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<<   作成日時 : 2017/12/30 01:17   >>

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2012年 4月26日(木)
気比神宮(2)

 当社の摂社の中でも注目される式内社・角鹿(つぬが)神社について記す。
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 角鹿(つぬが)神社は、『延喜式神名帳』に小社として記載されていて、「敦賀」の地名発祥の神社とされている。古く政所(まんどころ)神社とも称し、また正安3年(1301年)までは境内の表口であったことから門神(かどがみ)とも称されていた。
 祭神は都怒我阿羅斯等命。天保10年(1839年)に松尾大神を合祀。
 なお、『大日本史』や『神祇志料』、大正4年の『敦賀郡誌』は、祭神は都怒我阿羅斯等命ではないとし、『国造本紀』に載せる角鹿国造の祖先、建功狭日(たけいささひ)命を充てている。

 『気比宮社記』によれば、崇神天皇の御代に都怒我阿羅斯等命が、この地に到来して朝廷に貢ぎ物をしたのを賞せられて「角鹿国の政所」とされたので、後世これを崇めて祠を建てたという。この神社の祭祀は祭神の後裔とされる角鹿姓神職が預かる定めで、江戸時代以降明治初年までは島家が担当した。
 明治10年、摂社 の筆頭に定められた。『越前国内神名帳』に「正四位 敦賀神」と記されている。社殿は嘉永4年(1851年)の改築にかかるもので、当宮における昭和の戦災を免れた唯一の建物である。本殿はしっかり覆いでガードされていた。殿内に宝物獅子頭を安置する。酒造家の信仰が篤い。

 『日本書紀』垂仁天皇の条には、意富加羅国(金官伽耶)の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が、当地、笥飯(けひ)の浦に到着し、角鹿と名づけたとある。都怒我阿羅斯等は、白石から生れた姫神を追って日本へ来たともあり、その姫神は、比売語曽社に祀られている。
 『古事記』・応神記では、天之日矛(天日槍)が、阿加流比売という赤玉から生まれた姫を追って来たとあり、都怒我阿羅斯等は、天日槍と同一視されている。天日槍は新羅王子である。なぜ、伽耶と新羅という別の国から来た人物を重ねてしまうのかというと、まず第一に、伽耶は6世紀に滅亡して、隣国の新羅に吸収されてしまう。そこで伽耶と新羅は混同される例が多い。とにかく記紀には重複する話が多く、一つの出来事をいくつかに分けて、由来を古くする事に使われることが多いようだ
 ここで、玉妃命(神功皇后の妹)が、白玉の姫を追った都怒我阿羅斯等、赤玉の姫を追った天之日矛との関係を連想させる。社伝では、氣比大神が、この玉妃命に神懸り、神託によって、神功皇后が三韓平定を行ったとある。
 異説では、崇神天皇の御代、任那の王子の都怒我阿羅斯等気比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇、気比大神宮の司祭と当国の政治を委せらる。その政所の跡に此の命を祀ったのが当神社で現在の敦賀の地名はもと『角鹿』でこの命の御名に因るとある。


 都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来伝承をもう少し詳し見てみる。
 『日本書紀』の垂仁紀によると、
「御間城天皇の世に、額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越国の笥飯浦(けひのうら)に泊れり。故、其処を号けて角鹿(つぬが)と曰ふ。問ひて曰はく、『何の国の人ぞ』といふ。対へて曰さく、『意富加羅国(おほからのくに)の王(こきし)の子、名は都怒我阿羅斯等。亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と曰ふ。……」 とある。
 都怒我阿羅斯等という渡来人が、日本に聖皇がいますと聞いて帰化しようとやってきたとき、穴門の国(長門国の西南部)で、そこの国の王と称する伊都都比古(いつつひこ)と呼ばれる人から留まることをすすめられた。しかし、それを断って、島や浦を伝い、北海をめぐり笥飯の浦まで来た。ここで言う北海とは出雲の国の海岸一帯を指すとされる。

 『日本書紀』の継体紀にも任那王名に阿利斯等という名が見えるので、“阿羅斯等”は加羅人らしい名ではあることは言えるようだ。 
 阿羅斯等の阿羅は新羅の始祖王の閼知(あるち)と同語で、閼知は小童の形相で天界から降臨したと伝説される日の御子を意味する。斯等は韓人名の語尾に最も多く見出される語だという。
 更に、古代朝鮮では新羅や加羅の王子や貴族などには最高官位である角干という位号を冠するのが常であったとされる。この角干はスプルカンと呼ばれていたが、韓訓みが次第に忘れられて、日本訓みにされツヌガとなったと考えられる。
 しかし、新羅で角干という文字をつかったのはかなり新しく、だいたい新羅の統一前後で、日本では大化の改新の頃だと想定される。『日本書紀』では、都怒我阿羅斯等と書き、角干阿羅斯等と書かなかったのは賢明な選択だったと考えるが、意の中には角干への思いがあったのではなかろうか。それが“額に角有ひたる人”という表現になったが、もし角が生えていたのであれば、角のある鉄兜でも被っていたので珍しかったということになろう。都怒我阿羅斯等は、スプルカンアラシトであったのだろう。



 気比神宮の主祭神はどんな神なのだろう。氣比大神は別名・伊奢沙別命といい、また、御食津大神とも言われていることはすでに述べた。渡来人であることは想像に難くない。
 伊奢沙別命の名義は不明であるが、「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。
  本来は食物の神を祀る神社であったと思われるが、鎮座地前を都と北陸諸国を結ぶ北陸官道が通り、また敦賀が古来有数の津であったため、海陸交通の要衝を扼する神として崇敬された。特に朝廷は、日本海を通じた敦賀と大陸との交流から、大陸外交に関する祈願の対象として重視し、承和6年(839年)遣唐使帰還に際して当宮に安全を祈願したり(『続日本後紀』)、弘安4年(1281年)弘安の役に際して奉幣を行うなどの例がある。
 当宮が史上に姿を現すのは『日本書紀』神功皇后摂政13年条の、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事であるが、かなり古くから鎮座していたのは確かであり、『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は勅命により御妹玉姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神が玉姫命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。

 『古事記』仲哀記には、以下の記述がある。
『かれ、建内宿禰命、その太子を率いて、禊せむとして淡海また若狭国を経歴し時、高志の、前の角鹿に仮宮を造りて坐さしめき。ここに其地に坐す伊奢沙和気大神の命、夜の夢に見えて、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と云りたまひき。ここの言祷ぎて白さく、「恐し。命のまにまに易へ奉らむ」とまをしき。またその神詔りたまはく、「明日の旦、浜に幸すべし。名を易へし幣献らむ」とのりたまひき。かれ、その旦、浜に幸しし時、鼻毀れたる入鹿魚、既に一浦に依りき。ここに御子、神に白さしめて云りたまはく、「我に御食の魚を給ひき」とのりたまひき。かれ、またその御名を称へて御食津大神と号けき。かれ、今に気比大神と謂ふ。またその入鹿魚の鼻の血臭かりき。かれ、その浦を号けて血浦と謂ひき。今は都奴賀と謂ふ。』
 とある。要約すると
 『建内宿禰命が、太子(誉田別命、後の応神天皇)を連れて、禊に訪れた時。当地に坐した伊奢沙和気大神が、夜の夢に出現し、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と告げた。さらに、「明日の旦、浜に幸すべし。名を易へし幣献らむ」。翌朝、浜へ行くと、鼻の傷ついたイルカが浦いっぱいに集っていた。これを見て太子は、「我に御食の魚を給ひき」、つまり、神が太子のために、食料の魚を下さったと感激した。そして、その神の名を称えて、御食津大神と名づけ、それが気比大神である。鼻の傷ついたイルカによって、浦が血で臭かったので、その浦を「血浦」と呼び、角鹿(つぬが)となった。』

 名前の交換の話や御食の献上は、服属儀礼とされる。珍しく二重の儀礼譚となっている。氣比大神は、海人族による朝廷への服従のシンボル、特に海の幸の献上から食物の神霊を祀った神であったものが、海人族を通して半島との交流が盛んになると、半島神へとその性格を変えていったと見ることもできるだろう。
 『日本書紀』によれば神功皇后が九州へ赴く前に当地に滞在していたことになっている。その御子(譽田別太子・後の応神天皇)がわざわざ服属儀礼をさせる為に赴くのはいささか不思議なことに思える。ましてや敦賀は神功皇后の祖先とされる天日槍命と同体とされる都怒我阿羅斯等命の子孫が統治する地とされ、また都怒我阿羅斯等命を祀る摂社もあり、伊奢沙別神そのものが天日槍命のこととも云われる程親密な関係にある。何故、敦賀の神が二重の服属儀礼を行ったのであろうか。

 先の『古事記』の引用に『かれ、建内宿禰命、その太子を率いて、禊せむとして淡海また若狭国を経歴し時、……』とあり、目的は「禊」にあるのではないか。「禊」 は何故計画されたのであろうか。
『古事記』においての「禊」の話は三ヶ所に出てくるという。それは、「伊邪那伎が黄泉の国から還った際」「水歯別命が曽婆訶理に墨江中王を殺させた際、曽婆訶理を殺す口実として」と、この「建内宿禰命が譽田別太子率いて、禊せむ」である。前の二例は「禊」を行う理由は理解できる。しかし、譽田別太子が禊をしなければならなかった理由は何だろうか。

 ここで神功皇后勢が香坂王、忍熊王を討伐したことが思い浮かぶ。本来、皇統を嗣ぐ地位にあった両王を倒しての新王朝であり、それ故の禊ではなかったろうか。両王は仲哀天皇が大中津比売命を娶って生まれた皇子達であると云うことになっている。一方、譽田別太子は仲哀天皇と神功皇后との間に生まれた御子と云うことになっている。大中津比売命は景行天皇の孫にあたるが、神功皇后は父方の5代前に開化天皇がいるにすぎない。神功皇后は皇統の血を受け継ぐ意味では、大中津比売命とは比較にならない。そして、譽田別太子は仲哀天皇の御子ではないことは、かなりの確率で正しい。つまり応神朝は簒奪王朝であったので、禊ぎを行ったのではないか。気比大神が二重に服属したのは、気比大神が子孫に大いに祝福をあたえ、日本海側とそれにつながる朝鮮半島の勢力をバックにした王朝を称えたのではないかと考える。

 忍熊王を祀る神社は二座確認できる。一つは吉備国、岡山県和気郡和気町にある由加神社に忍熊王命碑。もう一つは昨日訪れた、越前国、福井県丹生郡織田町にある劒神社で主祭神・素盞嗚大神 、配祀として氣比大神と忍熊王が祀られている。
 劒神社には氣比大神と忍熊王が並祀されている。一緒に祀られる神はたいがい親しい関係の神が多い。ここでは氣比大神は仲哀天皇に比定されているようだが、寧ろ氣比大神と忍熊王を一緒に祀って祟りを封じ込めているという見方の方がしっくりいく。
  ( 関連記事 旅85 剣神社 )

 吉備国(備前国)にも忍熊王命碑が残っているのは、応神新王権の擁立に吉備国の勢力も関与したことを示すものだろう。九社ノ宮のうちの一つ擬領(おおみやつこ)神社は、稚武彦命を祀る。稚武彦命は、『国造本紀』によると吉備臣の祖で、角鹿国造の祖先建功狭日命の祖父であるという。吉備と気比との関連が注目される所である。

 調べているともう一つ気になる寺が出てきた。花山法皇が整備した西国三十三ケ所巡礼の二十四番札所の中山寺である。西国三十三ケ所巡りはいつか行きたいと考えているものだ。中山寺は兵庫県宝塚市にある。花山法王は道順により観音巡礼を整備したので、中山寺は24番札所になっているが、大和長谷寺を開いた徳道上人が観音巡礼を始めたときには、第一番の札所とされた寺だ。聖徳太子が建てた寺で十一面観音が祀られている。そして、この寺に忍熊王と母の大中津姫が祀られている。境内には横穴式古墳があり、大中津姫の墓だと伝わっている。こんな伝説が伝わっている。皇位をめぐって神功皇后勢と戦い敗れた忍熊王は、宇治川の瀬に身を沈めたが、難波浦に流れ、その霊魂が祟りをなして村人を悩ませた。それを耳にした応神は使者を遣わし、忍熊王の棺を母の傍らに納め祭祀したという。そしてその場所に聖徳太子は自らが滅ぼした物部守屋を鎮魂するために中山寺を建てた。つまり、忍熊王と物部氏は何らかの関係があると考えてよい。

 剣神社の伝承にあるように、忍熊王が北陸で賊を討伐するとき、座ヶ岳で伊部臣という者から神剣を受けられた。この神剣は伊部臣という人が和泉国鳥取川上宮で造られた千口の劔の一口を戴き御霊代として祀り、「劔の大神」と称えられてきた剣だ。この剣を作ったのは五十瓊敷入彦という人で景行天皇の兄である。忍熊王の母の大中津比売命は景行天皇の孫にあたる。

 五十瓊敷入彦が鳥取川上宮で剣一千口を作って石上神社に奉納したことは記紀に記されている。石上神社といえば十代崇神天皇の勅によって、物部氏の伊香色雄がスサノオゆかりの布都御魂剣と饒速日ゆかりの十種神宝を納めて建てた社で、代々物部氏が神官として管理してきた神社だ。その剣の一口を預かって祀った伊部臣は当然物部氏ゆかりの者だろう。そして、忍熊王も物部氏とのゆかりを持っていたからこそ伊部臣が協力したのだろう。
 
 スサノオ、饒速日、物部氏、忍熊王が集う剣神社の神官の出だという織田信長が、旧権力や秩序を打ち壊し新たな覇王になろうとしたことは、彼のDNAの中に燃えるような復活を望む魂が隠れていたのかもしれない。本能寺で討たれなければ、日本の歴史は変わっていたかもしれない。神になろうとした彼のことだ、天皇制も否定されていたかもしれない。権威や家柄などを無視し実力本位の主君のもとだから秀吉も活躍できた。もう少し長く、魔王信長が歴史を主導していれば、日本の国は鎖国という長い眠りにつくことはなかったと考えるのは私だけではないだろう。

 剣神社の国宝に指定されている梵鐘は、光仁天皇がまだ白壁王の頃、弓削道鏡の野望を砕くため大願を掛け、成就の御礼として奉納したものだ。剣神社を訪れたときは、なぜこの北陸の神社に大願を掛けたのか不思議だったが、謎が解けた気がする。最近の説では道鏡自身が積極的に皇位を望んだ証拠は見いだせないとされている。しかし、弓削道鏡は物部氏に繋がる者であることは事実だ。白壁王(光仁天皇)が恐れたのは、物部に繋がる勢力の復活だったのではないか。称徳天皇で天武系の血統が断たれるこの時期、眠っていた勢力の復権が起きても不思議はない。白壁王(光仁天皇)の大願は「物部に繋がる者たちよ、もうしばらく静かに眠っていて下さい。」だったのではないか。

 いろいろな伝承により、主祭神・氣比大神に関しては、仲哀天皇説や、都怒我阿羅斯等説、さらに天日槍説などの異説がある。祭神を天日槍と考えると、但馬國一宮・出石神社との関連が考えられる。ともに日本海側の大社であり朝鮮半島に関係がある。神紋も同じだという。
 もう一つ私が気になったことは、神功皇后と住吉神のことだ。神功皇后は摂津國一之宮住吉大社の御祭神(第四本宮)としても有名だ。摂津国の住吉神社の宮司は歴代津守氏を名のっている。『続日本後紀』承和六年(839)8月20日条に、「摂津国の住吉神と越前国の気比神に幣帛を奉って船舶(遣唐使船)の帰着を祈る」とあり、両神とも要津の航海神として祀られていたという共通点をもっていることから、「津守」はおそらく敦賀津の管理・管掌を意味し、気比神宮が敦賀津の実権を握っていたと考えてよい。気比社は古代、九州の太宰府に比肩する役割を担っていたとも考えられる。

 垣の東側は駐車場になっていて、その端に大神下前社・兒ノ宮・角鹿社の三社が並んでいる。そして小学校と接する場所には「土公」があった。
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 碑には次のように彫られていた。
 『気比神宮境内北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触れるべからず、畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが、嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている現「土公」は気比之大神降臨の地であり、傳教大師・弘法大師がここに祭壇を設け7日7夜の大業を修した所とも伝えられる。「土公」は陰陽道の土公神の異称で、春は竈に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ、其の期間は其所の普請等を忌む習慣があったが、此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた。戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の巳む無きに至ったが、土公と参道はかろうじてそのままの形で残された。大宝2年(702)造営以前の気比宮は此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた。此の聖地を通して気比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遙拝設備が立派に完成されるに至った次第である』

 鳥居の向こうの敦賀北小学校の校庭の隅に天筒山(祭神の霊跡・171m)の遥拝所とされている土公がある。土公は周囲に卵形の石を八角形に並べた墳形の人工小丘で主祭神降臨の聖地とされるが、他に古殿地であるとか古墳であるとの説もあり、更に最澄と空海が祭壇を築いて祈祷した古跡であるとの伝えもあることから経塚ではないかとの説もある。
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 海人は夜の航海では星を道標にする。また、海上からは目立つ山が道標になる。“天筒”とは、海神が降臨する場所の名としては相応しい名であると思った。
 「土公」で思いついたのが伊勢神宮内宮のことだ。鎮座地を求めて大和を出た「天照大神」は伊勢の五十鈴川上に落ち着くまで、50年余り各地をさまよった。最終的に天照大神に五十鈴川上を提供したのは宇治大内人を務める宇治土公の遠祖、太田という人だった。この宇治土公(うじのつちぎみ・うじとこ)は猿田彦の子孫である。境内摂社に猿田彦神社があることと関係があるだろう。記紀の中では道化役に貶められている猿田彦。しかし、猿田彦は古代史のキーパーソンなのかもしれない。

 気比神宮を見学していたら登校の時刻になっていた。敦賀北小学校は公立の小学校だが制服があり、集団登校をしていた。東京や神奈川などの公立の小学校では制服を着用しているところは少ないが、地方の小学校では制服があるところが意外に多い。登校中の小中学生が見知らぬ私にも挨拶をしてくれることがあるが、それは旅の喜びの一つだ。

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 1689(元禄2)年8月14日、芭蕉は等哉を同道して木の芽峠から敦賀に入り、出雲屋という旅宿に泊まり気比神宮、海路色ケ浜本隆寺を訪れたという。敦賀で詠んだ俳句には、
「月清し 遊行の持てる 砂の上」
「名月や 北国日和 定めなき」
「寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋」
「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」 などがある。

 承安3年(1301)時宗2代目遊行上人他阿真教が敦賀に滞在中、気比社の西門前参道は沼地(東の入り江)にあり、参拝者が難儀していた。それをを知った上人は、自ら浜から砂を運び改修した。元禄2年松尾芭蕉は、「月清し 遊行のもてる 砂の上」と詠んだ。
 遊行上人の「お砂持ち神事」は、法灯を継ぐ清浄光寺により現代も続けられているという。  

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 敦賀の地は往古より良質の水が豊富に湧き出ていて、中でも気比神宮の神域はその水脈の中心であるという。江戸時代初期には日本庭園歴覧にも記された名池があったという。

 霊亀元年(715年)、藤原武智麻呂が夢告によって気比神宮寺を建立して、早くから神仏習合が行われていた。平安期から鎌倉期において気比社は隆盛をなし、その封戸社領は気比庄をはじめ越前、加賀、能登。越中、越後に及んだという。

 南北朝争乱期、大宮司気比氏治や社家は後醍醐天皇の南朝方に参加し、延元元年(1336)恒良・尊良両親王を奉じ金ヶ崎城を築いて奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は滅ぜられた。それでも、なお、二十四万石を所領できたという。

 戦国期、大宮司気比憲直(けひのりなお)が越前朝倉氏についた。元亀元年(1570年)織田信長の越前攻略の際、神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し48家の祠官36坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。

 慶長19年(1614)福井藩祖・結城秀康が社殿を造営すると共に社家八家を復興し、社領百石を寄進した。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治39年国宝に指定されたが戦災(昭和20年7月12日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。

 その後、昭和25年本殿の再建につづき、昭和37年拝殿、社務所の建設、九社の宮の復興を見た。昭和57年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行い、平成の御世に至って御大典記念氣比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至るという。

 有名で由緒が深い古社なので期待して行ったのだが、神さびていないのは昭和20年7月12日の空襲で全焼してしまったことが原因なのだろう。木々がまだ小さい。戦後、境内地が都市計画法に基づき、学校用地として譲渡されたことも影響しているのか重厚で霊妙なる神威を醸し出すには、いささか物足りない感じが否めない。

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