓮の滝”が出てくるが、浄蓮の滝にも弁財天が祀られていた。
 浄蓮の滝の名は左岸山中に浄蓮寺があったことに由来する。この浄蓮寺には弁財天が祀られていた。


 この歌碑のすぐ近くに国道339号線の階段部分がある。
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 国道339号線は唯一階段部分がある国道として有名だ。もちろん今は側道で国道339号線は繋がっていて車で通行できる。しかし正式には階段部分が国道とされている。
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 丘の上から下を見れば、先ほどまで居た赤い弁天堂や龍飛港がよく見えた。あそこが太宰治が“鶏小屋に似た不思議な世界”と言った場所であろうか。
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 この後は、青函トンネル記念館を訪れた。

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