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<<   作成日時 : 2017/11/10 07:37   >>

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2017年8月19日
射楯兵主神社(2)

 『播磨国風土記』飾磨郡因達里の条に“因達”の説明として、
「 因達と称ふは 息長帯比売命、韓国を平けむと欲ほして渡り坐しし時 御船前に御しし伊太代の神(射楯の神)此処に在す 故 神のみ名に因りて 里の名と為す 」
と記されていることから、古くから射楯の神が飾磨郡因達里(現姫路市新在家本町)に祀られていたらしい。
 また、『播磨国風土記』飾磨郡伊和里の条に「因達の神山」の名があり、八丈岩山とされているようだが、射楯神との関係ははっきりしないという。

 しおりから分かるように兵主大神は欽明天皇25年(564)6月11日に飾磨郡伊和里水尾山に祀られた。
 一説には兵主大神が伊和里に影向したのは564年だが、それを水尾山(姫路市山野井町)に祀ったのは藤原貞国で764年(天平宝字8年)とされる。

 延暦6年(787)に、坂上田村麻呂が兵主大神を国衙荘小野江の梛本(姫路市本町、現社殿地の北方約500m)に遷座したとされる。
 その後、「延喜式神名帳」に「射楯兵主神社二座」とあるので、遅くとも900年頃までには、射楯大神が合祀されたようだ。
 一説には射楯大神を合祀したのは寛平3年(891)だとされる。

 安徳天皇養和元年(1181)には、播磨国内16郡の大小明神174座の神々が祀られ、播磨国総鎮守の神社(総社)となり府中社と称した。
 総社は、国司が赴任するとその国の式内社など重要な神々に参拝する慣わしがあったものを、それを簡略化するために国衙の近くに神々を勧請して祀った神社である。今でも宍粟市一宮町須行名にある播磨国一宮「伊和神社」へ行くのは骨の折れることである。

 多くの総社は国司の負担を軽くするもので、総社そのものへの信仰はそれほど深いものではないが、播磨国の総社は元々播磨の重要神2柱を祀っていたものに、多くの神を勧請したものだから、特別な総社であったようだ。

 鎌倉時代には、府中惣社、国衙惣社、又は総社伊和大明神・軍八頭正一総社伊和大明神と称され、射楯兵主神社という名が表に出なくなったという。
 鎌倉時代の人々の認識では、総社に祀られているのは伊和大明神であったのだろう。

 1567年(永禄10年)、 黒田職隆(官兵衛の父)命により拝殿と御神門を修復した。この際、屋根が板葺きから瓦葺きに葺き替えられた。

 1581年(天正9年)、羽柴秀吉が姫路城を築城するのに伴い、現在地に遷座した。

 射楯兵主神社の名が復活するのは明治維新後で、国家神道により射楯大神は五十猛命、兵主大神は大己貴命と定められたようだ。

 .昭和20年、 戦災により社殿をはじめ、宝物等は烏有に帰し、境内は一時荒廃の極に達したという。
 昭和28年、昭和復興ともいうべき現在の社殿は元和9年の形式になぞられ再興された。


 伊勢神宮では20年ごとの式年遷宮で不要になった前の社殿の木材を、他の神社に下賜するが、神宝も新調される。古くなったとは言え、20年しか使用していないのでまだ十分使用に耐える。
 1975年(昭和50年)には、神宮の古くなった神宝5点が当社に譲渡されている。 また、2016年(平成28年)2月にも、伊勢神宮の内宮と外宮に納められ先年の遷宮で古くなった神宝のうち、革御靭・銅黒造の御太刀・梓御弓・御楯の4点が当社に譲渡された。
 このように射楯兵主神社と神宮の関係は深く、現在でも当社は神宮を頂点とする神社構成の枠組みの中での存在感が大きい。

 この総社は姫路城と共にあったように感じる。1581年(天正9年)、羽柴秀吉が姫路城を築城するのに伴い現在地に遷座したが、遷座前の梛本は現社殿地の北方約500mである。遷座後の当社の鎮座地も姫路城の中曲輪内だという。
 総社は官社であり、往古は庶民が気軽に参拝できる神社ではなかったのであろう。

 当社は、歴代の守護職・城主からも「家の氏宮」・「姫路城鎮護の社」として崇敬されてきた。
 1506年(永正3年)には、赤松義村が銅鐘(市重文)を寄進している。
 黒田家系譜によると豊臣秀吉より軍陣において旗を立てる許しを得た官兵衛は、父・職隆と相談し播磨国総社で7日間にわたり祈祷を行い父子共々、毎日参詣したという。
 江戸時代には、姫路藩主から「姫路城鎮座の社」として崇敬された。
 池田輝政は1607年(慶長12年)表参道入り口の中堀に架かる石造りの太鼓橋(鳥居先橋)を造営している。
 本田忠政は1624年(寛永元年)総社総神殿玉垣の造営をしている。
 榊原忠次は1652年(慶安5年)舞殿の再興や大鳥居(県重文)を寄進している。

 当社が庶民の神社となったのは姫路藩が無くなった明治以降であろう。そしてその時、射楯大神は五十猛命、兵主大神は大己貴命と定められ、国家神道に組み込まれた。もともと官社であったのだから自然な流れであったのだろう。
 しかし、歴代の姫路城主が城の鎮守と仰ぐのは、地主神をおいて考えられない。鎌倉時代の人々が認識していたように、歴代の城主は伊和大明神とその妻神、子神などを祀っていたのであろう。


 射楯大神と兵主大神について考えてみたい。恐らく先に祀られていたのは射楯大神であろう。

 射楯大神が祀られた飾磨郡因達里とは現在の姫路市新在家本町あたりだとされるが、ここは姫路城の北になる。この姫路市新在家本町の西には姫路市辻井があり、そこにある行矢射楯兵主神社も式内社・射楯兵主神社の論社の一つである。姫路市辻井には辻井遺跡があり縄文・弥生の遺跡だという。
 そして、兵主大神が祀られた水尾山(姫路市山野井町)は、姫路市辻井の南東の姫路城のすぐ西にある。

 一方、因達里を市川の近くだとする説がある。
 『播磨国風土記』飾磨郡因達里の条に“因達”の説明として、
「 因達と称ふは 息長帯比売命、韓国を平けむと欲ほして渡り坐しし時 御船前に御しし伊太代の神(射楯の神)此処に在す 故 神のみ名に因りて 里の名と為す 」
とあることから、伊太代の神(射楯の神)は海人族が祀る航海の安全を司る住吉系の神とし、市川の河口近くに祀られたとされる説である。射楯の神とは水軍の祀る斎楯の神のことだとも考えられる。

 また、市川の近くに姫路市飾磨区阿成があるが、市川の西岸には飾磨区阿成鹿古、飾磨区阿成渡場などがあり、“阿成(あなせ)”は市川の河口西岸にありそこそこ広い。
 この阿成を大和穴師の兵主神社の神戸の地と比定し、そこへ穴師坐兵主神社が勧請されたと考える郷土史家もいる。

 姫路市飾磨区阿成植木に鎮座する早川神社には兵主神として大己貴命が祀られている。
 ネット情報では、早川神社社頭の「早川神社並地名由来記」には次のようにあるという。
『 祭神 兵主神 別名 大己貴命
 当社は奈良県磯城郡大三輪町穴師鎮座の安師坐兵主神社の分霊を祀る。
『神抄格勅符第十巻神事諸家封戸 大同元年牒』神封部 穴師神 五十二戸 大和五戸 和泉八戸 播磨卅二戸
『日本紀畧』寛平三年(891)二月二十六日の條 奉授 播磨国正六位上安志神 従五位下
 和銅六年(713)の官命で編述の『播磨国風土記』飾磨郡安師の里の条に 安師里 土は中の中である 右、安師と称するのは、倭(の国)の穴无神の神戸として奉仕した。だから穴師とよぶ。
 往古この地には倭國の穴无神(兵主神)の神戸があったので、その分霊を祀り、又同国の「アナシ」の地名をとって「アナシ」と称し、安師、穴无、穴無等の文字をあてて古名を伝えて来たが、 寛延二年(1749)の頃「アナセ」と唱え阿成と記して今日に至っている。
 昭和三十七年五月誌  』

 早川神社の祭は、7月15日 夏季大祭、10月9日 秋季例祭 とされる。

 射楯神と兵主神に関係して出てきた地名を地図で探してみた。
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 『和漢三才図会』には、次のようにあるという。
「 總(総)社 飾磨郡姫路 侍町(姫路市総社本町)にある。 社領五十一石九斗
 祭神一座 大己貴命 額の銘にいう「軍八頭正一位 總社伊和大明神」。
 言い伝えによれば、欽明天皇二十五年(五六四)六月十一日始めて祭る。宍粟郡伊和大明神と同じ。 神主 社家九人〔社僧〕一寺
 毎年七月十五日祭。兵士らが集会して軍旅の威儀をする。天平宝字八年(七六四)異賊が襲来した。それで藤原貞国を遣わして追討させた。貞国が凱陣し賽幣して以来恒例とするか。 」

 国史には天平宝字8年(764)に異賊が襲来したことも、藤原貞国という人物の名も載らない。
 しかし、早川神社の夏季大祭が7月15日であり、一致することが気になる。


 時間のことばかり気になり、多くの境内社を見過ごしたが、境内の一等地にある恵美酒社・住吉神社はよく見た。
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 恵美酒社に祀られているのは蛭児神で、住吉神社に祀られているのは住吉三神と息長帯姫命だという。

 『播磨国風土記』飾磨郡因達里の条に“因達”の説明として、
「 因達と称ふは 息長帯比売命、韓国を平けむと欲ほして渡り坐しし時 御船前に御しし伊太代の神(射楯の神)此処に在す 故 神のみ名に因りて 里の名と為す 」
 と記されていて、古くから射楯の神が飾磨郡因達里に祀られていたということから、射楯の神を住吉神とする説があるが、神門を入ったすぐ左手の一等地に住吉神社が祀られていることは、少なくとも射楯の神と住吉神は何らかの関係がありそうである。

 また、恵美酒社に祀られている蛭児神は恵比寿神ともされる。
 霜月例大祭(11月13日〜16日)に次ぐ祭として、初えびす祭(1月14日〜16日)があるが、初えびす祭では何台もの宝恵駕籠に福娘が乗り担がれるという。この両社は一緒に祀られているが、海人族の祀る神である。
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 当社の特殊神事に、60年に1度の「一ツ山大祭」と、20年に1度の「三ツ山大祭」がある。
 戴いたしおりには次のようにある。
『 県指定重要無形民俗文化財  一ツ山大祭・三ツ山大祭
 一ツ山大祭は、平安中期に起きた藤原純友の乱を鎮定する為、天慶2年(939)に執り行われた「天神地祗祭」が始まりと伝えられています。
 一方、三ツ山大祭は、自然災害が起こったり病が流行した時、それを鎮めるため不定期に行われていました。
 天文2年(1533)播磨国守護職・赤松晴政により、20年に一度、行うように定められました。
 以来、「八難苦厄を祓い、国内が平和でみんなが幸せになりますようにと祈る祭」として、今日まで絶える事なく大切に受け継がれてきました。
置山神事
 神門の前に、高さ18m、直径10mの巨大な山を造ります。その山に、全国の神さまをお招きして執り行われる神事です。本殿の神さまが、お招きした神さまをおもてなしいたします。
 一般的には神事の山の形は時代と共に、置山から曳山(山鉾)、舁山(神輿・屋台)へと変化しています。
 しかし、当社は原初的な置山の形式を残す珍しい神事といえます。
五種神事
 「競馬・一ツ物・神子渡・弓鉾指・流鏑馬」の五種の神事のことです。
 この神事は平安時代末期から鎌倉時代にかけて民間信仰が儀礼化したもので、五種そろっているのは、全国的にもまれで、貴重な神事とされています。 』


 五種神事のうち流鏑馬と競馬は吉凶を占う神事で、神子渡、一ツ物、弓鉾指の者には依巫(よりまし)としての役割がある。このような神事は、近代以前には播磨地域の多くの神社で行われていたが、現在はあまり見られない。

 一ツ山大祭は丁卯祭(ていぼうさい)とも呼ばれる。坂上田村麻呂が山野井水尾山にあった兵主神を延暦6年丁卯の年に小野荘に遷したことに始まるという説もあるが、起源は明らかでない。記録としては1521年(大永元年)辛己に赤松政村が8月卯日に一ツ山を施行した次第が記され、いつの頃からか61年目の丁卯の日から晴天7日間執行するのを慣わしとするようになったらしい。
 古くから、神は山やその山頂の岩や樹木を依り代として降臨すると考えられていた。それに倣って、高さ18m直径10mで5色(青・黄・赤・白・紫)の布を巻いた「五色山」と呼ばれる置山を造り、注連縄を張り、作り物を付けて、その最上部に山上殿を設け、それを依り代として神の降臨を仰ぐのが一ツ山大祭である。神門の上に設けた門上殿へ射楯神と兵主神を移し、神門前の置山に天神地祇の降臨を祈る。
 「五色山」の五色は、道教や儒教の影響から出たものとも考えられる。因みに道教の五色は紫のところが黒である。

 三ツ山大祭(臨時祭)は、一ツ山大祭の臨時祭で20年に1度斎行される。三ツ山大祭では、五色山(中山)に加え、その東側に二色山(東山)、西側に小袖を飾った小袖山(西山)が並び、一ツ山と同じように、3つの置山に神の降臨を仰ぐ。
 2013年(平成25年)に行われた第22回三ツ山大祭では、横綱の白鵬が土俵入りを奉納したそうだ。また、姫路に縁のある物語を人形などで表現した「造り物」が60年振りに復活し神社周辺に10基設置された。この「造り物」を巡るスタンプラリーも開催されたという。
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 宍粟市一宮町にある播磨国一宮「伊和神社」においても一つ山祭と三つ山祭が斎行されている。こちらは三つ山が61年に1度、一つ山が21年に1度、伊和神社を囲む白倉山・花咲山・高畑山(三ツ山)、宮山(一ツ山)という実際の山において行われる。
 総社(射楯兵主神社)の一ツ山と三ツ山はそれらを象ったものであるという伝承があり、この辺りからも両社の関係が伺える。


 射楯大神は五十猛命とされるが、住吉神の影がちらつく。兵主大神は大己貴命とされるが、はたしてそうであろうか。

 兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたとも言われる。山東半島の近くの琅邪(ろうや)に道教の八神が祀られ、山東半島の導士たちの信仰の対象であったという。
 その八神は次のような神である。
天主は天の神
地主は地の神
兵主は武器の神
陰主は陰を知る神
陽主は陽を知る神
月主は月の神
日主は太陽の神
四時主は四季の神
 とされた。

 道教では兵主は武器の神で、蚩尤(シユウ)という名を持っていた。道教では剣に宗教的な意味をもたせ、剣の初めは蚩尤によるとの伝承がある。
 風を支配した蚩尤は、また、ふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物だという。

 蚩尤は日本の金山彦神や天目一箇神のような製鉄・鍛冶の神なのであろう。

 この秦氏によって日本に持ち込まれたともされる兵主神・蚩尤は、大国主命(大己貴命)の別称になり得るのであろうか。大国主命(大己貴命)は多くの別称を持つ。その中の一つに八千矛(やちほこ)神があるので、あるいはそうかもしれないが、私は兵主神や八千矛神の別称はスサノオや天日槍に相応しいように感じる。

 大国主の別称に伊和大神があり、『播磨国風土記』での呼称とされ、『播磨国風土記』では、伊和大神(大国主)と天日槍が土地を争う話があるので、あるいは伊和大神=兵主神と考えることはできるのかもしれない。

 何れにしても県の名が兵庫県なのだから、「兵」と関係のある神たちが跋扈した土地であり、その神たちは大和政権の成立にも関与した神々だったのかもしれない。

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