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zoom RSS 旅 734 修禅寺(2)

<<   作成日時 : 2018/01/02 18:32   >>

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2017年 11月2日
修禅寺(2)
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現地説明板より
『 修禅寺
 修善寺温泉発祥の寺で、平安初期の大同2年(807年)に弘法大師が開基したもので、当時は地名が桂谷と呼ばれていたことから「桂谷山寺」と言われ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほどの格式の高い寺であった。
 鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧)が住し、桂谷の風致が支那の廬山に似ていることから「肖廬山」と号した。
 南北朝時代の康安元年(1361年)畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1401年)には火災を蒙り、伽藍を全焼して寺は荒廃し衰退した。
 その後、延徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が再興し、叔父の隆渓繁紹(りゅうけいはんじょう)禅師が住して曹洞宗に開山され山号も「福地山」と改められ今日に至っている。 』

 説明文に「南北朝時代の康安元年(1361年)畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、……」とあるが、畠山国清が開基とされる国清寺が伊豆の国市奈古谷にある。

 修禅寺は静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院で、正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」である。 (宗教法人としての名称は「修禅寺」)
 『延喜式』には「伊豆国禅院一千束」と書かれる程の寺院であったが、その頃は「桂谷山寺」と呼ばれていたらしい。
 鎌倉時代より「修善寺」と呼ばれていたが、曹洞宗に改宗し「善」を「禅」に変更したとの説がある。
 しかし、蘭渓道隆が南宋の理宗から「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」という額を賜ったとも言われるので、鎌倉時代から「修禅寺」と呼ばれていたことも考えられる。臨済宗も曹洞宗も禅宗なので、修禅寺と呼ばれることに違和感はない。

 修禅寺の鎮座地は修善寺で紛らわしい。よく地名で○○寺というものがあるが、多くはそこにあった寺の名から付けられ、寺領であった場所であることが多い。修善寺の地名もおそらくそうであろう。
 私は修善寺の名の方が修禅寺よりも古いのではないかと考えている。その理由は後で述べる。
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現地掲示より
『 修禅寺縁起
 この寺の歴史は宗派的に、真言、臨済、曹洞の三つの区分にすることができます。
 創立は大同2年(807)で弘法大師とその弟子杲隣(こうりん)によって開かれた真言宗の寺で、当時はこの地一帯に密教寺院が建ち並び、東国の真言宗の拠点ともなった模様です。この時代の末期ともいうべき元久元年(1204)源頼家がこの地で殺害されています。
 本尊の大日如来像(重文)は、その母北条政子が頼家公の菩提のため、七回忌に当たる承元4年(1210)に実慶に造らせたことが、解体修理の際にわかりました。
 その後、寛元4年(1246)宋から渡来した蘭渓道隆禅師(鎌倉建長寺開山)が一時止住されたのが縁で宋の皇帝から勅額が下るほど修禅寺の名が中国に広がり、約二百四十年ほど臨済宗として栄えました。
 次は今の曹洞宗でありますが、いつの時代でも栄枯盛衰はつきもの、北条早雲が韮山城主になるや、戦禍によって見る影も無いほどに荒廃したこの寺の再興のため、自分の叔父に当たる隆渓繁紹(りゅうけいはんじょう)禅師を住職として招き、広大な土地を寺領として寄進されたので復興することができました。禅師が入山されたのが延徳元年(1489)ですから既に五百年を過ぎて今日に至っています。
 (注)昔は住した僧の宗旨で寺の宗旨が変わりました。
 大祭は毎年4月と8月、共に20日21日の両日(弘法忌)
 正式寺名 福地山修禅萬安禅寺 』

 建長年間(1249〜1255)に元の密偵と疑われた蘭渓道隆が避難のために来住し、それに伴って臨済宗に改宗された。蘭渓道隆は、南宋の理宗から「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」という額を賜り、大陸にまで修禅寺の名を広めたという。しかし、この寺額は文久3年(1863)の火災で焼失した。

 長野県上田市別所温泉にある安楽寺は国宝の八角三重塔があることで知られる。この寺の実質的な開山である樵谷惟仙は木曽源氏の出自といわれている。鎌倉時代の中期、宋に渡って修学し、寛元4年(1246)鎌倉建長寺開山・蘭渓道隆と同船帰朝して後、安楽寺を開いたとされる。蘭渓道隆と樵谷惟仙は手紙のやりとりなどして親しい間柄であったことが分かっている。蘭渓道隆は樵谷惟仙を介して善光寺とも多少の縁を持っていたようだ。

 修禅寺は、源頼朝の弟の源範頼と頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後この地で殺害されたとしても知られている。ある意味では河内源氏終焉に関わった寺である。もちろん鎌倉幕府を開いた源氏を3代で葬った黒幕は北条氏である。

 荒廃していた修禅寺は、延徳元年(1489年)に至り、韮山城主の伊勢新九郎長氏(北条早雲)により再興される。その際、伊勢新九郎長氏は叔父である隆渓繁紹を遠州の石雲院から招き、曹洞宗の寺院として再興させた。
 その後、小田原に進出した伊勢新九郎長氏の子孫が北条(後北条)を名告るのは興味深い。
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 現在の本堂は明治16年(1883)に再建したもので、平成19年(2007)の開創1200年祭のとき老朽化した本堂と大屋根の修復がされた。


 宝物館(瑞宝蔵)には岡本綺堂が新歌舞伎の傑作「修禅寺物語」を書くきっかけとなったという古面(頼家の仮面)などが展示されていることを知っていたが、拝観料まで出して見ようとは思わなかったので入館しなかった。

 岡本綺堂は修善寺温泉に滞在中、宿の主人と語り合っているうちにこの古面のことが話題になり拝観しようとしたが、火災を恐れて寺の倉庫にしまわれていたので容易に取り出すことができないからと、一度は拝観を断られたという。
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 岡本綺堂は、
「同じ仮面でも、これが頼朝の仮面では左のみの感じも起こりませんが、頼家のやうな悲劇中の人物、其人の形見かと思ふと一種悲哀の感が湧いて、悲劇の仮面を着けていたといふギリシャの神などが連想されます。で、其の仮面をつくづく見ていると、何だか頼家の暗い運命が其の面に刻み込まれて居る様に思われる。」と書いている。

 この「悲劇の仮面を着けていたといふギリシャの神などが連想されます。」とある“ギリシャの神”とは誰のことだろう。仮面とは関係ないが、私の頭にはギリシア神話の中のミダース王が浮かんだ。ミダース王はディオニューソスに触れるものすべてが黄金に変わるよう頼んだ王だ。食べ物まで黄金に変わり彼は飢えた。また、ミダース王は演奏技能についての試合の判定の公平さに疑問を唱え、アポローンによって耳をロバの耳に変えられた王で、童話『王様の耳はロバの耳』のモデルとしても有名だ。

 私も奥の院でメドゥーサのことを連想したが、湯の里「桂谷」には、神話の女神に繋がる霊界があり、密教により供養されているようにも感じられる。北条政子に関わりのある男たちの悲劇も、そのことと無縁ではないように思えてきた。
 修善寺や伊豆の温泉場で遊ぶ作家たちの感性は、その風土から何かを感じ取り、多くの名作を生んだのであろう。


 実は後から知ったのだが、平素は公開されていない本尊の大日如来(重要文化財)が、毎年11月1日からの10日間特別拝観期間として一般公開されるのだという。それを知っていれば入館したのだが残念なことをした。


 修禅寺の本尊の大日如来は木像で、高さ103cm、膝張り73cmのほぼ等身大で、ヒノキの寄木造り、目には水晶がはめ込まれ、漆箔が施してある。その作風や体型、表情などが運慶の手になる奈良円成寺の国宝大日如来坐像とよく似ていたことから、運慶一派の作と考えられていた。
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 昭和59年の解体修理の際、体内から『承元四年(1210)庚午八月二十八日 大仏師實慶作』と書かれた墨書が出てきた。また、錦の袋に入った髪束が発見され、NHKの『歴史ドキュメント 追跡・謎の黒髪 〜秘められた北条政子の素顔〜』で報道されて話題となった。
 その後、学術調査を経て、平成5年に国の重要文化財に指定された。

 実慶という名前は、寿永二年(1183)に記された国宝の「運慶願経」の第八巻結縁者の中に、快慶らと並んで記されており、慶派でも名の通った仏師とみられていたが、その作例は未発見で幻の仏師といわれていた。
 その後、静岡県田方郡函南町(かんなみちょう)桑原薬師堂の木造阿弥陀如来と両脇侍の胎内からも実慶の墨書が確認されたことから、東国で活躍した仏師であったことが想像される。



 修禅寺の後は、すぐ東にある日枝神社に行ってみた。途中で渡月橋の写真を撮った。
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 京都市にも桂川が流れるが、桂川は“月の川”でもあり、桂川に架かる橋の名に「渡月橋」があるのは有名である。
 そして、この修善寺の桂川にも渡月橋が架かるのは単なる偶然ではない。月神と水神はセットで語られることが多い。

 手紙文や挨拶で遣われる「幾久しく」とは「末永く」という意味であるが、ここで遣われる「久(ひさ)」は「寿(ひさ)」に通じ、長久・長寿を寿ぐ(ことほぐ・言祝ぐ)意味でもある。
 この「久」は和歌では「久方の」という形をとり枕詞として遣われる。この枕詞は天や月や光に掛かる枕詞とされる。有名な歌に紀友則の、
 「 久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 」
 がある。
 この枕詞は『万葉集』で柿本人麻呂が詠み込んだのが先駆だとされる。
「ひさかたの天(あま)行く月を網に刺し 我が大王(おおきみ)はきぬがさにせり」
 ここでの大王は天武天皇のこととされる。
「ひさかたの天光る(あまてる)月の隠りなば 何になぞへて妹(いも)をしのはむ」

 こうしてみると「久方の」は元もと「天」と「月」に同時に掛かる枕詞であったのかもしれない。歌聖と言われる柿本人麻呂の歌は、歴史の闇を貫く。歴史から追われた大伴氏が残した『万葉集』は、ただの歌集ではない。 

 人麻呂は更に、
「 天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ 」と歌う。
 詠み人知らずの歌に、
「 天の海に 月の舟浮け 桂楫(かつらかぢ) 懸けて漕ぐみゆ 月人壮士(つきひとをとこ) 」 
 がある。恐らく人麻呂の歌であろう。
 ここで、桂と月が関係あることが分かる。

 古代においては日神と月神は対で祀られたようだ。それは男神と女神がセットで祀られたこととも関係する。
 私はこの桂谷に祀られていた月神・水神・滝神は瀬織津姫であったと想像する。

 それを推測させるのは修禅寺の山王社(鎮守)とされる日枝神社の存在である。
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現地説明板より
『 日枝神社
 日枝神社は修禅寺の鬼門に当たり、弘法大師の建立と言われている。明治元年(1868年)の神仏分離令により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社(鎮守)であった。毎年10月18日、19日には例祭が行われ、18日の前夜祭には御輿が練り歩き、威勢のよい掛け声が温泉場中に響き渡る。
 境内には夫婦杉の大木や、静岡県指定天然記念物の一位樫などがそびえ立っている。一位樫は九州地方に生育する木で伊豆では珍しい。
 また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)もある。 』

 短い参道の東側に信功院跡があった。
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現地説明板より
『 信功院跡
 修禅寺の八塔司の一つである信功院のあった所です。
 建久4年(1193)、源範頼は兄である頼朝の誤解により、この信功院に幽閉されました。翌年、梶原景時率いる五百騎の不意打ちにあい、範頼は防戦の末に自害したと言われています。
 信功院は後に庚申堂となり、今は文政元年(1818)建立の庚申塔が一基残っています。
 平成27年10月  伊豆市教育委員会  』
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 夫婦杉の大木も存在感があったが、携帯の電池が心配なので静岡県指定天然記念物の一位樫だけ写真に撮った。
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 この一位樫は根回り5.5m、目通り4.5m、樹高25mある。


 日枝神社にある神像は空海作と伝承される。しかし、山王社(日枝神社・日吉神社)は天台宗の寺の鎮守である。密教と言えば真言宗であるが、天台宗にも台密がある。

 私は修禅寺が真言宗から臨済宗や曹洞宗の禅寺になる前の一時期、短い期間だが天台宗の寺であった時期があるのではないかと想像する。それが“修善寺”だったのではないか。従って地名の「修善寺」の方が、寺名の「修禅寺」よりも古いと考える。当寺が天台宗であった名残が、日枝神社や地名の修善寺に現れているように感じるのだが。

 修禅寺は、「昔は住した僧の宗旨で寺の宗旨が変わりました。」として、蘭渓道隆が住して臨済宗に、隆渓繁紹が住して曹洞宗に変わったと説く。それならば、短い時期でも天台宗の僧が住して天台宗の修善寺であった可能性が否定できない。


 源頼朝と善光寺の縁は深く、それはその後の執権北条氏にも受け継がれた。
 『吾妻鏡』によると、源頼朝は、治承3年(1179)に焼けた善光寺を復興するため、文治3年(1187)7月27日、信濃国の目代(比企能員)や信濃国の御家人に再建を命じている。建久2年(1191)10月22日には、金堂の供養が行われたことが記されている。
 善光寺信仰は頼朝亡き後も北条氏に受け継がれ、善光寺信仰が広まるとともに善光寺如来の模刻が多く出回った。鎌倉円覚寺に伝わる善光寺式阿弥陀三尊像は、文永8年(1271)銘のあるものだという。 
 鎌倉時代には、東大寺再建の大勧進・俊乗坊重源、浄土真宗開祖の親鸞、時宗開祖の一遍なども善光寺を参詣している。 

 『吾妻鏡』建久6年(1195)8月2日の条には、頼朝が善光寺参詣を計画していたことが記されている。『吾妻鏡』は、建久8年(1197)から源頼朝の死までの2年余が欠落しているため、その後頼朝の善光寺参詣がどうなったかは『吾妻鏡』からは分からない。
 肥後国の人吉藩(ひとよしはん)の相良家に伝えられた相良家文書の『源頼朝善光寺参詣随兵日記』には、建久8年(1197)3月23日、九州の御家人であった相良四郎が随兵したことが記されているというので、頼朝の善光寺参詣はあったのかもしれない。
 私も信濃国のどこかの神社かの古文書で、頼朝が善光寺参詣の折りに地元の豪族が娘を同衾させ、頼朝がそのことを妻の政子に知られることを恐れたという内容の文を読んだ記憶がある。

 私は一時三浦郡葉山町に住んだことがあり、そこに新善光寺があり訪れたことがある。葉山町にある新善光寺はもとは鎌倉にあり、源頼朝が参詣した折に請来した善光寺如来を祀るため、名越朝時によって創建されたのを始まりとするのだという。
 名越朝時は、二代執権北条義時の子で、善光寺の再建を支援したことで知られている。 また、北条政子も女人救済の寺である善光寺参詣を望んでいたが、その前に亡くなってしまったと伝えられている。
 甲斐善光寺に伝えられている源頼朝像・源実朝像・熊谷直実像は、いずれも最古の彫像といわるもので、信濃善光寺から武田信玄が奪い去ったものである。
 また、前述したように蘭渓道隆も安楽寺の樵谷惟仙を介して善光寺との縁がある。安楽寺の近くには善光寺の別院と言われる北向観音があり、善光寺のみの参拝では「片参り」になってしまうと言われる。修禅寺の手水舎の水は温泉だったように記憶するが、別所温泉にある北向観音の手水舎の水は温泉だった。
 善光寺は宗派を問わない寺であるが、その管理は天台宗と浄土宗が行っている。

 ここで善光寺のことを長々と書いたのは、修善寺の「善」は善光寺に繋がっているのではないかと想像するからだ。私は鎌倉時代の最初期に桂谷に真言宗の「桂谷山寺」を引き継いだ天台宗の「修善寺」があったように感じてならない。それは、東北を旅したとき、円仁に繋がる天台宗の僧たちが、密教の秘法を駆使して王化を妨げる地神を封じ込めていたことをつぶさに見てきたからである。その地神の中には瀬織津姫も含まれていた。瀬織津姫は水神であり、月神であり桜の神でもある。



 最後に少し離れたところに源範頼の墓があるというので行ってみた。 指月殿や頼家の墓には以前行ったことがある。
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現地説明板より
『 源範頼の墓
 範頼は鎌倉初期の武将。源義朝の第六子で蒲冠者(かばのかんじゃ)と呼ばれた。治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任ぜられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。
 建久4年(1193年)の曾我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。 』

 範頼は建久4年(1193)8月17日、伊豆国修禅寺に幽閉されたようだ。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。ただし、誅殺を裏付ける史料が無いことや子孫が御家人として残っていることか異説もある。範頼は義経のように挙兵をしていないことから、範頼やその近臣が処分されても範頼の子の処分には至らなかったとも言われる。

 範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。
 『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。
 このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある。範頼の伝説に由来する蒲ザクラは大正時代に日本五大桜の天然記念物に指定され、日本五大桜と呼ばれる。


 範頼の墓には「桂谷八十八カ所第八十一番」があった。
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 駐車場に戻ったが、まだ何となく桂川を去りがたく、桂川沿いに古い温泉街を散策した。
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 紅葉にはまだ少し早かったが、それでも枝の先が赤くなり始めた木もあり、紅葉の時期には美しいのだろうと想像できた。
 夕暮れまでにほぼ予定通りに修善寺を廻れたので、満足して帰途に着いた。



休題
 年が改まり2018年が始まった。昨日が今日になり、今日が明日になるようなもので、新年と言ってもこれといった感慨はない。それでも大晦日には年越しそばを食べ、元旦にはお雑煮を食べた。

 ブログを書くペースが遅く、今2016年の夏の旅の記録を書いているが、2017年の暮れには2017年の最後の旅の記録を書いておこうと思った。
 年賀状を書いた後、資料などを整理しながら書き出したが、過去ブログの追記などもしたため、年末にアップすることができなかった。そのため今年はじめのアップは2017年秋の修善寺周辺のブログになった。

 今年前半の取り敢えずの目標は、春に旅に出る前までに2016年のブログを書き終えることだが、秋の四国の旅のボリュームが大きいので達成できるか分からない。
 健康なうちに旅を先行させたいという方針は変わらないので、こらからもタイムリーさに欠けるブログになることは避けられないが、それ(時代に乗れない)も私の人生の旅の特徴である。
 人生の終盤は豊かではなくとも自由でありたい。そして自由であることが精神的豊かさに繋がるような生き方をしたいと考えている。

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