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zoom RSS 旅 681 出雲大神宮

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2016年8月18日
出雲大神宮

 出雲大神宮に向かう途中に千歳車塚古墳があったので寄った。
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現地説明板より
『 千歳車塚古墳  
京都府亀岡千歳町千歳車塚  昭和57年12月18日指定
 千歳車塚古墳は、亀岡盆地の東北部に位置し、牛松山から西へゆるやかに延びる台地上に築かれた前方後円墳である。延喜式内社出雲大神宮の西方約600mの水田中にあり、墳丘には樹木もなく古墳が造られた当時に近い姿をしている。なお当古墳は、口丹波に現存する最大の前方後方墳である。
 当古墳は、前方部を北西に向けたもので、全長80m、後円部の直径41m、高さ7.5m前方部の幅45.5m、高さ6mの製美な姿を残している。外形では段築が認められるほか、後円部の直径に較べて前方部の幅が大きく、くびれ部に方形の造り出しを持つ。また周囲には周濠をめぐらせている。外部施設としては、葺石と埴輪が確認されているが、その配置等については不明である。当古墳の外形と出土した埴輪などから推定して、5世紀代、古墳時代中期に築造されたものと推定される。
 昭和59年3月  亀岡市教育委員会  』

 口丹波最大のこの古墳を造営した勢力は、出雲大神宮の祭祀と何らかの関わりがある氏族なのかもしれない。


 出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は、京都府亀岡市千歳町千歳出雲にある神社で、式内社(名神大社)である。丹波国一宮ともされる。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社である。旧称は「出雲神社」。別称として「元出雲」や「千年宮」ともいう。
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現地説明板より
『 出雲大神宮由緒
 当宮には大国主命とその后神三穂津姫命 御二柱の御神格を併せて主宰神と称し祀り他に天津彦根命 天夷鳥命を祀る
 殊に三穂津姫命は天祖高産霊尊の御女で大国主命国譲りの砌 天祖の命により后神となり給う 天地結びの神即ち縁結びの由緒亦ここに発するもので俗称 元出雲の所以である
 日本建国は国譲りの神事に拠るところであるが丹波の国は恰も出雲大和 両勢力の接点にあり此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮である
 古来大平和の御神意に拠り国と国 人と人総ての結びの大神を祀るとして上下の尊崇極めて篤かった 崇神天皇再興の後 元明天皇和銅二年に始めて社殿を造営 現社殿は鎌倉初期の建立にして(重要文化財)それ以前は御神体山の御陰山を奉斎し古来より今尚禁足の地である 又、御陰山は元々国常立尊の鎮まり給ひし聖地と傳えられている
(式内)名神大社、丹波国総社一之宮
(御階)正一位
(社名)正しくは、出雲大神宮、千年宮、出雲神社
(摂末社)古は三十六ヶ所あったが兵火に失われ現在は上の社、黒太夫社、笑殿社、春日社、稲荷社、崇神天皇社あり
一、神宮寺 明治四年出雲極楽寺に借地移転す、現在の十一面観音菩薩像は重要文化財
一、例大祭 十月二十一日
一、私大祭 四月十八日 当日無形文化財 風流花踊奉納
一、古墳 横穴式 五世紀〜六世紀前 
  前方後円墳車塚古墳は当宮由縁の口碑あり 推定は成務天皇代
一、古代の神域は愛宕山を含み飛地境内が所々にあり 京都大原野神社は飛地領なり  』


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拝殿は入母屋造妻入、檜皮葺で舞殿形式で、明治11年(1878年)に造営された。
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 本殿は国の重要文化財に指定されている。
 室町時代前期、足利尊氏による元徳年間または貞和元年(1345年)の改修と伝える。後にも細川勝元により修造され現在に至るものと伝えられる。三間社流造で、前室を有し、屋根は檜皮葺である。装飾は蟇股・手挟程度にとどめたうえ、太い木割を使用した豪壮な社殿になる。
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 御神体の御蔭山(御陰山、御影山、千年山とも)は國常立尊の神蹟であることから、大八洲國國祖神社(おおやしまのくにくにのみおやのじんじゃ)とも言うらしい。

 御蔭山の写真を撮らなかったのでネット(Wikipedia)から拝借する。
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 手前の池が神池(宮池)である。神池には弁財天社がある。写真でも分かるように御蔭山は高い山ではない。

 出雲大神宮の主祭神は大国主命と三穂津姫命とされるが、三穂津姫命は出雲姫と呼ばれ、國常立尊に奉仕していたようだが、出雲姫薨じて三穂津姫命と諡されたようだ。

 大国主命は大己貴命とされるが、出雲大神宮では、主祭神の大国主命の別名を「三穂津彦大神」や「御蔭大神」とする。
 そうであれば、出雲大神宮は三穂津彦大神と三穂津姫命を祀っていることになる。出雲姫薨じて三穂津姫命と諡されたのであれば、それ以前は出雲彦と出雲姫を祀っていたということになる。この地まで進出した出雲族が祀る神であったのかも知れない。

 配祀神に天津彦根命と天夷鳥命が祀られていることから出雲氏との関係も想像される。
 祭神に関しては、天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の3柱とする説や、元々は三穂津姫命1柱のみであるという説もある。
 大国主命は後世の勧請とする説もあるようで、大国主命の影は薄い。


 一の宮巡りをしているのに、当社を参拝した時には気力が削がれたような状態で、摂末社を見て歩く気にはれなかった。当社の背後にある御神体の御影山中腹にある古墳や磐座、摂社の上の社なども見なかった。

 Wikipediaから古墳と磐座の写真を拝借して載せる。
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 この横穴式石室を持つ古墳は、5世紀から6世紀前の後期古墳とされる。口伝により関係づけられている千歳車塚古墳(口丹波に現存する最大の前方後方墳)は5世紀代、古墳時代中期に築造されたものと推定されるので、この古墳よりも少し古い。古くから御蔭山を神体として祀る氏族がいたと推測されている。また、御蔭山の中腹に磐座を2つ祀ることからも、御蔭山と同じく磐座の信仰が永く続いていたことが窺える。


 当社を参拝した時には気力が削がれたような状態だと書いたが、本当は神池(宮池)にある弁財天社を参拝した時点で、何だかこれで充分という感じになってしまったというのが実態だ。
 境内案内図を見ると御蔭山中腹には御蔭の滝という小さな滝があり、その水が神池に注いでいる。御蔭の滝には龍神の神が祀られている。祭神を龍神とせずに“龍神の神”とするところが意味ありげだ。
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 弁財天社の祭神は、市杵島姫命で、そこに多岐津姫命と多岐理姫命を加えるとも言われている。所謂、宗像三女神である。(最近、宗像大社関係の信仰圏が世界遺産に登録された)
 宗像三女神はいろいろな表記をされるが、『古事記』では、多紀理毘売命(別名 奥津島比売命)・多岐都比売命・市寸島比売命(別名 狭依毘売)、『日本書紀』の本文では田心姫・湍津姫・市杵嶋姫と表記される。
 私は、一人の女神の神格を3分割しているにすぎないように思っているが、神話や説話の世界ではそれぞれに役割を負っている。
 特に田心姫は大国主命の妃としての役割を、市杵嶋姫は後世弁財天と習合する。そして、湍津姫は私見では瀬織津姫の別名ではないかと考えている。


 以下は出雲大神宮で戴いた栞から一部を引用しながら、考察してみる。(引用文は『 』内)

『 御祭神  大国主命 三穂津姫命
 「だいこくさま」大国主命とお后の三穂津姫命をお祀りする。三穂津姫命は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘神で大国主国譲りの際妻となられた。(「日本書記」神代紀下、第二に記載有り)
 丹波国風土記には「別に説あり」とことわり、天津彦根命、天夷鳥命同座鎮座とある。また、富士古文書(宮下文書)では、首座は国常立命の神霊をお祀りし、両側の二座に大国主命、三穂津姫命が鎮座しているという内容の記述もある。 』

 「日本書記」によると、大国主命はスサノオの息子であるとされているが、「古事記」や「新撰姓氏録」によるとスサノオの六世の孫とされ、また「日本書記」の一書には七世の孫とされている。.
 大国主命とともに、出雲大神宮の主祭神である三穂津姫命は、高皇産霊尊の娘とされる。「日本書記」の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場する。大国主が国譲りを決め、幽界に隠れたあと、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の美穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した。ミホツヒメの「ツ」は「の」の意味で、ミホの女神という意味ともされる。
 出雲大神宮のほかに、出雲の美保神社で大国主神の子の事代主神とともに祀られているほか、奈良県にある村屋坐弥冨都比売神社では大物主神とともに主祭神となっている。

 天夷鳥命は出雲国造家の祖先で父は天穂日命とされる。天津彦根命はアマテラスとスサノオの誓約(うけい)によって生まれたアマテラスの子とされる。アマテラスとスサノオの誓約により生まれたのは天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、宗像三女神(田心姫、湍津姫、市杵嶋姫)である。従って、神道系譜では天津彦根命と天夷鳥命は叔父と甥の関係になる。

 天津彦根命はアマテラスとスサノオの誓約により生まれた神話には登場するが、天津彦根命自体はその後の神話には登場しない。
 近江国蒲生郡日子山に天孫降臨し、その後、桐原郷(現・滋賀県近江八幡市)に鎮座する。 天津彦根命について、『古事記』では川内国造・額田部湯坐連・茨木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閇国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造ら諸氏族の祖とする。
 また『日本書紀』では、凡川内直・山代直・茨城国造・額田部連らの祖とする。
 天津彦根命の名称について、「ネ(根)」は接尾辞であり、「アマツヒコ」は「天の太陽の子」の意味とされる。
 天津彦根命は、私が訪れた神社では多度大社(三重県桑名市)と竹田神社(滋賀県東近江市鋳物師町)に祀られていた。どちらも金属冶金に関係した神社であったので、金属と関係の深い神なのかもしれない。


『・鎮座
 神代の昔。一万年以上前ともいわれる。崇神天皇が丹波地方全域を平定された折りに再興。
・御神体山
 御蔭山、御影山、千年山とも称す。この山が太古より人々に神そのものとして崇められてきた。国常立尊が鎮まる聖域である。
・社格等
 丹波国一宮 旧国幣中社 延喜式内社
 「日本紀略」弘仁9年(818年)12月16日条「丹波国桑田郡出雲社、名神に預る」の記述有り。延喜式神名帳では名神大社に列する。
 神階正一位。伏見天皇正応5年12月2日昇格。 
・社名
 出雲大神宮(いずもおおかみのみや)
 古くは出雲神社、千年宮とも名乗った。大八洲国国祖神社(おおやしまのくに くにのみおやのじんじゃ)とも伝えられる。  』

 鎮座が一万年以上前ならば縄文人が祀っていた神と言うことになる。崇神天皇が丹波地方全域を平定された折りに再興とされることから、末社に崇神天皇社があるようだ。
 歴代天皇で古くから祀られている天皇は少ない。八幡神社の1柱としてに祀られる応神天皇(誉田別)も、宇佐神宮に八幡大菩薩(応神)として正式に祀られたのは725年聖武天皇の時である。
 宇佐八幡宮弥勒寺(神宮寺)が正式に整備されたのは天平13年(741)のようだ。ここで応神天皇の僧形八幡神としての神格が確定したのであろう。

 国史の初見は『日本紀略』の弘仁9年(818年)12月16日条「丹波国桑田郡出雲社、名神に預る」という記述だとされる。平安時代前期にはすでに有力な神社になっていたことがわかる。
 平安時代中期の『延喜式神名帳』では「丹波国桑田郡 出雲神社」と記載され、名神大社に列している。正応5年(1292年)には、雨乞いの功を示したことから神階が最高位の正一位まで昇った。
 神階の初見は『続日本後紀』で、承和12年(845年)7月16日に無位から従五位下を授けられている。表記は「出雲神」とある。
 現在は出雲大神宮(いずもだいじんぐう)と読んでいるが、正式には出雲大神宮(いずもおおかみのみや)と読むらしい。延喜式神名帳には「丹波国桑田郡 出雲神社」とあるし、神階も「出雲神」で授かっていることを考えれば、本来は「出雲神社」と名乗っていたようだ。戦後、現在の「出雲大神宮」に改称し、「いずもだいじんぐう」と呼ばれるようになったようだ。
 延喜式神名帳には「丹波国桑田郡 出雲神社」とあるが、桑田郡の名は『日本書紀』の継体天皇記(6世紀初頭)が初見で、桑を国県に植えよという詔勅から郡名としたという。桑は大秦氏と関係が深く、桑田荘は秦氏の氏神松尾社の荘園で郡内に松尾神社が3つある。

『・俗称
 元出雲。 島根県の出雲大社は江戸時代までは「杵築大社」と称しており、亀岡の当宮周辺は「出雲」という地名が現存している。「丹波国風土記」に「元明天皇和銅年中、大国主命一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち、今の出雲大社これなり。」とあり、このことから出雲大社よりも古くから大国主命をお祀りしていたと考えられている。 』

 「元出雲」の俗称は、出雲大社が出雲大神宮からの分霊とする社伝に由来する。いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲の神」と言えば出雲大神宮を指していたとされる。
 社伝では、『丹波国風土記』逸文として「元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるとするが、社伝で主張するのみでその逸文も不詳である。
 確かに出雲大社は明治時代に至るまで「杵築大社」と呼ばれていた。奈良時代の初めに出雲国造家が出雲国意宇郡の熊野大社神魂神社 から大和朝廷によって造られた杵築の地の出雲大社(杵築大社)に移ったともいわれる。
 神魂神社の社伝では、天穂日命の子孫が出雲国造として、元正天皇霊亀2年(716)に至る25代果安国造まで祭主として奉仕し、元明上皇の勅令により西65kmの杵築の地に出雲大社が創建されると、祭主として大社に移住したとされる。
 今の出雲大社は奈良時代の初期に国家プロジェクトとして造営されたものである。その高すぎる社殿故に何度も倒壊した記録が残っている。
 『日本書紀』が成立したのは720年で、その神話の部分は歴史書というよりも神道の宗教書とも言える。現在、多くの神社でこの神話に登場する市民権を得た神々が祀られている。この『日本書記』の神話のアリバイ作りに朝廷は各地の影響力のある神社に介入したようだ。

 律令制が敷かれる中、中央から国司が派遣されるようになり、国造(くにのみやっこ)の地位は廃止されていく。その中で出雲国造家や紀国造家(紀伊国造家)が祭祀者として存続していくことは異例のことである。出雲国造家は出雲大社、紀国造家は日前神宮・国懸神宮を奉斎している。出雲国造家や紀国造家は朝廷からどのような役割を請け負わされたのであろう。

 出雲大神宮は、崇神天皇再興の後、社伝によれば元明天皇和銅2年(709)10月21日に初めて社殿を造営したとされる。現在は10月21日に例祭を斎行している。

 鎌倉時代に描かれた「出雲神社牓示図」では御蔭山の麓に鳥居が立ち、さらにその手前に3棟の建物が描かれているという。だが、これらの建物は社殿のようには見えないという。おそらく、御蔭山を神体山として祀り、あるいは御蔭山にある磐座を祀り、しっかりした社殿はなかったのであろう。
 さらに社伝によると、当社を祀ったのは大神朝臣狛麻呂とされ、大和の大神神社との関連が見えてくる。大神神社は三輪山を神体山とし、今でも拝殿はあるが本殿はない。

 出雲大神宮の俗称「元出雲」は案外真実を語っているのかもしれない。出雲大社(杵築大社)の社殿を建築する前に、山陰道の通り道である口丹波のこの地に何らかの関連祭祀施設を造った可能性が浮かび上がる。出雲大社(杵築大社)の存在をことさら古く見せかけようとする力が働いているように感じられてならない。

 恐らくこの元明天皇から元正天皇へと続く女帝の時代に着々と記紀のアリバイ作りが進められ、出雲大神宮も出雲大社(杵築大社)もその中央の祭祀方針に沿った重点神社であったことが考えられる。ここには古代も現代も「山陰道」が走り、出雲と大和を繋ぐ交通の要衝であったと考えられる。出雲大神宮は出雲への入口であり、出雲大社は出雲の終点地でもある。
 古代になるほど“政(まつりごと)”は“祭りごと”でもあり、律令制度(中央集権)を確立するためには朝廷の神まつり(アマテラスを最高神とするヒエラルヒー)を浸透させることが必要であった。そのためには大国主命の天孫への国譲りの神話は格になる部分で、大国主命に倣って各地方の地主神(大物主)に国譲りをしてもらう必要があった。地方の祭祀をそのままにしての中央集権化は難しいと謂わざるをえない。八百万の神の受難はこうして始まった。

『・御神水 真名井の水
 御神体山から絶える事なく湧き出る水は真名井の水と呼ばれるミネラルバランスのよい中硬水で、霊験あらたかな水として、古来より近隣の田畑を潤し、人々を万病から護ってきた。
・神宮寺
 史料から平安時代末期にはすでに存在していたとされる。神仏分離により無くなり、明治4年以降木造十一面観音立像(重要文化財)は地元の極楽寺へ移された。
 鎮花祭の4月18日はこの観音菩薩の縁日でもある。秋祭りの法会も神宮寺存在時代の名残である。  』

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 境内には「真名井の水」と呼ばれる湧き水があり、古来より御神水と崇められてきたという。 汲んでいく人もいるそうだ。この湧水はマグマの接触変成岩層から湧き出している。
現地説明板より
『 真名井のいずみ
 古来より絶えず流れ続ける真名井の水は大神様の御恵みであり、その大御陰を頂いて田畑が潤い、秋には山吹色に色付いた稲穂が収穫される事から、その水は自ずと御神水と奉られてきました。
「 千年山これやむかしのさされ石いはほにふかき苔のいろかな 」
 これは宗尊親王が詠まれた和歌ですが、藤原為章によれば、古歌や旧記に載す千年山とは御影山を指すとしています。
 御神体山中の静けさに響く清らかな御影の瀧の水音を聞けば、自ずと神聖さを感じずにはいられない事でしょう。
 丹波一之宮 出雲大神宮  』

 また、神宮寺に祀られていたという十一面観音(重要文化財)は、多くは水の女神と習合する観音である。後世になるほど十一面観音は女性のように彫られるが、初期には男性のように彫られたものもある。いずれも水との関係が深いように感じられる。
 十一面観音と言えば長谷寺が有名だが、私の生まれ育った近くに長谷寺(長谷観音)があり、「三十三」(三十三献灯祭)があるが、これは雨乞いの祭りだ。

 出雲大神宮の主な神事は10月21日の例祭の他に、粥占祭(1月15日)と鎮花祭(4月18日)がある。
 宮司家は「千年の火」を伝うといわれている。出雲大社の火継ぎ神事に似ているようでもある。粥占祭などの神事に用いられている火が特に尊ばれている所以である。
 鎮花祭で奉納される出雲風流花踊は京都府登録無形民俗文化財である。本来は雨乞いの踊りだった。
 『左経記』万寿2年(1025)7月1日条によると、日照りが続き農作物に影響が出た為、当宮の領家職西園寺家は留守所に仰せて雨乞いを祈祷せしめたところ、忽ち雨が降った事から御神威いよいよ顕らかになり、正応5年(1292年)には雨乞いの功を示したことから神階が最高位の正一位に昇った。
 つまり、当社の神は水神さまの神格を持っていたということである。

 江戸時代の風流花踊りの様子を描いた「花踊練物番付」には、上段は先払い以下屋台まで16の練物と囃方38人、練物人数120人と警固、下段は、にわか練物人数70人と警固人、梅尽くし先あんどうほか屋台まで15、しんぼち・花笠人数・警固・弁当掛などが描かれ、総人数は1498人とある。
 この土地は、ときにひどい干ばつにおそわれ、夜、たすき掛けで後山へ登り雨乞い踊りをやったという。
 1924年(大正13年)の大干ばつで、中断していた雨乞い踊りが復活し、以来ほかの踊りを加えて花踊りと呼ばれた。華麗な花笠・衣装で単調に踊るという。




 以上のことを勘案すると、当社の御神体山である御蔭山を崇拝し、その山からもたらされる水の恵に感謝したとするのが、信仰の原点であろう。山の神は男神と考えることが多いようだが、ことに水に関係するときは女神を祀ることが多い。よく女房のことを「うちの山の神」という由縁である。
 敢えて当社の主神を1柱とするのであれば、それは水の女神であろう。それが後世大国主命の后神である三穂津姫命とされたのは、やはり出雲との関係に他なるまい。
 当社の国指定重要文化財に木造男神坐像2躯と他に1躯の男神像があり、この9世紀末から10世紀初め頃の作風を示す男神像3躯は本殿に祀られているという。本殿の形式は三間社流造であることを考える時、本殿に祀られる神はこの男神像3躯であろう。
 それならば、太古から祀られていた水の女神(三穂津姫命?)はどこに祀られているのであろう。それは神池にある弁財天社ではないだろうか。
 これはあくまでも出雲大神宮をまとめた結果での私に推測に過ぎないのであって、当社を訪れた時、そのような先入観はなかった。だが、弁財天社を参拝した時点で、何だかこれで充分という感じになってしまったというのは確かである。
 私には霊感がない。パワースポットと言われる場所に行っても何も感じない。朝から精力的に寺社を廻り、少し疲れていたから淡泊になってしまっただけなのかもしれない。

 当社は一般的な、「二拝二拍手一拝 」の作法でお参りする。出雲大社や宇佐神宮は、「二拝四拍手一拝」である。『魏志倭人伝』だったか、「倭人は高貴な人に出会ったときに平伏するのではなく、遠くからでも柏手(かしわで)を打つ」ということを読んだことがあるが、出雲系と天孫系は本来柏手の数が違っていたようだ。
 また、社殿の形式も全く違う。参拝方法や社殿形式から推測すれば同じ出雲でも、出雲大神宮と出雲大社は異なり、同じ神を祀っているようには考えられない。
 しかし、近年出雲大神宮と出雲大社の交流はあるようだ。 参道に立つ「国幣中社 出雲神社」の社名標は出雲大社の元宮司・千家尊福の筆によるもので、2014年(平成26)に造られた正面の石碑「丹波國一之宮 出雲大神宮」の揮毫は出雲大社現宮司・千家尊祐の筆であるという。
 

 兼好法師により著された有名な『徒然草』の236段には、出雲大神宮の事が書かれている。
 内容は、聖海上人が参拝した際、獅子・狛犬が後ろ向きに立っていて、これは他に例を見ないことできっと由緒のあることに違いないと思っていると、実は子供のいたずらだったという話である。当然この獅子・狛犬は、現在のものとは異なるものである。
 私も聖海上人のように些細なことに拘泥して惑わされているに過ぎないのかも知れない。
 『徒然草』では、「丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。」とあり、一般的には大国主命は出雲大社から出雲大神宮へ勧請されたと考えられているが、前述したように当社では、反対に丹波の地より出雲の杵築宮に遷座したとして「元出雲」を称している。この辺の本家争いは、今の両社の関係を見れば氷解しているようだ。こんなことに拘るよりも同じ大国主命を祀る神社として共存共栄したほうが得策である。


 最後に少し長くなるが栞の最後の文を載せる。
『 亀岡の旧道の一つとして、老ノ坂から王子、そして篠八幡の脇の道を馬堀から保津川を渡り、千歳山の麓に沿って千歳町毘沙門、史蹟国分寺のある国分、七谷川の橋を渡り出雲宮正面に至り、出雲大神宮神池横より馬路に出て八木町に抜ける道がある。今にあってもこの道は古き時代の面影を残していて、脇には、格子作りの家が並んでいたり、小さな社や寺の森が点在していたり、代官屋敷や亀岡藩の家老門をそのまま残す家が見られるひなびた街道である。
 その千歳の古道の奥宮にそびゆる御神体山(御蔭山)を仰ぐその麓に、元出雲と言われる「出雲大神宮」が鎮座する。「元」が頭につけられているのだから、おそらく島根県の有名な出雲大社より古いと伝えられている。
 山陰線亀岡駅を下車して北へ5km寄ったところに丹波国一宮・延喜式内社・名神大神・出雲大神宮の荘厳なる神庭が見られる。亀岡市千歳町出雲というところにあるこの神社近辺は、盆地を一望するには、格好の場所といえる。丹波が湖であった時代にも、ここは生活の場として、又、祭祀の場、文化の中心として繁栄していたのではなかろうか。
 この出雲大神宮は大国主命とその后神にあたる三穂津姫命をまつる延喜の制の名神大社であるが、本来は本殿の背後に円錐形に美しくそびえる「御影山」そのものが太古より崇められていたと伝える。その御影山がいわゆる神体山として、そして「出雲の大神」として崇められていたのは、われわれの想像以上に古い時代からであったようだ。崇神天皇の時代に大和の三輪山が崇められるようになったが、御影山はその時代よりずっと古くから出雲の大神と敬われる神体山としてきこえ伝えている。
 そして、この出雲大神が、さらに国史最初、地球最初の国祖と称え奉ることは、我が国神祇道に正史として伝える国常立尊が丹波の国、或いは亀岡の祭神となっていたものと思われる。
 この桑田郡がそういう立地条件でもって「神キ」となり、ここから大和、出雲両国への文化の伝達もあったと考えられる。その一つの証としてみられるものに富士浅間神社に伝わる古記録、富士古文書・富士文庫、徐福伝、宮下文書、神皇記がある。
 その中で、太古において国常立尊は天が下に下り、田場の真伊原にましまして桑田の宮(出雲の宮)を築かれ、国の半分を農業を主として理想的に統治されたことを統治界の物語として書き直し、詳しく記述されている。国常立尊は薨じて後に田羽―田場―出雲御神体山に葬られ、そして出雲毘女皇らによってその御神体山の麓の祠に祀られる。出雲毘女が桑田の宮と国常立尊の祠を守護。この出雲毘女皇も薨じた後は御神体山に葬られる。そしてこの毘女は三穂津毘女と諡されて祠に祀られ、出雲大神と呼ばれるようになった由も伝えられる。
 亀岡はもともと桑田郡に位置しているので、「桑田の宮」に符合する。又、三穂津姫命は出雲大神宮の祭神であることなどを思いめぐらせると、いよいよもってこの神社が古来より出雲の大神と崇められていたところとの結論に導かせるのである。そして、田羽山なるもの(谿羽、たには)が、神体山の御蔭山に相当するということにもなるであろう。  』

 神社の栞としては大胆な記述であるが、出雲大神宮で祀られているのは、暗に出雲毘女皇(三穂津毘女)であることを表明している。私の推測も当たらずとも遠からずといったところか。
 何れにしても、この地の神も天孫に国を譲った(追い払われた・追い祓われた)神であろう。

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