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zoom RSS 旅 715 射楯兵主神社(1)

<<   作成日時 : 2017/11/10 07:00   >>

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2017年8月19日
射楯兵主神社(1)

 射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)は、姫路市総社本町にある神社で播磨国総社とされ、式内小社、県社であった。播磨地域では濁らずに「そうしゃ」、「そうしゃさん」と呼ばれる。当社の鎮座地も姫路城の中曲輪内だという。

 駅東大路に朱塗りの立派な総社御門があり、こちらが正面参道かと思って入ったが違っていた。こちらは西参道だという。
 事前の下調べをしていないので何も知らずに参拝し、結果として半分の境内社を見落としてしまた。
 道路マップだけで地理不案内で行ったため駐車場の場所も分からず、近くの郵便局の駐車場を拝借したため、時間を気にしてゆっくり参拝できる状態ではなかった。帰りに郵便局のATMを利用した。
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 この総社御門は2006年11月に再建されたものだという。
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 総社御門から入って、内側からも写真を撮った。
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 こちらが正面参道ではないことが分かったので、境内を通って正面へ回った。正面には神門があった。
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 拝殿には2つ階段があり、扉も2つあった。東殿が 射楯大神(五十猛命)で、西殿が 兵主大神(大己貴命)とされる。
 当社は、「式内社 播磨國餝磨郡 射楯兵主神社二座」の論社とされるので、祭神は射楯大神と兵主大神であることは間違いないだろうが、私には射楯大神が五十猛命であり、兵主大神が大己貴命であるとすんなり入ってこない。

 東殿と西殿の間には本来中央殿があり、この中央殿は空殿なのだという。中央殿が空殿であることや神饌を献ずる際に西殿(兵主大神)から行うなどの特色があるそうだ。

 空殿である中央殿は何のためにあり、どう使われているのだろう。
霜月例大祭は11月13日〜16日に行われ、姫路祭とも呼ばれる。播磨国総社となった11月15日を祝って行われる神幸祭で神輿が巡幸する。
 普段は中央殿は空殿となっているが、例大祭のときのみ、本殿大床中央に神籬を儲け、九所御霊神を祀る。この9柱の神はいったいどんな神々なのであろう。
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 本殿は二間社流れ造であるから、2柱(射楯大神・兵主大神)が祀られていることが分かる。
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 本殿の東側には、琴平社(大物主神)、鹿島社(健御雷之神)、神明社(伊勢両宮)、戸隠社(手力雄神)、総社稲荷神社、案内社八幡宮(猿田彦神、誉田別神)、粟島社(少彦名神)、長壁神社(姫路刑部神、富姫神)、姫道天神社(菅原道真公)、厳島社(市杵島姫命)、祖霊社(児嶋範長朝臣ほか)があったが、時間が気になり鹿島社の写真を撮っただけで境内をくまなく回ることはしなかった。
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 境内摂末社で面白いのは、猿田彦神と誉田別神を祀るので案内社八幡宮と称したり、総社稲荷神社には千早稲荷神社・藤井稲荷神社・白長稲荷神社の3社が祀られていたりして、如何にも総社らしいと感じる。姫路城の天守に祀られていた長壁神社(姫路刑部神、富姫神)が鎮座しているのも印象的である。


 本殿の真後ろに、十二社合殿があり、その左右に西播総神殿と東播総神殿があった。西播総神殿と東播総神殿には『播磨国内神名帳』所載 播磨国16郡174座が祀られている。さすがに総社である。
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 播磨国の神々を西播総神殿と東播総神殿と分けて祀っているのが面白い。ここ姫路は西播に属する。
 播磨の西部、市川流域から岡山県境までの地域を“西播”と呼ぶ。これに対して播州平野の東部を占める印南野の台地と加古川の中流域に発達した西脇・小野・三木・加西などを合わせた地域を“東播”と呼ぶ。
 東播には大きな川として加古川が南流するが、西播には市川、揖保川、千種川が南流し、それぞれの流域に地域色豊かな文化を育て上げた。
 東播が畿内に接して早くから大和の勢力の影響を受けたのに対して、西播は4世紀頃まではむしろ吉備地方(岡山県)との関係が深く、そのうえ山陽道や瀬戸内を通じて流入する大陸文化の影響を強く受けて、その名残が海岸沿いの地域に残されているという。


 本殿の真後ろにある十二社合殿に祀られているのは、
一ノ宮(兵主神荒魂)
二ノ宮(射楯神荒魂)
日岡社(天之伊佐々比古命)
角社(級長津彦命、級長津姫命)
手置帆負社(手置帆負神)
彦狭知社(彦狭知神)
秋葉社(迦具槌神)
羽黒社(倉稲魂神)
道祖社(岐神)
鞍屋社(保食神)
柿本社(柿本人麻呂朝臣)
東照宮(徳川家康公)
 である。
 一ノ宮として兵主神荒魂、二ノ宮として射楯神荒魂を祀るということは、本殿に祀られているのは和魂ということになるのだろう。

 人間には2面性がある。私にも裏と表がある。人は本音だけで生きられる訳ではなく、建前(表)だけでも息苦しい。神が名前を持った人格神として祀られる時、人間同様に2面性を持つのは当然であり、日本の神には善の部分と悪の部分があったであろう。それを荒魂と和魂と分けたとしても不思議はない。荒魂が悪いわけではない。戦う時などは荒魂に祈る。
 しかし、最近私は古代の人々は神の2面性を、荒魂と和魂に分けて祀るということはなかったのではないかと考えるようになった。人々は神を敬い、神を恐れながらも一体のものとして祀っていたのではなかろうか。
 私は神を荒魂と和魂に分けて祀るようになったのは、かなり新しい時代になってからではないかと考えるようになった。それは神話が創られた7世紀の後半頃からではないだろうか。

 どんなに好きな人でも、どこかに嫌いな部分はあるはずだ。それは我が子に対してもある。嫌いな部分も含めて、その人(その子)を愛してあげるのが真の愛情であろう。
 神も自分にとって都合がいい部分だけを信じるのではなく、逆に作用すると害を及ぼすような大いなる力そのものを信じて畏敬することが、古代人の信仰だったのではないだろうか。古代人は神を切り分けて信仰するようなことはなかったと考える。

 荒魂と和魂に分けて祀るメリットは何か。いろいろ考えられる。もし神の良い部分(善)だけを抽出して祀ることができたら理想的な神を創造できる。そして神の悪い部分だけを抽出して封じ込めることができれは災疫や祟りから免れることができるかもしれない。

 古代になるほど、それぞれの氏族が独自で自分たちの神を祀っていたことは想像に難くない。氏族同士が敵対した場合、それぞれの祀る神も敵対して戦う。その意味では太平洋戦争は一神教の神イエス・キリスト対国家神道の奉じる神々との戦いであったのかもしれない。そして神国・日本は負けた。多くの日本人は神を信じなくなったが、国家神道からは解放された。
 
 私は神を荒魂と和魂に分けて祀るメリットの一つに、荒魂として祀ることにより敵対する氏族や被支配氏族の神を貶める効果があったのではないかと考えるようになった。更に滅ぼした氏族の神を鎮めるとき、荒魂を分けて祀ることにより祟りを封じ込める効果があったのかもしれない。
 和魂が表に祀られる傾向があるのに対して荒魂は陰で祀られる傾向がある。アマテラスにも荒魂があり、内宮では荒祭宮で祀られている。
 この荒祭宮の祭神を、『延喜式』では、「荒祭宮一座 大神の荒魂」と記載されているが、『中臣祓訓解』『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は荒祭宮祭神の別名として瀬織津姫、八十禍津日神を記していることが注目される。

 荒魂が別に祀られる射楯大神と兵主大神が、そのまますんなり射楯大神=五十猛命、兵主大神=大己貴命として私には入ってこない。何か隠された秘密があり、その秘密は臨時に祀られる中央殿(通常は空殿)に隠されているようにも感じる。

 五十猛神(イソタケル)は、日本神話に登場する神で「イタケル」とも読まれる。『日本書紀』『先代旧事本紀』に登場するが、『古事記』に登場する大屋毘古神(オホヤビコ)も同一神とされる。『先代旧事本紀』分注に「亦云 大屋彦神」とあることも、五十猛神=大屋毘古神(古事記)と考えられる根拠となっている。
 『古事記』では大穴牟遅神(オオナムジ、後の大国主)が、木国(紀伊国)の大屋毘古神(五十猛神)の元に逃げ込んだ記事が載る。
 五十猛神は須佐之男命(スサノオ)の子で、一緒に西日本に木種を配った大屋津姫と抓津姫は妹とされる。
 『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述から、五十猛神は林業の神として信仰されている。紀伊国(かつては「木の国」と言った)は古来より林業の盛んな地であったので、それらの人々が信仰していた神と考えられる。
 また、土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として信仰され、商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の神徳もある。
 スサノオと共に新羅から渡った神であることから、イザナギ・イザナミの子である大屋毘古神とは別神とされるが、同一神とされることもある。スサノオはアマテラス、ツクヨミ等と共にイザナギの禊ぎにより生まれた神なので、何れにしてもスサノオと大屋毘古神とは深い関係がありそうだ。
 私は、イザナギ・イザナミの子である大屋毘古神が禍津日神と同一神とされることに注目している。



 市指定文化財の銅鐘があった。
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現地説明板より
『 播磨国総社 銅鐘 (昭和43年3月13日指定)
総高 115.6cm  口径68.8cm  口縁部の厚み8.0cm
 鐘身は張りのある曲率をもち、全体的によく整った美しい形態の梵鐘である。
 永正3年(1506)置塩城主赤松義村(銘文では御館様)が大願主となり、両目代、名主、地下人が本願となって制作した。
 津田村の鋳物師(大工津田村内記石根丸・小工内記四郎左衛門)が制作した唯一の在銘鐘であり、播磨国総社に対する信仰のあり方を示すもので、貴重な文化財の一つである。
 鐘楼は昭和26年霜月に再建された。
 姫路市教育委員会  』 

 銅鐘は神仏習合時代の所産である。江戸時代までは寺と神社は共存共栄の関係にあった。神宮寺として般若院(般若寺)があり、また、播磨天台六山(書写山圓教寺・増位山随願寺・法華山一乗寺・八徳山八葉寺・妙徳山神積寺・蓬莱山普光寺)による大般若会が行われていたという。
 

 頂いたしおりから由緒を載せる。
『 由緒(神社の歴史)
 当社は、欽明天皇25年(564)6月11日に飾磨郡伊和里水尾山に兵主大神をお祀りしてから、1400年余りの歴史があります。
 また射楯大神は、奈良時代(700年代)より飾磨郡因達里にお祀りされていたことが『播磨国風土記』からうかがえます。
 「延喜式神名帳」に「射楯兵主神社二座」とあり、平安時代(800年代後半)には2柱の神さまが一緒に祀られていたようです。
 安徳天皇養和元年(1181)に、播磨国内大小明神174座の神々が祀られ、播磨国総鎮守の神社として信仰を集めました。 』

 飾磨郡伊和里(姫路市街地周辺)は、その名からも分かるように伊和族の平野部においての拠点であったようである。
 伊和族とは宍粟市一宮町須行名にある播磨国一宮「伊和神社」に伊和大神を祀る氏族である。
 射楯兵主神社で、兵主大神が大己貴命とされるのは、兵主大神が伊和大神であるとされたことからのようだ。出雲系であると考えられる伊和大神は大国主命(大己貴命)と同一視され、兵主大神も大国主命(大己貴命)であると考えられるようになったようだ。この旅では伊和神社も訪れる予定なので楽しみだ。

 もともと大国主は人の名ではない。その国の大神を大国主命と呼んだのであろう。出雲国にも大国主命がいたし、播磨国にも大国主命がいたのであろう。天津神に対して国津神の代表を大国主命と呼び、多くの大国主命を出雲の大国主命(大己貴命)に仮託して、その大己貴命に天孫に「国譲り」させることが、日本神話の最大の目的だったと考えられる。
 こうして倭国の大王(おおきみ)も日本国の天皇家も天孫であり、万世一系の神話が創られた。これは王権神授説同様、日本国を支配するのは天皇が相応しいという観念を構築し、幕末に天皇家と公家衆が復活する。
 幕末において記紀の神話に踊らされた国学者の軽薄さは薩長の倒幕に利用された。幕末に異国からの脅威にさらされた日本は変わる必要に迫られたのは確かだが、戊辰戦争という内戦で血を流さずとも意識の共有はできていたはずであり、維新後の主導権を握ろうとする薩長の横暴を押さえ、よりスムーズな移行は可能であった。事実、幕府の上層部や土佐の坂本龍馬などのグループはその道を模索していた。
 会議(話し合い)ではなく武力による革命という明治維新の成立は、その後の日本の形を決めた。日本が帝国主義を主張するのは必然であった。

 戦後、国家神道は解体されたように見えるが、皇祖神アマテラスが天津神の頂点として伊勢神宮に祀られ、国津神の代表者である大国主命(大己貴命)が出雲大社に祀られている構図は変わらない。私も含め多くの人々が知る知らずに関わらず、未だに神話の呪縛にとらわれている。その意味では記紀の神話とそれに続く歴史は、大いなる宗教書なのであろう。

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