ハッシー27のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 旅 737 天石門別神社(1)

<<   作成日時 : 2018/01/13 09:55   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

2016年 8月21日
天石門別神社(あまのいわとわけじんじゃ)(1)

 兵庫県佐用郡佐用町を後にして、岡山県美作市滝宮にある天石門別神社(別名・滝の宮)に向かった。いよいよ岡山県へ入る。
 例によってカーナビに導かれて走っていると、杉坂峠に出た。自分では国道179号線(出雲街道)を西に走っているつもりだったが、北側の県道365号線を走っていたということだ。杉坂峠を越えて岡山県に入ることになった。杉坂峠には杉坂峠関所跡があった。
画像

現地説明板より
『 佐用町指定文化財 杉坂峠関所跡
種別 史跡
指定年月日 昭和58年5月20日
所有者 佐用町
 大宝令によって整備された美作道は、山陽道の太市から美作国府に向かって西北に伸び、杉坂峠を越えて美作に入った。
 播備作の広大な地域を制した赤松一統の中で、赤松則村が元弘3年(1333)に関を設けたところである。
 慶長年間(1596〜1615)に万能峠が開通したので、杉坂峠の通行人は少なくなたが、判明している郡内唯一の関所跡である。 』

 説明板は、上から貼って「佐用町」に変更されていたが、2005年に佐用町に合併されるまで、ここは佐用郡上月町であった。

 この峠は古くから開けた峠であったようで、『太平記』にも記述がある。

現地説明板より
『 太平記
備後三郎高徳が事
 その項、備前国に、児島備後三郎高徳といふものあり。主上笠置に御座ありし時、御方に参じて義兵を揚げしが、事いまだ成らざる先に笠置も落とされ、楠も自害したりと聞えしかば……「中略」……
 備前と播磨との境なる船坂山の嶺に隠れ臥し、今や今やとぞ待ちたるける。臨幸あまりに遅かりければ、人を走らしてこれを見するに、警固の武士、山陽道を経ず、播磨の今宿より山陰道にかから遷幸を成したてまつりけるあいだ、高徳が支度相違してけり。
 「さらば美作杉坂こそ、究竟の深山なれ、ここにて待ちたてまつらん」とて三石山よりすぢかひに、道もなき山の雲を凌ぎて、杉坂へ着きたりければ、主上はや院の庄へ入られたまいぬと申しけるあひだ、力無くこれより散り散りに成りけるが、せめてもこの所存を上聞に達せばやと思ひけるあひだ、微服潜行して時分をうかがひけれど、しかるべき隙も無かりければ、君の御座ある御宿の庭の大きなる桜木有りけるを押し削りて、大文字に一句の詩をぞ書き付けたりける。
 天莫空勾践 時非無范蠡

赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜ふ事
 その項、播磨国の住人、村上天皇第七の御子、具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて、弓矢取って無双の勇者有り。……中略……
 この二、三年大塔宮につきまとひたてまつりて、吉野十津川の艱難を経ける、円心が子律師則祐、令旨をささげて来たれり。披覧するに「不日義兵を揚げて軍勢を率し、朝敵を誅罰せしむべし」円心ななめならず悦んで、先ず当国佐用庄苔縄の山に城を構えて……中略…… やがて杉坂、山里二箇所に関をすえ、山陽、山陰の両道をさしふさぐ。これより両道の道止まって、国々の勢上洛する事をえざりけり。
 昭和63年10月  佐用町観光協会  』

 児島高徳(こじまたかのり)の「天莫空勾践 時非無范蠡」は難しい漢詩である。

 「天、勾践を空(むな)しゅうすること莫(な)し。時に范蠡無きにしも非(あら)ず」
 これは、「天は勾践のような人をそのまま不幸のままにはしておきません。勾践は范蠡の助けを得て天下を取りましたが、今度も必ずや范蠡のような忠勇の人が出て来てあなたをお救い申し上げるでしょう」という意味で、後醍醐天皇を越王勾践(こうせん)になぞらえ、その忠臣范蠡(はんれい)を児島高徳自身になぞらえたものだとされる。越王勾践については、「臥薪嘗胆」という故事がある。

 『太平記』によれば、後醍醐天皇の隠岐配流の際、児島高徳は天皇を救い出そうとして果たさず、美作の院庄(いんのしょう)に至り、桜樹を削って「天莫空勾践 時非無范蠡」の詩を書して志を述べたという。

 後醍醐天皇は建武の新政に失敗し、敵方に捕えられ、厳重な武士の警護のもとに、隠岐島に流される身となった。備前の国の住人児島高徳は途中天皇を奪い奉ろうとしたが、果さず、やむなく単身院ノ庄の行在所(あんざいしょ)に忍び入り、桜の樹の幹を削って、そこに「天莫空勾践 時非無范蠡」という十字の詩を墨黒々と認(したた)めて帰って来た。朝起き出してこの文字に目をとめた護衛の武士どもは何のことか分からずただがやがや騒ぐだけであったが、ひとり天皇は、「他日必ずお救い申し上げます」という趣旨を悟り、会心の笑みをもらしたという。

 この児島高徳の漢詩が全国的に有名になったのは、大正3年の『尋常小学唱歌(六)』に文部省唱歌「児島高徳」の歌詞の一部として掲載され、昭和7年の『新訂尋常小学唱歌』まで掲載されたからだという。また、この文部省唱歌「児島高徳」の作曲者は岡野貞一であるが、作詞者の名前は分からない。おそらく文部省の役人が作詞したのであろう。
 次に歌詞を載せておく。

一 船坂山(ふなさかやま)や杉坂(すぎさか)と
  御(み)あと慕ひて院の庄(いんのしょう)、
  微衷(びちゅう)をいかで聞えんと、
  桜の幹に十字の詩。
  『天勾践(こうせん)を空しうする莫(なか)れ。
   時范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず。』

二 御心(みこころ)ならぬいでましの
  御袖(みそで)露けき朝戸出(あさとで)に、
  誦(ずん)じて笑(え)ますかしこさよ、
  桜の幹の十字の詩。
  『天勾践を空しうする莫れ。
   時范蠡無きにしも非ず。』

 私はこうまでして、子供たちに天皇中心主義を教え込もうとした教育が戦前まで続いたことは、恐ろしいことであったと感じる。

 現在の象徴天皇制は、日本国憲法で規定されている。
 日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。 その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ(前文、第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)。 天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され(第7条)、内閣の助言と承認を必要とする(第3条)。 国政に関する権能を全く有さない(第4条)。

 今の安倍政権は憲法改正に積極的であり、憲法9条が話題になるが、象徴天皇制も現在の憲法により規定されている。帝国憲法においても、元首たる天皇は、明文規定がなくとも、当然に国家の象徴であった。

 天皇が「元首」また「君主」であるのか否か議論があるが、そもそも日本国憲法には、元首について何ら記載がない。
 諸外国からは、日本は立憲君主制をとる国の1つと見られ、政府見解においても象徴天皇制の日本を「立憲君主制と言っても差し支えないであろう」としている。そして、天皇は、外遊などに於いて諸外国から「君主」として扱われている。

 私は、象徴天皇を否定するものではない。むしろ象徴天皇の存在は望ましいとさえ感じる。この渡来系天皇家は中世、近世に於いて長い時代を名家として政治力を持たずに象徴的に生きて(存続して)きた。渡来系天皇家と書いたが、私自身も渡来系である可能性が大きいので、渡来系ということに批判的な意味はない。
 ただ、明治維新がそうであったように、天皇が権力により利用される存在であることに常に注意を払う必要があると考える。

 現在の天皇家は北朝の末裔とされるが、明治維新後、南朝の後醍醐天皇が顕彰されるようになったのは、後醍醐天皇が権力を欲した天皇であり、天皇やその皇子たちが戦った皇族であることからクローズアップされたのである。
 天皇が日本国と日本国民統合の「象徴」であるならば、私たちは天皇を戦わせてはいけないし、天皇のために戦う忠臣を出してはならない。

 私は昭和と平成を生きてきた。私が生まれる前の昭和は戦った時代であったが、戦後の昭和は平和であった。昭和の「和」と平成の「平」とつなげば、「平和」である。私は平和な時代を生きてきた。
 天皇の譲位が決まり、今年中には新しい年号になるようだが、新しい象徴天皇も平和天皇として存続させる責任が、主権の存する日本国民である我々にはあると考えている。


杉坂峠の現地説明文に載る「児島高徳」は、戦前の教育を受けた人にとっては有名な武士の一人であったのだろう。
 杉坂峠の現地説明文には後醍醐天皇や大塔宮(護良親王)のことが載るが、私は「建武中興」やその後の南北朝時代においての皇家側の勢力を過大評価しているように感じている。鎌倉幕府が140年も続く中、実権は武家側に移り、その後の明治維新まで皇家側に戻ることはなかったというのが実態であろう。
 護良親王を祀る鎌倉宮((大塔宮)が明治2年に創建されように、建武中興の後醍醐天皇やその皇子や忠臣に関わる神社はほとんど明治以降に創建されている。楠木正成(湊川神社祭神)や新田義貞(藤島神社祭神)などが顕彰されたのも明治以降である。

 建武中興十五社とは、吉野神宮、鎌倉宮、井伊谷宮、八代宮 、金崎宮 、小御門神社、菊池神社、湊川神社、名和神社、阿部野神社、藤島神社、結城神社、霊山神社、四條畷神社、北畠神社で、そのほとんどが明治以降の創建である。 



 杉坂峠を越えて岡山県に入った。ここからは「真金吹く(まがねふく)吉備国」である。
 今回の旅では、山陽道の一の宮として岡山県では中山神社(美作国)、吉備津彦神社(備前国)、石上布都魂神社(備前国)、吉備津神社(備中国)、吉備津神社(備後国)、素盞嗚神社(備後国)を訪ねる予定だ。
 中山神社に行く前に、天石門別神社に寄ろうと思ったのは、天石門別神社が別名「滝宮神社」と呼ばれていることと、祭神が天石門別神として天手力男神が祀られていることが気になったからである。
画像

画像

画像

現地説明板より
『 天石門別神
 美作三宮といわれる天石門別神は、社殿の後に琴弾の滝があることから、滝宮とも呼ばれています。創建は不詳ですが、社伝によると吉備津彦命が古代吉備の国平定のため西下した際、当社の祭神天手力男神の助けで平定できたお礼として、当地を選び、自ら祭主となって鎮斎されたと伝えられています。
 社地には隋身門、籠殿、拝殿、本殿の全てが整っているうえに古代祭祀の遺跡「磐境(いわくら)」といわれる石積の塚も残っています。
環境庁・岡山県  』

 環境庁は2001年(平成13年)に環境省に格上げされているので、この説明板は15年以上古い。


 川の横の駐車場に車を駐めた。この川は琴弾の滝から流れ、滝宮ダムに注いでいるようだ。
画像

現地説明板より
『 由緒
 祭神 當神社祭神ハ天手力男神ニ坐シ神代ノ昔天岩戸ヲ開キ奉リ 後永ク皇孫ヲ輔ケテ大功アリシ神ナリ 今畏クモ 伊勢大神宮御正殿内右ノ御神座ニ御相殿ノ神トシテ厚ク奉齋セラレ給フ
 鎮座ノ由来 當神社ハ人皇第十代崇神天皇十年 四道将軍大吉備津彦尊ノ 鎮座シ給ヘル古社ニシテ 御鎮座以来二千余年ノ歳月ヲ経タリ
 社伝ニ曰ク尊賊徒平定ノ勅命ヲ奉ジテ山陽道地方ニ赴キ給フヤ播磨國氷上ノ里ニ於イテ道ノ口ノ祭儀ヲ行ヒ 前途ノ平安ヲ祈リ給ヘリ時ニ神教アリ即チ尊之ヨリ征行シ給ハム吉備國ハ山路峻嶮賊勢甚ダ熾烈ナリ 依ツテ吾嚮導シテ赴カシメ奉ラム 吾ハ吉備國雄神河(吉井川ノ古名)ノ川上落滾ツ早滝ノ下方ニ坐ス天手力男神ナリト 尊甚ク喜ビ給ヒ神教ノママニ軍ヲ進メ 短時日ニシテ大イニ皇威ヲ伸張シ給ヘリ復命ノ後尊ハ此ノ地ニ至リマシ自ラ祭主トシテ神恩奉謝ト戦勝祝賀ノ盛儀ヲ齋行シ 永ク大神ヲ鎮祀シ給フ之當神社ノ創始ニシテ今本殿背後ノ石塚ハ即チコノ祭場ノ遺跡タリ
 皇室ノ御尊崇 古来皇室ノ御尊崇一方ナラズ第五十六代清和天皇ノ貞観五年五月神階從五位上ニ進メラレ給ヒシコト正史ニ明文アリ之今ヲ距ル一千百余年前ノコトナリキ 降ツテ第六十代醍醐天皇延喜七年延喜式ノ制定ニ當リテハ全国神社中ヨリ撰バレシ二八六一社中ニ列セラレ 春秋二季ノ大祭ハ國費ヲ以ツテ齋祀シ 美作三ノ宮トシテ境内ノ広域九丁四面東西南北各正中ニ鳥居ヲ建立シテ聖俗ヲ明示セラルルト共ニ神田十町歩ヲ賜ヒテ祭粢ノ料ニ充テ給ヘリ 現ニ氏子横川ニ鳥居田及ビ作東町猿ケ谷ニ神入口(カンニュウグチ)ナル地名ノ存スルハイヅレモコノ鳥居ノ古趾ニシテ町内真神ニ神田(カウダ)ト称スル邑里ノ在ルハコノ時附与セラレシ神田ノ一部此処ニ在リシコトノ証左タリ 近キ頃マデ此ノ地ニ滝ノ宮一ノ鳥居趾トテ小芝生アリ 古来氏子区域ヲ十町ト謂ヘル由来ヲ亦ココニ存スルト云フ

 武将并ニ領主ト神社 武威興隆ノ世ニ在リテモ 武将ノ崇敬頗ル厚ク 鎌倉期當地ノ地頭渋谷氏或ハ社殿ヲ改メ奉リ 或ハ神田神具祭器等ヲ献納セルコト古書ニ明カナリ 然レドモ天正十八年備前長船紀伊守貞行 當地ヲ所行スルヤ 未曾有ノ暴行ヲ以ツテ神田ヲ始メ社有資産ノスベテヲ没収ス 茲ニ於イテ社勢俄ニ衰頽 往昔ヨリ伝承セル四月春季大祭ノ矢夫佐女神事 七月晦日ノ田実祭 九月九日ヨリ十日間ニ渉ル秋季大祭(コノ間ニ福本賀茂大明神即チ現福本神社ヘ□大御神幸□アリ)等盛大ヲ極メシ諸祭儀ヲ再ビ行フニ由ナク滅失セルハ寔ニ遺憾ノ極ナリトス 慶長八年森忠政津山城ニ入ルヤ厚ク當社ヲ敬仰シ 年々社領五十石ヲ奠納 ソノ裔伯耆守長俊 元禄四年本殿改築ノ工ヲ起シ 仝十年二月竣工ス 之現在ノ本殿ナリ

 民衆ノ信仰 氏子ヲ始メ大衆亦深ク信仰シ殊ニ夏季旱天ニ至レバ必ズ参拝シテ雨ヲ祈ルヲ例トス 又大神ノ伊勢神宮ニ共祭セラルル由縁ニ依リ 参宮セント志ス者ハ遠近ヲ問ハズ先ヅ當神前ニ額ヅキテ道中ノ安全ヲ祈リテ後出発シ 帰途ニハ絵馬ヲ求メテ之ヲ社前ニ献ジ以ツテ報賽ノ誠ヲ至セリ 現ニ絵馬殿ニ掲グルモノノ中 大ナルハ概ネ参宮ノ礼参ニ係ルモノニシテ当神社ノ交通安全祈願祭ノ基ナリトス
 明治十三年県社ト指定セラレ以ツテ終戦ニ及ブ
 昭和四十三年九月附近ニ県営ダム建設ノ議アリ之ガ完成ノ暁 社殿ノ水没スベキヲ憂ヘ 仝五十一年一月起工巨費ヲ投ジテ御模様替大工事ヲ敢行シ 参道ヲ延長シテソノ参入口ニ鳥居并ニ社標碑ヲ建立シ以ツテ昿古ノ大業ヲ竣功セリ
  維持昭和五十五年六月吉辰
天石門別神社  英田町 文化財保護委員会  』
画像

画像

 賽銭箱には、「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う 岡山県神社庁」と貼ってあった。
 これは神は人が創造したもので、信じるのも人、貶めるのも人、ということを別の切り口で表現したもののようにもとらえられる可能性があり、ある意味で危険である。
 確かに犬や猿や雉には神はいないであろう。人間にだけ神はいて、しかも日本には八百万(やおよろず)の神がいる。
 果たして神々は精神を持った人間が創り出したものなのであろうか。

 日本には、祟神(たたりがみ)や禍津日神、貧乏神、悪神までいる。ある神を善い神、悪い神と決めたのも人である。ある人々が信じ敬う神でも、別の人々にとっては邪魔な神・邪悪な神であったりする。
 そして、アマテラスを頂点とする国家神道の世界では、邪教、婬信のたぐいとされ排除された民間信仰が多く、行き場(生き場)を失った多くの神がいた。そしてそれは明治以降に始まったことではなく、記紀神話が創られてから常に底に流れる祭祀方針であったようだ。

 吉備津彦が祀ったとされる当社の祭神・天手力男神は記紀の重要な場面に登場する市民権を得た神である。 
画像

 森長俊が元禄4年(1691)に起工し、同10年に竣工したという本殿は一間社、入母屋造檜皮葺で立派である。本殿後ろの少し下がった旧社地より移転された。


 本殿の左には末社殿があり、大歳神社・宇受売神社、稲荷神社、早滝神社、総神社が祀られていた。
画像

 本殿の右には八幡神社があった。
画像

 八幡神社の祭神は誉田別尊(応神天皇)で、仲哀天皇、神功皇后を配祀する。古くは河会郷中の八神社を合祭し、八社様とも言われていた。
 八社とは、福本神社(旧名 賀茂大明神)、大栄神社、奥神社、三保神社(旧名 矢野原宮)、磐渕神社(別名 木の宮)、上山神社、威剱神社、横尾神社である。
 八神社を合祭し、「八社様」呼ばれ、古くは祭りで福本賀茂大明神(福本神社)ヘ神幸があったようなので、本来は八幡神を祀る八幡神社ではなかったのではないだろうか。この摂社である八幡神社は、本殿に次いで奉祀され総神社とも言われたようだ。現在、総神社は末社殿に祀られている。

天石門別神社(2)へ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
旅 737 天石門別神社(1) ハッシー27のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる