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zoom RSS 旅 713 姫路城(1)

<<   作成日時 : 2017/11/03 14:19   >>

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2016年 8月19日
姫路城(1)

 柳田国男の生家を見学したあと、市川に沿って国道312号線(但馬街道)を南下して姫路に入った。今回の旅のメインの一つである姫路城の見学に、少しワクワクした。

 国宝の城への旅は、既に彦根城、犬山城、松本城の見学を終えており、姫路城を最後に計画していたが、2015年に松江城が国宝に選ばれたため、最後は松江城になる。
 姫路城が国宝に指定されたのは昭和26年(1951)である。 平成5年(1993)12月、奈良の法隆寺とともに、日本で初の世界文化遺産となった。
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現地説明板より
『 姫路城大手門と桜門橋
 姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、場内では最も格調高く厳重な門でした。現在「大手門」と呼んでいる大型の高麗門は昭和13年(1938)に完成したもので、位置や大きさは江戸時代のものと全く異なっています。また、大手門前の内堀には桜門橋という木造橋が架けられていました。今回復元した桜門橋は、発掘調査で出土した遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして平成19年(2007)に築いたものです。 』
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 大手門は桜門とも呼ばれていたようだ。
 現在「大手門」と呼ばれているこの大型の高麗門は1938年(昭和13年)に「桐二の門」があった場所に再建した門で、江戸時代の意匠とは異なる。
 本来の大手口は入り口から桜門・桐二の門・桐一の門と続き、それらを三重の太鼓櫓・多聞櫓・ねの櫓で囲み、6回曲がらなければ天守方面へ行けない厳重な二重枡形を形成していたが、建物は明治時代の陸軍設置の際に取り壊されて現存しない。2007年(平成19年)に桜門橋を復元している。

 姫路城の門は全部で21あるという。この大手門を入ると、東三の丸(三の丸広場)で、連立式天守閣がよく見えた。
 三の丸広場は市民の憩いの場となっていて、花見や各種のイベントスペースとしても使用されているそうだ。三の丸の東部と東側に位置する出丸(御作事所)は姫路動物園の一部になっている。
 三の丸はかなり広く、昭和14年(1939)には、旧制の姫路市立鷺城中学校(現姫路市立姫路高等学校)が設置されたが1945年(昭和20年)の姫路空襲で焼失したという。昭和22年、三の丸に野球場と相撲場が建設された。
 2014年(平成26年)11月6日、姫路市教育委員会が三の丸の発掘調査で大手から菱の門前まで通じる南北200m、幅21mの三の丸大路の跡や礎石の跡などを確認したと発表し、『播州姫路城図』に描かれていた当時の様子が明らかになりつつある。
 1998年(平成10年)、姫路藩主・本多家の家老であった中根家の子孫宅から第二次本多時代(1682〜1704)の姫路城内曲輪を詳細に描いた『播州姫路城図』が発見された。

 地下に多くの歴史的資料が眠っていることは確かだろうが、最近でもまだ新たな史料が発見されることを考えるとき、古代においても写し継がれた史料がまだあり、発見させる時を待っているのではないかと考えると楽しい。
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 この図は明治初期の姫路城を表す。


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 平成の大修理は終わったはずなのに、一部でまだ修理が続けられているようだ。
 平成の大修理は2009年から2015年まで約24億円の費用をかけて行われた。

 見えているのは、大天守と西小天守、乾小天守で、東小天守は陰になって見えていないようだ。


 城主の居館は池田輝政の頃は「備前丸」だったが、備前丸は山上で使いづらいため、本多忠政は三の丸に本城(御居城)と称する館を建てて住んだ。本多忠刻・千姫夫妻が居住していた武蔵野御殿もここにあった。
 本多氏以降の城主は本城、あるいは中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。



 入城口は正面登閣口と東門登閣口の2つあるが、私が入ったのは正面登閣口である。入城料は1000円であるが、国宝であり世界文化遺産でもある建物群を維持していくための一部となるのなら、このくらいの負担はしなければならないだろう。

 2015年、平成の修理完了後に入城料が改定され、600円から1000円に上がった。それでも、2015年度の入城者は286万7100人で過去最高を記録した。これは、年間221万人だった熊本城を抜き、城郭入城者数の歴代1位だという。
 熊本城は現在、2016年4月に起こった熊本地震の被害を受け、復旧工事の緒に就いたばかりだ。熊本城の復旧が、熊本地震からの復興のシンボルになる。姫路城もそうだが、毎日仰ぎ見る城は、その街の誇りなのであろう。

 姫路城が城郭入城者数の歴代1位を記録しのは、前年放送されたNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」の影響もあっただろうが、新装なった美しい姫路城を訪れたいという観光客が多かったのが一番の理由であろう。世界文化遺産に登録された翌年(1994)の入城者数 98万3000人を遥かに上回る。

 2016年(平成28年)2月1日からはクレジットカード(ビザとマスターカード)での入城券購入が可能となった。家族4人で入城すれば4000円となるので、カード払いが必要であろう。私も2000円以上の買い物にはカードをつかう。


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 菱の門は二の丸入口にある櫓門で現在では正面登閣口から入って最初に通る門である。西側にある石垣と土塀で枡形虎口を形成し、門の片側が石垣に乗る変則的な櫓門で、西側部分に番所詰所、東側部分に馬見所がある。
 城内の現存の門では唯一、柱・舟肘木・長押を表面に出した真壁造りで安土桃山時代の意匠を残している。
 櫓二階部分の中央に黒漆と金箔で装飾された格子窓と両側に同じ装飾の火灯窓、その右手に庇出格子窓がある。
 「菱の門」の名は、冠木に木製の花菱模様が装飾されている事や築城以前に流れていた菱川に由来するとされる。この「菱の門」は伏見城から移されたという伝承がある。
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 菱の門内にある三国堀は、二の丸の本道と間道の要所をおさえる重要な位置にある。
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現地説明板より
『 姫山・鷺山と三国堀
 江戸時代、菱の門から内側を城山といいました。城山には鷺山と姫山の2つの峰があり、姫山にはその地形を利用して上山田曲輪や備前丸を設け、頂部には大天守が築かれました。
 一方、鷺山には、峰の上部を大きく削って西の丸が造営されました。
 城山の中央にはほぼ正方形の三国堀があります。この堀は用水池で、2つの峰の間の谷を堰き止めて築かれたダムのような構造です。三国堀北側石垣には、谷筋にあった堀の痕跡をみることができます。 』
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 説明文に、「三国堀北側石垣には、谷筋にあった堀の痕跡をみることができます。」とあるが、確かに石垣の積み方がそこだけ変わっている。
 上部の狭間(射撃用の窓)のある城壁は一連であるが、下の石垣には逆ハの字に積まれた四角い石があり、堀跡の痕跡を示す石垣が残っている。
 姫路城に現存する狭間(さま)の数は997ヶ所だという。この意匠のような丸、三角、四角の狭間も防備のための仕掛けであった。

 二の丸(上山里曲輪)は、菱の門をはじめ多くの門や櫓が配置され、相手が侵入しにくいように造られている。また、侵入してきた相手を狭い通路や、小さく区画された部分に追い込み、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫がされている。
 迷路のような進みづらい構造をしているのは防御のためである。天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。


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 例えば、「菱の門」からは、まっすぐ「いの門」・「ろの門」・「はの門」の順に進めば天守への近道のように見えるが、実際は菱の門から三国堀の脇を右手に進んで石垣の中に隠された穴門である「るの門」から進むのが近い。
 「はの門」から「にの門」へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない。
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 「石落とし」もあり、防備を固めた城であるが、大砲などで攻められたらこのような防備では太刀打ちできないであろう。
 幕末、岡山藩の部隊が景福寺山に設置した大砲で姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。
 この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定し、城の明け渡しで新政府に恭順する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。
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 この白漆喰で塗られた土塀ではなく真壁造りの5.2mの築地塀は「油塀(あぶらべい)」と呼ばれている。製法については油、もしくはもち米の煮汁を壁材に練りこんだと考えられている。秀吉時代の遺構で防備の上で特に高い塀を必要としたという説もあるが、よく分かっていない。


 「姥ヶ石」があった。
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現地説明板より
『 姥ヶ石(うばがいし)
 石垣の上方に石臼が間詰め石として積まれています。これを「姥ヶ石」と呼んでいます。
 羽柴秀吉が姫路城を築くとき石集めに苦労していました。城下で餅を焼いて売っていた貧しいお婆さんがそのことを聞き、使っていた石臼を寄付しました。秀吉は喜んで石臼を石垣に使いました。
 この評判はすぐに広がり、国中からたくさんの石が寄付され、築城工事は急速に進み、立派に完成したというのです。
 「姥ヶ石」が積まれている石垣は、池田輝政が築いたものなので、この話は伝説です。
 そのほかに、「姥ヶ石」には、お婆さん(姥)は妊娠しない(孕まない)ことにかけて、石垣も孕まないようにとのお呪いで積まれたという説もあります。 』

 真っすぐに急角度な高石垣では、年月が経てば石垣に膨らみが出て、崩壊するおそれがある。この膨らみを「孕み」と見て、石垣造りでは警戒される。おそらく石垣が孕まないようにとのお呪いのようなものだろう。
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 いよいよ城の中に入る。大天守は外から眺めると5階建てに見えるが、内部の造りは地上6階、地下1階の7階構成になっている。
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 どの城でも、天守の階段は敵が登りにくくするために、狭くて急である。それが観光客が登るのを妨げる。入口で渡されたビニル袋に下足を入れて持って歩くので、片手がふさがる。撮影にも邪魔になる。
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 この柱は東大柱である。
 大天守には東大柱と西大柱の2本の大柱がある。大天守の高さは31.5mで東西2本の大柱は地階から5階の梁(6階床下)まで通柱になっていて、長さは24.6mある。大柱は根元直径95cm、末口42cmの大木である。
 大天守の建物の高さは31.5mは、現存天守の中では一番高い。石垣の高さ14.85mを合わせると、約45mになる。因みに建物の高さでは松江城は30m、松本城は29.4mである。

 東大柱は当初から樅材で、根継部分は台湾檜に替えられていたが、それ以外は当初のままの樅材であった。根継部分が替えられたのは腐朽のためだったと考えられる。

 西大柱は、当初から上部が栂材で下部が樅材で継がれていた。

 東大柱は本来の中心線から東南の方向へ約37cm傾いていた。大天守は江戸時代から何回も補修がされてきた。江戸時代は大柱そのものが建物の重さなどで歪んで変位したようだが、次第に建物全体が傾いたため多くの支柱を入れて補修してきた。

 天守の総重量は、現在はおよそ5,700tである。かつては6,200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して過去の補修であてられた補強材の撤去や重量低減のため特に工夫を加えて焼成された軽量瓦や、耐震補強のための金具類が新たに使用された。

 姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止めることは難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われる有様であった。

 明治時代にも補修工事が行われているが、昭和の大修理は全解体を伴う大規模かつ抜本的なものであったことから「昭和の築城」の異名もとる。
 基礎部分は工事前の調査で南東に44cm地盤沈下していると判明し、礎石のままでは天守の重量を支えきれないため礎石を撤去し、新たに十弁式定盤基礎という鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築された。この時、羽柴秀吉が城主だった頃築かれた天守の礎石や石垣が地下から発見された。一方で石垣などそのままで差し支えないと判断されたものはほとんど手を加えられていない。

 天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断され、ただちにこれに替わる巨木探しが始まった。
 兵庫県神崎郡市川町の笠形神社境内の檜が検討されたが、上部に曲がりがあり、また、根元にも腐っている疑いがあり保留になった。
 1959年(昭和34年)になってようやく岐阜県恵那郡付知町(現中津川市)の山中に最適な檜が発見されたが、これは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう1本は森林鉄道を用いて運搬する途中でそのあまりの長さゆえに折れてしまった。
 窮余の策として、折れた2本目の根本側(樹齢765年)と笠形神社の檜(樹齢650年)とを継ぎ合わせて使用されることとなった。
 これらの檜は姫路市民総出で大手前通りを祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれたという。

 先に紹介したように、修理以前の西心柱は元々2本継ぎで作られており、修理開始の段階ではその理由が判明しておらず、そのため分割なしの1本の柱を立てることが計画されたのであるが、交換部材が前述のアクシデントで2本継ぎとされることが決まり、実際に組み立て作業が行われる段階になって、これは構造上中央部で2分割しないと立ち上げ時に先に立てられた東心柱に干渉し、狭い作業空間内で正しく組み上げられないことが判明した。
 西心柱の2本継ぎには訳があったのだ。実践してみないと分からないことが沢山ある。江戸初期の築城のときの苦心が偲ばれる。
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 天守の修理においては、その全体に木材で足場を組み巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事が行われた。姫路城の解体修理には先に解体修理が行われた松本城で使われていた素屋根の丸太も再利用された。

 松本城の解体修理は1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)に行われた。姫路城と同じ国宝の松本城とは姉妹城提携はないが、姫路市と松本市は姉妹都市提携を結んでいる。


 最上階の6階には、刑部(おさかべ)神社(長壁神社とも)が分祀されていた。
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 もとは刑部氏の氏神であった。大天守最上階に祀られている他に、旧中曲輪の長壁神社や播磨国総社にも祀られている。池田輝政の時代には城内の八天堂に祀られていた。

 観光の外人が、見よう見まねで手を合わせていた。「おいおい、あなたたちはクリスチャンではないのかい。」 もっとも、この城に関わった黒田孝高(官兵衛)はキリシタンだったから、それはそれで意味があることなのかもしれないなどと勝手な解釈をした。
 私は黒田氏は渡来人の末裔で、姫神を祀っていたのではないかと想像しているが、まだまだ資料が足りない。

現地説明板より
『 御祭神 姫路長壁大神  播磨富姫神
 姫路刑部(おさかべ)大神は延喜式に、富姫神は播磨国大小明神社記に記され、古代より姫山に鎮座された由緒ある地主神である。
 城主池田輝政が、城内「との三門」の高台に祀り、歴代城主は手篤く崇敬する。寛延元年(1748)城主松平明矩のとき長壁大神と改める。
 明治12年(1879)総社に移されたが、のち勧請され天守樓上に祀る。
 明治15年城内備前屋敷の火災、昭和20年(1945)7月3日大空襲には、奇跡的に炎上を免れた。
 姫路城の守護神であり、火災・災害等にご霊験あらたかで、人々の信仰が篤い。
 毎年6月22日、ゆかた祭りとしてご神徳をたたえる。
 姫路城を守る会  』

 刑部神社(長壁神社)の祭神は、姫路長壁大神と播磨富姫神とされるが、姫路城には長壁姫と呼ばれる妖怪が隠れ住むという伝説がある。
 どうもこの姫山や姫路城には、女神が住んでいるようで、その女神は時には悪神とも解されているようだ。

 刑部(忍坂部)氏は、河内国若江郡や伊勢国三重郡、備中国賀夜郡、英賀郡などに地名で残る。允恭天皇の皇后であった忍坂大中姫命の曲部として各地に配置され、その料地管理などに従事していた人々とされる。
 刑部氏には数氏があるとされるが、多くは物部氏系と言われている。



 城跡は攻防の要衝にあることから、陸軍の部隊は城跡に配置される例が多く、姫路城でも1874年(明治7年)に三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置された。
 太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていてかつ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。
 しかし、昭和20年7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた。
 この大天守に直撃した焼夷弾が不発であったという奇跡は、姫路城の守護神である女神の加護であったのかもしれない。
 空襲は夜行われたので、レーダーによる空爆であるから擬装網は意味がなかっただろう。
 翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。


 姫路城が白漆喰総塗籠造(しろしっくいそうぬりごめつくり)の鮮やかな白の城壁で、その偉容を誇るのは徳川幕府の権威の象徴でもあったからだ。
 幕府は、姫路城に西国の外様大名監視のために西国探題を設置した。西国の外様大名は参勤交代で山陽道を通る際この姫路城を観て、その優美さとともに威圧感を覚えたであろう。つまり、姫路城は目立つ必要があった。

 その目立つことが、戦時中は空爆の目標とされると考えられ黒く染めた網(擬装網)を被せられる結果となった。
 姫路城の別名は「白鷺城」というが、白の城壁が白鷺が羽を広げたような優美な姿にみえるからともいわれる。しかし、観る場所が悪いのか、私には白鷺が羽を広げたようにはみえない。「白鷺城」の「白」は誰もが納得するだろうが、「鷺」がわからない。
 地名から名付けられたという説の方が、妥当かもしれない。

 姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。
 神代の昔、大汝命(おおなむちのみこと)は、その子火明命(ほあかりのみこと)があまりに乱暴者なので、海へ出た際、捨ててしまおうと島に置き去りにして船出した。ところが、船が出てゆくのに気づいた火明命は大変怒り、風波を起こして船を難破させてしまった。
 その時、船や積み荷などが流れ着いた場所に「船丘」「犬丘」「筥(はこ)丘」「琴丘」など14丘の名が付けられたが、その一つ、蚕子(ひめこ)の流れ着いたところが「日女道丘(ひめじおか)」で、現在、姫路城のある「姫山」であるとされている。「蚕子」は古語で「ひめじ」とも言う。

 姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。
 白鷺城は「鷺山」に置かれているところから付けられた別名という説がシックリする。

 黒い壁から「烏城(うじょう)」とも呼ばれる岡山城との対比から付けられたという説もある。「烏城(うじょう)」に対して「白鷺城(はくろじょう)」と呼ばれたのだという。
 事実、「白鷺城」は“しらさぎじょう”ではなく、“はくろじょう”と呼ばれていたらしい。姫路市内では市立の白鷺中学校や白鷺小学校は、それぞれ「はくろ中学校」、「はくろ小学校」と呼ばれている。校歌でも「はくろじょう」と歌われるらしい。
 何れにしても、今は通称として「しらさぎじょう」が一般的である。

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