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zoom RSS 旅 714 姫路城(2)

<<   作成日時 : 2017/11/03 15:11   >>

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2016年 8月19日
姫路城(2)

 白くなくては白鷺城ではない。
白漆喰はカビが原因で黒ずみが発生するという。平成の修理では防カビ強化剤が塗布された。平成の修理では大天守の白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした補修工事が進められた。その結果、姫路城は白亜に生まれ変わった。

 姫路城の美しさの象徴は白漆喰壁にある。外部に現れた全ての表面を漆喰で仕上げる白漆喰総塗籠造という工法が用いられている。消石灰、貝灰、すさ、海草などを材料とする古代からの伝統工法を継承するもので、薄く何度も塗り重ねることで、その厚さは3cmにも及び、これにより火災や風雪から城を守っている。正に「城」を守る「白」でもある。

 屋根瓦の継ぎ目は屋根目地と呼ばれる特殊な白漆喰を使用し、塗り込むことで風や揺れに対する強度を高める。平成の葺き替えの際には屋根漆喰は5回の重ね塗りが行われた。
 姫路城の屋根が白っぽく見えるのは、この屋根目地のためである。

 このように市民に愛され守られてきた姫路城も例外ではなく、明治10年頃には屋根は傾いて草が生え、壁や石垣は崩れたまま放置されているような状態だった。
 しかし、この頃、西洋化もいいが、日本の城郭も保存しようという動きが見られるようになった。和魂洋才の「和魂」のためにもその土地の象徴でもある城を大切にしようという心が芽生えたのであろう。



 大天守の最上階から四方を見てみた。
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 南方面の先は播磨灘となる。
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 西には西の丸が見え、長さ約121間(約240m)もある「百間廊下」が連なっているのが見える。
 西の丸は本多忠政が伊勢桑名から移ってきた時に整備・拡張された曲輪だとされる。北端に位置する化粧櫓及び櫓群と、これらを結ぶ渡櫓(長局)が「百間廊下」である。
 化粧櫓化粧櫓は、千姫(家康の孫)が忠政の嫡男・忠刻に輿入れする際の化粧料10万石で1618年(元和4年)に建てられたものである。

 家康の孫娘千姫は、7歳で大坂城の豊臣秀頼のもとに輿入れした。大坂夏の陣で大坂城が落城するとき、千姫は燃えさかる炎のなか助け出された。江戸へ帰る道中、警備に当たっていた本多忠政の嫡子・忠刻と再婚した。千姫20歳、忠刻21歳であったという。
 勝姫と幸千代の一男一女に恵まれ幸せだったようだが、幸千代は3歳で亡くなり、夫・忠刻も31歳で亡くなってしまった。
 江戸に帰った千姫は、髪をおろし天樹院と号し、竹橋御殿で余生を送り、70歳の生涯を閉じたとされる。
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 北に見えるのは広峰山だろうか。この後、広峯神社へ行ってみようと考えている。近くの緑の帯は、「姫山原生林」だろうか。
 次の写真はネットから拝借した北側から撮った姫路城である。姫山北部には樹木が生い茂る「姫山原生林」がある。
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 この原生林の中には、本丸からの隠し通路の出口があるという噂があるが、その存在は確認されていない。
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 市川は見えなかったが、東方面には市川が流れ、やがてが播磨灘に注ぐ。

 大天守を下りて、備前丸に出て、連立式天守の写真を撮った。
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 姫路城の最初の天守は1580年(天正8年)の春、羽柴秀吉によって姫山の頂上、現在の大天守の位置に3重で建てられた。この天守は池田輝政により解体され、用材は乾小天守に転用された。「昭和の大修理」では秀吉時代の木材が転用された事が分かっている。

 2代目の天守は池田輝政により建てられ、5重6階天守台・地下1階(計7階)の大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)、その各天守の間を2重の渡櫓で結んでいる「連立式天守」である。これが現在見られる天守である。

 乾小天守は建設当初は乾櫓(いぬいやぐら)と呼ばれていて、3重3階・地下1階で天守丸の北西に位置する。
 西小天守は建設当初は未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれていて、3重3階・地下2階で天守丸の南西に位置する。
 東小天守は建設当初は丑寅櫓(うしとらやぐら)と呼ばれていて、3重3階・地下1階で天守丸の北東に位置し、西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。


現地説明板より
『 備前丸
 ここは備前丸という曲輪で、「御前丸」と呼ばれていた時期もありました。もともと池田輝政の御殿がありましたが、本多忠政が城主になると、御殿は三の丸に移されたといわれます。
 敷地面積が狭いため、曲輪内には建物が密集していたとみられ、昭和の大修理では天守台石垣のすぐ下で排水溝や建物の遺構が発掘されています。
 御殿が三の丸に移った後も、南側の石垣上には二重櫓と長局、御対面所などが建ち並び、曲輪内には御台所と折廻櫓がありました。御台所や長局などは明治15年(1882)に失火で焼失し、備前門の一部と折廻櫓だけが昔の姿を留めています。 』


 城主の居館は当初、「備前丸」であった。これは池田輝政の所領備前国にちなむ名だという。
 備前丸は山上で使いづらいため、本多忠政は三の丸に本城と称する館を建てて住んだ。以降の城主は本城、あるいは中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。
 徳川吉宗の時代の城主・榊原政岑が吉原から高尾太夫を落籍し住まわせたのは西屋敷である。西屋敷跡およびその一帯は現在では姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されている。

 姫路城主だった榊原政岑は信仰心に厚く、「ゆかた祭」を始めたことでも知られる心豊かな城主だという。しかし、日光代参の希望が幕府に聞き入れられなかったことに不満を持ち、酒色におぼれて、吉原通いを始じめた。そして「色婦録」にも艶名をうたわれた名妓高尾を落籍、姫路に連れ帰って、城内西屋敷に住まわせたとされる。
 これらの行状が、当時倹約を推し進めていた幕府に知れ、政岑は糾弾され20代の若さで隠居を命じられた。榊原家は越後高田へ転封となり、高尾も政岑に従い、共に越後高田へと下ったという。



 何だかここまでの見学で、十分満足してしまい、後は見学ルートに沿って城から出ようと考えた。西の丸の方へ行くルートもあるようだが、城の外へ出て冷たいものでも飲みたい気分であった。
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 井戸があった。城内には11ヶ所の井戸があるという。
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現地説明板より
『 石棺
 備前門の入口脇にはきれいに加工された直方体の石が縦に積まれています。これは、古墳に埋葬されていた石棺の身で、築城の際に石垣に転用されたものです。そのほかの石垣にも組合式石棺の側石や底石なども転用されています。こうした古墳の石棺が積石として転用されているのが、姫路城の石垣の特徴です。築城によって、姫路近辺にあった古墳がいくつも破壊されたことが想像できます。 』

 私は石棺が神社の手水屋の手水鉢に転用されていたのを見たことがある。まだ石棺や石臼ならいいとは思わないが、どこかの石垣で墓石を使ったこともあったと聞いたことがある。
 この姫路城の石垣でも古墳の石棺ばかりでなく、五輪塔・宝篋印塔・墓石・石臼・石灯籠の台座などが転用されているそうだ。

 鯱が展示されていた。
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現地説明板より
『 大天守の鯱
 瓦葺屋根の大棟の両端につけられている飾りの一種で、鬼瓦と同様に守り神とされました。姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に上を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物を模しています。
明治の鯱
 5代目の姫路城大天守の鯱です。昭和の大修理の際に、大天守の東側に上がっていたものです。全国的な傾向として江戸中期以降の鯱は耐久性に乏しいため、新しい鯱と入れ替えました。
 銘文には万延元年(1860)製作と記されています。
昭和の鯱
 6代目の姫路城大天守の鯱です。昭和の大修理の際、大天守の二重の屋根に、貞享4年(1687)の銘のある小型の鯱が発見されました。これは姫路城に現存する最も古い鯱と考えられたために、これにならい大天守五重の大型の鯱を含め11の鯱が復元されました。
平成の鯱
 7代目の姫路城大天守の鯱です。平成の修理では大天守最上層の2尾の鯱が取り替えられましたが、これは山本瓦工業株式会社から寄贈された同型の鯱です。平成23年(2011)11月に造形に着手し、充分に乾燥させた後焼成し、翌年2月に完成しました。形は昭和の鯱を忠実に再現しています。 』

 名古屋城の金の鯱と違い、気楽に取り扱える。鯱は口から水を吐き火を消すと信じられ、火災除けのお呪いの意味もあるとされる。



 ここで姫路城の歴史をふり返る。

 姫路城の始まりは、南北朝時代の1346年、赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。
 一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。

 本格的に石垣を組み築城するようになったのは、織田信長だともいわれる。その線で考えれば、黒田孝高(職隆の子)から城を譲られ、本格的に石垣を組み天守を築いた羽柴秀吉が最初としてもいいのではなかろうか。

 赤松から黒田への流れを詳しく見てみる。

 1333年(元弘3年)、元弘の乱で護良親王の令旨を奉じて播磨国守護の赤松則村(円心)が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた。

 南北朝の争乱で足利尊氏に呼応した赤松則村が再度挙兵し、1346年次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し、姫山に築城し姫山城とした。3年後には移ってしまうことを考えれば、おそらく砦や館のような小規模なものだったのだろう。

 1349年、赤松貞範が新たに庄山城を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が姫山城の城代になって以後は小寺氏が代々が城代を務める。

 1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱で赤松満祐・教康父子に対して山名宗全が挙兵、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶、赤松満祐に属していた城代の小寺職治は討死した。

 その後、山名氏が播磨国守護に、山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。1458年(長禄2年)、長禄の変で後南朝から神爾を取り戻した功績で赤松政則(満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許された。
 1467年(応仁元年)、応仁の乱で山名氏に対立する細川勝元方に与した赤松政則が弱体化した山名氏から播磨国を取り戻し、当城に本丸・鶴見丸・亀居丸を築いた。

 1469年(文明元年)、赤松則村が隣国の但馬国に本拠地がある山名氏に備えるため新たに築いた置塩城に本拠地を移し、小寺豊職が城代になった。
 1491年(延徳3年)、小寺豊職の子・政隆が城代になり、御着城(姫路市御国野町御着)を築城開始。1519年(永正16年)、政隆が御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になった。

 1545年(天文14年)、小寺則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。黒田重隆・職隆父子が主君で御着城主の小寺政職(則職の子)の許可を受けて、御着城の支城として1555年(天文24年)から1561年(永禄4年)の間に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられている。
 赤松氏 → 小寺氏 → 黒田氏 と家臣が城代になる形で、黒田氏の時に城らしき体裁を整えたようだ。

 黒田孝高(官兵衛)が羽柴秀吉に従臣して、やがて福岡藩の大名となるが、その出自については祖父である播磨国の国人領主・黒田重隆以前は不明瞭だ。近江黒田氏出身との説があるが、根拠に欠ける。
 もっとも赤松氏とて赤松則村(円心)以前の村上源氏の末裔とする家系はあやしい。赤松氏も小寺氏も黒田氏も瀬戸内海で海上貿易や海運業で財を成し、地域に根付いた土豪や悪党の類となり、南北朝時代に播磨国の有力国人領主に成長したと見るのが妥当と思われる。その意味では名和氏や楠木氏と同様だ。

 黒田重隆は家伝の目薬を製造・販売し、やがて土豪として成長したとされる。重隆は広峯神社の社家と繋がっていたようだ。目薬販売を商う配下の者たち(峯神社の社家か?)は、各地を行商しその土地の情報を持ち帰る諜報員であったとされる。

 黒田職隆(重隆の子)は小寺氏の重臣で、小寺氏との縁が深い。職隆は姫路城下に百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていたという。
 黒田孝高(職隆の子)は、戦国時代において、早くから多くの情報を得ることができ、主家である小寺氏とは違い織田信長の将来性を早くから見抜き、羽柴秀吉への従臣を決めて道を誤ることはなかった。
 黒田氏は、重隆、職隆、孝高の3代で基礎を築いたと言ってもよい。商人、情報重視などの行動パターンから、私は黒田氏は帰化人の末裔と見ている。

 黒田孝高(官兵衛)から姫路城を譲られた羽柴秀吉は、山陽道上の交通の要衝にあるこの城を本格的な城郭に拡張し、更に関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へと拡張された。

 江戸時代には姫路藩の藩庁となり、西国の外様大名監視のために西国探題が設置された。池田輝政は1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた。
 姫路城は徳川幕府の威信を表現する城であり、西国の外様大名が謀叛を起こした時の防衛にも対応できるように、美しく実戦的な城として整備されたのである。

 池田氏の後、本多氏、松平氏、榊原氏など譜代の有力氏が歴代の城主を務めたが、1749年( 寛延2年)に酒井氏が城主になってから幕末まで続いた。



 姫路城の見学で、まだ見るべき所は多いのだが、ここまでの見学で満足したので外へ出ることにした。今日もまだ訪れたい場所が沢山ある。
 駐車料金のことも気になったので、次は近くの総社に行こうと思い、とりあえず駐車場から出た。走っていると、街にはいくつもの石垣の跡があった。
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 姫路城は江戸時代の日本では数少ない城郭都市を構成していたという。このような総構えは他に江戸城や小田原城などの例があるだけだという。家康は秀吉の小田原城攻めに参加して、その城郭都市の防備に感心したようだ。

 堀は姫山の北東麓を起点にして左回りに城北東部の野里まで総延長約12.5kmあり、内堀で囲んだ1周目は内曲輪、中堀で囲んだ2周目は中曲輪、外堀で囲んだ3周目は外曲輪といい、3重の螺旋を描くような曲輪構造で渦郭式縄張を形成している。
 内曲輪以内の面積は23ha、外曲輪以内の面積は233haとなっている。現在では内曲輪の範囲が姫路城の範囲として認識されている。
 大まかには、内曲輪は天守・櫓・御殿など城の中枢、中曲輪は武家屋敷などの武家地、外曲輪は町人地や寺町などの城下町が置かれた。
 しかし、外堀は城北部の野里で不完全に終わり最後まで閉じていないため姫路城の総構えの欠点になっている。これは池田輝政が城郭を大規模に整備する頃に野里周辺で力を持っていた芥田氏に対して強硬な行動を取る事が出来なかったためと推測されている。
 この欠点を補うために榊原時代に城の守備について描かれた『姫路城防備布陣図』には有事の際に堀を掘る計画が示されている。


 姫路城は国宝である。1993年( 平成5年)には ユネスコの世界文化遺産に登録された。しかし、昭和の大修理は「昭和の築城」と呼ばれるほど大規模なもので、そのことがユネスコの世界文化遺産登録に支障にならなかったのだろうか。

 世界遺産登録に際してのオーセンティシティ(真正性、真実性)の評価はヴェネツィア憲章に基礎を置いていた。
 しかし、その概念はヨーロッパに多く見られる「石の文化」にはよく当てはまるが、解体修理を行う日本的な「木の文化」を正当に評価できない恐れがあった。
 姫路城・法隆寺の推薦・登録は、その再検討の必要性を世界遺産委員会に認識させることになり、「オーセンティシティに関する奈良ドキュメント」の採択に繋がった。これによりアジア、アフリカの木造建造物の文化遺産登録の道が開かれたとされる。



 名城には伝説がつきまとう。姫路城にもいくつかの伝説がある。その伝説にヒントを得て、小説を書いた作家もいる。
 泉鏡花は1917年に『天守物語』を出した。天守の中に秘められた異世界の住人達と、切腹を命じられた末にその中に入り込んだ若侍の物語だという。
 吉川英治は1936年に『宮本武蔵』を出した。暴れん坊であった新免武蔵(しんめんたけぞう)は沢庵和尚の計らいにより、姫路城の天守内の一室に3年間幽閉され、ここで兵法書などの書物に接し教養を身につけた。成長した武蔵に池田輝政は「宮本武蔵」(みやもとむさし)の名を与えたとされる。小説での池田輝政との関わりは創作とされるが、藩主の本多忠刻とは関わりがあったとされる。

 伝説としては「宮本武蔵の妖怪退治」がある。 
 木下家定が城主であった時代のこと、姫路に立ち寄った宮本武蔵が名前を隠して足軽奉公をした。その頃、城に妖怪が出るといううわさが広まっていたが、武蔵が平気で夜の出番を勤めていたことが家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られた。
 木下家の客分にとりたてられた武蔵に、妖怪退治の命が下った。武蔵がある夜、灯ひとつを持って天守閣に登り、3階の階段にさしかかった時、すざましい炎が吹き降り、地震のような音と振動がした。武蔵が腰の太刀に手をかけると、辺りはまた元の静けさに戻った。4階でもまた同じことがあったが、構わず天守を登り、明け方まで番をしていたところ、美しい姫が現れ「われこそは当城の守護神、刑部明神なり。その方がこよい参りしため、妖怪は恐れて退散したり。よって褒美にこの宝剣を取らす。」といって姿を消した。武蔵の前には白木の箱に入った郷義弘の名刀が残されていたという。


 城内の上山里丸と呼ばれる広場にある「お菊井戸」が、有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だといわれている。もとは釣瓶取(つるべとり)井戸と呼ばれていた。
 永正年間(1504〜1521)のこと、城主小寺則職の執権青山鉄山が城の乗っ取りを計画。これに気づいた忠臣の衣笠元信は、愛妾のお菊を青山家に女中として送り込み、陰謀を暴こうとした。
 しかし、努力のかいもなく、青山一家のクーデターは成功。それでもお菊は青山家に残り、龍野に逃れた元信に情報を送っていたが、ついに町坪弾四郎に気づかれてしまい、それを盾に結婚を迫られたが、お菊はどうしても首を縦に振らなかった。
 腹を立てた弾四郎は家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺して井戸に投げ込んだ。
 それからというもの毎夜、「1枚、2枚…」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになったという。
 その後、元信ら忠臣によって鉄山一味は滅ぼされ、お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内にあるお菊神社に祀られた。
 しかし、この話は永正年間(1504〜1521)のもので、現在の姫路城ができる以前のものだから、「お菊井戸」は間違いだとされる。


 姫路城とは直接関係ないが、野里の慶雲寺にお夏・清十郎の比翼塚があるそうだ。
 清十郎は室津の造り酒屋の息子で、何不自由もなく育った美青年だが、訳あって19歳の時、姫路本町の米問屋但馬屋に奉公に出る。いつしかそこの美しい娘・お夏と恋仲になった。しかし、2人の恋は許されず、思い余って駆け落ちしたが、捕えられ、清十郎は盗みのぬれぎぬで、25歳の若さで処刑されてしまう。お夏は悲しみのあまり発狂し、清十郎の姿を求めて町をさまよい歩いた。
 この物語は、井原西鶴、近松門左衛門の小説や戯曲などで全国に広く知られるようになった。


 単なる伝説とは言えない話もある。
 築城後まもなく、城下に「お城が東南に傾いている」との噂が立った。奉行も噂を放置できなくなり、天主から下げ振りを降ろして測定したところ、実際に城が傾いていることが分かった。
 この事に責任を感じた棟梁の桜井源兵衛は、鑿をくわえて城から飛び降り自殺したという伝承がある。
 原因は軟弱な地盤の上に築城したため、礎石が構造物の重量で沈下したためであり、棟梁の桜井源兵衛の責任ではない。
 この伝承には、桜井源兵衛という名前まで出て来るのだが、史実にはそのような記述はなく、創られた話のようだ。こんな話が出来上がるほど、当初から地盤沈下が始まっていたようだ。最終的には工事前の調査で基礎部分が東南に44cm地盤沈下していることが判明している。


 姫路という地名からも分かるように、この地には姫神の祭祀があったようだ。しかし姫路城の伝説などから伝わる姫神の霊魂は十分に鎮魂されていないように感じる。姫神とセットで祀られていたと思われる男神を探ることにより、この姫神の姿が見えてくるように思われる。
 人間には男と女がいる。そして全ての人に父と母がいる。歴史が人間ドラマであるのなら、それは男と女のドラマでもある。日本で神を人格神として祀るようになった頃から、各地で男神と女神が祀られるようになり、それは地方豪族の祖神にも重なる形で祀られたのであろう。男神の陰には必ず女神がいるし、女神の陰には必ず男神がいる。どちらかがメインであったとしても、陰のセットである異性神を探ることにより、何らかの信仰の格が見えてくるような気がしてならない。



 姫路城の見学で、国宝の城は残すところ松江城だけとなった。
 現存12天守は、弘前城、松本城、丸岡城(福井県坂井市)、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城(岡山県高梁市)、丸亀城(香川県丸亀市)、松山城、宇和島城、高知城である。
 まだまとめていない城もあるが、現時点で訪問していない城は、丸岡城、備中松山城、丸亀城、松山城、高知城だけとなった。2016年の秋には四国の一部を旅したが、この時は城を訪れる予定はなかったので、宇和島城しか見学しなかったが、今度四国を訪れたら丸亀城、松山城、高知城を見学しようと考えている。
 現存12天守の全てを廻ったら、城のリンクページを作ろうかと思う。一の宮巡りよりも、こちらの方が早く終わりそうである。

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